ヨハネの黙示録3章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

サルデスの教会への手紙 3章1~6節

 サルデスは地中海沿岸から約80キロメートル内陸に位置し、輝かしい過去の歴史を誇る都市でした。それは紀元前6世紀には巨万の富で有名なクロイソス王の都市であり、古代リュディア王国の首都でした。しかしその後何百年もの歳月が流れ、サルデスは変わり果てました。都市は落ちぶれ、「ヨハネの黙示録」が書かれた頃にはもはやかつての栄華の面影はすっかり消えうせていました。サルデスの教会も都市と同じような状態でした。評判も良く輝かしい過去をもつ教会は、今や都市の住民の風評からは想像もできないほどひどい状態になっていました。活動的な外面とは裏腹に、教会は半死半生の有様だったのです。

1節でイエス様は教会とその牧者を厳しく叱ります。周囲の評判がどれほどよくても、イエス様はサルデスの教会の真の状態を知っていました。たとえ人々の目には模範的な教会に映ったとしても、イエス様の目をごまかすことはできません。教会生活はたんなるうわべだけのもので、実際には教会は死んでいたか、少なくとも死にかけていました。

なぜサルデスの教会がこれほど惨めな状態になったのか、たしかなことは言えません。おそらくその原因は異端の教えではなかったでしょう。もしも異端の教えが教会の死を招いたのなら、イエス様は間違いなくそれを名指しで指摘なさったでしょうから。教会をだめにした原因は道徳的な堕落でもなかったでしょう。もしも神様の御心を軽んじる態度が教会の死因だったのなら、それについて明記されたことでしょうから。真実に近いと思われる原因は教会を覆い尽くした「無関心」だと思われます。もはや教会員たちはイエス様を本気で信仰しなくなり、その浮ついた態度が教会としての死を招いたのではないでしょうか。「目を覚ましなさい」というイエス様の勧告はこのことに関連しています。あたかも教会は眠り込んでしまったかのようでした。これは教会の無関心なやる気のなさを示しています。

 2節でイエス様は、神様の要求を満たしていない教会の行状について語ります。これは、サルデスの教会の活動が徹底さを欠くものだった、という意味に理解できます。教会には忍耐心がありませんでした。教会は天国への道を歩むのを途中で放棄してしまいました。教会員たちはこの世での信仰の戦いを止めてしまい、教会には無関心がはびこるようになったのです。

 イエス様は教会の目を覚まさせるために、今のような状態が続けば一体どうなるかを告げて忠告します。いつか必ずイエス様は栄光に包まれて地上に再臨されます。そして 、その時に眠りこけているような教会は不信仰の世と同じ裁きを受けることになります。それゆえイエス様は教会に悔い改めるよう、目を覚まし今までの生き方を変えて神様の教会として歩むべき道に引き返すように、命じられるのです。この道を歩む信仰こそが真の信仰です。それは信仰生活にも具体的な影響を与えます。

 サルデスには「その衣を汚さなかった」人々がまだ何人か残っていました。「清潔な衣」は洗礼で私たちがいただいたもの、私たちがイエス様を信じるときに所有できるもの、すなわち洗礼の恵みに結びついた信仰をあらわしています。洗礼において私たちはキリスト御自身を着せていただいた、と聖書は教えます(「ガラテアの信徒への手紙」3章27節)。キリストを着せられた者として、私たちは神様に受け入れていただくのにふさわしい存在となります。もしもこの「衣」がなければ、神様が私たちの汚さを見て私たちに神聖な裁きを下すことになるのは確実です。サルデスの教会員の大多数は、おそらく知らず知らずのうちにイエス様から離れてしまっていたのでしょう。そうして自らの衣を汚してしまったのです。それに対し、ごく一部の人々は救い主を信じつづけていました。天国の神様の御許に参るためにふさわしい衣の中に彼らの身は包まれていたのです。

5節でイエス様は事の重大さを指摘なさいます。天国の書物には洗礼を受けた者たち全員の名前が書き込まれています。しかし洗礼を受けた人が主から離れ去る場合には、その名前は天国の書物から消されてしまいます。天国の書物にその名前が記されていない人は、いずれ窮地に陥ります。最後の裁きの時に、イエス様はその人を「御自分のもの」とはお認めになりません。これは人間に起こりうる最悪の事態です。それに対して、天国の書物の中にその名前が見出される人には大いなる約束が与えられています。イエス様はその人を知っており、その人には天国の門が開かれることになります。

フィラデルフィアの教会への手紙 3章7~13節

 フィラデルフィアにはしばしば地震が起こりました。そのためもあって、この都市は富裕ではあるもののあまり大きく発展しませんでした。地理的にはサルデスの近くに位置していたフィラデルフィアの教会は、しかしサルデスの教会とはまったくちがっていました。サルデスの教会はイエス様からお叱りを受ける点が多々あったのに、フィラデルフィアの教会はまったく叱られていません。フィラデルフィアの教会に送られた手紙にはスミルナの教会へ送られた手紙と似ている点がたくさんあります。どちらの教会の会員にも「冠」が約束されています。幾多の困難の中にあっても、彼らはイエス様への信仰を捨てませんでした。それゆえに天国が彼らを待っているのであり、冠はその天国をあらわしています。またどちらの教会にも共通の敵がいます。ユダヤ人はスミルナでもフィラデルフィアでもキリスト信仰者を迫害しました。それで、どちらの手紙にも「サタンの会堂」が出てくるのです。

7節で、イエス様は「ダヴィデの鍵の持ち主」である、と言われています。「イザヤ書」には、ダヴィデの宮殿の管理を任されたヒゼキヤ王の役人の話が出てきます。この忠実な役人には宮殿のあらゆる部屋と倉庫を開け閉めする権利がありました。この証左として、その役人は肩に鍵を携えていました(「イザヤ書」22章22節)。ところがイエス様には、この役人よりもさらに大きな権能があります。イエス様は「死と地獄の鍵」をお持ちなのです(「ヨハネの黙示録」1章18節)。イエス様には、人を天国に入れる権能も滅びへと裁く権能もあるのです。イエス様がある人に天国の門を開ける場合には、誰もそれを閉じることができません。イエス様がある人に対して天国の門を閉じる場合には、誰もそれを開けることができません。

8節にはふたたび「開かれた門」が出てきます。これはフィラデルフィアの教会に開かれた伝道の機会を意味していると思われます。パウロもまた彼自身に開かれた伝道の可能性について同じような表現を用いています。たとえば、彼の書き留めた「コリントの信徒への第一の手紙」16章9節にも「門」という言葉が出てきます。フィラデルフィアの教会はイエス様とその御言葉への忠実を貫きました。そして困難の最中にあっても主を否認することがありませんでした。まさにそれゆえに、イエス様は御自分に属する人々に委ねた仕事を通して教会を用いてくださったのです。主を捨てた教会は、伝道という仕事に関してはまったく使い物にならなくなります。

 神様の教会は敵にも福音を伝えます。9節からそれがわかります。何人かのユダヤ人はキリスト信仰者になる、とイエス様は約束なさいます。キリスト教会こそが神様の愛する「真のイスラエル」、すなわち神の御民であることを彼らユダヤ人は理解するようになる、というのです。

 神様に属する人のこの世における人生は決して楽なものではありません。イエス様に従う人は主イエス様のような「十字架の道」を歩みます。これはフィラデルフィアの信徒たちも実際に体験したことです。しかし、圧迫されたこの教会には大いなる約束が与えられました。神様がこの教会を守ってくださることと、神様がこの世を裁く「最後の日」に御自分に属する人々を救う、というイエス様の約束です。そしてこの約束は、現代に生きる私たちキリスト信仰者に対しても与えられているものです。終わりまでイエス様の側に所属し続けるならば、私たちも最後の裁きの時に救われることになります。

 イエス様はフィラデルフィアの教会の信徒たちに、何が彼らを待ち受けているのかを思い起こさせます。彼らには天国の神殿に自分たちの居場所が用意されています。もはや悲しみも世の煩いもまったく存在しない場所へと彼らは旅を続けているのです。キリスト信仰者は、天国で何が彼らを待っているかを覚えるなら、天国への旅路を続けていく力を得ることでしょう。御自分に属する人々を天国の神殿の支柱とする、というイエス様の約束は揺るぎない永遠の命をあらわしています。神殿の支柱が神殿から取り除かれて他の場所に移動されることがないのと同じように、天国に入った人々が天国から追放されることも決してありません。天国に入った人々に授けられる神様の御名は、彼らが誰に属する者かをよく表現しています。彼らは永遠に神様に属している存在なのです。

ラオデキヤの教会への手紙 3章14~22節

 ラオデキヤは交易路に面した富裕な都市でした。紀元60年にこの都市は地震で崩壊しましたが、「ヨハネの黙示録」が書かれた頃には再建されて、経済的に繁栄するようになっていました。

 イエス様はラオデキヤの教会に向けて「アーメン」という言葉で話し始めます。アーメンはヘブライ語で「まことにそのとおりです」という意味です。たとえば他の人の話を聴いた後「アーメン」と相槌を打って、その話が正しく信頼できるものであることを証することができます。イエス様が「アーメン」と言うのは、イエス様が言うこと全部を「アーメン」という言葉で受け入れることができる、という意味です。イエス様のなさるお話は常に真理です。「神様のお造りになったものの始原」とは「ヨハネの福音書」冒頭の「御言葉」への言及と内容的に同じものでしょう(「ヨハネによる福音書」1章3節)。それによれば、神様の御子イエス様は天地創造に関与されました。そして父なる神様が御子を通して万物をお造りになったのです。

 ラオデキヤの教会はサルデスの教会と同様にイエス様から厳しく諌められています。この教会はもはや「主と共に戦う教会」ではありませんでした。鈍く、無関心で、生ぬるく、落ちこぼれの教会に成り下がっていたのです。サルデスの教会と同様にラオデキヤの教会も、「うちの教会はすべて順調だ」、と勝手に思い込んでいました。教会は自分の豊かさを誇ってさえいました。ところが実際には、教会はひどく哀れで、貧しく、盲目で、裸同然の状態だったのです。ラオデキヤの教会宛てのイエス様の言葉はスミルナの教会への言葉とは正反対のものでした。スミルナの教会は外から見ると貧しく惨めでしたが、実際には豊かでした。そこには、ラオデキヤの教会には欠けていた「最大の富」があったからです。

 ラオデキヤの教会はイエス様にとって役に立たない教会でした。それは冷たくもなければ熱くもない教会でした。冷たい水には独自の大切な用途がありますし、熱い水の場合にもそれは同じです。それに対して生ぬるい水は、長く放置されて使い道がなくなった水のことです。ラオデキヤの教会はまさに生ぬるい水のような教会でした。それは味気がなくなり、神様が教会に与えた大切な使命を果たせなくなっていたのです。それゆえイエス様は、「このままでいるなら、あなたたちの教会を私の口から吐き出して、私に属する人々のグループから取り除きますよ」、と厳しく言われるのです。

 18節でイエス様は、御自分が用意した品々を買うように、ラオデキヤの教会に勧めます。「買う」と言っても、普通の意味での買い物ではありません。神様からは何もお金で買ったりはしません。それは「イザヤ書」が次のように言う意味での「買い物」なのです。

「さあ、渇いている者は皆、水のところに来なさい。お金のない人もこちらへ来て、食料を買い、食べなさい。来なさい。そしてお金など払わずにただでぶどう酒と乳を買い求めなさい」
(イザヤ書55章1節)。

 このようにイエス様は教会に欠けているものをただで教会に差し出してくださいます。教会のほうではこの贈り物を受け取ることも受け取らないこともできます。この贈り物が教会の嗜好に合わなくなっているとしたら、それは教会自体が傲慢になっている証拠です。そして、そのような教会はイエス様の口から外に吐き出されてしまうことになります。

 イエス様は教会全体を揺り起こそうとしているだけではありません。教会の会員ひとりひとりに語りかけてくださっているのです。イエス様は外に立ち、扉をたたいておられます。これは、教会の主御自身がラオデキヤの教会の外に締め出されていたことを表しています。教会の状態が悪化した原因がまさしくそこにあるのはまちがいありません。「教会自体が主の声に耳を傾けなくなり道を踏みはずしていても、その教会の会員のうちの数人だけあるいは一人だけでもいいから、自らの心の扉を私に開きなさい」、とイエス様は勧告し、そうする人に多くのよいことを約束なさいます。そのような人はいつか将来イエス様と共に御座に座ることができるのです。イエス様は十字架の道を通って戦いに勝利しました。それと同じく、イエス様に従う人々の人生も戦いであり、十字架を背負っていくことです。大変な戦いですが、勝利はもう目前です。イエス様はすでに勝利なさっており、勝利者に属する私たちもまた勝利者だからです。