ガラテアの信徒への手紙

執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

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「ガラテアの信徒への手紙」ガイドブック


日本語版の編集にあたり、日本人の読者にとって内容をわかりやすくするために、フィンランド語版を原著の表現などに補足説明や変更が加えられた箇所があることをあらかじめお断りしておきます。
なお、聖書の日本語訳は原則として「口語訳」を使用しています。


神様の真理を勝手に改変してはいけない

はじめに

新約聖書にはパウロの手紙が13通含まれています。しかし、これらの手紙の配列は執筆時期の順序には従っていません。むしろ、手紙の重要性に基づいた順番によって並べられているとも言えます。一群のパウロの手紙たちの一番目には、パウロの教えを凝縮した最も重要な「ローマの信徒への手紙」が置かれています。その次には2通の「コリントの信徒への手紙」があり、4通の手紙がそれに後続します。このガイドブックで学んでいく「ガラテアの信徒への手紙」もそれら4通の中に含まれる手紙です。この手紙は宗教改革者マルティン・ルターにとって特に大切な御言葉でした。ルターが執筆した最も重要なキリスト教の教義書は「ガラテアの信徒への手紙講解」(「ガラテヤ書講解」とも言われます)であるというのが一般的な見方です。

「ガラテア」の所在地について

「ガラテアの信徒への手紙」の受取手たちはどの地域に住んでいたのかははっきりわかりません。それに対して、パウロの他の手紙の宛先であるコリントやコロサイなどの所在地についてはよく知られています。ガラテアは都市の名ではなく、より広い地域の地名です。ですから「ガラテアの信徒への手紙」はある広大な地域に点在していた諸教会に宛てられた手紙であったと言えるでしょう。ところで、このガラテアは一体どこにあったのでしょうか。

「ガラテア」という名の冠された地域は当時二つありました。ガラテア地方とガラテア州です。これらのうちで領域的に規模が小さい方は「ガラテア地方」であり、現在のトルコの首都アンカラ周辺にありました。紀元前277年にはガリア人たちが現在のフランスの近辺からこの地域に移住してきて自分たちの国を建てました。そして、この国は紀元前25年にローマ帝国の支配下に置かれることになります。

「ガラテア」という名の二つ目の地域である「ガラテア州」はガラテア地方よりも範囲が広く「ガラテア地方」に加えてその南方の地域も含むものでした。それらの地域とはフリュギア、ピシディア、リュカオニア地方のことです。

ここで疑問が生じます。パウロは一体どちらの「ガラテア」に宛ててこの重要な手紙を書いたのでしょうか。

「パウロは「ガラテアの信徒への手紙」を「ガラテア地方」の諸教会に宛てて書き送った」というのが「北部ガラテア説」です。この学説には次のような根拠が提示されています。

1)当時「ガラテア州」について「ガラテア」という名は普通使用されていませんでした。

2)「ガラテアの信徒への手紙」4章13節で「あなたがたも知っているとおり、最初わたしがあなたがたに福音を伝えたのは、わたしの肉体が弱っていたためであった。」(口語訳)と、パウロは自らの肉体的な弱さのゆえにガラテアで福音を初めて伝える機会が与えられたことを認めています。そして「使徒言行録」13〜14章のパウロの第一回伝道旅行に関する記述にはこのガラテア訪問に該当する箇所は見当たりません。それに対して、第二回伝道旅行における聖霊の導きの記述(「使徒言行録」16章6節)は旅行中にパウロが病に罹ったことを示唆するものとも読めます。

3)「使徒言行録」では南部の地域について「ピシディア」(13章14節、口語訳では「ピシデヤ」)、「フリュギア」(16章6節、口語訳では「フルギヤ」)、「リュカオニア」(14章6節、口語訳では「ルカオニヤ」)という名が使用されています。特に16章6節には「フリュギア」と「ガラテア」が別々の名で併記されています。

4)ガラテアの信徒たちについてのパウロの描写は「ガラテア地方」の人々の気質(意見が揺れやすく好戦的で不道徳)によく合致しています。とはいえ、この主張は批判も受けています。パウロによるガラテアの信徒たちの性格描写は人間一般にも概ね当てはまるものだからです。それに、そもそも「民族の気質」なるものを想定するのが妥当なのかという疑問も残ります。

5)「ガラテア州北部」(つまり「ガラテア地方」)は言語的にも血縁的にも「真のガラテア」と呼びうる地域でした。それに対して「ガラテア州南部」の住民は「ガラテア人」とは呼ばれていなかったものと思われます。

6)「ガラテアの信徒への手紙」の受取手の大多数はもともと異邦人(すなわち非ユダヤ人)であったとパウロはみなしています(「ガラテアの信徒への手紙」4章8節、5章2節)。しかし「ガラテア州南部」にはユダヤ人が大勢住んでいました。それゆえ、その地域の諸教会にはユダヤ人キリスト教徒も大勢いたと思われます。

7)前項にも関連することですが、「ガラテア州南部」では律法と割礼をめぐる問題はパウロがまだその場に居合わせた時に争点となっていました。それに対して「ガラテア州北部」(すなわち「ガラテア地方」)にユダヤ人移民の居住区が存在したかどうかははっきりわかっていません。それゆえ、北部地域の場合には律法と割礼をめぐる問題はそれなりに時間が経過した後で表面化したとも考えられます。

8)「パウロはガラテア州全土にこの手紙を書き送った」と考える「南部ガラテア説」は主として感情論に基づくものです。パウロの第二回伝道旅行の際に訪れた諸教会に関して聖書から読み取れる事柄はさほど多くありません。仮にパウロが第一回伝道旅行の際に訪れた諸教会が「ガラテアの信徒への手紙」の受取手であったのなら、それも可能だったはずですが、前述したように、パウロの第一回伝道旅行には彼のガラテア訪問に関する記述はありません。

9)「北部ガラテア説」(「ガラテア地方説」)は従来から存在する伝統的な学説であるのに対して「南部ガラテア説」(「ガラテア州説」)は1890年代にSir William Ramsayによって提案されたものです。

「パウロはガラテア州全土にこの手紙を書き送った」と主張する「南部ガラテア説」の根拠としては次のものが挙げられています。

1)「使徒言行録」は「ガラテア州北部」の諸教会について何も語っていません。それらの諸教会に関する情報源は全て後の時代のものです。また、これらの諸教会は使徒が設立したものとは思われません。そして、コリントで起きた事件に関する「使徒言行録」の記述は不十分なものです。また「コリントの信徒への第二の手紙」に書かれている種々の困難についても「使徒言行録」には何も語られていません。

2)「ガラテア地方」は交通が困難な高地でした。ですから、病を患っていたパウロがその地方に旅行できたとは思えません。

3)パウロは手紙ではローマのそれぞれの属州の名を用いています。「アジヤの諸教会」(「コリントの信徒への第一の手紙」16章19節)がその一例です。ですから、パウロはガラテアの場合にも属州としての「ガラテア州」を意味していたと推定できます。

4)バルナバの名は「ガラテアの信徒への手紙」で三度登場します(2章1、9、13節)。しかし、彼がパウロと行動を共にしたのは(第二回ではなく)第一回伝道旅行の時だけです(「使徒言行録」15章36〜41節)。一方、パウロはバルナバの名を「コリントの信徒への第一の手紙」9章6節にも挙げています。そして、バルナバがコリントを実際に訪問したかどうかは知られていません。

5)「ガラテア人」は「ガラテア州南部」の住民を意味しうる可能な唯一の名称であったと言えます。なぜなら、その州の住民は多種多様な民族から構成されていたからです。

6)「ガラテアの信徒への手紙」4章14節にある「神の使」という表現はリュストラでの出来事(「使徒言行録」14章12節)と関連しており、「ガラテアの信徒への手紙」6章17節にある「イエスの焼き印」という表現はリュストラでの石打ち事件(「使徒言行録」14章19節)に関連していると考えることもできます。

7)ユダヤ主義者にとっては、交通の不便な「ガラテア州北部」(すなわち「ガラテア地方」)に行くよりも「ガラテア州南部」に赴く方が簡単であったと思われます。

8)パウロがガラテアの諸教会の献金をエルサレムに送り届けた時、彼と行動を共にした者たちの中にはデルベ人ガイオやリュストラ人テモテなどがいました(「使徒言行録」20章4節)。すなわち、彼らは「ガラテア州」の出身者であったことになります。しかしこの論説に対しては、彼らは「パウロ」の旅団であって「ガラテア」の教会の献金を運ぶグループではなかった、という有力な反論もあります。

手紙の書かれた時期について

前述の二つの学説にはどちらにも支持者がいます。そして、どちらの説を選んだとしても「ガラテアの信徒への手紙」の主要な内容の解釈には影響を及ぼしません。それとは異なり、どの説を採るかによってこの手紙の書かれた時期や幾つかの細部に関する解釈は変わってきます。

研究者の大部分は「北部説」(「ガラテア地方説」)を支持しています。この説を採用した場合どのようなことがわかってくるか、以下に考えを進めてみます。「ガラテアの信徒への手紙」4章13節の「あなたがたも知っているとおり、最初わたしがあなたがたに福音を伝えたのは、わたしの肉体が弱っていたためであった。」(口語訳)という文に出てくるギリシア語の「ト・プロテロン」という言葉は「元々」とも訳すことができます。しかし、口語訳通りに「最初」という意味で理解するならば、「使徒言行録」16章6節と18章23節に記されている通りに、パウロが第二回および第三回伝道旅行の折にガラテア地方を合わせて二回訪れた事実が「ガラテアの信徒への手紙」の執筆時期を決めるために重要になります。パウロが二度目にガラテアを訪れた後、エフェソ滞在中に、いわゆるユダヤ主義者たちがガラテアにやってきて、ガラテアの諸教会をパウロに反対するように仕向けようとしました。しかも実際に彼らは部分的にはそれに成功したようです。それに対して、パウロの手紙はこの状況をパウロの側から見て好ましい方向へと変えることに寄与しました。

パウロはエフェソ滞在中にこの手紙を書きました。しかも「コリントの信徒への第一の手紙」よりも先に書かれたと思われます。これは「聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。」(「コリントの信徒への第一の手紙」16章1節)という言葉からわかります。すなわち「ガラテアの信徒への手紙」の書かれた時期は西暦52年か53年であったと思われます。あるいは、パウロがちょうどエフェソから出発する前すなわち西暦55年か56年にこの手紙が書かれたという可能性も考えられます。しかし、後者はあまり有力ではないでしょう。なぜなら、ガラテア教会の難しい状況はパウロがガラテアを去った後まもなく始まったからです(「ガラテアの信徒への手紙」1章6節)。

「ガラテア南部説」(「ガラテア州説」)を採用する場合には、パウロがこの手紙を書いた時期は「使徒言行録」15章に記されている使徒会議の行われる少し前かあるいはそのすぐ後、すなわち西暦48年〜50年の間であったと推定されることになります。そして「ガラテアの信徒への手紙」はパウロの書いた手紙のうちでも最も古い時期の手紙であるということになります。

キリスト・プラス・アルファ?

ユダヤ主義者たちはパウロを二つの点で批判しました。それらを次に見てみましょう。

1)パウロは真の使徒ではありえない。彼はイエスがこの世で存命中の時にはまだイエスに従っていなかったからだ。それとは異なり、我々ユダヤ主義者はエルサレム教会およびその使徒たちから正式の推薦状を得ている。

2)パウロはキリスト教の初歩だけを教えたに過ぎない。彼がガラテアの信徒たちに信仰の初歩を示したのはたしかだが、今や教えの初歩からさらに先に進む時が来たのだ。キリスト信仰者はユダヤ教の祝祭の暦を遵守し、男子全員には割礼を施すべきである(「ガラテアの信徒への手紙」4章10節)。

上述のようなユダヤ主義者たちの主張の核心には「キリストへの信仰だけでは足りない。救われるためには他にも必要なものがあるからだ。信仰のためにはモーセの律法の一部も加えなければならない」という考え方があります(「ガラテアの信徒への手紙」3章2節、4章10、21節、5章2節)。

パウロは彼らの主張を非常に強くはねのけます。「ガラテアの信徒への手紙」はパウロの数々の手紙の中でもとりわけ激しい調子で書かれています。第一の批判に対してパウロは手紙の1章1節から2章14節までの箇所で次のように答えています。

彼が使徒としての召命を受けたのは人間からではなく神様からである(特に1章1〜4節)。神様が遣わした者以外には誰一人として神様の御言葉の真の宣教者ではありえない。たしかにユダヤ主義者たちはエルサレム教会からの推薦状を携えてはいるだろうが、本当に彼らは神様から使命を受けているのか。実はこれこそが決定的な問題なのだ。

第二の批判に対してパウロは2章15節から5章26節にかけて答えています。反対者たちの主張をパウロは次のように真っ向から反駁します。

救いの基となるのはキリスト・プラス・アルファではありえない。可能な選択肢は「キリストのみ」か「他の何か」のどちらかしかありえないからだ(「ガラテアの信徒への手紙」5章1〜6節)。もしもキリストに信頼するつもりなら、それと並行して律法の行いにも信頼を置くことはできなくなる。

ここで次の御言葉を読みましょう。

「なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。」  
(「ローマの信徒への手紙」10章13節、口語訳)。

救いの問題に関するかぎり、「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」なのです。

パウロは彼自身の信仰の教えがあまりにも簡単すぎる道であると批判されたことを知っていました。現代でも同じような批判が繰り返されています。しかし、パウロの指し示した道に従って本気で生きようとしたことのある人なら、それが実際にはどれほど困難な道かを知っているはずです。なぜなら、自らの救いに関して人間が自分で成し遂げた業績に頼らないでいることは極めて難しいことだからです。

ところで、ユダヤ主義の危険は過去の遺物にすぎないのでしょうか。残念なことに、ユダヤ主義的な考え方や生き方は今日でも根強く残っています。キリストの信仰だけでは足りず、それに何かを付け加えずにはいられない人々が今もたくさんいることからそれがわかります。「付け加えられた何か」の例としては、異言を語ること、再洗礼(幼児洗礼の否定)、「善い人間にならなければならない」とか「平和を愛さなければならない」といった要求が挙げられます。

キリスト教信仰全体を脅かすもの

ガラテアやコリントの教会ではほぼ同じ時期に同じような問題が発生しました。もしもパウロがガラテアやコリントで反対に屈していたなら、その結果は長期にわたって影響を及ぼし続けたことでしょう。キリスト教はユダヤ教の単なる一分派になってしまい、まもなく歴史からその姿を消してしまったことでしょう。

西暦70年のエルサレム陥落後、ユダヤ人たちはキリスト信仰者たちに対してイエス様を呪詛するように要求しました。それに従わない信仰者たちはシナゴーグ(ユダヤ人たちの会堂)から締め出されたのです。

しかし、幸いにもパウロはガラテアでもコリントでも勝利を収めることができました。そのおかげもあり、今の私たちには「キリストの恵み」のみによって活かされている教会、律法のいかなる行いも私たちを救えないことをわきまえている教会が存続しています。しかしここで注意すべき点があります。キリストにおける律法からの自由が人間の肉的な(この世的な)欲望を何のためらいもなく実現する機会を提供するものであってはならないということです(「ガラテアの信徒への手紙」5章13〜26節)。なぜなら、私たちキリスト信仰者のうちに住まうキリストは、私たちがキリストの御心に従って生きていくことを望んでおられるからです。ただし、このことが再び「新たな律法」になってしまわないように注意しなければなりません。このことについて宗教改革者マルティン・ルターは「善い行いが善い人間を作るのではなく、善い人間が良い行いを実行する」と的確に表現しました。

「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」
「ガラテアの信徒への手紙」2章20節、口語訳)