「ヨハネの第二の手紙」ガイドブック

執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

聖書の引用は口語訳によっています。日本語版では表現や内容にある程度の編集が加えられています。

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重要なことを教えてくれる短い手紙たち

新約聖書にはとても短い手紙がいくつか含まれており、ほとんど注目されることもありません。これはとても残念なことです。それらの短い手紙では多くの事柄が的確な表現で簡潔に述べられているからです。「ヨハネの第二の手紙」や「ヨハネの第三の手紙」はそのようなごく短い手紙ですが、私たちがじっくりと考えるべき教えを多く含んでいます。

これら二通の手紙がいつ書かれたのかははっきりしませんが、西暦100年頃ではないかと推定されています。誰が書き記したのかも正確にはわかりません。これらの手紙の本文には執筆者の名前も記されていません。おそらく執筆者は「ヨハネの第一の手紙」を書き記したのと同一人物であったと思われます。「ヨハネの第二の手紙」と「ヨハネの第三の手紙」のどちらも内容的にはキリスト教会と異端の教えについて述べていますが、両者の視点はまったく異なっています。この二つの手紙がどの順序で書かれたのかを決定することは困難です。また、これらの手紙と「ヨハネによる福音書」との関係を明らかにすることも容易ではありません。

それではこれから「ヨハネの第二の手紙」ついて説明していくことにします。

「ヨハネの第二の手紙」 「選ばれた婦人」への手紙

「選ばれた婦人」とは誰か 「ヨハネの第二の手紙」1〜3節

「長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ。あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである。」
(「ヨハネの第二の手紙」1節、口語訳)

「ヨハネの第二の手紙」は「選ばれた婦人」に宛てて書かれています。この表現は各地に散在する個別のキリスト教会のことをあらわしています。同様に13節の「選ばれたあなたの姉妹の子供たち」とはキリスト教会の会員たち、すなわちキリスト信仰者たちのことを表しています。

「選ばれた婦人」という表現の背景には聖書で駆使されているさまざまなイメージが秘められています。ですから、この言葉を理解するためにはそれらのイメージの意味を知る必要があります。例えば旧約聖書でイスラエルはしばしば「シオンの娘」とも呼ばれています。一例を挙げます。

「シオンの娘よ、喜び歌え。
イスラエルよ、喜び呼ばわれ。
エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。」
(「ゼパニヤ書」3章14節、口語訳)

また、神様とイスラエルの関係は旧約聖書ではしばしば夫婦関係に喩えられています。残念なことにこの「結婚」はしばしば不幸な状態に陥ります。神様に選ばれた民であるイスラエルが神様に対して度々不実であったためです。旧約の預言者たちはこの不実さを「不倫」とみなしてイスラエルを激しく非難しています。このイメージでは、神様が妻を心から愛する夫に、また選ばれた民が夫を無視して偶像に思いを寄せる不実な妻になぞらえられています。この構図は旧約聖書の「ホセア書」ではおなじみのものであり、他にも「エレミヤ書」3章や「エゼキエル書」16、23章でも用いられています。一方で、このイメージと対をなすもうひとつのイメージがあります。旧約聖書の「雅歌」で称賛されている夫婦愛です。「雅歌」は素直に読めば男女の恋愛についての詩ですが、実はそれは神様とイスラエルの間の密接な関係を描写しているものとして古くから解釈されてきました。

「新約聖書」に移るとこのイメージには新たな彩りが添えられます。イエス様が話された譬には中近東の婚礼が舞台になっているものがよくあります。洗礼者ヨハネは自分がキリストとキリストから愛されている者たちとの間に立ち、花婿キリストの友人として婚礼の司会を委ねられたことに喜びを感じています(「ヨハネによる福音書」3章22〜36節)。使徒パウロはキリスト信仰者たちを清い乙女としてキリストと婚約させたと述べています(「コリントの信徒への第二の手紙」11章2節)。また、キリストとその花嫁というイメージを用いています(「エフェソの信徒への手紙」5章21〜31節)。「ヨハネの黙示録」は21章でキリスト教会をたくさんの子ども(キリスト信仰者のこと)をもつ婦人に喩えています。また、終わりのほうの章では天の門を開いて私たちの眼前に小羊の婚礼という壮大なイメージを描き出してくれます。

このように豊かなイメージを内包している表現は、さきほどとりあげた「選ばれた婦人」すなわち、ある地方のキリスト教会と「選ばれた彼女の姉妹」すなわち、別の地方のキリスト教会についての主題に関係しています。要するに、私たちキリスト信仰者にとって神様は父でありキリスト教会は母なのです。「ヨハネの第二の手紙」ではこのような教会についてのイメージは各地に散在する個々の教会にも当てはまるものとされています。キリスト信仰者は決して孤独に陥ることがありません。いつも変わることなく神様の家族の一員となっているからです。古来より言われているように、キリスト教会を自分の母として持たない人は、神様を自分の父として持つこともありません。この短い手紙は各地に散在する個々のキリスト教会の重要性を強調するとともに教会の果たすべき務めも明示しています。

私たちは互いに愛し合います 「ヨハネの第二の手紙」4〜6節

手紙の執筆者は隣人愛を強調します。この主題は「ヨハネの第一の手紙」にも繰り返し登場しています。ところで、ここで言う「愛」とはどのようなものなのでしょうか。「愛」と名付けられている活動のすべてが愛であるとはかぎりません。

「父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛であり、あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが、すなわち、戒めなのである。」
(「ヨハネの第二の手紙」1章6節、口語訳)

何かしら理由があってこの手紙の執筆者は愛とは何かを改まって明確に述べています。その理由が何であったのかはわかりませんが、私たちが生きている現代においてもこの御言葉は実に痛いところを突いてきます。例えば近年のフィンランドでは愛と聖書の戒めとを正反対のものと決めつける傾向がしばしば見られます。この考え方によれば、いざ愛が必要とされるときには、聖書およびその教えている善悪の基準は片隅に退けられるべきであるとされます。しかし、このような観点はさきほど述べた「ヨハネの第二の手紙」による愛の定義とは相容れません。標語的に言えば、神様が愛であり愛は神ではありません。もしも愛についての私たちの理解が聖書の教えから外れているのならば、それは聖書にではなく私たち人間の理解の仕方に起因しています。

異端の教師たちを追い出しなさい 「ヨハネの第二の手紙」7〜11節

「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。」
(「ヨハネの第二の手紙」7節、口語訳)

そもそもこの手紙が書かれたのは異端の教師たちの存在が関係しています。彼らは行く先々の各地のキリスト教会において、使徒たちから継承されてきた正しい信仰に反対し、間違った教えを喧伝して回っていたのです。彼らがはたしてどのようなことを教えたのか、その具体的な内容は正確には知られていません。しかし「ヨハネの第二の手紙」からわかるように、彼らはイエス様がこの世にお生まれになったキリストであることを認めていませんでした。それだけでも彼らの教えが異端であった十分な証拠になります。おそらく彼らはイエス様が真の人間としてこの世にお生まれになったことや十字架にかけられ死なれて三日目に死者の中からよみがえられたことをも否定したのだろうと思われます。

「この教を持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。そのような人にあいさつする者は、その悪い行いにあずかることになるからである。」
(「ヨハネの第二の手紙」10〜11節、口語訳)

教会が受けたこの指示には曖昧な解釈の入り込む余地がありません。異端を教える教師を説教者として教会に迎え入れてはならないのです。教会は一丸となって異端教師たちを拒絶しなければなりません。このような偽教師たちに自宅の扉を開く者は彼らの罪に加担してしまうことになります。異端は危険です。それゆえ、細心の注意をもってキリスト教会の外に締め出さなければなりません。厳しく聞こえる指示ですが、実際の対処の仕方を見ていくと、その冷徹さにも相応の理由があることがわかると思います。

キリスト教会を各地の都市に新規に設立することは他所からの来訪者には決して容易ではないことを最初の世代のキリスト信仰者は実体験から身に染みてわかっていました。しかし、もしもその都市を訪れた福音伝道の教師に、たとえたったひとりであろうとも自宅の扉を開いて彼を受け入れてくれる理解者が見つかるならば、その地での宣教活動は格段にやりやすくなります。その一方で、キリスト信仰者が皆、上掲の御言葉の指示に従う場合には、異端教師は自分を受け入れて活動の拠点にできる家をまったく見つけることができず、広場の片隅などで孤独に活動することを余儀なくされます。

この短い手紙は根本的に考えることを促す内容を多く含んでいます。例えば牧師や他の教会職員の給料が教会税で支払われているフィンランド福音ルーテル教会の中にはいろいろな考え方をする人々が混在しており、それは教会としての活動方針にもかなりの影響を与えています。国内各地に散在する教会には好き勝手なことを教えている牧師たちもいます。彼らは聖書の教えから外れるようなことを平気で教えているのです。教会税で賄われる国民教会の雇用制度があるために、彼らはそのようなことをしても職を失う心配がありません。もちろんその一方では、この教会にはまだ聖書の御言葉にしっかりとつながっている教師たちもいます。しかし、彼らは今やすでにかなりの少数派になっており教会内外からの様々な批判や圧力にさらされています。互いに相入れない様々な要素を内包している教会の一体性を外面的にでも保つための方策としてしばしば引き合いに出されるのが「花ならなんでも咲かせておけ」という古くからある放任主義です。たしかに暫定的な措置としてなら、それもありうるのかもしれません。しかし、このような解決策は聖書の教えとは異なるものであることを強調しておきたいと思います。このことに関して「ヨハネの第二の手紙」はイエス様の次の御言葉に従う立場を鮮明にしています。

「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。」
(「マタイによる福音書」15章13節より、口語訳)

終わりの挨拶 「ヨハネの第二の手紙」12〜13節

手紙の執筆者は最後に短く挨拶を記し、「選ばれた婦人」すなわちその地の教会をもうすぐ直接訪問したいという希望を述べています。この手紙で教会を諭している人物は他の者たちから非難を受けるところがないような立派な権威をもつ者です。「長老」である彼は手紙でわざわざ自己紹介をする必要がありませんでした。彼には使徒としての権威があり、多くの「選ばれた婦人」の姉妹たち、すなわち他の各地の諸教会が彼の教えを受けたことがあったのは間違いありません。