コリントの信徒への第二の手紙11章 パウロと偽使徒たち

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「コリントの信徒への第二の手紙」11章1〜6節 教会の最善を尽くすパウロ

この手紙の後半部でパウロは自分のことを「誇り」ます(11〜12章)。しかし、その前にパウロはどうして自分が「少しばかり愚かなことを言う」のかについて説明しています(11章1節)。パウロは全活動を通じてコリントの信徒たちの最善を考えてきたことを明言します。

パウロは自分のことを花嫁と花婿を婚約に導いた仲人になぞらえています。イスラエルの民は自らを神様の花嫁になぞらえました。このような考え方には、預言者ホセアの婚姻関係を神様とイスラエルの民との間の関係との比喩とみなす旧約聖書の背景があります(「ホセア書」1〜3章)。また新約聖書の「ヨハネの黙示録」もキリスト教会を「小羊の花嫁」として繰り返し描写しています(「小羊」とはイエス様のことです。「ヨハネの黙示録」19章6〜9節、21章9節、22章17節)。

サタンが楽園でアダムとエバを堕落させたのと同じようなやり口で偽使徒たちがコリント教会を間違った方向に惑わすのではないかとパウロは心配しました(11章3節)。エバとアダムは楽園から追放されることになりました。それと同様に、偽使徒たちの追従者は皆、天の御国に入れずにその外側に取り残されることになってしまいます。それほどこの問題は極めて重大なのです。

福音は一つしかありません(11章4節、「コリントの信徒への第一の手紙」3章11節、「ガラテアの信徒への手紙」1章6〜10節)。全人類の全ての罪のもたらす罰を身代わりに引き受けて十字架で死ぬことによって、キリストは全人類と神様との間の関係を修復してくださいました。この救いの御業を正しく伝えない「福音」は本来の福音ではなく偽の福音です。

パウロの手紙が書かれた時代にはまだ福音書が書物として存在しなかったことをここで思い起こしましょう。福音書の中で最初に書かれた「マルコによる福音書」は西暦60年代に成立したと推定されています。ということは、この「コリントの信徒への第二の手紙」の書かれた約10年後になってようやく最初の福音書が書物としての形をとったことになります。福音書が書かれる以前にイエス様をめぐる様々な言説が断片的に文書化され始めました(「ルカによる福音書」1章1〜4節)。しかし、それらがどのようなものであったか、確実なことはわかりません。それらの文書がパウロの手紙が書かれた時期にコリントにまで伝わっていたとは考えにくいです。

コリントの信徒たちはイエス様やキリスト教信仰についてほんのわずかしか知識がありませんでした。パウロはそれらについて彼らに1年半のあいだ教えました(「使徒言行録」18章11節)。しかしここでは、コリント教会がパウロの去った後にも成長を続けたこと、それゆえに、そこの信徒たちの中にはパウロに実際に会ったことがない新しい人々もいたことを覚えておくべきでしょう。「ヨハネの黙示録」2〜3章に記されている、復活されたイエス様が七つの小アジアの教会に書き送らせた手紙からは、キリスト教会創立後のすぐ次の世代である90年代にはすでに様々な異端の教えが各地の教会にかなりの広まりを見せていたことがうかがわれます。

どうして人間はいともたやすく偽教師たちの話を信じ込んでしまうのでしょうか(11章4節)。それは、神様の御心を伝える正しい福音は人間が自ら好むようなものではないからです(「イザヤ書」55章8〜11節、「コリントの信徒への第一の手紙」2章1〜5節)。人々は自分が聞きたがっていることを巧妙な話術で伝える説教者が現れたなら、その説教者に嬉々として付き従っていくことでしょう。

残念ながら私たちはパウロの反対者たちの教えの内容をよく知りません。パウロは彼らの教えが神様ではなくサタンに由来するものであるとみなしています(11章14〜15節)。

宣教の形式と内容との間にある「ずれ」を認識することは大切です。もしも教えの内容がよくないものである場合には、いくらその外面を美しく飾ったところでどうにもなりません。内容が正しいことが最も重要であり、外面は二次的なものです。しかしこれは、内容さえよければろくに準備もせずにいい加減な態度で福音を語ればよい、という意味ではもちろんありません。福音は神様からの大いなる賜物です。それゆえ、福音はその重要性にふさわしい真摯さをもって宣べ伝えられていくべきものです。

「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。」
(「ローマの信徒への手紙」1章16〜17節、口語訳)

パウロが自分のことを下手な説教者と評価しているのは意外に感じられます(11章6節)。パウロの手紙はそれとは全く正反対のことを証ししているからです。もしもパウロが本当に話すのがどうしようもなく下手だったとしたら「使徒言行録」が描いているようにはパウロの伝道は前進しなかったことでしょう。たとえ言葉による表現は稚拙だとしても正しい内容を伝えようとする真摯さを持ち続けることが福音伝道者にとって大切であるということがこのパウロの例からも言えるのではないでしょうか。

「ふたり(すなわちパウロとバルナバ)は、イコニオムでも同じようにユダヤ人の会堂にはいって語った結果、ユダヤ人やギリシヤ人が大ぜい信じた。ところが、信じなかったユダヤ人たちは異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対して悪意をいだかせた。それにもかかわらず、ふたりは長い期間をそこで過ごして、大胆に主のことを語った。主は、彼らの手によってしるしと奇跡とを行わせ、そのめぐみの言葉をあかしされた。そこで町の人々が二派に分れ、ある人たちはユダヤ人の側につき、ある人たちは使徒の側についた。その時、異邦人やユダヤ人が役人たちと一緒になって反対運動を起し、使徒たちをはずかしめ、石で打とうとしたので、ふたりはそれと気づいて、ルカオニヤの町々、ルステラ、デルベおよびその附近の地へのがれ、そこで引きつづき福音を伝えた。」
(「使徒言行録」14章1〜7節、口語訳)

おそらくパウロは古典古代の世界で人々の賞賛の的であった「弁論家」たろうとはしなかったということではないでしょうか。例えば、「使徒言行録」24章1〜9節に出てくる「テルトロ」は「弁護人」でしたが、これは彼が「弁論家」であったことを意味しています。

「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」2章1〜5節、口語訳)

この箇所の他に「コリントの信徒への第二の手紙」10章10節も参照してみてください。パウロは自らの弁舌ではなく福音の力を信じていたのです。

「コリントの信徒への第二の手紙」11章7〜15節 福音は無料のもの

古典古代のギリシア文化では肉体労働は軽蔑の対象でした。自ら天幕職人として働くことで生計を立てていたパウロは社会的にも低い立場に自らを置いていたことになります(「使徒言行録」18章3節、20章34節、「コリントの信徒への第一の手紙」4章12節)。

どうしてパウロはコリントの信徒たちからお金を取ろうとはしなかったのでしょうか(11章12節)。どの手紙でもパウロはその理由を説明していません。この問題に関しては二つの理由が提案されています。

1)富裕な都市コリントには多様な宣教者や預言者が金銭収入を得るために各地から移住して来ていました。それでパウロは彼らの同類と誤解されるのを避けようとしたのです。

2)神様の賜物である救いは無料です。それを買い取ったり報酬として受けたりすることはできません。ユダヤ教のラビたち(教師たち)は律法を無料で教えました。ですから、福音も報酬なしに宣教するのが当然ではないかと考えられます。それゆえ、パウロは自分の福音宣教の仕事について報酬を受け取ることを望まなかったのです。フィリピ教会からの経済的援助(11章9節、「フィリピの信徒への手紙」4章10、15節)もパウロは気乗りしないまま受け取りました。しかも彼がそれを受け取ったのはフィリピを去った後でした。

パウロの無報酬で伝道するやり方は以前コリントで問題視されました(「コリントの信徒への第一の手紙」9章3〜12節)。パウロの反対者たちは自分らの宣教の仕事に対して代価を受け取っていたからです(2章17節、11章20節、「ガラテアの信徒への手紙」4章17節も参考になります)。おそらく彼らはパウロが無料で宣教したからこそ、パウロのことを嘲り悪口を言ったのでしょう。

パウロに対しては例えば次のような非難と疑いが向けられました。
1)パウロには自らの宣教の仕事によって生計を立てる権利がなかったのでしょうか(「コリントの信徒への第一の手紙」9章14節)。
2)パウロは自分に必要な生活の糧を教会から要求する勇気がなかったのでしょうか。
3)パウロはマケドニアの信徒たちほどはコリントの信徒たちのことを愛してはいなかったのでしょうか(11章11節)。

このような批判があったにもかかわらず、パウロは自分のやり方を変えようとはしませんでした(11章12節)。悪意をもって解釈すれば、人間のどのような良い振る舞いも曲解されてしまうものです。仮にパウロが宣教の仕事について金銭的な報酬を受け取っていたのなら、今度は「あいつは強欲だ」と批判されたのではないでしょうか。

福音の宣教者には教会から生計に必要な糧を得て生活する権利があることをパウロは認めています(「コリントの信徒への第一の手紙」9章14節、「テモテへの第一の手紙」5章18節を参照のこと。「ルカによる福音書」10章7節ではイエス様も同じことを教えておられます)。パウロは自分ではこの権利をあえて行使しませんでした。しかし、他の福音伝道者たちに対しては彼と同じようにすることを決して要求しませんでした(「コリントの信徒への第一の手紙」9章6節)。

海外宣教の現場では、現地のキリスト教会がいつどの段階で自給を果たすべきであるかを見定めるのは容易ではありません。ただはっきりしているのは、どの教会も他の教会やその宣教団体の経済支援にいつまでも依存し続けるべきではないということです。聖書にはフィリピ教会の他にも、非常に貧しい諸教会が自身の必要を切り詰めてでも海外宣教を支え続けた例が見られます。次の旧約聖書の箇所は、海を越えた教会間の助け合いの大切さを説くものとして引用されることがあります。

「あなたのパンを水の上に投げよ、
多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」
(「伝道の書」(「コヘレトの言葉」)11章1節、口語訳)

「コリントの信徒への第二の手紙」11章12〜15節でパウロは自分の敵対者たちについて非常に厳しい宣告を下しています。パウロは問題の核心が永遠の命と永遠の死に関わるものであり、たんなる意見の相違ではなく信仰からの離反につながりかねない重大なものであることを看破したのです(「ガラテアの信徒への手紙」1章6節も参考になります)。永遠の世界で人間がどうなるかを決める最重要課題を正しく議論するにあたっては表面的な礼儀正しさや相手を慮る態度は副次的なものに過ぎなくなります。

異端の教えの信奉者たちについて言えば、もしも彼らが正しい教えに立ち戻るように叱責を受けてもかたくなに悔い改めようとしない場合には、キリスト教会は彼らを支持することも教会に迎え入れることさえもすべきではありません。

「異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。たしかに、こういう人たちは、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯しているからである。」
(「テトスへの手紙」3章10〜11節、口語訳)。

「コリントの信徒への第二の手紙」11章12〜15節はパウロがコリントでのサタンの仕業に言及している三番目の箇所です。今までの箇所をまとめると次のようになります。

1)サタンは教会を内部分裂させようとします(2章10〜11節、「コリントの信徒への第一の手紙」3章1〜9節も参考になります)。

2)サタンは罪深い者たちの目をくらませて彼らが自分の罪を見えないようにします(4章4節)。

3)サタンは偽りの教えを教会に撒き散らします(11章3、14〜15節)。

サタンの策略を明るみに出しそれを無効にしなければなりません。手紙を通してパウロはそれに努めました。しかも、しばしばそれに成功したのです。

「コリントの信徒への第二の手紙」11章16〜21節 驕慢の愚かさ

11章1節に引き続きパウロはここで愚かな自慢話を続けることについて容赦を乞うています。

古典古代においては「自らを誇ること」は現代とは異なりさほど野蛮な態度と見なされてはいませんでした。ローマの皇帝たちは勝利や大事業によって自らを誇りました。イエス様のある譬にも徴税人のほかに、自慢するファリサイ派の人間が登場します(「ルカによる福音書」18章9〜14節)。同じような宗教にかかわる自慢は「マタイによる福音書」6章1〜6節にも出てきます。

パウロの時代の祝祭日には道化師たちが支配者たちにとっては都合のよくない真実を面白おかしく表現することが公に許されていました。しかし、真の意味での「道化師」だったのはむしろコリントの信徒たちだったとも言えます。彼らは正しい信仰が自分たちから奪われてもそれを意に解さなかったからです。

「実際、あなたがたは奴隷にされても、食い倒されても、略奪されても、いばられても、顔をたたかれても、それを忍んでいる。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」11章20節、口語訳)

この節でいう「奴隷にされること」とは、コリント教会にやってきた新しい偽教師たちがコリントの信徒たちに突きつけた律法の様々な要求を指しているとも読めるでしょう。

私たちからすると、パウロが自慢話をしてくれるのはよいことです。彼の他の手紙では書かれていないようなことや「使徒言行録」の記述にも見当たらないようなことについて知ることができるからです。

それにしても、パウロはここで彼の敵対者のやり方をあえて真似しているのでしょうか。反対者たちに負けないように彼も自慢比べで対抗しようとしているのでしょうか。ここでパウロがいったい何について誇っているか、注意深く見てみる必要があります。

「彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」11章23〜30節、口語訳)

教会もこの世の一般的なやり方に倣って活動するべきではないかという誘いかけにキリスト教会は今までに何度となくさらされてきました。しかし、そのような試練の時にも教会は「世の塩」や「世の光」として存立し続けるべきなのです。イエス様は次のように教えておられます。

「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
(「マタイによる福音書」5章13〜16節、口語訳)。

この世と同じ尺度に基づいて競争しようとするかぎり、教会に勝ち目はありません。むしろ、教会はこの世のやり方では決して到達できないような「深み」に潜り、そこから何か新しいものを持ち帰ってくるべきなのです。

パウロは自分らが弱すぎたことを告白しています(11章21節)。しかし、まさにそのような弱い者としてパウロは神様に用いられる器とされたのです。

「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」12章9節、口語訳)

いわゆる強いキリスト信仰者たちは自我で膨れ上がっています。そのせいで、彼らの只中でなされる神様の御業はもはや彼らには適合しなくなってしまうのです。

11章19節でパウロは、コリントの信徒たちが自分で思い込んでいるほど本当に賢いのであれば、きっと精神的な余裕もあるだろうから、彼の愚かな自慢話にも少しばかりの間は忍耐を持って耳を傾けてくれるだろう、と皮肉を言っています。

「実際、あなたがたは奴隷にされても、食い倒されても、略奪されても、いばられても、顔をたたかれても、それを忍んでいる。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」11章20節、口語訳)

「コリントの信徒への第二の手紙」11章22〜29節 「使徒であること」の大変さ

「彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル人なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」11章22節、口語訳)

この節からはパウロの反対者たちがユダヤ人キリスト教徒であったことがわかります。この点についてはパウロも彼らと同じでした(「使徒言行録」23章6節、26章4〜5節、「フィリピの信徒への手紙」3章5節)。

パウロのキリスト信仰者としての歩みは決して平坦なものではありませんでした。その難しさは途中で信仰を捨ててしまう者が大勢出てきてもおかしくないほどでした。しかし、パウロは神様から召命を受けていました。それと同時に彼は使徒としての職務のゆえに数々の苦しい目にあうという「約束」も神様から知らされていました。

「しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。」
(「使徒言行録」9章15〜16節、口語訳)

「エレミヤ書」20章7〜18節では、エレミヤが神様からいただいた預言者としての使命に伴う数々の困難について心情を吐露しています。「主の名を伝える器」として主によって選ばれた者は旧約聖書の預言者も新約聖書の使徒も同様な苦難に立ち向かって行かなければならなかったのです。

「コリントの信徒への第二の手紙」11章24〜28節に出てくるパウロの受けた様々な苦しみは「使徒言行録」に記されたパウロの活動がその全てではなかったことを私たちに教えてくれます。

パウロの「苦難の一覧表」の出来事のうちでは、パウロがフィリピで鞭打たれたこと(「使徒言行録」16章22〜23節)とルステラで石打ちの刑にあったこと(「使徒言行録」14章19〜20節)だけについて「使徒言行録」は記しています。

ローマの市民を鞭打つことは禁じられていました。そして、パウロはローマの市民でした(「使徒言行録」22章25〜29節、16章37〜39節)。しかし、フィリピでの事件が示しているように、当時も条例に違反するような処罰が実行された場合がありました。

ユダヤ人の律法は上限として40回までの鞭打ちを許可しています(「申命記」25章3節)。しかし、うっかりして一回でもその限度を超えてしまわないようにするために、39回の鞭打ちが実際の上限と定められていました。このように律法の絶対遵守を目的として「律法の周囲に柵を張り巡らすこと」の例としては次の箇所を挙げることができます。

「あなたは子やぎを、その母の乳で煮てはならない。」
(「出エジプト記」23章19節、口語訳より)。

この律法に基づいてユダヤ人たちは「同じ食事の席で肉と乳製品との両方を出してはならない」という禁止事項を制定しました。

石打ちの刑はユダヤ人による死刑のやり方でした(11章25節、「使徒言行録」7章58〜59節)。

パウロの時代の航海はとても危険なものでした。旅行中にパウロが三度も難破にあったことからもそれが伺えます(11章25節)。さらにローマへの旅上でパウロは四度目の難破にあっています(「使徒言行録」27章39〜44節)。

この世の人生の終わりの頃、パウロはフィリピの信徒たちへの手紙で次のように書いています。

「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章11節、口語訳)

これと同じ生き方についてパウロはすでに「コリントの信徒への第二の手紙」でも書いていることになります。

パウロは多くのことを成し遂げました。それも、にわかには信じられないほど多くのことを。しかし、そのために彼は多大の犠牲を払うことにもなりました。私たちはともすると自分に都合の良いところだけを欲しがるものです。すなわち、痛みや苦しみを回避して神様の祝福だけを自分に得ようとするのです。しかし、残念ながらそれはうまくいきません。実は「厳しい人生の学校」こそ、私たちを神様の御許へと近づけてくれる貴重な学びの場なのです。そこで私たちは神様の御用に役立つ者に変えられていくのです。

「だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」11章29節、口語訳)

この節は私たちに大切な問題を提起します。それは、はたして私は他のキリスト信仰者たちの責任を取る意志があるのか。それとも私は間違った形で自分の救いのことばかり考えているのか、という問題です。

しかし、この問題にはコインの裏面もあることも覚えておくべきでしょう。世界中の人々の心配や嘆きの責任を全て引き受けるのは、おひとりキリストの他には誰にも決してできないという事実です。

私たちは皆、神様の御計画の中で自分のやるべきことを見つけて、それを忠実に実行していくべきなのです。

「コリントの信徒への第二の手紙」11章30〜33節 弱さの中にあって強い神様

「ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕えるためにダマスコ人の町を監視したことがあったが、その時わたしは窓から町の城壁づたいに、かごでつり降ろされて、彼の手からのがれた。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」32〜33節、口語訳)

ローマの兵士にとって最も名誉な行為の一つは、占領すべき城塞都市に誰よりも先に突入することでした。この意味で「町の城壁づたいに、かごでつり降ろされて」町から脱出したパウロは栄誉ある征服者というよりも、むしろ前線逃亡者であったとも言えるでしょう。

アレタ4世はナバテア王国の王でした。彼は当時ユダヤ民族の居住地域の東方と南方の領域にあった王国を西暦9〜39年の間支配していました。王国の首都は石を削り出して建設されたペトラでした。

ダマスコはデカポリスの諸都市のうちの一つでした(「マタイによる福音書」4章25節、「マルコによる福音書」5章20節、7章31節)。しかし、ダマスコがナバテア王国に属していたかどうかは知られていません。この箇所は、アレタ王の代官はパウロをダマスコ市内ではなく市外で捕まえなければならなかったと解釈することもできます。ルカが語っているように(「使徒言行録」9章23〜25節)、都市の門は厳重な警備下に置かれていました。夜の暗闇に紛れてパウロは警備網をかいくぐって脱出に成功し、エルサレムに到着しました(「使徒言行録」9章26節)。そこはもはやアレタ王の手の及ばない場所でした。

当時の状況についての私たちの知っていることはとても限られていることを私たちは忘れるべきではありません。ある時期にダマスコがナバテア王国の領土の一部であった可能性もありますし「使徒言行録」に出てくる門番の目的がパウロの市外への逃亡を妨害することであったと考えることもできます。

パウロは自らを低くしました。それはキリストが高められるためでした(「マタイによる福音書」23章12節のイエス様の教えとも比較してください)。自分は何者でもなく、キリストが全てにおいて全てである、というのがパウロの生き方でした。