旧約聖書

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旧約聖書の二つの読み方

フィンランド語原版執筆者: エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者:高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

 ヨーロッパでは旧約聖書に関する一般教養が、ここ数十年の間で急速に減少しつつあります。これには様々な要因が考えられます。まず、聖書を規則的に読む習慣が人々の間から消えつつあります。また、今の人にとっては聖書を読むことよりも魅力的に感じられる余暇の過ごし方がいくらでもあります。絶え間のない忙しさにかまけているうちに、本体なら最も大切なはずの事柄がなおざりにされているのです。たしかに大学では旧約聖書の研究が今も続けられています。しかしその内容が、教会員や神学生の信仰を養うものではない場合がしばしばあります。大学の神学教育は、教会の現場で旧約聖書を教えるのに必要とされるはずの教養を神学生に十分提供してきませんでした。

 一般の教会員にとって大学での聖書釈義には、まったく無益な面があるのもたしかですが、一方では大いに役に立つ面もあるのです。数ある聖書の読み方の中でもこれから述べる二つの読み方は、相互補完的な関係にあり、聖書をよりよく理解するために有益なものです。

第一の読み方

最初の聴き手たちが旧約聖書のメッセージをどのように理解したか、に注目する読み方

 「旧約聖書のメッセージの最初の聴き手や読者が、どのようにそれを理解したのか」、という単純な問題を考えるとき、大学での聖書釈義は非常に有益です。この問題と真剣に取り組むためには、聖書に関わる言語と歴史と文化一般について幅広く熱心に学ぶ必要があります。旧約聖書の読者は、預言者イザヤ、エゼキエル、ゼカリヤの時代にタイムスリップし、最初の聴衆の一人として彼らのメッセージに注意深く耳を傾けてみなければなりません。これが、歴史的視点から聖書を解釈する読み方というものです。

 もちろんこれは実践するのが非常に難しい読み方でもあります。たとえばここで、私たちの国に移住してきたものの私たちの国の言葉をほとんど理解しない外国人のことを考えてみることにしましょう。この人は私たちの話を少ししか理解せず、私たちの生活習慣にも馴染みがなく、そのため互いに誤解が生まれたりもします。聖書の読者もこの外国人と同じような立場に置かれます。しかもそのギャップは非常に大きなものです。にもかかわらず、こうした聖書の読み方は読者に有益な視点を提供します。以下に例をあげましょう。

 社会的大変動の只中で預言したイザヤや、遠くチグリス・ユーフラテス河畔からその愛する都の滅亡していく過程を預言したエゼキエル、ユダヤ人のエルサレムへの帰国許可がおりてまもない頃にエルサレムの廃墟を見て回ったゼカリヤとハガイなどについて、この聖書の読み方は貴重な視点を提供してくれます。読者は、歴史と神様の御言葉に関する理解を深めていくにつれて次々と新たな発見をし、いっそう興味をもって聖書の学びを続けていくことになるでしょう。

第二の読み方

最初のキリスト信仰者たちがどのように聖書を読んだか、に注目する読み方

 次に紹介する読み方は、キリスト教会ではその設立以来自明だったものですが、一般の神学大学ではほとんど採用されなかった読み方です。それは、キリストを本文解釈の中心に据えて旧約聖書を読み解く、という読み方です。私たちキリスト者の信仰によれば、唯一の神様が存在します。この神様はご自身の愛の心に基づいて、私たち罪深い存在である人間のもとに来てくださいました。たとえば、新約聖書の「エフェソの信徒への手紙」によれば、神様は時間の世界の始まる以前に、人間を救う御業を行うことをすでに決めておられました。そして旧約聖書の時代にその下準備をし、キリストの贖いの御業においてそれを最終的に成し遂げてくださったのです。この視点に基づけば、旧約聖書と新約聖書は本来ひとつのセットになっており、神様から人間への愛の手紙を形作っていることになります。

 このようにして聖書を読みなさい、という教えは「ルカによる福音書」の最終章に記されています。そこでは、復活されたキリストが二人の弟子に(旧約)聖書の意味を解き明かしてくださる様子が描かれています。イエス様によるこの聖書釈義は、モーセに関することから始められました。そして(パウロ的な言い方をするなら)弟子たちの目から覆いを取り除いてくれるものでした。

 今まで述べた二つの読み方がどのようにして互いに補完しあうかを、例を通して見ていくことにしましょう。

エレミヤと新しい契約

 預言者エレミヤが主から受けた使命は、容易なものではありませんでした。主が彼をご自分の民のもとに預言するために遣わされたとき、彼はまだ若者にすぎませんでした。しかも、派遣された彼の伝えたメッセージは、主の民に受け入れてもらえませんでした。彼は富む者のもとにも貧しい者のもとにも赴きました。しかし、誰もが一様にそのメッセージを拒絶しました(「エレミヤ書」5章)。彼は足かせをはめられて、皆から侮辱され、自分の受けた召命をのろわしく思いました(20章)。また、彼は主からの厳しい御言葉を書き留めて王に送りました。王はそれが朗読されるのを聞いてもなお悔い改めず、読まれた御言葉の記された紙を片端から皆の面前で燃やしていきました(36章)。敵に取り囲まれたエルサレムでは、籠城中にありとあらゆるおぞましいことが行われました。また陥落後にも、あらゆる非人道的なことが行われました。ここにいたってようやく、エレミヤの伝えたメッセージは当時の人々に真剣に受け取られるようになりました。しかしその後の動乱においても、哀れな彼は様々なひどい扱いを受けることになります。

 歴史に基づいて聖書を読み解くやり方は、「エレミヤ書」の読者に多くの知見を与えてくれます。エレミヤの最初の聴衆は、その場で一部始終を見聞きしていたにもかかわらず、彼の伝えるメッセージを受け入れようとはしませんでした。エレミヤは信仰者の生き方の模範を示しているとも言えます。それは、尊い犠牲を払うことになっても、神様の御国のために忠実に働き続ける、という生き方です。「ペテロの第一の手紙」によれば、私たちキリスト信仰者のことをキリストは愛してくださいますが、この世のほうでは私たちを憎みます。エレミヤは、このキリスト信仰者の置かれた立場を彷彿とさせます。エレミヤは、主が選んでくださった「この世の寄留者」の一人だった、と言えるでしょう。

 キリストを解釈の中心に据えて「エレミヤ書」を読んでみると、その深く豊かな意味が明らかになります。エレミヤは、「ぶどう園の主人」(神様ご自身)が我が子をこの世に送る前に派遣した召使たちのうちの一人でした(「マルコによる福音書」12章)。それだけではなくさらに彼は、エルサレムが滅亡していくその只中にあって、まったく新しい何かについても預言しました。それを次に見てみましょう。

「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。
主はこう言われる、すなわち
太陽を与えて昼の光とし、
月と星とを定めて夜の光とし、
海をかき立てて、その波を鳴りとどろかせる者――
その名は万軍の主という。
主は言われる、
「もしこの定めがわたしの前ですたれてしまうなら、
イスラエルの子孫もすたって、
永久にわたしの前で民であることはできない」。
主はこう言われる、
「もし上の天を量ることができ、
下の地の基を探ることができるなら、
そのとき、わたしはイスラエルのすべての子孫を
そのもろもろの行いのために捨て去ると
主は言われる」。」
(エレミヤ書 31章31〜37節、口語訳)

 「エレミヤ書」のこの言葉は、キリストの血と主の聖餐の設定という「新しい契約」を指しています。この新しい契約とは、恵みと罪の赦しの契約のことです。

エゼキエルと新しいエルサレム

 エレミヤがエルサレムで預言者の使命を果たすべく奮闘していた時、もう一人の預言者がこの都の状況を遠くから見つめていました。紀元前597年にバビロンの王が軍隊をエルサレムに進軍させ、そこに傀儡政権を新しく樹立しました。さらに彼はユダ王国の貴族や武器職人や司祭たちを自国へ強制移住させました。この「バビロン捕囚」に巻き込まれた人々の中には、司祭エゼキエルもいました。紀元前593年以来、彼は幻を見るようになりました。初めの頃の一連の幻は警告を伴っており、エルサレムが壊滅していく様子を描き出すものでした。まったく慰めのない幻の中でも最悪のものは、「エゼキエル書」8〜11章にある長大な幻です。それによると、主の栄光がとうとうエルサレムを見捨て、その結果、この都には守護者がいなくなり、いつ滅亡してもおかしくない状態になってしまったのです。事実この幻の通りに、紀元前587年あるいは586年にエルサレムは壊滅しました。

 「エゼキエル書」の都の崩壊後に関する預言は、都の崩壊時に関する預言とは内容的にまったく異なっています。主がご自分の民の牧者となること(34章)や、干からびた骨の寄せ集めに成り果てたイスラエルの民を主が活ける者となさる様子(37章)といった素晴らしい慰めに満ちた預言がここには収められています。

歴史的視点から読む「エゼキエル書」は驚嘆すべき書物です。この預言書は、神様の怒りと愛について私たちの心に突き刺さるような言葉で語っているからです。

 キリストを中心に据えて読むとき、「エゼキエル書」はその豊かな内容をまったく新しい形で開示します。例として、ここでは40〜48章を取り上げましょう。この箇所は、8〜11章の絶望的な幻とは対照的な幻と言えます。それによれば、主の栄光がエルサレムに再び戻り、預言者は新しい都の通りを歩くことができます。都はすでに完成しており、人々が住みにやって来るのを待っています。もうすぐ主がご自分の民をそこに連れて来てくださいます。これと見事に対応する形で「ヨハネの黙示録」のヨハネは、新しいエルサレムと盛大な婚礼との幻を見ることが許されました。その場所に連れて行ってもらえるのは、キリストに属する人々の群れ、すなわち「小羊の花嫁」です。「ヨハネの黙示録」の宝物のようなメッセージは、「エゼキエル書」をこのように読み解くことでその輝きを放つようになります。

二つの視点

 人が聖書を読む際には、上述した聖書の二つの読み方のどちらをも大切にすべきです。今まで説明してきた具体例はそのことを示すためのものでした。大学での聖書研究は、旧約聖書を歴史的な視点から考察します。一方でキリスト教会は、神様の啓示の一部として旧約聖書を説明します。そのどちらの視点も、とくにそれらを相互補完的に用いる場合には、私たちの聖書理解を大いに助けてくれるものです。聖書は、常に私たち人間の理解を超える豊かな内容を含んでいます。そして、神様からの偉大な愛の手紙をよりよく学ぶようにと、今も私たちを招いているのです。