ガラテアの信徒への手紙5章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

神様に仕えるための自由 「ガラテアの信徒への手紙」5章

「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」 「ガラテアの信徒への手紙」5章1〜12節

基本的に人間にはあらゆることに関して最高で最上のものを欲しがる傾向があります。もちろんこれは宗教的な側面にも当てはまります。他方、人間には何かを選択したり何かに忠実に関わり続けたりすることを嫌う傾向もあります。生まれながらに人間が持っているこうした性質をパウロの敵対者たちは悪用するのに長けていました。彼らはガラテアの信徒たちに「キリストへの信仰それ自体は素晴らしい。しかしそれだけでは十分ではない。完全な信仰を得るためにはキリスト信仰に少しばかり他のものを加えて補わなければならない。割礼を受け、他のいくつかの律法の規定を遵守するならば、大丈夫である」と教えたのです。

ガラテアの信徒たちには、このような提案は特別な危険を伴わないものと思われました。キリストはその価値を失うこともないし、わずかばかりの付加事項は取るに足りないものに見えたからです。

しかし、パウロの視点はこれとは全く異なっていました。とりわけ救いに関しては「律法も福音も」ではなく「律法か福音か」という選択を迫られるのです。たとえ律法と福音を結びつけるのが人間にとってどれほど好ましく思われるとしても、救いに関する限りそれは不可能なことなのです。救いの道として選択された律法は福音を外に締め出しますし、逆に、救いの道としての福音も律法を追い払うからです。

ユダヤ人たちは「割礼とは律法全体を守るように自発的に律法の束縛を受け入れることである」と教えました。パウロは次のように述べています。

「割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。」
(「ガラテアの信徒への手紙」5章3節、口語訳)

割礼は人が律法の道を通して救われようとする意志の表明なのであって、単なる規則や行いのうちの一つに過ぎないものではありません。

「これをせよ、あれをせよ」

ユダヤ人ではない私たち現代人にとって割礼自体は問題にはなりません。しかし「ガラテアの信徒たちの錯誤」は今日でも実際に見受けられるものです。割礼の代わりに何かしら他の事柄や業績が要求されるという違いはありますが、本質的には同じ問題であると言えるからです。キリスト信仰者たろうとする人々に要求されることが多いことの例としては、目に見えてわかる悔い改め、罪の具体的な除去、神様に自分を出来るだけ完全に捧げること、信仰のみに頼って未知の世界へと大胆に飛び込むこと、成熟した大人の信仰者として受ける(再)洗礼などを挙げることができます。

(マルティン・ルターの教えを継ぐ)ルター派と一般のプロテスタント教派の間には神学的に一つ大きな相違があります。ルター派の神学においては信仰に先行するものとして罪が存在しています。神様は人間という罪深い存在を義としてくださるのです。それに対して、一般のプロテスタントの神学において信仰に先行しているものは悔い改めです。「罪を捨ててイエス様の御許に来なさい!」とか「あなたの命をキリストに捧げなさい!」と言った要求が信仰の前提条件として人々の上に課されるのです。幸いなことにプロテスタントの諸教派も、この点に関しては「幸いな非合理性」が作動して、実践的にはルター派的な考えかたに従って「人間の業績を一切抜きにした、神様による救いの御業」を承認している場合がしばしば見られます。

宗教改革者マルティン・ルターの用いたこの「幸いな非合理性」という考えかたについてここで説明を少し補足することにします。以下は、アメリカ合衆国のルター派神学者Franz Pieperの「キリスト教教義学」のフィンランド版の翻訳者による説明です。

「その主張の厳格さにも関わらず、Pieperの釈義からは肯定的なおおらかさも伝わってきます。表面的にはキリスト教会に所属しているように見える様々なグループで異端や錯誤が広く蔓延する場合でさえも、教会内には「幸いな非合理性」がいつもあちらこちらで存続しています。「キリストが私たちの身代わりとして罪の罰を全て引き受けて十字架で死んでくださったがゆえに、ただひたすら恵みによって救われる」という福音のメッセージがこの「幸いな非合理性」のおかげで人々の心を捉え、信仰を通して「神様の子どもたち」を生み出していくことになるのです。」

マルティン・ルターは信仰の必要不可欠さを説明するときに、人間の魂を「ひどく狭い寝台」に譬えています。もしも寝台に誰か他の者が眠るために入り込んでくると、キリストは寝台から床に落ちてしまいます。なぜなら、寝台には一人分の広さしかないからです。そして、それは本来キリストのために用意されている場所なのです。

これは人間には理解するのも認めるのも難しい事柄のようです。「私が自分の救いのために何もやっていないのに、どのようにしてキリストは私を救うことができるというのか?私の側でも何かしなければならないのが当たり前だろう。神様が私をこのようなやりかたで救われるのは正しくないだろうに!」といった考えかたをする人は多いのではないでしょうか。

この問題についての間違った教えが現代では大量に出回っています。人間の理性は神様による救いの道を決してそのまま承認することができません。それゆえ、理性は人間自身の行為の意義を強調する教えに執心するのです。信仰義認の教え(「人は信仰によって神様から義と認められる」というルター派の教え)はわずか数分で習得できるとさえ錯覚するほど単純に見えます。しかし、この教えを実生活に適用しようとする努力は、人がこの世で生きている間ずっと続く霊的な戦いでもあるのです。なぜなら「自分自身のよい行いによって神様に義と認めてもらおう」という気持ちは私たちの内側から何度となく繰り返して沸き起こってくるものだからです。

ところがいったんその意味が明瞭にわかると、この聖書的な真理はこの上もなく愛しいものに変わります。パウロがそれを「奴隷解放」になぞらえたのも頷けます。「行いによる義」から「神様の恵み」の下に移行することは真の意味での自由を獲得することに他なりません。自分で負担するのが事実上不可能なほど大変な重荷は今やすっかり消え失せたのです。一体誰がそれを再び背負いこみたいなどと思うでしょうか。

キリストは私たちを律法から解放してくださったのです。ですから、私たちは自由にされた者として生きようではありませんか。ルターが短く言い表したように、救いは信仰のみ恵みのみキリストの御業のゆえにのみもたらされるものなのです。

この「キリストにおける自由」の下に移行することは、それと同時に、自分自身の義が完全に瓦解したことも意味しています。それはまた自らをへりくだらせることでもあり、自らの業績や美徳を忘れ去ることでもあります。それゆえに、それは私たちの理性には耐え難いほど嫌なことなのです。

救いの確信が見出せる場所はゴルゴタの十字架のみ

人は行いによる義に頼っている限り、「自分は救われる」という救いの確信を得ることは決してできません。いくら人が「自分の救いのために必要なことは全て一通り成し遂げた」と思っていたとしても、自分を脅かす不測の事態や中途で放置していた事柄などが次々と出てくるものです。その結果、自分が持っていたはずの救いの確信が根底から覆され、再び最初からやり直さなければならなくなります。しかも、人はこの悪循環から逃れることができないのです。

異教は本質的に「恐れ」と非常に深い関わりがあるという指摘がしばしばなされてきました。人間は絶えざる恐れの中で生きているとも言えます。いつであれ突然何かが全てを人から奪い去るかもしれません。それため、異教では自らの神々を宥めるために常に新しい犠牲が必要とされるのです。

スウェーデンのルーテル国教会のビショップの一人だったBo Giertzの書いた小説「信仰のみ」の終わりのほうの箇所にはこの問題に関連する次のような描写があります。

ローマ・カトリック教会のある神父はスウェーデンの宗教改革の時代の戦いでルター派のキリスト信仰者たちを殺したことがありました。ローマ・カトリック教会の教義によれば神父は人を殺してはならないとされるため、自分は地獄(永遠の滅び)に堕ちる道を歩んでいることになる、とこの神父は気がつきました。それゆえ、彼はローマ教皇と面会するためにローマに旅立ちます。ローマ・カトリック教会の教義によれば、戦争で人を殺した神父である彼に罪の赦しの宣言をすることができるのは一人ローマ教皇のみだからです。ところが、彼は旅の途中で捕まり、投獄されてしまいます。獄舎で彼はローマ教皇と会う望みが絶たれたことを知ります。しかしそのような状況の下で彼は、ローマ・カトリック教会の教義によれば、止むを得ない場合にはローマ教皇による罪の赦しの宣言が他の方法でも代替できることを思い出します。そして彼は自分が神様に与えることができる最も高価なものが何であるか思い巡らします。まず彼は七つの懺悔の詩篇を祈り始めました。しかし、その祈りの最中で彼は恐ろしいことに気がつきました。彼はそれらの詩篇が短いものであることを喜んでいたのです。もしも心から悔い改めたいという気持ちがあるのなら、彼は長大な詩篇でも喜んで唱えたことでしょう。そうすることでより長く神様の御前に留まることができたはずだからです。自分の最上の行いにさえも罪が固着していることがわかった彼は自分自身に深く失望します。

私たち自身による業績あるいは善行は私たちの心にひとときの平安を与えるものにすぎません。たちまちのうちに「魂の敵」(悪魔)が襲いかかってきて私たちに「でも、もしも(・・・)」といった疑いの心を吹き込むからです。「少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。」(「ガラテアの信徒への手紙」5章9節、口語訳)というパウロの用いた諺は真実です。少しの疑いだけでも建物全体を倒壊させうるからです。

救いは確実な土台の上に立てられて揺らぐことなく維持されていくべきものです。この確実な土台はキリストという岩です。この岩は不変であり、私たちの信頼を決して裏切りません。

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである。」
(「マタイによる福音書」7章24〜27節、口語訳)

「自分を去勢するがよい!」

「あなたがたの煽動者どもは、自ら不具になるがよかろう。」
(「ガラテアの信徒への手紙」5章12節、口語訳)

「すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない。」
(「申命記」23章1節、口語訳)

上掲の「申命記」の箇所によれば、去勢した男子は信徒たちの集会に参加することが許されません。パウロはこのような辛辣極まる表現をあえて用いることで「割礼を受けた反対者たちも、旧約の世界で去勢した者たちと同様に、神様の教会に属さない者、教会の外側に置かれた者であること」を示そうとしたのです。彼らは「自分たちは実はキリスト信仰者ではない」という本音を隠していますが、そうするべきではないからです。

このようなパウロの辛辣さには、私たち現代人でも苛立ちを覚えるのではないでしょうか。しかし「信仰は永遠の命と永遠の死に関わる重大事である」とはっきりわかったのなら、事の本質を曖昧なまま取り繕おうとする優柔不断な態度を取るのは不可能になるのではないでしょうか。

念のために付け加えておきますが、厳しく大げさに聞こえる言葉遣いをすること自体がここでのパウロの目的ではありません。大切なのは「羞恥心のせいで神様の真理について沈黙することがあってはならない」ということです。

影響力のある恵み 「ガラテアの信徒への手紙」5章13〜15節

恵みは私たちが救われるための礎です。しかし、信仰によって私たちが義とされることは「天国の広場」でのみ起きることではありません。「信仰義認」(罪人である私たちが信仰によって神様に義と認められること)はこの世での私たちの生活にもその影響を及ぼします。人間によるよき行いは私たちが救われる根拠とはなりえません。しかし、よき行いもキリスト信仰者の生活において大切な独自の役割を担っています。よき行いは救いの結果として自ずと生じてくるものだからです。マルティン・ルターの言葉によるならば、よき行いがよい人間を作るのではなく、よい人間がよき行いをなすのです。

「ガラテアの信徒への手紙」2章の終わりと「ローマの信徒への手紙」5〜6章においてパウロは同様の問題を扱っています。「恵みは罪を罪として意識しないような生きかたを行わせるものか?」また「恵みは罪を助長しさえするものか?」という問題です。もしも私たちが自らのよき行いによっては救われないのだとしたら、良心の疚しさを微塵も感じることなく平気で罪を行い続けてもよいことになるのでしょうか。二つの手紙でこの同じ問題を取り上げていることからも、当時のキリスト教会にはそのように考えて生活していた教会員が実際にいたことがわかります。

キリストが私たちを自由にしてくださったのは、私たちが罪を平気で行うようになるためではなく、逆に罪から解放されるためでした。パウロは手紙の読者がこのことをはっきり理解するように望んでいます。次の引用からもわかるように、イエス様は「罪を行う者が罪の奴隷であること」を教えておられます。

「イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。」
(「ヨハネによる福音書」8章34節、口語訳)

パウロも同じように教えています。

「わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。」
(「テトスへの手紙」3章3節、口語訳)

この問題の本質は「私たちの生活に影響力を持っているのは何か?」という一点に集約されます。もしもキリストが「私たちの主」であられるならば、そこからは罪の習慣化は生じないはずです。なぜなら、キリストは私たちが罪を平気で行うようになることを望まれないからです。罪が私たちの生活を支配している場合に、私たちの心を占領しているのはキリストではなく、魂の敵です。「罪を行うことを人に勧めるキリスト」などは決して存在しえないからです。

しかし「罪に陥ってしまうこと」は「罪を意識して行い続けること」とは別であることは覚えておかなければなりません。生まれながらに罪深い存在である私たち人間は誰であれ罪に陥ることがあるからです。

「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。」
(「ヨハネの第一の手紙」1章8〜10節、口語訳)

ただしその一方で「キリストのもの」となっている者が罪の中で生き続けることがありえないのもまたたしかです。

「すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。(・・・)すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。」
(「ヨハネの第一の手紙」3章6節、9節、口語訳)

恵みは「律法を破ってもよい」という許可を与えるものではありません。それとは逆に、恵みとは聖霊様の御業の助けによって律法を満たすことなのです。

「律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」5章14節、口語訳)

恵みが私たちに与えてくれる自由とは、自己中心的な生き方をするためのものではなく、隣り人に仕えるためのものです。

「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。」
(「レビ記」19章18節、口語訳)

キリスト信仰者として生きることは、律法および良心の呵責から自由になることです。しかし、私たちキリスト信仰者はこのメッセージを周りの人たちに果たして十分正しく伝えてきたのでしょうか。キリスト教について多くの人々の抱いている一般的なイメージは「何々をしてはいけない」とか「キリスト教は人間の生活を制限し息苦しいものにする」というものではないでしょうか。

「気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。」
(「ガラテアの信徒への手紙」5章15節、口語訳)

上掲の節にある「かみ合い、食い合っている」という比喩的な表現に基づいて当時のガラテア教会の内部分裂の状況をあれこれ想像するのは控えたほうがよいでしょう。

御霊と肉の戦い 「ガラテアの信徒への手紙」5章16〜26節

「聖化」とはキリスト信仰者として生きていくことです。この意味での「聖化」とはキリスト信仰者がより優良で完全な存在に日々変わっていくことなのでしょうか。一歩一歩、罪をひたすら払い落としていくうちに最終的には全ての罪が私たちの生活からすっかり消えてしまう決定的な瞬間がいつか訪れる、ということなのでしょうか。

ここで再びマルティン・ルターがキリスト教の偉大な教師として登壇します。「聖化とは罪と恵みについての霊的な理解をより深めていくことである」とルターは言っています。キリスト信仰者は「義とされた者」であると同時に「罪深き者」でもあります。「罪が全くなくなること」が私たちキリスト信仰者にとっての理想的な状態です。しかしながら、私たちはこの世で生きているうちにはそのような状態に到達することはできません。

人間存在に関するこの真実は少しも喜ばしいものではありません。そのため、これを認めたがらない人々が後を絶ちません。しかし、自らこの真実を認めないかぎり、私たちは罪の支配からの真の自由も見つけることができなくなります。ゴミを本当になくすためには、それを敷物の下へ隠すのではなく、ちゃんと敷物から外へ掃き出さなければなりません。

自らの罪を悔いてイエス様を救い主として信じるようになった(これがルター派でいう「悔い改め」です)後にも霊的な戦いがずっと続いていくことを、この箇所は私たちに思い起こさせようとしています。実は、悔い改めてからようやく本当に激しい戦いが始まるのです。なぜなら、悔い改めていない人間のうちでは肉と悪魔が容易に共闘体制を形成することができるのに対して、キリスト信仰者の場合には、その人の内に住んでおられるキリストが悪魔と戦うために立ち上がってくださるからです。

キリスト信仰者の内においても霊的な戦いが生じることは、その人がキリスト教のことをあまりよくわかっていないこと示す印などではありません。むしろ逆です。霊的な戦いがあることは、その人がキリスト信仰者であることを証しする印なのです。「霊的な戦いが休んだ場所ではキリストは隅っこに追いやられている」とさえ言えるでしょう。キリスト信仰者の内におけるこの戦いはその人が死を迎える時になってようやく終わりを告げます。「魂の敵」(すなわち悪魔)は最後の瞬間まで私たちを「自分のもの」として取り返そうと躍起になるからです。

魂の敵は私たちを落ち込ませようとして例えば次のように言ってくるでしょう。「もしもお前が真のキリスト信仰者であると言うのなら、お前の生きかたにはこれやあれといった罪は存在しないはずだ。お前はあのような誘惑には陥りたくはないはずだよな。等々」。
そのような試練の時には、ただひたすらキリストの御許に避難してこう言うべきです。
「私は自分が何かしら優れているがゆえに救われたいとは少しも思っていない。キリストの御業のゆえにのみ私は救われるのだ。悪魔よ、お前が私の罪をほじくり出して私を打ちのめそうとすればするほど、私はそれだけいっそうしっかりとキリストにしがみつき、キリストの御許に避難するのだ。なぜなら「自分で自分を救うことができる」と思い込むことが私にはよりいっそう不可能になってくるからだ。」

パウロも自分自身について次のように書いています。

「すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」
(「ローマの信徒への手紙」7章22〜25節、口語訳)

御霊における新しい生きかた

「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。」
(「ガラテアの信徒への手紙」5章19〜21節、口語訳)

上掲の箇所には15種類の罪が挙げられています。新約聖書に収められている罪の一覧表としては最長のものです。しかし、これさえも全ての罪をもれなく列挙したものではありません。このことは「および、そのたぐい」という表現からわかります。ですから、この罪の一覧表に基づいてガラテアの諸教会に頻出した罪を特定することには慎重であるべきでしょう。

一覧表に出てくる罪は人間生活の4つの領域に関連するものです。
1)性(19節) 
2)宗教(20節)
3)社会と教会(20〜21節)
4)飲酒(21節)

これらの悪徳に続いてパウロは9種類の「御霊の実」を挙げます。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」
(「ガラテアの信徒への手紙」5章22〜23節、口語訳)

しかし、この美徳の一覧表もまた完全であることを目指したものではありません。これは例えば「コリントの信徒への第一の手紙」12章4〜11節の「恵みの賜物」の一覧表と内容的に同一のものではありません。

「これらを否定する律法はない。」(23節)という表現は「そのような美徳を満たす人々に反対する律法はない」と解釈されたこともあります。その場合には「御霊によって導かれている人々に反対する律法はない」という意味になります。

律法に可能なことは、悪行や心を鎮め抑制することに限定されます。それに対して、人間のうちに善い行為や意思を生じさせうる唯一の存在が聖霊様なのです。ですから、キリスト信仰者の生きかたはただ単に悪い行いや心を捨て去ることだけではありません。それは善い行動や意思という「聖霊様の御業」に自らを繋留させることでもあるのです。このことを軽視すると一体どのような事態が生じるか、イエス様は次のように教えておられます。

「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。」
(「マタイによる福音書」12章43〜45節、口語訳)

神様は私たちを悪い行いや心からすっかり清めるだけではなく、善い行いや意思によって満たすことも望んでおられるのです。

「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」5章24節、口語訳)

上掲の箇所に出てくる「十字架刑」は「洗礼を受けること」を意味していると一般的に理解されています。

十字架刑は緩やかにしかし確実に死をもたらす処刑法です。十字架にかけられた受刑者が十字架から降ろされるのは死んでからです。すでに一度十字架につけられた身体を再び罪深い生活へ解き放つため、自分に刺さっている釘を抜き去るような真似を、キリスト信仰者はすべきではありません。十字架はキリスト信仰者である私たちの人生全体を通じて私たちに付いて回るものだからです。イエス様は次のように言われます。

「それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」
(「マルコによる福音書」8章34節、口語訳)

霊的な高慢さは神様の御国のためにはなりません。

「互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。」
(「ガラテアの信徒への手紙」5章26節、口語訳)

霊的な勝利は聖霊様の勝利なのであり、私たち自身の勝利ではないからです。私たちが敗北し聖霊様が勝利なさることが真の霊的な勝利を得るための前提となります。霊的な勝利の栄誉は神様のものであって私たちのものではありません。