テサロニケの信徒への第一の手紙

執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

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テサロニケの信徒への第一の手紙ガイドブック

聖書の引用は原則として「口語訳」によっています。


はじめに

テサロニケは現在のギリシアの大きな都市の一つに数えられます。マケドニア地域、エーゲ海の北海岸に、この都市はあります。紀元一世紀にはテサロニケはマケドニア最大の都市でした。東西を結ぶ重要なローマのエグナティア街道がこの都市を貫通していました。さらに、テサロニケは往来の盛んな良い港をもっていたので、重要な商業都市として栄えました。

ローマ帝国領内の大きな都市には、かならずといってよいほどユダヤ人たちが居住していました。テサロニケに住んでいたユダヤ人の数は相当なものでした。彼らが自分たちのためのシナゴーグをこの都市にもっていたことからも、それがわかります。多くの都市では異邦人(すなわち非ユダヤ人)はユダヤ人の伝えるメッセージに強い興味を示しました。これはテサロニケにもあてはまりました。この都市にはいわゆる「神様を畏れる者たち」と呼ばれる一群の人々が存在しました。彼らはイスラエルの神様を敬い、神様の幾つかの戒めを守る異邦人でした。

しかし、この「神様を畏れる者たち」はユダヤ教に改宗することはなく、ユダヤ人男性の証である割礼を受けることもありませんでした。「使徒言行録」17章には、パウロのはじめてのテサロニケ訪問についての記述があります。パウロはフィリピからテサロニケに到着しました。フィリピでパウロはシラスと共に伝道し、その結果、フィリピ教会ができました。しかし、そこでのパウロの活動は短期間にとどまりました。パウロとシラスは捕縛されて、フィリピからの退去を命じられたからです。

この二人の宣教師たちはそれからテサロニケに移動しました。テサロニケはフィリピから約100km離れたところに位置していました。シナゴーグの礼拝では、ユダヤ人男性は皆誰であれ、聖書(すなわち旧約聖書)を朗読してそれを解き明かす権利をもっていました(これについては「ルカによる福音書」4章16〜21節を参照のこと)。パウロはテサロニケでこの権利を行使しました。彼は安息日にシナゴーグに行き、「律法と預言者」(すなわち旧約聖書)を解き明かし、神様がその到来を約束なさったキリスト(すなわちメシア)とはイエス様にほかならないことを示しました。彼は三週にわたってこの証を繰り返しました。すると、パウロの説教は聴衆の間にイエス様への信仰を生みだすようになりました。数人のユダヤ人たちや多くの「神様を畏れる者たち」はイエス様のことを、旧約聖書でその到来を約束されていた「メシア」すなわち「キリスト」である、と信仰告白しました。

一方では、この出来事はある種のユダヤ人たちには耐え難いことでした。彼らはパウロに反対する活動を開始し、民衆を扇動して動乱を起こし、パウロやシラスを説教によって反乱を画策している輩であると決め付けました。冷静さを失った群衆の手中にパウロが落ちることを避けるため、テサロニケのキリスト信仰者たちはパウロとシラスを暗闇に紛れて新たな旅へと送り出すほかありませんでした。それから、パウロとシラスはベレアに到着し、そこでも伝道の仕事を続けました。

テサロニケのユダヤ人たちのパウロとシラスに対する怒りは非常に激しく、ベレアにも使者を派遣して、パウロに反対するようにベレアの民衆を扇動しました。この画策は功を奏し、使徒たちはこのベレアの町をも後にせざるを得なくなり、今度はアテナイへ移動しました。テサロニケでパウロが伝道できたのはわずか数週間にすぎません。彼は伝道を中断するほかなかったため、テサロニケの信徒たちはキリスト教について基本的な教えを十分に受ける機会がありませんでした。使徒たちがテサロニケを出発した後、信徒たちは放置同然の状態になってしまったものと思われます。

パウロがテサロニケの信徒たちのことを心配していたのは当然です。教会自体が死んでしまうことさえ起こりうるという恐れを彼は抱きました。教会は迫害の只中に置かれていたからです。そのため、パウロはテモテをアテナイから北へと呼び戻しました。テモテに与えられた使命は、テサロニケに行って教会の状態を調べ、もしもまだ教会が生き残っていたならば、イエス様に対する教会の信仰を強化することでした。テモテがこの旅をしている間に、パウロ自身はコリントに移動しました。若い同労者テモテは大きなニュースを携えて、テサロニケからパウロのもとに戻ってきました。テサロニケの教会はまだ生きていて盛んに活動しており、それは他の諸教会の模範とさえなるほどであった、という知らせです。またテモテは、テサロニケの信徒たちの心を悩ませていた幾つかの質問をもパウロのもとに持ち帰りました。

テサロニケの信徒たちを悩ませていたのは、すでに死んでしまった教会員の行く末でした。イエス様のこの世への再臨を待たずして死んでしまったキリスト信仰者たちはいったいどうなるのでしょうか。彼らは天の御国に入れるのでしょうか。パウロにはテサロニケに戻りたいという強い気持ちが起こりました。しかし、それは現実には不可能でした。テサロニケの信徒たちに連絡を取り、テモテが持ち帰った彼らの質問に答える唯一の手段は、コリントからテサロニケに宛てて手紙を書くことでした。これはおそらく西暦50年の早春のことであったと思われます。

「テサロニケの信徒への第一の手紙」は、現代の私たちの手元に残っているパウロの手紙のうちでも最古のものです。それゆえ、この手紙は新約聖書の中の最古の書物であることになります。「テサロニケの信徒への第一の手紙」のメッセージは暖かさに満ち溢れています。パウロはこの手紙で最愛の教会に宛てて挨拶を送っているからです。「フィリピの信徒への手紙」ともども、この「テサロニケの信徒への第一の手紙」は新約聖書の中でも最も心のこもった書物である、と言われることもあるほどです。