コリントの信徒への第二の手紙

執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

インターネットでコリントの信徒への手紙二を読むか聴く(口語訳)


日本語版には翻訳者の責任によりフィンランド語版にある程度の表現や内容の修正が加えられていることをあらかじめお断りしておきます。

聖書の翻訳には原則として「口語訳」が用いられています。

マルティン・ルター「大教理問答」などルター派の信条を集めた「一致信条書」の日本語訳は信条集専門委員会訳(聖文舎発行、1982年)に準拠しています。

このガイドブックで聖書の箇所について例えば「12章6節」のように章節のみが記されている場合には、それは「コリントの信徒への第二の手紙」の箇所を指しているものとします。


「コリントの信徒への第二の手紙」ガイドブック

はじめに

「コリントの第二の手紙」が執筆されるきっかけとなった当時の状況などを調べようとするとある種の困難にぶつかります。第一級の資料である「使徒言行録」の中で福音書記者ルカは西暦30〜60年代に起きた出来事についてあまり多くのことを述べていないのです。「使徒言行録」では各年につき1章分くらいしか割り当てられていないのですから、全ての出来事が詳細に記されていないのは明らかでしょう。

「使徒言行録」の記述によるかぎり、パウロはコリントを二回訪問しました。パウロの第二回および第三回宣教旅行の際にそれぞれ一度ずつです(「使徒言行録」18章1〜17節、20章1〜6節)。しかし以下に見るように、パウロの手紙によれば彼は三度コリントを訪問しています。

パウロはコリントの信徒たちに宛てて少なくとも4通の手紙を書いたと推測されています。これらのうち現存しているのは2通だけです。そして、それらはおそらく2番目と4番目の手紙です。

パウロとコリントの教会の間でなされた相互連絡は概ね次のようなものであったと思われます。

1)パウロは第二回宣教旅行の際にコリントに初めて立ち寄る。 (「使徒言行録」18章1〜17節)

2)パウロは(現存していない)最初の手紙をコリントに送る。 (「コリントの信徒への第一の手紙」5章9節)

3)コリント教会はパウロに返答する。 (「コリントの使徒への第一の手紙」7章1節)

4)パウロはエフェソからコリントに第二の手紙を送る。これが「コリントの信徒への第一の手紙」に相当する。 (「コリントの信徒への第一の手紙」16章8節)

5)パウロの反対者たちがコリントにやってくる。 (「コリントの信徒への第二の手紙」3章1節)

パウロはコリントの教会の困難な状況について知らされる。

6)再びパウロはコリントに短期間だけ滞在する。 (「コリントの信徒への第二の手紙」12章14節、13章1節)

この滞在はパウロにとってもコリントの信徒たちにとっても苦悩をもたらした。 (「コリントの信徒への第二の手紙」2章1〜4節)

パウロはエフェソに戻る。

7)パウロはエフェソから第三の手紙をコリントに送る。「涙の手紙」と呼ばれるこの手紙は現存していない。 (「コリントの信徒への第二の手紙」2章3〜4節、9節、7章8節)

8)パウロはテトスをコリントに派遣する。その際におそらく「涙の手紙」をテトスに託す。 (「コリントの信徒への第二の手紙」12章18節)

テトスはコリントの教会の状態を沈静化させるのに成功する。

9)パウロはエフェソからトロアスに出発する。トロアスでテトスと再会することがその目的だった。 (「コリントの信徒への第二の手紙」2章12〜13節)

10)パウロはマケドニアに向けて出発する(当時のマケドニアは現代のギリシア北部に相当する)。パウロはマケドニアでテトスと再会する。その時テトスは喜ばしい知らせを携えていた。 (「コリントの信徒への第二の手紙」2章13節、7章5〜7節)

11)パウロはマケドニアから第四の手紙をコリントに送る。これが「コリントの信徒への第二の手紙」である。

12)パウロは三度目のコリント訪問を果たす。このコリント滞在期間は3ヶ月に及んだ。 (「使徒言行録」20章1〜6節)

「コリントの信徒への第二の手紙」はパウロがマケドニアから書いて送った手紙であり、それは西暦56年ないし57年のことであったと思われます。この手紙はパウロの書いた手紙の中でも最も個性的なものであり、他の彼の手紙と比べて彼の素顔に普段よりも間近に迫ることができます。

パウロは本当に使徒なのか?

「コリントの信徒への第二の手紙」の中心的なテーマは二つあります。「パウロは本当に使徒なのか?」、「パウロの説教や手紙にはどのような価値があるのか?」という問いかけです。パウロがコリントの信徒たちに書いていること(そしてまた彼が書いた書簡のうちで聖書の中に収められている全てのもの)はありきたりな宗教的な文書などではなく、三位一体なる神様が認証してくださった真の使徒による説教です。

なぜパウロは自分が正統な使徒であることをコリントの信徒たちに対して弁護しなければならなくなったのでしょうか。それは、パウロが去った後のコリントに「にせ使徒」(11章13節)すなわち「あの大使徒たち」(11章5節)がやってきて、パウロとその教えを激しく非難したからです。とはいえ、彼らの批判の骨子はいつも同じことの繰り返しでした。それは「この世で存命中のイエス・キリストに実際に会っておらずその弟子でもなかったパウロは使徒ではありえない。彼は大勢いる福音伝道者の一人に過ぎない」という批判です。

さらにパウロの反対者たちは、自分らがパウロよりも偉大な使徒たちの意見を代弁している者であるかのようにエルサレムの教会からの「推薦状」をわざとらしくちらつかせました(3章1節)。その結果として、この問題をめぐってコリントの教会内の意見は二つに分かれてしまいました。おそらくパウロに反対するグループが多数派を占めたのではないかと思われます(11章3節)。

パウロに突きつけられた批判には少なくとも次のようなものがありました。

1)パウロは肉体的に虚弱であり、彼の説教からは何も得るものがない。 (10章1節、11章6節)

2)パウロは正気を失っている。 (5章13節)

3)パウロはコリントの教会を手紙で脅して支配しようとしている。 (1章24節、10章9節)

4)パウロはいろいろな方面に伝道の手を延ばそうとしている。 (10章14節)

5)パウロには使徒の持つ権能によって人前に現れる勇気がない。 (11章7節、12章14〜16節)

6)パウロは身の程もわきまえずに驕り高ぶっている。 (10章8、13、15節)

7)パウロは自己推薦ばかりしている。 (5章12節)

8)パウロは真理にとどまっていない。 (1章17節、7章14節)

9)パウロはコリントの教会から私益を引き出そうとしている。 (12章16〜18節)

板挟みになったパウロ

同じ頃、ガラテアの教会もよく似た状況になっていました。エルサレムからガラテアにやってきたいわゆる「ユダヤ主義者」の一団がパウロの使徒としての正統性を否定しようと躍起になり、パウロの教えが福音の初歩しか取り扱っていないことを批判しました。彼らによれば、真のキリスト信仰者は旧約聖書の全部の律法を遵守するべきなのです。しかし、これは「キリスト信仰者たらんとする者は誰であれユダヤ人にならなければならない」という要求に他なりませんでした。

パウロは「板挟み」になっていました。東のガラテアの教会でも西のコリントの教会でも彼をめぐる問題が起きていたからです。また、エフェソの教会でもパウロは困難に直面しました(1章8節、「使徒言行録」19章23節)。今日でもエフェソには「パウロの牢獄」という観光名所があります。「使徒言行録」には直接言及がないものの、エフェソでもパウロは死の危険にさらされた可能性があります。

コリントの教会には性道徳に関わる問題もありました(12章21節)。この問題の端緒はコリントの教会で喧伝されたグノーシス主義的な教えであったかもしれません。グノーシス主義では魂のみが救われるべき対象として重要視されました。それとは対照的に、肉体は無価値なものと見なされ、それゆえに肉体に関するかぎりは自分のやりたいことなら何をしても構わないと考えられていました。

コリントの教会の状態がひどく悪化したため、パウロはコリントへの訪問を試みましたが、事態の沈静化を待たずにまもなくそこを立ち去らなければならなくなりました(10章2節、13章2節)。そうなったのは、おそらくガラテアの教会で起きた問題のためであったと思われます。偽りの使徒たちがパウロに面と向かって反対したのです(10章10節)。

「コリントの信徒への第二の手紙」でパウロはコリントの教会が使徒としての自分や正しい福音に対して素直な従順さを再び取り戻せるように悪戦苦闘しています。彼の「涙の手紙」とテトスのコリント訪問とによってとりわけ難しい問題はどうにか解決できましたが、パウロはコリントのキリスト信仰者たちには悔い改めるべき点がまだあると見ていました。

「自分は推薦状を必要としない」とパウロは言い切っています。なぜなら、コリントの教会自体が彼にとっての推薦状であり、彼の使徒としての正統性を証しするものだからです(3章2〜3節)。また、神様は推薦状を紙ではなく御自分に仕える者たちの生き方に書き込んでくださるからです。

「コリントの信徒への第二の手紙」が書かれたもう一つの動機は、エルサレムの教会の貧しい信徒たちを援助するための献金活動です(8章1〜6節、9章1〜5節)。コリント滞在の後にパウロはこの義援金を携えて自らエルサレムに出向くつもりでした。

結果的にパウロはガラテアとコリントの教会を自分の側に取り戻すことに成功しました。彼の敵対者たちは決定的な敗北を喫したのです。そしてこの出来事の後では、律法に隷属しない福音を異邦人(すなわち非ユダヤ人)の世界で自由に宣教するのを揺るがすことは難しくなったのです。

「コリントの信徒への第二の手紙」の構成

手紙の構成からは、これまで述べた二つの主要な点がはっきりと見えてきます。

1)導入部 1章1〜11節
2)意見の違い 1章12節〜2章17節
3)使徒の正統性 3章1節〜6章10節
4)神様をないがしろにしている者たちから離れる 6章11〜18節
5)パウロとコリントの教会との間の仲直り 7章1〜16節
6)エルサレムの教会の貧しい信徒たちのための義援金 8章1節〜9章15節
7)パウロの反対者たちとの関係 10章1節〜13章10節
8)終わりの挨拶 13章11〜13節