「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

聖書の引用は「口語訳」によっています。
「詩篇」の章節はBIBLIA HEBRAICA STUTTGARTENSIAに従っています。
そのため「詩篇」の節番号は「口語訳」とは一致していない場合があります。


「詩篇」6篇
「詩篇」32篇
「詩篇」38篇
「詩篇」51篇
「詩篇」102篇
「詩篇」130篇
「詩篇」143篇


「詩篇」一般について

「詩篇」を聖書の勉強会で取り上げるのはかなりの労力を要します。「詩篇」全般には「神様の民の賛美歌集」という側面があり、キリスト教会の卓越した聖書の教師たちはいつの時代にもこの書から、常に変わることのない「キリスト教信仰の真理」を汲み上げてきたのです。ところがその一方では、旧約聖書の書の中で「詩篇」ほど、近年の学術的な聖書釈義において大きな変化を蒙った書はほかにはありません。

学術的な詩篇研究においては、それぞれの「詩篇」の元来の使用目的を決定しようとする試みがその中心的な課題となっています。どのような状況でそれぞれの「詩篇」は朗誦されていたのかという問題が提示されたのです(いわゆるSitz im Lebenの問題)。詩篇研究者たちが導き出した数々の結果は伝統的な詩篇解釈に根本的な揺さぶりをかけるものでした。たとえば「メシア」(油注がれた者、救世主)をテーマとする一連の「詩篇」はイスラエルの民に自分の王がまだいた頃の具体的な歴史的状況(戴冠式など)に関連付けられました。また「詩篇」の内容に基づいてイスラエルの民の礼拝に関する知識を収集する試みもなされました。あるいは「詩篇」に付されている「見出し」(「詩篇」の背景を短く説明するもの)の内容的な信憑性に対して懐疑的な見解があらわれるようになりました。その一例として「ダヴィデの歌」という見出しを持つ一連の「詩篇」はダヴィデの生きた時代よりもはるかに後の時代に創作されたものであるとする解釈があります。それらの見出しは「詩篇」の編集者たちによる補足説明である、というのです。とはいえ「ダヴィデの歌」という表現は(異論はあるものの)「ダヴィデ派の歌」という意味ではなく「ダヴィデ自身の作った歌」という意味であったとする見方がやはり依然として有力です。このように、近年の詩篇研究の潮流においては「詩篇」を「イスラエルの民はキリスト(すなわちメシア)の到来をどれほど心待ちにしていたか」とか「キリストを自分たちの主として信じる使徒的な信仰はすでに旧約聖書の「詩篇」にも表現されている」という従来の伝統的な視点から読み解くことは減ってきています。その代わりに「「詩篇」は当時のイスラエルの民の具体的な宗教的事象にかかわる「賛美歌集」であった」といった解釈が支持されるようになってきています。このように、聖書に記載されている特定の歴史的出来事に「詩篇」を関連付けて理解する見方はあまり見られなくなってきました。このような詩篇研究の一般的な動向の変化があるにもかかわらず、聖書の歴史的記述との関連を無視して「詩篇」をイスラエルの歴史に関する資料としてのみ使用しようとする研究は、結局のところこれといった成果を上げることもできませんでした。このような研究方法は、いわば「教会賛美歌」を読み解くことで教会の歴史を探ろうとするのと同じくらい無謀な試みなのですから、失敗したのは当然の成り行きであるとも言えます。ともあれ、このようにして、学問的な詩篇研究と教会の伝統的な詩篇解釈との間に大きな溝が生じてしまいました。それでもこの溝は、過去数十年間のうちにある程度は埋められてきています。
 これから始める私たちの詩篇講義では「詩篇」に対する上記の異なる複数の視点を互いに明確に区別しつつ話を進めて行くことにします。「詩篇」のメッセージの内容をまず学術的な詩篇研究に基づいて調べます。その後で今度はそれを自分たちの時代や生活に当てはめて考えていくことにします。その際「詩篇」を新約聖書の視点からも考察してみることにしましょう。宗教改革者マルティン・ルターはこの視点に立って「詩篇」を深く研究しました。彼による「詩篇」の解き明かしがたんなる過去の遺物ではないことを、私たちはこれから少しずつ学んでいくことになるでしょう。

「ざんげの詩篇」

「ざんげの詩篇」という名で呼ばれる一つのグループが他の「詩篇」から区別されるのが、中世以来の伝統となっています。これらの「詩篇」はキリスト信仰者たちにとって時代を超えて特別に重要な意味を持っていました。番号でいうと6、32、38、51、102、130、143篇が「ざんげの詩篇」に分類されています。ルターは詩篇全体をこよなく愛していましたが、とりわけこれら一連の「詩篇」には特別な愛着をもっていました。現代の詩篇研究のもたらした最良の成果のひとつとして「それぞれの「詩篇」の内容的な特徴は何であるか」という問題設定があります。この視点に基づく研究においては、上述の「ざんげの詩篇」をあらかじめひとつのグループとして扱うことはありません。たとえば、マルティン・ルターも「詩篇」32篇が内容的には「ざんげの詩篇」ではなく「教えの詩篇」であることにすでに気がついていました。現代の詩篇研究では、広大で多彩な一群の詩篇が「個人の嘆きの詩篇」に分類されています。このグループには今まで伝統的に「ざんげの詩篇」と呼ばれてきたほとんどすべての「詩篇」が含まれます。これらの「詩篇」からは、痛みや苦しみを引き起こす多くの要因の中で特に二つの要因が浮かび上がってきます。それは「敵」と「病気」です。また、この詩篇講義で取り上げる幾つかの「詩篇」では、痛みや苦しみの要因として「罪」が挙げられています。ですから、これらの「詩篇」はまさに「ざんげの詩篇」という呼称がふさわしいものと言えます。もちろん私たちは呼び名自体に拘泥する必要はありません。


「詩篇」6篇

6:1 聖歌隊の指揮者によって
シェミニテにあわせ琴をもってうたわせたダビデの歌
6:2 主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、
あなたの激しい怒りをもって、
わたしを懲しめないでください。
6:3 主よ、わたしをあわれんでください。
わたしは弱り衰えています。
主よ、わたしをいやしてください。
わたしの骨は悩み苦しんでいます。
6:4 わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。
主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。
6:5 主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。
あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。
6:6 死においては、あなたを覚えるものはなく、
陰府においては、だれがあなたを
ほめたたえることができましょうか。
6:7 わたしは嘆きによって疲れ、
夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、
わたしのしとねをぬらした。
6:8 わたしの目は憂いによって衰え、
もろもろのあだのゆえに弱くなった。
6:9 すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。
主はわたしの泣く声を聞かれた。
6:10 主はわたしの願いを聞かれた。
主はわたしの祈をうけられる。
6:11 わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、
彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。
(口語訳)

苦しみの洪水の中で 6章1〜8節

この「詩篇」は典型的な「個人の嘆きの詩篇」です。1節に神様の怒りについての記述がありますが、それでもこれは本来の意味での「ざんげの詩篇」ではありません。詩篇朗唱者は「自分が神様の怒りを受けるのは当然であった」と告白します。しかしその一方で、彼はその怒りから赦免されることを祈り求めています。このように始めの部分は、人がうろたえながら苦しみの只中で助けを求めて叫び声を上げる様子を描写しています。苦しみの要因が何なのかは明示されていませんが、この種の「詩篇」において一般的な苦しみの要因である「敵」と「身体的な苦痛」とが関係しているように思えます。詩人は死に瀕する危険のうちにあって苦しみ嘆いて憔悴しきっています。そして「どうか手遅れにならないうちに私を助けてください」という心の叫びが神様に聴いていただけるように願い求めています。

「詩篇」を理解するために私たちはどのような学び方をするべきなのでしょうか。第一の学び方は、テキストに書かれている内容をまず可能な限り字面通りかつ具体的に理解し、その後で他の解釈を当てはめる可能性を探ってみる、というやり方です。「敵」と「苦しみ」はここでは単純にそれそのものを表しています。敵と苦しみからの解放は、死からの救いと平和な生活を意味しています。
 もしも肉体的な痛みと苦しみが「詩篇」で非常に具体的な事象を意味しているのなら、「罪」もまた具体的な事象を指していることになります。「罪とは概念的なものにすぎず、無害である」といったイメージは現代の私たちの間ではごく普通に見受けられるものですが、旧約聖書における「罪」の理解はそれとはまったく異なります。罪は決して概念的で無害なものではありません。 罪はきわめて日常的な事象なのです。罪は、その結果としてこの世的な苦難をもたらし、それと共に、罪を犯した人間本人をもその苦しみも中に引きずり込んでいきます。さらに、人間と神様との関係において、罪はよりいっそう具体性を帯びてきます。すなわち、人間の罪(の重荷)はその人を神様から引き離してしまうのです。このことについて「イザヤ書」を次のように言っています。

見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。あなたがたの手は血で汚れ、あなたがたの指は不義で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、あなたがたの舌は悪をささやく。
(「イザヤ書」59章1〜3節、口語訳)

聖なる神様と顔を向かい合わせるとき、人は自らの罪を思い起こし「主よ、どうか怒りによって私のことを病気や敵の手に渡さないでください」と祈ることでしょう。してみると「個人の嘆きの詩篇」のうちの大多数は、本来の意味での「ざんげの詩篇」であるとも言えるでしょう。このように考えてみると「詩篇」を内容的に分類した場合に「ざんげの詩篇」と見なせる「詩篇」の数はこの聖書講座で扱う七つよりもはるかに多いことになります。

神様は祈りを聴いてくださいます 9〜11節

この「詩篇」の終わりには「善いお方である神様がきっと助けてくださる」という驚くほど安らかな信頼感が表明されています。詩篇朗唱者は困難の只中にあってただひたすら苦しんでいるだけではありません。彼は「神様のもの」であり、神様に信頼する人間でもあります。人が罪と痛みのゆえに非常に苦しんでいる様子と、安心して神様の恵みに信頼する姿勢とが同じ「詩篇」の中に収められています。実はこれは多くの「詩篇」に共通する特質でもあります。マルティン・ルターはこの特質のことを「ここでは真の教師が信仰の基本について教えておられる」と表現しました。苦しみと罪、また喜びと助けとは、キリスト信仰者の生活の中でも常に並行して現れる現象です。


「詩篇」32篇
「詩篇」38篇
「詩篇」51篇
「詩篇」102篇
「詩篇」130篇
「詩篇」143篇


「詩篇」32篇

32:1 ダビデのマスキールの歌
そのとががゆるされ、
その罪がおおい消される者はさいわいである。
32:2 主によって不義を負わされず、
その霊に偽りのない人はさいわいである。
32:3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、
ひねもす苦しみうめいたので、
わたしの骨はふるび衰えた。
32:4 あなたのみ手が昼も夜も、
わたしの上に重かったからである。
わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、
かれ果てた。〔セラ
32:5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、
自分の不義を隠さなかった。
わたしは言った、
「わたしのとがを主に告白しよう」と。
その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ
32:6 このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。
大水の押し寄せる悩みの時にも
その身に及ぶことはない。
32:7 あなたはわたしの隠れ場であって、
わたしを守って悩みを免れさせ、
救をもってわたしを囲まれる。〔セラ
32:8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、
わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。
32:9 あなたはさとりのない馬のようであってはならない。
また騾馬のようであってはならない。
彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、
あなたに従わないであろう。
32:10 悪しき者は悲しみが多い。
しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。
32:11 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、
すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。
(口語訳)

この「詩篇」は「七つのざんげの詩篇」のひとつに数えられています。しかし「ざんげの詩篇」の本来のスタイルを踏襲してはいません。マルティン・ルターは適切な解説を残しています。
「これは「教えの詩篇」であり、罪とは何か、人が罪から解放されるためにはどうするべきか、神様の御前で人が義とされるためにはどうすべきなのか」ということを教えているのです。」(ルター)
このように「詩篇」は新約聖書の「義認の教え」にとってもきわめて重要な書なのです。

罪は取り除かれました! 1〜2節

「詩篇」32篇は驚きにみちた喜びの声ではじまります。これは全詩篇に対する最高の導入部であるとも言えます。

「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。」
(1節、口語訳)

「さいわい」(ヘブライ語で「アシュレー」)という言葉は、たんに幸福な状態や周囲からの祝福や羨望の対象になることよりもはるかに深い意味をもっています。「さいわいである」という宣言は聖書に特有な表現なので、その意味について拙速な判断を下さないようにしましょう。

イエス様の山上の説教(「マタイによる福音書」5〜7章)は同じ表現で始められています。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
(「マタイによる福音書」5章3〜12節、口語訳)

「詩篇」32篇の詩人は、罪の赦しを受けた人間のことを「さいわいである」と宣言しています。この宣言についてパウロは「ローマの信徒への手紙」4章で取り上げています。それによれば、旧約時代の「神様のもの」であった人々、たとえばアブラハムやダヴィデは神様の御前で義と認められました。しかしそれは、彼らがモーセの律法や神様のその他の戒めに厳格に従って生活したからではありません。彼らを守ったのは「罪の赦し」だったのです。それゆえ、旧約時代の「神様のもの」であった人々と同じ信仰をもちたいと願う者は誰であれ、ユダヤ人も含めて、イエス様の血における罪の赦しの守りの中に入らなければなりません。旧約も新約もまったく同一の真理を証している書物だからです。まさにここにルター派の信仰の心の声を聴き取ることができます。「義」や「救い」に関わるテーマについて教会などで神学的に議論されることはよく見受けられますが、それぞれの言葉の意味内容は人によって実に様々です。キリスト教徒同士での対話においては、信仰と、キリスト信仰者にふさわしい生活への努力との相互関係がとりわけ難しい議題となります。ここで「義」という言葉が異なる様々な意味で理解されている例を次にあげます。

1)「義」を得るためには、人間は最善を尽くして神様の御意思に従わなければならない。信仰者は心の底から悔い改めなければならない。それによって自分の心から罪を根こそぎ取り去って、人間の心の中に罪の隠れ場所が一切ないようにしなければならない。

2)「義」を得るためには、神様が人間の心の中にキリストへの信仰と恵みとを流し込んでくださらなければならない。この恵みに頼りながら、人は自分を罪から解放するために戦わなければならない。

3)「義」はキリストの御業に基づき賜物として得られるものである。キリスト信仰者にふさわしい生活を送る努力について言えば、キリストを救い主として信じている者は、まだそのことを意識して考え始める前に、すでにそれは始まっている。

実は、この三番目の選択肢こそがルター派による「義」の理解です。このテーマには後ほど戻ることとし、ここではこの「詩篇」のはじめの2節に関するルターの的確な説明を引用します。

「この箇所は次のように言っているかのようです。罪過のまったくない者は一人もいません。神様の御前では誰もが義に欠けた状態にいます。このことは、行いの道を通して義を探し求め、罪過から解放されるよう努力する人々にもあてはまります。なぜなら、人間は自分では罪過から離れることができないからです。それゆえ、罪のない人や自分を罪過から解放する人がさいわいなのではありません。神様が恵みにおいて罪から解放してくださった人たちだけが、さいわいなのです。」

神様によって包み込まれた者として 3〜5節

どのようにして罪が重くのしかかり苦しみを与えるものであるか、この「詩篇」の詩人は聴き手の心を揺さぶるように語ります。それにもかかわらず、人は神様の御前に出てひれ伏そうとはせず、神様との出会いを避けようとします。そうこうするうちに神様の御前に出るのはだんだん難しくなり、しまいには不可能になってしまいます。その結果どうなるでしょうか。人は神様から逃げ回っている間は心に平和がなく、絶えず心が動揺し嘆き悲しみがつきまといます。神様の御手がその人の上に重くのしかかり、そこから逃げる場所はどこにもありません。最終的に、この逃避行は「罪の告白」と「神様による無条件で完全な罪の赦し」に行き着きます。ちょうどこのような人間について、詩篇朗唱者は「さいわいである」と宣言しているのです。

「神様のもの」である人は皆だれでも、これが何についての話であるかわかるはずです。この話の内容は、キリストの御許にはじめて行く人々にも、また間違った道からキリストの御許に戻る人々にも関係しています。
 神様の御許であるゴルゴタの十字架の下に喜んで自発的に赴く人間は誰もいません。むしろ人は自らの意に反して十字架へと追い込まれていくのです。そして、そのようにさせるのは他ならぬ神様なのです。いったいどのようにしてこうなるのでしょうか。キリストの十字架の御許に行くように要求する神様の御言葉が、その人の心に触れることによってです。とはいえ、御言葉はいつでもたくさんの人々の心を揺り動かすとは限りません。しかし一方では、長い不信仰な放浪の果てに、神様に対して全面的に降伏し、自らの所業の正当化をすっかりやめる人たちも出てきます。この後者のケースのように、人は自らの罪の告白をするために神様の御前でひれ伏すべきなのです。すべての罪の負債が、しかも個人のものばかりではなく全世界のすべての罪がキリストの血によってすっかり帳消しにされている、というメッセージは、十字架の御許にとどまる者にとって人間の理解をはるかに超えるきわめて素晴らしいものです。
 ところが、この尊い罪の赦しを「自分のもの」として受け取ることにも、人はいつの間にかすっかり慣れて、それが当たり前のことになってしまいます。多くのキリスト信仰者には似たような体験があると思いますが、おそらくはそのせいで、信仰生活が長くなるにつれて神様の御言葉を真剣に聴く姿勢が弱まったり、神様の御意思に対する従順な態度が薄れたりすることが起きるのでしょう。一旦そうなると、罪の赦しの恵みの素晴らしさを心から感謝することができなくなり、最後の裁きにおける神様の厳しさにも鈍感になってしまいます。「キリスト信仰者」という肩書きはつけたまま、いつのまにかこっそりとキリスト信仰を捨ててしまうのです。もしも人が不信仰な生活をやめて、自分の罪深さを恥じ、キリストの十字架の御許に戻り、キリストが成し遂げられた「贖いの御業」と準備がすっかり整っている「罪の赦し」とを信仰を通して「自分のもの」として受け入れる場合、これはまったき神様の恵みであり、聖霊様のなされた御業なのです。この出来事は「悔い改め」や「方向転換」などと呼ばれます。恵みを「自分のもの」として受け取ることはいつでも可能です。しかし、こと「信仰」に関しては次のような逆説的な現象が起こります。すなわち、キリスト信仰者は「自分は信仰者の名に値しない者である」とわからないかぎり、信仰のことを本当にはよくわかっていないことになるのです。
 このように見てくると、この「詩篇」の言葉は、キリストの御許にはじめて行こうとしている人々だけではなくて、すでに日常の信仰生活を送っているキリスト信仰者一般にもあてはまることがわかります。このことからも、現代のルター派のキリスト教会を蝕んでいる「ある病」がいかに危険なものか、推測できるのではないでしょうか。その病とは、礼拝の説教などで「律法についての教え」がすっかり消えてしまっている、ということです。もしも神様の御言葉が、神様の視点から見たときに何が正しく何が間違っているかを明確に教える「律法」として働きかけ、罪深い存在である私たち人間を必要とあらば容赦なく叱責することがなければ、いったい誰が神様の御言葉を罪の赦しの「福音」として受け入れて、キリストの御許に行こうとするのでしょうか。

ここで「義」と「キリスト信仰者にふさわしい生き方」との間の正しい関係について考えてみることにしましょう。ルター派の信仰理解の核心には、出発点として「無条件で完全な罪の赦しの恵み」があります。この恵みはひとえにキリストが十字架で流された血のゆえに与えられるものであり、人間自身の行いやその業績によって左右されるものではまったくありません。ラテン語の神学用語でこのことはimputatioと呼ばれます。その意味は「神様が私たちを私たち自身の罪から解放してくださるおかげで、それらの罪はもはや『私たちの罪』とはみなされなくなる」ということです。赦免の判決および無代価で差し出される恵みから、それを受け入れる人には主への愛が生まれ、それに伴い、主の御言葉に従って生きようという心を与えます。たとえ罪と戦うにしても「心の底から悔い改める」ことは私たち人間にはできません。無代価でいただける罪の赦しの恵みのありがたみがどれほどよくわかっているかに応じて私たちには罪と戦う力が与えられる、とも言えるでしょう。

他の人たちも学んでください! 6〜11節

自らの体験について語った後で、詩人はまず神様に感謝を捧げ、その後に聴衆全員の方に視線を向けます。重荷を嫌々運んでいる牛を鞭打つのと同じようにして人を神様の御心にかなう道のほうに連れていかなければならないのだとすれば、とても残念なことです。すべての人間は、この世で神様をひどくないがしろにした不信仰な生活を送った人も含めて、最後の裁きの時が来ると神様の御前に引き出され、自分の歩んだ人生について申し開きをしなければならなくなるからです。それとは逆に、御心にかなう生き方をするほうが結局は人間にとって「楽な生き方」になります。御心にかなう生き方とは、公正に裁かれる義なる神様の御前にひれ伏して「イエス様による罪の赦しの恵みだけが罪深い自分のことを救い出してくれる」と信じる生き方です。ルターはこの「教えの詩篇」の内容を次のように要約しています。
「これは、罪とは何か、人が罪から解放されるためにはどうするべきか、神様の御前で人が義とされるためにはどうすべきなのか、ということを教えています。なぜなら、理性は罪が何であるかを知らないし、よい行いをすれば罪を拭うことができると勝手に思い込んでいるからです。ところがこの「詩篇」によれば、キリスト信仰者も皆、罪深い存在なのであり、聖人でも「さいわいな者」でもありません。そうであっても、彼らが神様の御前で自らが罪人であることを告白し、自らの功績や行いによってではなく、ただ恵みにより神様の御前で義と認められることを知る場合には、彼らは「聖なる者」や「さいわいなる者」とされるのです。」 (マルティン・ルター)


「詩篇」6篇
「詩篇」38篇
「詩篇」51篇
「詩篇」102篇
「詩篇」130篇
「詩篇」143篇


「詩篇」38篇

38:1 記念のためにうたったダビデの歌
38:2 主よ、あなたの憤りをもってわたしを責めず、
激しい怒りをもってわたしを懲らさないでください。
38:3 あなたの矢がわたしに突き刺さり、
あなたの手がわたしの上にくだりました。
38:4 あなたの怒りによって、
わたしの肉には全きところなく、
わたしの罪によって、
わたしの骨には健やかなところはありません。
38:5 わたしの不義はわたしの頭を越え、
重荷のように重くて負うことができません。
38:6 わたしの愚かによって、
わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。
38:7 わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、
ひねもす悲しんで歩くのです。
38:8 わたしの腰はことごとく焼け、
わたしの肉には全きところがありません。
38:9 わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、
わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。
38:10 主よ、わたしのすべての願いはあなたに知られ、
わたしの嘆きはあなたに隠れることはありません。
38:11 わたしの胸は激しく打ち、わたしの力は衰え、
わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました。
38:12 わが友、わがともがらは
わたしの災を見て離れて立ち、
わが親族もまた遠く離れて立っています。
38:13 わたしのいのちを求める者はわなを設け、
わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、
ひねもす欺くことをはかるのです。
38:14 しかしわたしは耳のきこえない人のように聞かず、
口のきけない人のように話しません。
38:15 まことに、わたしは聞かない人のごとく、
議論を口にしない人のようです。
38:16 しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。
わが神、主よ、
あなたこそわたしに答えられるのです。
38:17 わたしは祈ります、「わが足のすべるとき、
わたしにむかって高ぶる彼らに
わたしのことによって喜ぶことを
ゆるさないでください」と。
38:18 わたしは倒れるばかりになり、
わたしの苦しみは常にわたしと共にあります。
38:19 わたしは、みずから不義を言いあらわし、
わが罪のために悲しみます。
38:20 ゆえなく、わたしに敵する者は強く、
偽ってわたしを憎む者は多いのです。
38:21 悪をもって善に報いる者は、
わたしがよい事に従うがゆえに、わがあだとなります。
38:22 主よ、わたしを捨てないでください。
わが神よ、わたしに遠ざからないでください。
38:23 主、わが救よ、
すみやかにわたしをお助けください。
(口語訳)

神様は罰を下すことがあるのでしょうか? 1〜9節

この「詩篇」には様々な危機の只中にある人間の姿が描かれています。自らの罪のゆえにその人は神様と離れてしまいました。友人たちは彼に背を向け、敵も襲ってきています。
 彼にとって最も辛い悲しみをもたらしているのは、神様の怒りです。詩人はきわめて具体的な苦しみを受けています。心情的な苦悩のほかに肉体的な苦痛もまたその人を苛んでいます。詩人は自らの苦しみの原因を隠そうとはしません。神様は自分をその罪のゆえに罰しているのだ、と彼は考えます。ここで私たちははっとさせられます。はたして神様は罰を下すお方なのでしょうか。この「詩篇」にも「不幸とは罪と神様の怒りの結果である」という憐れみに欠けた旧約聖書解釈が表明されているのでしょうか。現代においても、人間の苦しみの原因に対してこのような冷淡な説明をもって事足れりとするべきなのでしょうか。「私に降りかかった不幸は神様の怒りのあらわれなのでしょうか」と苦しげに牧師に尋ねる人に対しても、このような答え方をするべきなのでしょうか。神様の恵みと愛はいったいどこに忘れられてしまったのでしょうか。これらの疑問が生じるのは当然であり、決して忘れてよいものではありません。このことを踏まえた上でも、詩人が神様の怒りの下で自らが受けた罰について嘆き苦しんでいることにはやはり変わりがありません。
 さきほどの疑問の数々に対して答える場合に、表面的でおざなりな説明で済まされることがしばしばありますが、いざ真剣に取り組んでみると、想像していたのとはちがって、これが容易ならざる問題であることがわかってきます。神様と本気で取り組み合うくらいの心構えが必要になるからです。「神様の罰」とはいったいどういう意味なのか考えてみるのも時には重要です。もしもあることがらが神様の罰なのだとしたら、神様からはもう何も「よいこと」を期待するべきではない、という結論になるのでしょうか。神様の罰が何らかの意味で「よいこと」である場合がはたしてあるのでしょうか。それとも、神様の罰はいかなる場合にも例外なく常に「悪いこと」なのでしょうか。この「詩篇」でも、また聖書の他の箇所においても(たとえば「マタイによる福音書」3章7節、「ヘブライの信徒への手紙」3章11節、「ヨハネの黙示録」6章16節など)はっきり描かれていますが、罪には罰を下す一方で、御心に従順な者には祝福を賜る「熱情の神」こそが、真なる神様なのです。このことから導き出せる結論はどのようなものでしょうか。
 この世では、粗雑な結論を性急に下したがる自称「聖書の教師」たちが積極的に活動しています。彼らの意見によれば、金銭、健康、成功などは、よい生活を送った人間に対して神様が与えてくださる「報酬」であるとされます。ですから、もしもそれらがあるキリスト教徒に欠けているならば、きっとその人のどこかに問題があることになります。いわゆる「成功の神学」の信奉者たちはこのような調子で教えを垂れます。そして、最悪の場合にはきわめて粗雑に「病気や貧困やあらゆる弱さには常に原因があるのだ」と決めつけます。「自分が神様に受け入れられている証拠として、溢れるばかり多様な賜物を与えられるほどの高みに達するまで、キリスト信仰者は自らの生活を改善していかなければならない」といったメッセージを彼らは喧伝します。しかしこれは、実際に様々な苦痛に耐えている人々への同情心に欠ける冷淡な態度であり、聖書の教えに従っているとはまったく言えません。なぜなら、このような調子で聖書を理解していく者たちにとっては、キリストの受難の道を見つめたり、主が御自分の民に対して十字架と苦難を与えることを約束しておられるのを聴いたりするのは、とうてい承服しがたいことだからです。さらにまた「成功の神学」の信奉者たちは、主の使徒たちが嘲られ侮蔑され鞭打たれる聖書の箇所をも素通りするほかありません。このような神学によってはまったく理解できない、すなわちこの神学がまったく聖書的ではないことをひときわ鮮やかに示す聖書の箇所は「ヨブ記」、とりわけ以下に引用する21章でしょう。

21:7 なにゆえ悪しき人が生きながらえ、
老齢に達し、かつ力強くなるのか。
21:8 その子らは彼らの前に堅く立ち、
その子孫もその目の前に堅く立つ。
21:9 その家は安らかで、恐れがなく、
神のつえは彼らの上に臨むことがない。
21:10 その雄牛は種を与えて、誤ることなく、
その雌牛は子を産んで、そこなうことがない。
21:11 彼らはその小さい者どもを群れのように連れ出し、
その子らは舞い踊る。
21:12 彼らは手鼓と琴に合わせて歌い、
笛の音によって楽しみ、
21:13 その日をさいわいに過ごし、
安らかに陰府にくだる。
21:14 彼らは神に言う、『われわれを離れよ、
われわれはあなたの道を知ることを好まない。
21:15 全能者は何者なので、
われわれはこれに仕えねばならないのか。
われわれはこれに祈っても、なんの益があるか』と。
21:16 見よ、彼らの繁栄は彼らの手にあるではないか。
悪人の計りごとは、わたしの遠く及ぶ所でない。
(「ヨブ記」21章7〜16節、口語訳)

神様をないがしろにする人々の「ランプ」が暗闇の中に立ち消えることは、この世で頻繁に見られる現象ではありません。神様を拒む富裕層が、あたかも口に砂利をつっこまれるような屈辱的な体験をすることはまず起こらないといってよいでしょう。それどころかまったく逆に、彼らはしばしばいささかの不満も感じないほどの大成功をこの世で収めることがよくあります。少なくとも一部のキリスト教徒にとって「成功の神学」はとても魅力的な教えに映るようです。しかし、これは神様の真理とはまったく関わりのない反キリスト教的な教えですから、絶対に拒絶しなければなりません。主は、御自分に従うよう御許に招かれる人々に対して、成功や健康を保証してはくださいません。その代わりに主は、十字架と辛苦とを私たちに差し出され、御言葉に書かれてある通りのことを行われるのです。しかしそれと同時に、おひとり主のみがキリスト信仰者たちに真の命を与えてくださるお方でもあるのです。

神様への叫び 10〜23節

様々な苦しみを受けている多くの人にとって最も大きな苦しみの元となっているのは「孤独」でしょう。この孤独の問題について詩人は語り始めます。敵が詩人に襲いかかってきました。これは詩人の罪が引き起こしたひとつの結果でもありました 。敵からの集中攻撃を受けている詩人を目の当たりにして、詩人の友人たちは彼から距離を取り始めました。敵どもは詩人を囲繞していますが、これは神様の許可があったからこそできたことです。これら眼前の敵に対して、詩人にはなすすべがありません。彼にできることは、神様に助けを叫び求めて祈ることです。そのようにして、彼は唯一の安全な「避難所」に身を隠します。
 この詩人が結局どうなったのか「詩篇」は語っていません。神様が自分を救ってくれることを詩人が確信していたかどうかも、この「詩篇」からは伝わっては来ません。しかし「神様はあらゆるものを超越された大いなるお方である」という事実だけははっきりと伝わってきます。困難な状況が現出するのを許されたのが神様御自身なのだとすれば、神様おひとりだけが詩人を苦境から救い出す力をもっておられることになります。だからこそ、人は神様の御前で心から祈り叫ぶことができるのだし、また神様がその人を本当に助けてくださることを確信できるのです。宗教改革者マルティン・ルターは彼の人生の決定的な転換期にあたる1514年に、この「詩篇」に素晴らしい慰めを見出しました。ルターは この「詩篇」を通じて「キリストの苦しみの絶叫」を聴き取り、次のように書いています。

「これは、私たちの罪のせいで苦しみの只中に放り込まれた私たちの贖い主の叫びであり嘆きです。キリストは私たちの身代わりとして呪いと罪になり(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節、「コリントの信徒への第二の手紙」5章21節)、私たちの罪をその身に担ってくださいました(「イザヤ書」53章12節)。キリスト御自身がこの「詩篇」で語っておられ、父なる神様に対して私たちの代わりに私たちの罪を告白し、御自分に対して罪の赦しを願い求めています。すなわち、キリストにおいて、キリストを通して、私たちにも罪の赦しを求めておられるのです。それゆえ、この「詩篇」の言葉によって祈ることを通して何らかの霊的な糧を得たいと望む者は、自分自身において祈るべきではなく、キリストにおいて祈るべきです。それと同時に、キリストがこの「詩篇」のように祈っておられるのを聴き取るべきなのです。さらにまた、祈る者は自分の心をキリストの心と結びつけ、キリストと共に「アーメン」と言わなければなりません。キリストは私たちのために洗礼を聖なる礼典としてくださいました。キリストは私たちのために洗礼を受けることを望まれました。それとまったく同様にして、キリストはまた私たちのために罪を告白してくださったのです。アウグスティヌスによれば、キリストと全キリスト教会は、花嫁と花婿がそうであるようにひとつの身体なのです。ですから、彼らにひとつの同じ体と頭があるように、彼らにはひとつの同じ言葉があるということは、はたして不思議なことでありましょうか。」
(マルティン・ルター)


「詩篇」6篇
「詩篇」32篇
「詩篇」51篇
「詩篇」102篇
「詩篇」130篇
「詩篇」143篇


「詩篇」51篇

51:1 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、
51:2 これはダビデがバテセバに通った
後預言者ナタンがきたときによんだもの
51:3 神よ、あなたのいつくしみによって、
わたしをあわれみ、
あなたの豊かなあわれみによって、
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:4 わたしの不義をことごとく洗い去り、
わたしの罪からわたしを清めてください。
51:5 わたしは自分のとがを知っています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:6 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
あなたの前に悪い事を行いました。
それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
51:7 見よ、わたしは不義のなかに生れました。
わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:8 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。
それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
51:9 ヒソプをもって、わたしを清めてください、
わたしは清くなるでしょう。
わたしを洗ってください、
わたしは雪よりも白くなるでしょう。
51:10 わたしに喜びと楽しみとを満たし、
あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:11 み顔をわたしの罪から隠し、
わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
51:12 神よ、わたしのために清い心をつくり、
わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
51:13 わたしをみ前から捨てないでください。
あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
51:14 あなたの救の喜びをわたしに返し、
自由の霊をもって、わたしをささえてください。
51:15 そうすればわたしは、とがを犯した者に
あなたの道を教え、
罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。
51:16 神よ、わが救の神よ、
血を流した罪からわたしを助け出してください。
わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。
51:17 主よ、わたしのくちびるを開いてください。
わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。
51:18 あなたはいけにえを好まれません。
たといわたしが燔祭をささげても
あなたは喜ばれないでしょう。
51:19 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
51:20 あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、
エルサレムの城壁を築きなおしてください。
51:21 その時あなたは義のいけにえと燔祭と、
全き燔祭とを喜ばれるでしょう。
その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。
(口語訳)

最も有名な「詩篇」のひとつであり、「ざんげの詩篇」の中でも一番よく知られているこの「詩篇」51篇は、ふたつの視点から読むことができます。第一の視点は、私たちキリスト信仰者にとってなじみのあるものです。ひとりの人間が聖なる神様の御前で罪の告白をするさまをこの「詩篇」から読み取る、というやり方です。第二の視点は、この「詩篇」をしめくくる言葉が示唆しているように、詩人はイスラエルの民全体の罪のことを嘆いており、エルサレムが本来あるべき姿に戻ることを希求している、という読み方です。

第一の視点はこの「詩篇」を、1節の説明の通りに、ダヴィデ(ダビデ)の人生で起きた具体的な事件に関連付けて理解します。この「詩篇」の解き明かしのために、ルターは何十ページも紙片を費やし、その冒頭に 「罪とは何か、それはどこに由来するか、それはどのような害をもたらすか、どうすればそれから解放されるのか、について教えている詩篇」という表題をつけました。「詩篇」を教える立場の者は、ルターの情熱がよく反映されている次の序文に自然な共感をもつことでしょう。

「私は次のことを正直に告白するほかありません。この「詩篇」を通して語りかけておられる高貴さに満ち溢れたお方である御霊のことを、私はいまだに理解することもできないし、そのお側に近づくこともできないのです。それでも私は、自分もまたあなたがたと同じく生徒となることで、私たち全員が生徒になり、一緒にこの「詩篇」を学び、どのようにして聖霊様が私たちのうちに働きかけてくださるのか、希望を持って待ち続けたいと思います。そして、御霊が与えてくださることを私たちは感謝して受け取りたいと思います。この「詩篇」の教えを学んで理解することは私たち皆にとって必要不可欠です。なぜなら、この「詩篇」には私たちのキリスト教信仰における最も重要な教義の内容が扱われているからです。」
(マルティン・ルター)

次に、第二の視点を通して私たちはイスラエルの歴史に関する基本事項を学び直すことができます。解釈が難しい20〜21節は、きわめて具体的な歴史的状況に関連している可能性があります。ユダの民は何百年もの間、神様の御意思に反抗し続けた挙句、紀元前586年にはついに国家としての独立を失い、神殿と王座も取り去られ、民は強制的にバビロンへと連れ去られて捕囚の身となりました。捕囚先の地において自らの罪深さをようやく自覚した民は、全能の神様に罪の赦しの恵みを祈り願いました。神様はエルサレムの城壁を再び再建する力のあるお方である、と民はバビロン捕囚の時期にも理解していたからです。確実ではないものの、おそらくこの20〜21節はこのような歴史的状況に関連しているのではないかと思われます。

言い訳は何もせずに 1〜7節

詩篇朗唱者の包み隠さぬ悲嘆の叫びは何千年もの間、多くの人々の心にも響きわたりました。詩人は神様の御前において、主の神聖なる御意思に従わなかった自らの罪の負債に縛られています。詩人は神様の厳しい裁きを受けるのが当然となる罪を犯してしまったのです。確かに直接的に見れば、詩人は人間を相手に罪を犯しました。ところが本質的には、彼は聖なる神様に対して罪を犯したことになるのです。この「詩篇」に関連するダヴィデの罪について言えば、彼は隣り人にかかわる第五戒と第六戒を破ったのみならず、神様にかかわる第一、二、三戒も破ったことになるのです。

「十戒」をよく知らない人のために、以下に全文を引用しておきます。

神様の十戒

第一戒 あなたは、私のほかに他の神々をもってはならない。
第二戒 あなたは、神様の御名をみだりに唱えてはならない。
第三戒 あなたは、安息日を聖としなければならない。
第四戒 あなたは、父と母を敬わなければならない。
第五戒 あなたは、殺してはならない。
第六戒 あなたは、姦淫してはならない。
第七戒 あなたは、盗んではならない。
第八戒 あなたは、あなたの隣り人に対して偽りの証を言ってはならない。
第九戒 あなたは、あなたの隣り人の家を欲してはならない。
第十戒 あなたは、隣り人の妻、男の使用人、女の使用人、家畜、また彼のものを欲してはならない。
(マルティン・ルター「大教理問答書」序文より、ドイツ語版)

詩篇朗唱者はまったく自己弁護を試みません。彼の罪は偶発的な事件ではありませんでした。このことは、彼が生まれながらに罪深い存在であること、そればかりか、罪深い一族から生まれたことをも示しています。また、この「詩篇」をユダの民の視点からみてみると、捕囚へと至る過程がはっきりと浮かび上がってきます。神様から繰り返し警告を受けていたにもかかわらず、彼らは「十戒」を破る罪深い態度を改めませんでした。その結果として、国は滅び、民全体は捕囚の身となったのです。

「この「詩篇」には最も重要なキリスト教信仰の教義が扱われている」というマルティン・ルターの発言は大いに頷けるものです。

「罪は最終的には常に神様への反抗として立ち現れる」ということがまずわかります。ダヴィデは自分の忠実な部下であるウリヤの妻バト・シェバと密かに姦淫し、それを隠蔽するために策を弄した挙句、ウリヤを戦地で敵によって間接的に殺害させました。この点で、ダヴィデは隣り人に対して重大な罪を犯しました(第五戒および第六戒にかかわる罪)。しかしそれと同時に、ほかでもなく神様の御名そのものが人々の間で侮辱されることになったのです(第一戒から第三戒までにかかわる罪)。なぜなら、神様はダヴィデを「御自分のもの」として特別に選び出し、彼に大いなる祝福の約束を与えてくださったからです。そして、ダヴィデは偉大な宗教的改革者として民の面前に登場した王(神様から油注がれて聖別された者)でもあったからです。ところが、今やダヴィデも民全体も共に、信仰をまったく捨てたのに等しい状態に陥ってしまいました。これほどまでに事態が深刻化した理由は「神様のもの」であるはずの者たちが罪を犯したからに他なりません。

次にわかるのは「罪とは本質的にどのようなものであるか」ということです。ただたんに私たちが思いや言葉や行いによって神様に反対することだけが罪なのではありません。これらのこともすべて罪であるのは言うまでもありません。しかし、罪とは、これらのことよりもさらに重大な事態なのです。これに関連するルターの言葉を以下に引用します。

「もしも罪について正しく教えたいと思うのなら、罪や、神様をないがしろにしたありとあらゆる悪い行いがいったいどこから生じて来るのかを知るために、罪そのものをよりいっそう深く観察しなければなりません。「行いによる罪」についての考察だけでは十分ではありません。「罪とは何か」を知らないという誤りのせいで「恵みとは何か」というもうひとつの大切なことがらも理解できなくなるという誤りが生じます。その結果として、聖書の教師は、死や神様の怒りや裁きを恐れて怯えている人々の良心をどうにも慰めることができずに途方にくれ、無力感にとらわれるのです。」
(マルティン・ルター)

私たちは自分自身の心のうちに住んでいる罪と、私たちが実際に行う個々の罪との間に一線を引いて区別する訓練をするべきです。罪とは、私たちのうちに巣食っている破壊し尽くす力のことです。これを自分のうちから抜き去ることは、私たち人間にはどのようにしてもできません。もしも神様が助けてくださらないのなら、私たちはまったく無力です。この罪は「原罪」と呼ばれます。そして、私たちは原罪についてのきわめて明瞭な教えをまさしくこの「詩篇」の箇所に見いだすことができます。この「原罪の教義」によれば、生まれたばかりの人間はそこの何も書かれていない真新しい板(タブラ・ラサ)などではありません。人間は皆、いわば「神様に対して背を向けて」生まれてくるのです。人間は生まれた時点で、すでに罪と神様の裁きの下に置かれていることになります。キリスト信仰者であるないに関わらず、理性に頼って物事を考える傾向のある人間はこのような教えを受け入れようとはしないでしょう。しかし、明瞭な聖書の御言葉がすべての正しい信仰の源泉であると信じる人にとっては、これは否定しようがない事実なのです。

神様の守りの中に逃げ込む 8〜19節

いくら犠牲を捧げても自分の罪の負債から解放される可能性がまったくないことが、詩篇朗唱者にはわかっています。犠牲の動物をいくら屠殺したところで、人が罪から救い出されるはずがありません。しかし「自分は神様から罪の赦しなどを得るのはもう無理なのだ」と諦めてしまうのが、彼の最終的な結論ではありませんでした。むしろ彼は逆の行動をします。すなわち、罪の赦しの恵みをいただいて罪から解放されることを、詩人は神様の御前で立ち止まり、祈り願うのです。「主なる神様、どうか私を御顔の前から追い払わず、むしろ御顔を私の罪から逸らしてください」と詩人は懇願します。もしも神様が詩人に、無実の人の血を流した罪から解き放って新たな人生を歩むことを許してくださるならば、詩人の心は開かれて憐れみ深い神様を感謝し賛美することでしょう。このように、罪と裁きと罪の赦しの恵みとはひとえに神様の御業によるものなのです。

ここで思い出されるのが次に引用する「ルカによる福音書」18章に登場する取税人です。自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。

「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
(「ルカによる福音書」18章9〜14節、口語訳)

この取税人は神様の御前で自分自身の罪深さを一切弁明しませんでした。「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と彼は祈りました。人が自らの罪深さを自覚した上で、それでもなお神様の御前に進み出て、恵みと罪の赦しを神様に祈り願う姿勢について、ルターは次のように書いています。

「これは天からの知恵です。律法がこのことを教えたのではありません。まして理性には、聖霊様の助けなしにこのことを理解するのも把握するのも不可能なことです。」
(マルティン・ルター)

罪を憎まれる神聖なる神様の怒りを鎮める術が、罪深い存在である人間自身にはありません。旧約の世界にあるような、動物を犠牲として屠ることで神様の怒りを鎮めようとする宗教的儀式は、現代の世界でも形を変えて存続しています。ある人はお金によって、ある人は衣服を変えることによって、ある人は言葉づかいに気をつけることによって、またある人は慎み深い生活をすることによって、神様の好意を得ようとします。しかし、このようなやりかたによっては何の助けも得られません。それどころか、それらの試みはいっそうひどく神様を侮蔑する行いとなるばかりです。罪深いみじめな私たちを助けてくれるのは、神様の恵みだけです。「新約の民」すなわちキリスト信仰者である私たちは、この恵みと出会える「場所」がキリストの十字架の血において他にはないことを知っています。

また、この「詩篇」からは「できることなら清く、罪から自由な存在でありたい」という詩人の心からの叫びが伝わってきます。彼は罪の赦しを願い求めるだけではなく、新たな清い心と生き方とを神様に祈り求めています。ここに私たちはキリスト教信仰の基本事項を確認することができます。すなわち「恵みの意味を理解した者に対して、罪の赦しは慎みのない罪深い生活を送るのを容認するものではない」ということです。「恵みの子」は自身の弱さを嘆き悲しみつつ、今よりも善い者であろうと欲するものです。しかし、自らの力に頼るかぎり、それは決して実現しません。だからこそ「恵みの子」は神様に助けを願い求めるのです。罪の負債がキリストの血の中にすっかり沈められたとき、それにひき続いて自ずとキリスト信仰者にふさわしい生き方を探し求める信仰の戦いが始まります。

民の祈り 20〜21節

すでに解説したように、この箇所は歴史的な状況に関連している可能性があります。もうひとつのありうる別の解釈は「動物犠牲を捧げる世俗化した宗教儀式が本来のありかたに立ち戻ることを詩篇朗唱者は祈っている」というものです。しかし、第一の解釈のほうがより事実に近いと思われるので、以後それに基づいて説明をしていくことにします。この「詩篇」で個人について語られていることがらは、民全体にもあてはまります。個人だけではなく神様の民全体が自らの罪によって神様の怒りを招き、その罪に見合う罰を受けることになったのです。個人の生活における罪を弁護することができないのと同じように、この民全体の罪の場合も神様に対して正当化することができません。また、すでに行ってしまった罪をなかったことにして帳消しにできる人もいません。罪深い民にとって唯一の安全な生き方は、神様の絶えざる憐れみの只中、神様の契約に対する忠実さの只中に逃げ込むことです。
 実際の歴史ではどのようなことが起きたのでしょうか。神様はペルシア王キュロスを召喚して、それまで権力の座にあったバビロニア帝国を滅亡させました。このようなやり方で神様は、かつて神様の民を打ちのめした敵を今度は他の勢力によって弱体化させ、捕囚の状態にいた諸国民を解放なさったのです。それら解放民の中にはかつてのエルサレムの住民たちも含まれていました。キュロス王の勅令に従い、彼らもまた故郷エルサレムに帰還しました。そして城壁を建設し、神殿を再び本来の「神殿」として聖別しました。この民の只中に、かつてその到来が約束されていたキリストが「罪人の贖い主」として後に生まれることになります。


「詩篇」6篇
「詩篇」32篇
「詩篇」38篇
「詩篇」102篇
「詩篇」130篇
「詩篇」143篇


「詩篇」102篇

102:1 苦しむ者が思いくずおれて
その嘆きを主のみ前に注ぎ出すときの祈
102:2 主よ、わたしの祈をお聞きください。
わたしの叫びをみ前に至らせてください。
102:3 わたしの悩みの日にみ顔を隠すことなく、
あなたの耳をわたしに傾け、
わが呼ばわる日に、すみやかにお答えください。
102:4 わたしの日は煙のように消え、
わたしの骨は炉のように燃えるからです。
102:5 わたしの心は草のように撃たれて、しおれました。
わたしはパンを食べることを忘れました。
102:6 わが嘆きの声によってわたしの骨は
わたしの肉に着きます。
102:7 わたしは荒野のはげたかのごとく、
荒れた跡のふくろうのようです。
102:8 わたしは眠らずに
屋根にひとりいるすずめのようです。
102:9 わたしの敵はひねもす、わたしをそしり、
わたしをあざける者はわが名によってのろいます。
102:10 わたしは灰をパンのように食べ、
わたしの飲み物に涙を交えました。
102:11 これはあなたの憤りと怒りのゆえです。
あなたはわたしをもたげて投げすてられました。
102:12 わたしのよわいは夕暮の日影のようです。
わたしは草のようにしおれました。
102:13 しかし主よ、あなたはとこしえにみくらに座し、
そのみ名はよろず代に及びます。
102:14 あなたは立ってシオンをあわれまれるでしょう。
これはシオンを恵まれる時であり、
定まった時が来たからです。
102:15 あなたのしもべはシオンの石をも喜び、
そのちりをさえあわれむのです。
102:16 もろもろの国民は主のみ名を恐れ、
地のもろもろの王はあなたの栄光を恐れるでしょう。
102:17 主はシオンを築き、
その栄光をもって現れ、
102:18 乏しい者の祈をかえりみ、
彼らの願いをかろしめられないからです。
102:19 きたるべき代のために、
この事を書きしるしましょう。
そうすれば新しく造られる民は、
主をほめたたえるでしょう。
102:20 主はその聖なる高き所から見おろし、
天から地を見られた。
102:21 これは捕われ人の嘆きを聞き、
死に定められた者を解き放ち、
102:22 人々がシオンで主のみ名をあらわし、
エルサレムでその誉をあらわすためです。
102:23 その時もろもろの民、
もろもろの国は ともに集まって、
主に仕えるでしょう。
102:24 主はわたしの力を中途でくじき、
わたしのよわいを短くされました。
102:25 わたしは言いました、
「わが神よ、どうか、わたしのよわいの半ばで わたしを取り去らないでください。 あなたのよわいはよろず代に及びます」と。
102:26 あなたはいにしえ、
地の基をすえられました。
天もまたあなたのみ手のわざです。
102:27 これらは滅びるでしょう。
しかしあなたは長らえられます。
これらはみな衣のように古びるでしょう。
あなたがこれらを上着のように替えられると、
これらは過ぎ去ります。
102:28 しかしあなたは変ることなく、
あなたのよわいは終ることがありません。
102:29 あなたのしもべの子らは安らかに住み、
その子孫はあなたの前に堅く立てられるでしょう。
(口語訳)

「詩篇」102篇は伝統的に「ざんげの詩篇」と呼ばれています。この「詩篇」は、一方では個人の受けた説明しがたい苦しみについて語り、他方では神様の民の苦しみについて語っています。後者の視点からすると、この「詩篇」を「ざんげの詩篇」の一篇ととらえることができます。旧約聖書をキリストに基づいて読む第三の視点によれば、この「詩篇」には、キリストにおいて実現する神様の御国を希求する心が表現されています。

苦しむ者の受ける圧迫 1〜12節

この「詩篇」を「個人の受ける苦しみと圧迫」という第一の視点から調べていく場合、旧約聖書の多くの読者は「ヨブ記」のことを想起するのではないでしょうか。詩篇朗唱者は苦難を前にして慰めを見失った状態に落ち込んでいます。彼を圧迫するものが何であり、なぜ彼は圧迫を受けているのかについては語られていません。神様はお怒りになり、詩人を地へたたきつけたのです。ただし、本文には個人の罪についての言及は特にありません。
 これに対し、第二の視点は本文の意味内容について無理のない説明を提供してくれます。それによれば、ここでは捕囚の只中で嘆き悲しむ神様の民が描かれているのです。エルサレムがまだ安泰で、油注がれた王が国を支配し、主の神殿で唯一の神様に犠牲を捧げていた時代はすでに遠い過去のことになりました。にもかかわらず、異国の地で捕囚の身となった主の民は、崩れ落ちたエルサレムの城壁のことを今もなおしっかり記憶にとどめていました。また主の民は敵からの蔑みを受けつつも、 エルサレムの神殿の惨状を決して忘れませんでした。神様の怒りは今もなお民の頭上にとどまっていました。旧約聖書の読者であれば、預言者エレミヤとエゼキエルが発した厳しい警告の数々が、御言葉を聞く耳を持たない民に対して虚ろに響いたことを、ここで思い起こすのではないでしょうか。民全体が捕囚の身となっている今の惨状は、預言者たちの警告してきた最悪の事態が現実になってしまったことを証ししています。
 第三の視点として、旧約聖書をキリストに基づいて読む立場から本文を解釈することにしましょう。マルティン・ルターによれば、旧約における主の民は、捕囚からの解放と、キリストにおいてその実現が約束されていた恵みの王国の到来とについての記述を旧約聖書における契約のうちに見出して、それを待ち望んでいました。このルターの指摘は鋭いと思います。律法と罪と死とは、当時の神様の民にとっても辛すぎる重荷となっていました。それゆえに、将来いつか必ず到来し、義と認められた者がそこに住むことになる神様の御国という約束の地を彼らもまた待ち望んでいたのです。

私たちにとって最も親しみのあるこの「詩篇」の理解の仕方は、おそらく第二の視点によるものではないでしょうか。これは「神様の民全体としての罪の呵責と、周囲からの圧迫とがここでは語られている」という解釈です。罪と悪い行いをやめるように、神様はそれまで何度も繰り返して御自分の民に警告してこられました。ところが、民は耳を貸そうとはしなかったのです。現代では「キリストのもの」である教会が「神様の新しい民」を構成しています。この民に対しては、使徒パウロを通して次のような警告が与えられています。

もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。
(「ローマの信徒への手紙」11章21節、口語訳)

旧約の民は神様から示された道から迷い出た結果として、幾度も神様の厳しい怒りを受けることになりました。それに対して新約の民に対しては、復活された主の警告が与えられています。主は御自分の民の只中に「真夜中の盗人」のようにやって来られ、裁きが「神様の家」から始められるという警告です。主は個々のキリスト教会に対しても警告を発しておられます。神様が「教会の燭台をその教会から取り除く」、すなわち教会を全体として最終的に捨て去る場合がありうる、という警告です。こうした言葉は私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。キリスト教会につながっていながらも神様の戒めに反した身勝手な生き方をすることが何か当たり前のようになってはいませんか。教会としても、またキリスト信仰者ひとりひとりの生活においても、聖書の御言葉に反した行為がきわめて危険であることには変わりがないことが、もはや明確に認識できなくなってきてはいませんか。現代の教会やキリスト信仰者が「ざんげ」の心のない自堕落な信仰生活を続けている場合には、彼らが神様の怒りを招くのは当然ではないでしょうか。教会全体も各教会員も皆が心を一つにして罪を悔い御子を信じるべき時が今や来ているのではないでしょうか。聖書の御言葉を一笑に付したり、自分の判断で物事を進めたりするのは「ルター派」の名にはまったく値しない態度です。

神様は憐れんでくださいます 13〜29節

これまで見てきたように、苦しみを扱うこの「詩篇」の箇所は三つの視点から解釈することができます。これら三つの視点は、希望について語っている終わりの箇所にもある程度は適用することができます。これらの視点に共通しているのは「神様は全能であられる」という理解です。天と地はいつか消え去ります。人間が着替えをするように、天地はいずれ何か別のものに変わります。しかし、神様はいつまでも変わることがなく、御自分の民を助けることがいつでもおできになります。このように、個人の態度は嘆きから希望へと変化します。この「詩篇」語る希望は自国民の繁栄と同一視されているように見えます。その一方で、この「詩篇」は数千年の間、読者の生活や個人的な観点からも解釈されてきました。私たちが現代における「詩篇」の意義を考察する場合に、自国民に関連付けて読み解かれる傾向があります。異国の地で捕囚の民として暮らすことや、民の置かれている現状に具体的に関わる圧迫の数々は、神様がその民にお与えになった「最後の一言」ではありませんでした。それは今の私たちにも関わりのある大切な希望のメッセージなのです。

主はその聖なる高き所から見おろし、
天から地を見られた。
これは捕われ人の嘆きを聞き、
死に定められた者を解き放ち、
人々がシオンで主のみ名をあらわし、
エルサレムでその誉をあらわすためです。
その時もろもろの民、もろもろの国は
ともに集まって、主に仕えるでしょう。
(「詩篇」102篇20〜23節)

この「詩篇」によれば、エルサレムが再建されて神様の偉大なる御業が宣べ伝えられる「シオンの時」がついに訪れました。一方では諸々の国民や王たちが主の 御名に対して跪き、他方では主の民が故郷への帰還を許される時がついに到来したのです。詩篇朗唱者の子孫たちは代々「神様の都」に住めるようになりました。この「詩篇」の約束はすべて数十年後に実現しました。詩人の希望はむなしく終わることがありませんでした。

マルティン・ルターは、旧約の「キリスト信仰者たち」が恵みを待望するさまを本文から読み取りました。彼の視点はこの「詩篇」の終結部については次のように適用することができます。私たちには、預言者たちや使徒たちを通して語りかける唯一の神様がおられます。恵みの道はただ一つです。それは、キリストが私たちに開かれた道です。キリストの御業は旧約において予告されており、新約において啓示されています。メシア(救世主)に関連する預言と一連の「詩篇」とは、救いをキリスト(救世主)に直接結びつけています。この「詩篇」も含め、その他の多くの箇所は、神様の限りない恵みを受け入れ、神様がいつかまた「主の民」を敵から救ってくださることを確信するように、私たちを導いてくれます。そして、キリストが十字架の死と復活によって罪と死と悪魔の力を粉砕してくださったおかげでこの救いの御業はすでに実現されていることが、私たちは聖書によってわかります。


「詩篇」6篇
「詩篇」32篇
「詩篇」38篇
「詩篇」51篇
「詩篇」130篇
「詩篇」143篇


「詩篇」130篇

130:1 都もうでの歌
主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
130:2 主よ、どうか、わが声を聞き、
あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
130:3 主よ、あなたがもし、もろもろの不義に
目をとめられるならば、
主よ、だれが立つことができましょうか。
130:4 しかしあなたには、ゆるしがあるので、
人に恐れかしこまれるでしょう。
130:5 わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。
そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
130:6 わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、
夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。
130:7 イスラエルよ、主によって望みをいだけ。
主には、いつくしみがあり、
また豊かなあがないがあるからです。
130:8 主はイスラエルを
そのもろもろの不義からあがなわれます。

この「詩篇」は、ルーテル教会の礼拝の「罪の告白」の箇所などで使用されることがあるため、教会員一般にも比較的広く知られています。詩篇研究においては「旅の歌」というジャンルに分類されており、もともとは聖地巡礼者たちがエルサレムでの祝祭に向けて旅をしている時や、礼拝でシオンの山に登り神様の御前に出る際に歌われたものであったと推測されています。ただし後者のケースについては今のところ十分な証拠はありません。とはいえ「イザヤ書」30章29節には次のように書かれています。

あなたがたは、聖なる祭を守る夜のように歌をうたう。また笛をならして主の山にきたり、イスラエルの岩なる主にまみえる時のように心に喜ぶ。(口語訳)

この「詩篇」を元々の歴史的文脈の中に正確に位置付けるのは容易ではありません。それでも、これを朗唱する現代人の私たちが、神様の御前において自らの罪を告白した数千年前の詩篇朗唱者の心の動きをたどるのはさほど難しいことではありません。

可能性がまったくないままに 1〜3節

神様の御前に出た詩人は「深い淵から」叫びます。自分がどんどん沈んでいき今にも死に絡めとられようとしているからです。これは「小さく罪深き人間が大きく聖なる神様の御前にいる」という構図になっています。詩人は自分の罪を弁護しようとはしませんし、それから話題をずらそうともしません。神様の御前において「義なる者」はひとりもいません。全人類について普遍的にあてはまるこの事実は、個人についても(ここでは詩篇朗唱者自身についても)あてはまります。

聖書は多くの箇所で「神様がどのようなお方であるか」はっきり語っていますが、この「ざんげの詩篇」もまた神様について同じ印象を私たちに与えます。すなわち「神様は人間にとって気さくな友人などではないし、これからもそうはならない」ということです。神様は私たち人間とは常に何らかの点でまったく異なる存在なのです。たしかに神様は私たち人間を愛してくださる御父様です。しかし、それと同時に神様は聖なる光輝のなかに住まう神聖な存在でもあります。私たちが神様のこの神聖さを見失うことが多いのはどうしてなのでしょうか。

やや唐突ですが、マルクス主義哲学がこの問題の理解を助けてくれます。この哲学によれば、神とは実際に存在するものではなく、単なる社会の投影物にすぎません。強大な権勢を誇る峻酷な王侯や支配者がひしめいていた当時の社会においては、労働者たちは彼らに屈服し、彼らの機嫌を伺わなければなりませんでした。おそらくはそれからの類推によって、当時の人々は天界の上流階級に対しても「峻酷な支配者」というイメージをもっていました。ところが、時代とともに民主主義が浸透し、もはや人々が同じ人間である権力者に恐怖を感じなくなると、天界の上流階級に関する「厳しい天の主人」というそれまであったイメージは「優しくて民主的な人民の代表者」という新たなイメージに置き換えられました。それにともない「神様」について主張されることは、そのすべてがたんに「人間の想像を反映したもの」にすぎないとみなされ、もはや「実際に存在する何か」としては理解されなくなりました。

このような無神論的な神理解について、私たちはどのように答えるべきなのでしょうか。「神様は実際に存在し、御自分を聖書において啓示なさっている」と私たちキリスト信仰者は信じています。私たちは心を込めてこの信仰を守ります。神様がかつて自ら御自分について啓示なさった存在は決して何か別の存在に変化することがありません。ところがそれとは反対の教えを含む、前述のマルクス主義的な宗教観やそれと類似する世界観が私たちを取りまく現代の世界において広範囲な影響力をもってきています。人が神様の聖なる御言葉から離れ去り、聖書の中心的な真理を忘却するとき、その人にとっての「神」はもはや実在する真の神様ではなく、「神」についてその人が抱いている想像を反映したものにすぎなくなります。ところがそれに対して、真の神様は、私たち人間に対してその御意思を聖書に啓示しておられるのです。それによれば、神様は罪を憎み、罪を犯す人を罪のゆえに死に至らせる方です。また、罪人に対しては厳しい裁きを下す方です。その一方で、神様は憐れみ深く、究め難い方でもあります。この大いなる神様へ深い畏敬の念を抱きつつ、私たちは「シオンの山」に、すなわち神様の御前に近づいていくことになります。

「主には、いつくしみがあり」 4〜8節

この「詩篇」は詩人が大いなる神様のことも自らの罪深さのことも知っていることを示しています。これはまた、善そのものであられる憐れみ深い神様への信頼の表明でもあります。自らの狭小さと罪深さを正直に告白する詩人は、同時にその一方では、神様から助けと罪の赦しの恵みをいただけることを確信しています。私たちはここで再び罪の本質について考えさせられます。罪はこの世において何らかの悪い影響を後から来る者たちに与えてしまいます。そして、詩篇朗唱者も民全体も共にこの悪影響の下にいるのです。神様の恵みは、瞬間的な罪の赦しだけにとどまるものではありません。恵みには「神様に信頼しつつ未来へと目を向けて神様の憐れみ深い働きを待ち望む」という持続的な側面もあります。詩篇朗唱者自身だけではなくイスラエルの民全体もまた、御自分の民を憐れんでくださる神様にこのような希望を持ち続けているのです。

ところで、信仰というものを「所有する信仰」と「切望する信仰」とに区別する考え方があります。そして、この「詩篇」は信仰のこれら二つの側面をひとつに結びつける可能性を提示しています。神様の恵みは不確実なものではありません。キリストのゆえに、私たちにはすでにすっかり用意が整っている完全なる罪の赦しがあります。ですから、この罪の赦しを待ち続けたり切望したりする必要はないのです。しかしその一方で、罪は、私たちが永遠の世界において、天国か地獄か、いずれの住人になるかを決めるためにだけ重大な意味を持っているものなのではありません。この世においても、罪のもたらす諸結果は、罪深い存在である私たち人間を様々な問題に巻き込んでいきます。しかしながら、キリスト信仰者は、罪に覆われているこの世で生きて行く時に、神様の限りない恵みと愛の中へと安全に避難することができるのです。この「避難」では、忍耐強く待ち続けなければならない局面がしばしばあります。そのような時には、「神様は避難中の私たちを決して放置したり捨てたりはなさらない」と深く信頼しつつ、次の「詩篇」にあるように「夜回りが暁を待つ」よりもさらに確固とした希望を持ち続けるのです。

わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。
そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、
夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。
イスラエルよ、主によって望みをいだけ。
主には、いつくしみがあり、
また豊かなあがないがあるからです。
(「詩篇」130篇5〜7節、口語訳)


「詩篇」6篇
「詩篇」32篇
「詩篇」38篇
「詩篇」51篇
「詩篇」102篇
「詩篇」143篇


「詩篇」143篇

143:1 ダビデの歌
主よ、わが祈を聞き、
わが願いに耳を傾けてください。
あなたの真実と、あなたの正義とをもって、
わたしにお答えください。
143:2 あなたのしもべのさばきに
たずさわらないでください。
生ける者はひとりもみ前に義とされないからです。
143:3 敵はわたしをせめ、
わがいのちを地に踏みにじり、
死んで久しく時を経た者のように
わたしを暗い所に住まわせました。
143:4 それゆえ、わが霊はわがうちに消えうせようとし、
わが心はわがうちに荒れさびれています。
143:5 わたしはいにしえの日を思い出し、
あなたが行われたすべての事を考え、
あなたのみ手のわざを思います。
143:6 わたしはあなたにむかって手を伸べ、
わが魂は、かわききった地のように
あなたを慕います。〔セラ
143:7 主よ、すみやかにわたしにお答えください。
わが霊は衰えます。
わたしにみ顔を隠さないでください。
さもないと、わたしは穴にくだる者のように
なるでしょう。
143:8 あしたに、あなたのいつくしみを聞かせてください。
わたしはあなたに信頼します。
わが歩むべき道を教えてください。
わが魂はあなたを仰ぎ望みます。
143:9 主よ、わたしをわが敵から助け出してください。
わたしは避け所を得るために
あなたのもとにのがれました。
143:10 あなたのみむねを行うことを教えてください。
あなたはわが神です。
恵みふかい、みたまをもって
わたしを平らかな道に導いてください。
143:11 主よ、み名のために、わたしを生かし、
あなたの義によって、
わたしを悩みから救い出してください。
143:12 また、あなたのいつくしみによって、
わが敵を断ち、
わがあだをことごとく滅ぼしてください。
わたしはあなたのしもべです。
(口語訳)

全部で七篇ある「ざんげの詩篇」のうちの最後のものは内容的に見れば「ざんげの詩篇」ではありません。これは「一人の人間の嘆きの歌」という性格をもつ「詩篇」であり、詩人に苦しみを与えているのは、他の多くの「詩篇」でも頻繁に登場する「敵」の存在です。当然ながら詩篇朗唱者自身の罪についても記述があります。しかしここでは「罪の赦し」ではなく「敵からの解放」が実現するようにという祈りが主題になっています。

敵は私よりも強力で 1〜6節

詩人は「詩篇」では頻繁に登場する状況の中にいます。敵の攻撃を受けているのです。ですから彼はここで、きわめて具体的な意味での救済と赦免を命がけで神様に祈り求めていることになります。「自分の欠点と罪が神様から助けを受けるための妨げになりはしないか」と詩人は心配しています。詩人は神様に自らの罪について包み隠さず告白し、その上で敵から解放されることを懇願しています。

敵についての言及にはどういう意味があるのか、少し立ち止まって考えてみましょう。「詩篇」で頻繁に登場する「敵」に関する記述は、キリスト信仰者に難しい問題を投げかけます。どうして「神様のもの」である人々には敵が付きまとうのでしょうか。どうしていくつかの「詩篇」では、敵どもが悪い目に合うように祈願されているのでしょうか。
 こうした疑問に対してはいくつもの答え方を用意できます。最初に持ってくるのにふさわしい答え方は伝統的なキリスト教に典型的な答え方であり、その意味では正しい答え方とも言えます。しかし一方でそれは、最後まで留保しておくべき答え方である、という見方もできます。この答え方によれば、伝統的なキリスト教文献においてしばしば見られるように「敵たち」とは人間のことではなく、悪の諸霊や悪い思いや罪などを指していることになります。しかしながら、このような「霊的な説明の仕方」によっては、御言葉の内容を具体的に理解しないまま、抽象的に把握するだけで終わってしまう危険性があります。ですから、聖書を読み解く際にすぐさま霊的な解釈に走ることは避けるのが賢明です。もちろんキリスト信仰者の敵どもは「ひとつのまとまり」をなしており、そこには罪や死や悪魔も含まれます。にもかかわらず「詩篇」の内容にさっさと抽象的な解釈を施して「事足れり」とする態度は「詩篇」自体を理解する上で大きな妨げになります。ですから、先の疑問に対する正統的で基本的な答え方は、できるかぎり具体的に「詩篇」を解釈するやり方です。すなわち「敵の集中砲火を浴びているために独力では脱出不能な状況下にいる「神様のもの」である人がここでは描かれている」という解釈です。その人は命からがら避難場所を探し求め、神様に助けを願っています。このような極端な状況は、誰からの圧力も受けることなく快適で不安のない生活を享受している現代の多くのキリスト信仰者にとっては想像することさえ難しいものかもしれません。しかし一方でこのような状況は、キリスト信仰者が今も迫害を受けている国に住んで、命がけで宣教活動に取り組んでいる人々にとってはきわめて身近で切実な現実そのものです。経済的にも宗教的にも安心して生活できる社会に住んでいる現代のキリスト信仰者にとっても、社会の大多数の意見を占める世論が、キリスト教やキリスト信仰者に対する憎しみや迫害を増長する方向に変質してしまう場合には、今述べたように「詩篇」を具体的な実情と照らし合わせて解釈するやり方がより身近に感じられるようになるでしょう。これは、たとえばキリスト教が国教である北欧諸国においてはもはやすでに現実になっています。そのような状況下で生きている人ならば、特別な説明を加えなくてもこの「詩篇」のメッセージを素直に受け止めることができると思います。
 自分が受けている圧迫と苦しみについて神様の御前に注ぎ出して嘆き叫んでいる人は、自らの苦難の数々をいちいち類別したりはしないだろうし、またその必要もありません。それゆえ「詩篇」において注ぎ出されている悲嘆の叫びは、あらゆる種類の圧迫や苦しみの中で生活している人の祈りとして、今でもよく当てはまる祈りであると言えます。私たちは「敵」についての詳細な一覧表を作成する必要などありません。たとえば、迫害する者、侮辱する者、異端の教師たちも「敵」ですし、病気、罪、死、悪魔の力も「敵」と呼ばれるにふさわしいものです。

「(神様は)あらゆる危険から私を保護し、すべての悪から防御し守って」
(マルティン・ルター「小教理問答書」からの引用) 7〜12節

この「詩篇」の終わりの部分には「神様は危機の只中で苦しむ者の祈りを聴いて助けてくださる」と安堵する信頼の心が語られています。敵の力は粉砕され、迫害者は滅び、詩篇朗唱者は改めて神様にお仕えすることができるようになります。

この「詩篇」のとりわけ前半部は、上に引用した「小教理問答書」の「使徒信条」の「父なる神様」についての説明を想起させます。ルターはその箇所で、神様の大いなる善性と愛について日々繰り返し学び直すことの重要性を説いています。この「詩篇」で見てきたように「神様のもの」である人々には実に様々な敵が存在します。しかしその一方では「小教理問答書」の「使徒信条」の説明からもわかるように、神様の善性は私たちの人生の様々な側面をすっかり覆ってくれます。私たちは神様が造り贖ってくださった存在なのです。私たちは神様の御手に自らの霊とこの世での収入や資産、また永遠なる天の御国に入るために必要なものとをすっかり委ねることができます。十字架と苦境の只中にあってこの真理を見出す者は、光り輝く素晴らしい命の泉をすでに見つけているのです。