コリントの信徒への第二の手紙9章 エルサレムの貧しい信徒たちのための募金

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「コリントの信徒への第二の手紙」9章1〜5節 よい目的のために競い合う

パウロはマケドニアとアカヤの諸教会がエルサレム教会の貧しい信徒たちのためにどちらがより多くの支援金を送れるか互いに競い合うようにさせることに成功したようです。

このような「競争」は他にもたくさん似たような実例があると思います。良い目的のために支援金を集めようとするときに人間の競争心や虚栄心などを利用するのが有効であることもあるということでしょう。

コリント教会で表面化した種々の問題がそこの信徒たちが義援金を集める熱意にどのような影響を与えるのか、パウロは懸念していました。パウロの敵対者たちはパウロが始めた募金活動を中止させるために何か画策でもしたのでしょうか。パウロはテトスと名前のわからない他の二人の信仰の兄弟とを派遣することにしました(9章3節、8章16〜19節)。その目的はパウロがコリントに出発するまでにコリント側でも募金活動を準備して実行させることにありました。

9章4〜5節でパウロはマケドニアの信徒を旅に同行させるつもりであると言っています。このことから、テトスの二人の同行者はマケドニア人ではなかったのではないかと推論する人もいます。しかしこのような推定も彼らが誰であったのかを特定するのには役立ちません。

この経済援助のもつ意味についてはすでに言及しました。これはたんにパウロの名誉に関わる問題ではなく、異邦人キリスト教会とエルサレム教会との間の関係、ひいては異邦人キリスト教とユダヤ人キリスト教との関係そのものを問う重大事項でした。二つの全く異なる状況の中にあるキリスト教会同士の関係が良好に保たれるかどうかは決して自明のことではありません。そのことをパウロは自らの経験からよく知っていました。パウロの伝道活動を妨害するためにコリントにやってきた者たちがいたことは、異邦人キリスト信仰者とユダヤ人キリスト信仰者との間に様々な確執が存在したことを端的に示しています。

キリスト教会が分派同士による内部抗争で疲弊してしまうと、新しい人々をキリスト信仰に導くための伝道活動は減衰することでしょう。残念なことにキリスト教会の歴史にはそのような事例がたくさんあります。現代の海外伝道においても、周囲に大勢いる異教徒をキリスト信仰に導くことによってではなく他のキリスト教会から信徒を横取りすることで教勢を増やそうとする場合があります。「コリントの信徒への第一の手紙」にパウロが書き記した次の言葉をここで思い起こしましょう。

「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」12章26節)

本来、キリスト教会は一つの共同体であるべきです。残念ながら人間の罪深さのゆえに教会は互いに争い合う多くのグループに分かれてしまっています。しかし、天の御国ではこれらの垣根が取り払われて、イエス様に属している全ての人々がようやく真の「一つの肢体」となるのでしょう。

パウロは9章5節で「エウロギア」というギリシア語の単語を二回用いています。これは「祝福」や「感謝の祈り」を意味する言葉です。後者の意味は聖餐式に関連するものです。コリントの信徒たちは献金の贈り物を通して、神様が彼らに与えてくださった「祝福」をエルサレムの貧しい信徒たちにも公平に分配するべきなのです。そうすることでエルサレムの信徒たちも神様に対していっそう「感謝の祈り」の心を持つことでしょう。

神様が私たちのことを祝福してくださるときには、私たちもいただいた祝福の一部を他の人たちにも分配していくべきです。ところが現実の世界では、金持ちはさらに金持ちになっていき貧しい者はさらに貧しくなっていくというのがしばしば見られます。特に嘆かわしいのは、金持ちが貧しい者から搾取することでさらに金持ちになっていくという悪循環でしょう。

「この世の信仰告白はたった一つの言葉からなっている。それは「もっと!」という言葉である」とフィンランドのある神学者は言いました。神様から離れて生活をしている人は自分がすでに持っているものではいっこうに満足できません。常にさらに多くのものを得ようとする生き方のほうが彼らの性に合っているからです。実はこれは人間を神様から引き離すためのサタンの策略なのです。もしも人生の全てがマモン(財産)を手に入れるために費やされてしまうならば、神様のための時間は全くなくなってしまいます。イエス様は次のように言っておられます。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」
(「マタイによる福音書」6章24節、口語訳、「ルカによる福音書」16章13節も同様の箇所です)

三つの援助

キリスト信仰者同士の助け合いの仕方について新約聖書が何を教えているか、ここで概観することにしましょう。

1)キリスト教会の指導者たちへの支援

パウロは天幕造りの職人でした(「使徒言行録」18章3節)。彼は自分の仕事をすることで生計を立てていたのです。これはユダヤ人の教師(ラビ)と同じ生き方でした。もちろんパウロは自分が設立した教会からも経済的な援助を受けてはいました(「フィリピの信徒への手紙」4章14〜18節)。しかし、収入の大部分は自分の職業を通して得ていたのです。

それでもパウロは教会に対して教会の責任者たちの生活を経済的に援助するように奨励しています(「コリントの信徒への第一の手紙」9章11〜14節、「ガラテアの信徒への手紙」6章6節、「テモテへの第一の手紙」5章17〜18節)。福音伝道者は福音から生活の糧を得るべきであるというのがその理由です。

2)宣教師たちへの支援

福音がまだ伝えられていない地域で伝道する場合には、当然ながら伝道を通して経済的な報酬を得ようとするべきではありません。パウロは自分の手で働いて生活の糧を得ることによってこの問題に対処していました。

宣教師が「天幕造り」をしながら伝道活動をやるほかないような国は今もなお存在します。そのような国はキリスト教の宣教師の入国を認めていないからです。そのような国で伝道しようとする場合、宣教師は例えば医者や技術者や教師の資格を持つ者として入国し、余暇の時かあるいは仕事中に何らかの形で福音を宣べ伝えていかなければなりません。

キリスト教会が宣教師を派遣する際には、それに伴う経費の責任も教会のほうで引き受けるというのが一般的なやり方でした。このことについては11章9節、および「フィリピの信徒への手紙」1章3〜5節なども参考になります。

開拓伝道によって新設された教会ができるだけ早く自給できるように努めることはもちろん大切です。それによって二つの重要な利点が生じるからです。一つは、その教会の設立に関わった宣教師や宣教団体が宣教のための資金をさらに新たな伝道地域に割り当てることができるようになるという点です。もう一つは、経済的に自立した教会は外国の宣教団体の支援に依存する必要がなくなるため、たとえ外部からの支援が何らかの理由で途絶えた場合にも、教会としての活動を継続することができるという点です。

3)危機に瀕している人々への支援

教会の歴史はキリスト信仰者たちが危機に瀕している人々を支援してきた様々な実例で満ちています。支援はその助力がいずれ不要になることを目標として行われます。さらに、支援はそれを受ける人々が新しい生き方を始めることができるように援助するものでもあります。次の箇所も参考になります。

「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。」
(「エフェソの信徒への手紙」4章28節、口語訳)

支援の期間があまりにも長くなりすぎることも時にはあります。多くの支援団体によれば、短期間の支援は確かに得やすいが、長期にわたる支援計画に対しては資金提供者を見つけるのが難しいそうです。ともすると私たちは支援の効果が速やかに現れることを望む傾向があります。しかし、支援する必要度が高いか低いかということは支援を続ける期間の長短とは本質的には関係ありません。

このような経済的な援助に参加しようとしない人もこの世には大勢います。その理由として、せっかく経済的な援助をしても悪用されたり誤用されたりしてしまうことを挙げる人もいます。義援金がそれを必要とする人々のところにまで全額きちんと届けられないような実例は残念ながらしばしばみられます。しかし、経済支援の悪用や誤用における「盗難の被害者」は私たち支援者ではなく支援を本当に必要としている人たちのほうです。だからこそ、そうした犯罪がおきないように常に目を光らせなければなりません。支援金の悪用や誤用は支援を本当に必要としている人々への援助を妨害するものだからです。

キリスト信仰者ではない人々がキリスト教伝道にかかる費用を分担するような状況は、新約聖書には書かれていません。しかし、キリスト信仰者たちが福音伝道にかかる経費を支払うことをパウロは正当とみなしていました。例えば伝統的にキリスト教が国教であったフィンランドは国家として、発展途上国の経済支援と結びついた海外伝道の経費の一部や、フィンランド国内でのキリスト教団体によるキリスト教教育活動のための経費の一部を負担してきました。このような状況に対してパウロならどのようなことを考えて発言するのか、現代の私たちが想像するのは容易ではありません。

「コリントの信徒への第二の手紙」9章6〜10節

神様は喜んで施す人を愛される

「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」9章6節、口語訳)

上掲の節でパウロは農耕にかかわる諺を引用しています。この諺は旧約聖書の「箴言」には含まれていませんが、それに近い表現なら聖書にもあります。

「施し散らして、なお富を増す人があり、
与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。
物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。」
(「箴言」11章24〜25節、口語訳)

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章7節)

もしも私たちが自分の財産に強く執着しそれを頑なに手放さない態度を取るようなら、私たちが助けを必要とするような時に他の人々からの援助を期待するのはいかにも虫が良すぎるでしょう。それでは、具体的にはどのくらいの援助を隣り人に提供するべきなのでしょうか。パウロは具体的な指示を与えてはいません。大切なのは支援の量ではなくその質です。質の高い支援、真心のこもった支援は私たちが自分たちのものを他の人に分け与える姿勢にそのまま反映されます。ですから、支援するときには喜んで自由な心から行うべきなのです。

神様御自身もまた喜びをもって分け与えてくださる方です。実に様々な賜物を神様は「良い者」にも「悪い者」にも分け隔てなく与えてくださっていることからもそれがわかります。イエス様は次のように教えておられます。

「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」
(「マタイによる福音書」5章43〜45節、口語訳)

御自分がそうなさるのと同じように喜んで与える者を神様は愛してくださるのです。

「「彼は貧しい人たちに散らして与えた。
その義は永遠に続くであろう」と書いてあるとおりである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」9章9節、口語訳)

この節は「詩篇」112篇9節の義なる人について引用しています。そして、パウロは「義なる人」に神様御自身を当てはめて考えているように見えます。

「神様のもの」となっている人は、自分が所有する全ての物が神様からの賜物であることをわきまえています。それゆえに、それらを手放すこともできるのです。手放したものの代わりに何か他の新しい賜物をその人に与えることも神様にはもちろん可能です(「ルカによる福音書」21章1〜4節の「やもめの献金」の話も参考になります)。

神様は私たちが持っていないものを私たちから要求なさることはありません。このことをはっきり覚えておきましょう。私たちが持っているものについて神様は関心を寄せておられるのです。

「もし心から願ってそうするなら、持たないところによらず、持っているところによって、神に受けいれられるのである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」8章12節、口語訳)

イエス様の「種蒔きの譬」の登場人物は実に気前よく種を蒔いていきます(「マタイによる福音書」13章1〜9、18〜23節)。蒔いた種の一部は無駄になったものの、種蒔き人は収穫を得ることもできました。種の一部が30倍、60倍、あるいは100倍もの実をつけたからです。キリスト教伝道という「種蒔き」は自己中心的な動機から行うべきものではありません。「自分が投資した分は利子と共にいつか自分に還元されるだろう」などと考えるべきではないのです。私たちは分け与えます。なぜなら、私たち自身が神様から本当にたくさんの賜物をいただいているからです。

「コリントの信徒への第二の手紙」9章11〜15節 連鎖反応

エルサレム教会への経済的支援はそこの信徒たちが直面していた危機を緩和することだけを目的としたものではありませんでした。そもそも支援とは何をもたらすものなのでしょうか。まず、支援の結果として教会の間におけるキリスト信仰者同士の交流が実現します。それに加えて、パウロはここで別の新しい視点を提示します。

支援を受けた人々は神様を褒め称えるようになります(9章13節)。さらに彼らは贈り主のために祈るようにもなります(9章14節)。贈り物は貧困にあえいでいるキリスト信仰者たちに神様を賛美する力と心を増し加えてくれます。このように募金活動の真の目的は、人々が神様に栄光を帰し神様を賛美するようになることにありました。

ここでは次のような好ましい連鎖反応が実現しています。
1)神様が私を祝福してくださったことを知る
2)私は自分の持ち物を隣り人にも分け与える
3)隣り人は神様が自分を祝福しておられることを実感する
4)この隣り人も自分の持ち物を他の隣り人に分け与えるようになる

さらに、このプロセス全体を通して神様への感謝と贈り主のために祈る心とがいっそう豊かに増し加わっていきます。

「言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝する。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」9章15節、口語訳)

この言葉によってパウロはこの好循環を始めた最初の贈り主がほかならぬ神様御自身であったことを強調しています。神様は罪人を救うために御子をこの世に賜ったのです。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(「ヨハネによる福音書」3章16節、口語訳)

「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」
(「ローマの信徒への手紙」8章32節、口語訳)

エルサレム教会への支援は、神様が御自分のものたちに対して恵みと助けを与えてくださることの証でもあります。

今日もまた私たちは新たな難問に直面します。しかし、神様の恵みも変わることなく持続しているのです。

「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」
(「哀歌」3章22〜23節、口語訳)

時間は神様から人間への贈り物のうちでも最大のものの一つです。はたして私たちはどのように自分の時間を使っているでしょうか。

「よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。」
(「ヤコブの手紙」4章13〜17節、口語訳)