ヨハネの黙示録17章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

獣の背に乗る淫婦 17章1~6節

 前章でヨハネは、神様の怒りの杯を地上に注ぎ尽くす七人の天使について語りました。今、彼らのうちの一人がヨハネの許に来て、「大淫婦とその受ける裁きをこれからお前に見せよう」、と言います。天使は淫婦の様子を描写します。それによると、彼女は「多くの水の上」に座っています。15節には、それらの水は大群衆を意味しているという天使の説明があります。淫婦は大群衆の只中に座り、彼らを支配しているのです。大群衆は淫婦に(おそらくは嬉々として)仕えています。ヨハネは幻の中で荒野に移動して、そこで淫婦を目にします。彼女は獣の背に乗り、綺麗な服を着ています。彼女の手には金の杯があり、それは淫婦をあらわす不義で満ちています。淫婦は酔いしれています。しかしその酔いはぶどう酒のせいではなく、キリストに属する人々の血によるものでした。淫婦はキリスト教会を迫害し、神様に属する人々を殺したのです。淫婦は多くの支配者や大群衆が彼女と同じことをするように扇動しました。2節はそういう意味でしょう。ローマの淫婦は額に淫婦の名を記したバンドをつける慣習がありました。バンドはこの淫婦にもあり、そこには「大バビロン、世の淫婦たちと憎むべきものたちとの母」という彼女の名が記されています。

淫婦の幻についての天使の説明 17章7~18節

 幻についての説明が与えられているという点で、淫婦についての描写は「ヨハネの黙示録」でも独特な幻となっています。実のところこの説明も幻であり、それを理解するためにはさらなる説明を加えなければなりません。

 幻の中にあらわれた獣は「昔はいたが、今はおらず、やがて深淵から上ってくる」、とヨハネは言います。こうしたことは今まで何度も繰り返されてきました。歴史上「ヨハネの黙示録」に描かれている獣のように活動した国家、思想、あるいは支配者は結局のところ敗れ去りました。そしてその度に、「今度こそもう大丈夫だ」、と人々は思いました。ところが獣が倒されてからまだそれほど日もたたぬうちに、以前とは異なる装いをした獣が以前と同じ目標をもって再び頭をもたげ、戦いを始めました。何度となく悪魔はキリストの教会を滅ぼそうとしてきました。この目的のために悪魔は、何度倒されてもまた起き上がってくる獣を利用します。

 13章の説明で言ったように、「ヨハネの黙示録」において「獣」はとりわけ反キリストを象徴しています。おそらく天使たちのメッセージは、かつて活動した獣と反キリストが非常によく似ていることを伝えているのでしょう。

 9~12節に書いてあることは聖書釈義者たちの興味を惹きました。「ヨハネの黙示録」がここで語っている内容に対応する支配者の一群を捜し求め発見したと自負する人は大勢います。例えば、八人の王は八人のローマ皇帝かあるいは八人の不義の法王を指している、と考える人々がいました。これら提示された解き明かしは天使の説明と完全には合致しないという問題を抱えています。かつて存在したかあるいはこれから登場するであろう「八人の支配者」のことを「ヨハネの黙示録」がここで描写しているという考えかたを、私たちはまったく否定するものではありません。しかし私自身は、ここでも象徴的なことが語られているという説明のほうがより真実に近いと思っています。「七人の王」や「獣」や「十人の王」は、新しい支配者、新しい思想、新しい国家が次々に登場し、悪魔に仕えて獣の目印をすべて持つという意味でしょう。第八のすなわち最後の王は特に「獣」と名づけられています。おそらくこれもまた反キリストを指しています。この王はイエス様の再臨の前にあらわれる最後の獣であり、最悪の仕方で獣の目印の一切を保有して多くの支配者を味方に引き込みます。

 9節では、淫婦が七つの山に座っているとあり、18節では、淫婦は地上のあらゆる支配者を統治する都市であると言われています。七つの山についての記述が該当するような都市を地図から割り出す試みがこれまでなされてきました。七つの丘の上に建てられたローマがその候補として挙げられ、またモスクワやニューヨークも有力視されました。しかし9節は、ある特定の都市を指しているものとして理解されなければならないというものではありません。山は力強さと安定感をあらわしています。ですからこの節のメッセージは、淫婦は悪魔の帝国とその首都を象徴しており強大で堅固な帝国に見える、と要約できるかもしれません。「ヨハネの黙示録」が語る「都市バビロン」は悪魔の帝国を意味しています。「淫婦」は悪の帝国がどのようなものかをよくあらわしています。そこには、第六戒を地に踏みにじる態度が他の様々な不義と密接に連携してあらわれています。悪魔の帝国が「淫婦」という名で呼ばれていることから、そこでは活ける神様が礼拝されていないことを連想させます。とはいえ何か他の「神々」ならその帝国にも存在するのかもしれません。そこではそうした「神々」が活ける真の神様を排斥しています。すでに前に論じたように、聖書では「姦淫を行う」という言葉で偶像礼拝を意味している場合があります。

 14節は、強固に見えた悪魔の帝国がいかなる結末を迎えことになるかを明示しています。たしかに悪魔はキリストやキリストに属する人々と戦って勝利を得るかのように見えます。しかし「ヨハネの黙示録」が以前にも数え切れないほど何度も証してきたように、ここでも天使はイエス様が敵を打ち砕くことを証しています。まだ私たちは今のところイエス様を「王の中の王」として実際に見てはいませんが、たしかにそうであることを信じています。なぜなら、聖書がそう教えているからです。

 この章の終わりでは神様の偉大さと悪魔の矮小さが語られています。獣は「同盟者たち」と共に淫婦に怒ってそれを滅ぼします。つまり獣は悪魔に仕える者でありながらも、悪魔の帝国を攻撃するのです。こういうことが起きるのは神様がそうお決めになったからです。神様はその御旨を実現するためには悪さえも奉仕に駆り出すほど大いなるお方なのです。自分の手下が自分とその取り巻きに対して戦う様子を見るのは悪魔にはさぞかし不満なことでしょう。しかし神様の決定なさったことを妨げることはできません。神様は天地の一切の権威を有しておられるからです。

 20世紀には悪魔の二人の僕が互いに争う現象が見られました。例えばヒトラーのドイツとスターリンのソ連とが互いに戦いました。その結果は周知の通りです。ヒトラーの帝国は根絶やしにされました。赤軍の勝利は神様が大いなるお方であることを示す一例です。神様は悪魔の僕たちが互いに争い合うように仕向け、一方がもう片方を滅ぼすようになさいます。悪魔の帝国が最終的に打ち砕かれる「終わりの時」にも神様はこのようになさるのです。