「ユダの手紙」ガイドブック まどわされてはいけない!

執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

聖書の翻訳は原則として口語訳に従っています。
日本語版にはある程度の編集が加えられています。
「節」のみが記してある聖句は「ユダの手紙」からの引用です。

はじめに

イエス様の弟の書いた手紙

ユダとは誰か?

「ユダの手紙」の執筆者は次のように自己紹介しています。

「イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。」
(「ユダの手紙」1節、口語訳)

ユダヤ人は自分の父親を通して「自分は誰それの息子である」というように自己紹介するのがならわしです。この手紙の例外的な自己紹介のやりかたは執筆者ユダの謙遜のあらわれであるとみなされることもあります。はっきりしているのは、ここでユダは自分が「イエス様の弟」であることよりも「イエス様の僕」であることのほうを強調しているということです。

このユダは「イスカリオテのユダ」でもなければ(「タダイ」と同一人物とされる)「ヤコブの子ユダ」でもありません(「ルカによる福音書」6章16節、「マタイによる福音書」10章3節、「マルコによる福音書」3章18節)。

「そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った、「あなたがしておられるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです。自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」。こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである。」
(「ヨハネによる福音書」7章3〜5節、口語訳)

このユダは上掲の箇所からもわかるように、イエス様が生きている間は実兄を神様の御子とは信じておらず、イエス様の十字架の死と復活の起きた後でようやくキリスト信仰者になりました(「マタイによる福音書」13章55節、「マルコによる福音書」6章3節、「使徒言行録」1章14節)。

なお「コリントの信徒への第一の手紙」9章5節によれば、ユダにはキリスト信仰者の妻がいました。

このユダは西暦62年に実の兄弟であるヤコブが殉教の死を遂げた後、およそ二十年間にわたってエルサレムの教会の指導者として活躍しました。

「ヤコブの手紙」の執筆時期

「ヤコブの手紙」の執筆時期については西暦65〜80年頃と推定されることが多いようです。全部で25節からなる「ユダの手紙」の15節分には「ペテロの第二の手紙」2章の中に対応しているとみなせる箇所を見出すことができます。もしも「ペテロの第二の手紙」2章が「ユダの手紙」からの引用であるとするならば、「ユダの手紙」が書かれたのは、候補として挙げられるいくつかの執筆時期の中でも早いほうの時期であったと考えるのが自然になります。しかし「ユダの手紙」と「ペテロの第二の手紙」2章との相互関係を確定することは困難です。両者が別の共通の資料に基づいて書かれたと推定することもできるからです。

上記の推定に批判的な研究者たちは「ユダの手紙」の執筆時期をもっと遅い西暦90〜130年頃と考え、ユダ自身ではなく第二あるいは第三世代の無名のキリスト教徒がこの手紙の執筆者であったと推定します。その根拠として度々持ち出されるのが、「ユダの手紙」の書かれた時期の教会の状況は西暦100年頃の教会の状況を反映しているという仮説です。しかし「使徒言行録」の記述を除けば最初期の教会の歴史的状況については殆ど知られていません。使徒教父の一人であるローマのクレメンスが西暦96年に書いた手紙の中に「ユダの手紙」が引用されているという主張にも解釈の余地があります。要するに当時の教会の状況と比較することで「ユダの手紙」の執筆時期を推定しようとするのは確実性を欠くやりかたなのです。

「ユダの手紙」がどこで誰に宛てて書かれたかについてはわかっていません。
 「ユダの手紙」の原文は良質のギリシア語で書かれており、そこには古風な言い回しも散見されます。

「ユダの手紙」は当時の教会の内部に広がりを見せていた異端を告発しています。この異端は性的な不道徳を伴うものであり(7〜8節)、教義的には「御使」が中心的な役割を占めていたと考えられています(9節)。この異端はグノーシス主義の一派だったのではないかという主張もよく聞かれます。しかしこの異端について知られていることはあまり多くないため、人々を道徳的な放銃さに扇動するような、グノーシス主義ではない何か他の種類の異端だった可能性もあります。

「ユダの手紙」は異端に対して「もしも悔い改めなければ厳しい裁きを受けるぞ」と警告しています。使徒パウロもまた異端教師たちとの戦いを余儀なくされました。例えば「ローマの信徒への手紙」6章1節からは「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきである」と喧伝する異端が存在したことが読み取れます。「コリントの信徒への第一の手紙」5章1〜11節からは「不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者」が教会内にいたことがわかります。

「ガラテアの信徒への手紙」5章1〜6節)からは(割礼を受けることを通して)「律法によって義とされようとする」教会員がいたことがわかります。パウロと同様に、すべてのキリスト信仰者たちも自分の生きる時代の異端と戦いを続けなければなりませんでした。

「ユダの手紙」について、聖書の一冊としてふさわしいかどうかという使徒的な正統性を疑問視する人々もいました。その根拠とされたのはこの手紙の中に旧約外典・偽典からの引用が二つ含まれていることです。9節には「モーセの昇天」からの引用、14〜15節には「第一エノク書」1章9節からの引用が認められるのです。とはいえ、手紙の中に他の文書からの引用をすることと、その引用文を含む元の文書そのものを聖書の正典としてふさわしいとみなすこととは互いにまったく異なります。例えばパウロは異邦人の詩人たちからさえ引用しています(「使徒言行録」17章28節、詩人アラトゥスからの引用)。しかしこれはパウロが彼らの詩自体が聖書の正典にふさわしいと認めているという意味ではありません。

「ユダの手紙」はいわゆる「ムラトリ正典目録」(およそ西暦170年頃成立)にもすでにその名が見られます。この目録は新約聖書に含まれる諸書についての一覧表として現存する最古のものです。すなわち「ユダの手紙」の使徒的な正統性はその頃にはすでに認められていたことになります。

公同書簡 「ユダの手紙」1〜2節

「イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。
あわれみと平安と愛とが、あなたがたに豊かに加わるように。」
(「ユダの手紙」1〜2節、口語訳)

「ユダの手紙」の受け取り手たちは「召された人々」と呼ばれています。ユダが誰に宛ててこの手紙を書いたのかは知られていませんが、何か問題を抱えていた特定のグループを念頭に置いて彼がこの手紙を書いたことは読み取れます。

「公同書簡」という名称はこの手紙が普遍的な内容を扱っているという意味でふさわしいものです。この手紙は神様の敵対者サタンに苦しめられているキリスト信仰者全員に向けたメッセージを含んでいるからです。

神様によって「召された人々」とはキリスト信仰者たちのことです。神様は彼らを救うためにある御業を成し遂げてくださいました。彼らを暗闇から光へと、サタンの圧迫の下から神様の御国へと導き出されたのです。神様によって「召された人々」について新約聖書は「ローマの信徒への手紙」1章1、6〜7節、8章28節、「コリントの信徒への第一の手紙」1章24、26節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章24節、「ヘブライの信徒への手紙」3章1節(「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ」)などで述べています。イスラエルは神様が御自分の民として選ばれ召された民でした(「イザヤ書」42章6節、48章12、15節、49章1節、54章6節)。

「ヤコブ」(1節)はユダの兄弟であり、またイエス様の弟でもありました(「マルコによる福音書」6章3節)。このヤコブは使徒ヤコブとは別の人物であり、使徒ヤコブが殉教の死を遂げた後(「使徒言行録」12章1〜3節)、エルサレムの教会の指導者となりました(「使徒言行録」15章13〜21節)。

「キリストの僕」(1節)は聖書で福音宣教者を意味する一般的な名称です(「ガラテアの信徒への手紙」1章10節、「フィリピの信徒への手紙」1章1節、「ヤコブの手紙」1章1節)。

パウロ(「ローマの信徒への手紙」1章1節)やペテロ(「ペテロの第二の手紙」1章1節)とは異なり、ユダは自分のことを「使徒」とは呼んでいません(「ユダの手紙」17節も参照してください)。

アブラハム(「詩篇」105篇42節)、モーセ(「ネヘミヤ記」9章14節、「ヨハネの黙示録」15章3節)、ダヴィデ(「詩篇」89篇4節(口語訳では3節))、ダニエル(「ダニエル書」6章21節(口語訳では20節))は旧約聖書で「神の僕」として扱われています。

神様の御業はキリスト信仰者の人生の隅々にまで働きかけます。イエス様を救い主と信じている私たちは、かつて神様に召されてキリスト信仰者とされ、今この瞬間も神様に愛されており、これからも守られていきます。

ユダはこの手紙の中でしばしば三つの事柄を一つにまとめて取り扱っています(1節、2節、5〜7節、11節、22〜23節)。このようなやりかたに神様の三位一体性との関連性を汲み取る人々もいます。

あらかじめ明示された裁き 「ユダの手紙」3〜4節

「愛する者たちよ。わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。」
(「ユダの手紙」3節、口語訳)

ユダは異端教師たちが教会にやってきたと聞いて、この手紙に書くべき内容に変更を加えました(3節)。

「聖徒たち」(3節)とは特定のグループではなく、キリスト信仰者全員のことを指しています(「使徒言行録」9章13、32節、「コリントの信徒への第二の手紙」1章1節(「アカヤ全土にいるすべての聖徒たち」)、「エフェソの信徒への手紙」1章1節、「ヨハネの黙示録」5章8節)。

「ひとたび伝えられた信仰」(3節)とは福音のことです。私たちを救おうとされている神様の御心が福音以外の形で聖書に啓示されることはありません。福音こそが神様による最終的な啓示なのです。多くの異端の教えは聖書を尊重するそぶりを見せながら聖書の上位に新奇な啓示を加えます(例えばコーランやモルモン経など)。宗教改革者マルティン・ルターはローマ・カトリック教会が非聖書的な伝統を重要視した点にそれと同種の異端が潜んでいることを見抜きました。

「伝えられた」(3節)はギリシア語で「パラディドーミ」という動詞(の受動態アオリスト分詞形)であり、新約聖書ではその名詞形「パラドシス」と共に神様の啓示について語られるときに頻繁に用いられる表現です(「ルカによる福音書」1章2節、「使徒言行録」16章4節、「コリントの信徒への第一の手紙」11章2節、15章3節、「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章6節、「ペテロの第二の手紙」2章21節)。

「そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。」
(「ユダの手紙」4節、口語訳)

「しのび込んできて」(4節)という表現は政治的な意味でも用いられています。キリスト信仰者たちを異端に惑わすという不純な動機に基づいて行動していた異端教師たちのことをユダはキリスト教会の中でのさばらせておくわけにはいきませんでした。

「昔から予告されている」裁き(4節)とは、神様をないがしろにしている悪者たちに対して旧約聖書が宣告した裁きのことか、あるいは「ユダの手紙」の後の箇所(8〜16節)に出てくる旧約聖書外典・偽典による裁きのことであると思われます。

「ユダの手紙」は神様をないがしろにしている悪者についてギリシア語の「アセベウス」およびその動詞形や抽象名詞形を用いて4回言及しています(「不信仰な人々」(4節)、「不信心な者」と「不信心な罪人」(15節)、「あざける者たち」(18節))。彼らは神様の祝福を呪いに変えてしまった人々です。

神様はイエス様のゆえに私たちの罪を赦してくださいました。ところがこれを曲解して、自分が罪を行い続けることを罪の赦しの「恵み」を引き合いに出して弁護したり正当化したりする人々が現れたのです。彼らは「恵み」の本当の意味を誤解したか、あるいは神様の御意思を自分なりに理解したのにあえて従おうとしなかったのです。次の引用箇所からもわかるように、使徒パウロもまたこのような異端と戦うことを余儀無くされました。

「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。」
(「ローマの信徒への手紙」6章1〜2節、口語訳)

神様による裁きの三つの例 「ユダの手紙」5〜7節

「あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。」
(「ユダの手紙」5〜7節、口語訳)

「ペテロの第二の手紙」の2章には神様による裁きについて次のような三つの例が挙げられています。

「神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。また、古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。(この義人は、彼らの間に住み、彼らの不法の行いを日々見聞きして、その正しい心を痛めていたのである。)」
(「ペテロの第二の手紙」2章4〜8節、口語訳)

神様による裁きの例として挙げられているのは上掲のペテロの手紙の箇所ではノアの洪水ですが、それと内容的に対応する「ユダの手紙」の次の箇所ではイスラエルの民の荒野での彷徨になっています。

「あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。」
(「ユダの手紙」5節、口語訳)

この節のギリシア語原文では「すべて」(「パンタ」)という言葉が用いられています。「じゅうぶんに知っていることではあるが」は直訳すれば「すべて知っていることではあるが」になります。この「すべて」とは神様の救いの出来事について私たちが知っておくべきすべてのことを意味しています。主なる神様は御自分の民を隷属の地から救い出されましたが、その一方では、民の中に現れた不信仰な者たちを荒野での彷徨の時期に滅ぼされたのです。

ユダが最大の罪とみなしている罪が性道徳にかかわるものではなく信仰を捨てること、すなわち「イエス・キリストを否定すること」(4節)である点に注目しましょう。上掲の「ユダの手紙」5〜7節でも不信仰の罪が最初に挙げられています。とはいえ時間的な順序に従うなら、神様による裁きは、まず堕落した御使たちに、次に淫行にふけり不自然な肉欲に走った者たちに、そして最後に不信仰な者たちに下されています。

旧約聖書によればエジプトから救い出された御民のうちで生きてそのまま約束の地に辿り着くことができたのはカレブとヨシュアのたった二人だけです(「民数記」14章6〜9、20〜24節)。

「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。」
(「ユダの手紙」6節、口語訳)

この節は堕落した御使たち、悪霊たちの存在を指摘しています。ここでユダが示唆しているのはルシファーが堕落してサタンになったことか(「イザヤ書」14章12〜15節、「エゼキエル書」28章11〜19節)、あるいは洪水の前に起きた御使たちと女たちとの間の婚姻(「創世記」6章1〜4節)のことだと思われます。大半の聖書研究者が支持している後者の解釈に従うならば「ユダの手紙」5〜7節の二番目と三番目の例は性道徳にかかわる裁きということになります。これはユダの時代の異端教師たちが性的に「放銃な生活」(4節)を送っていたことを考えるともっともな説明です。

死海に隣接する平野部の五つの町のうちでゾアルだけが滅亡を免れました。御使たちがロトの家族にその町に逃げ込む許可を与えたからです(「創世記」19章18〜22節)。ソドムとゴモラだけではなくアデマとゼボイムも滅亡しました(「申命記」29章23節)。ゴモラそして特にソドムは神様の裁きによる滅亡の凄まじさを表す比喩として後の時代には一般的に用いられるようになりました(「イザヤ書」13章19節(「国々の誉であり、カルデヤびとの誇である麗しいバビロンは、神に滅ぼされたソドム、ゴモラのようになる。」)、「エレミヤ書」49章18節、「エゼキエル書」16章46〜58節、「アモス書」4章11節(「「わたしはあなたがたのうちの町を神がソドムとゴモラを滅ぼされた時のように滅ぼしたので、あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようであった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と主は言われる。」)、「マタイによる福音書」11章24節、「ルカによる福音書」17章29節、「ローマの信徒への手紙」9章29節、「ヨハネの黙示録」11章8節)。

「ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。」
(「ユダの手紙」7節、口語訳)

ソドムとゴモラの犯したひとつの罪は同性愛でした(「創世記」19章5節、「ペテロの第二の手紙」2章10節、「レビ記」18章22節)。もちろんこれらの町の住人たちの罪がこれだけではなかったのは明らかです。

パウロによれば、コリントの教会にはかつて同性愛者であった人々がいました(「コリントの信徒への第一の手紙」6章9〜11節)。聖書が禁止しているのは同性愛そのものではなくその「誤用」だけであると主張する傾向が現代の多くの聖書研究者にはみられます。しかしこのように教会が教え始めるならば、聖書の他の多くの箇所についてもそれを否定したり現代的に「再解釈」したりするほかなくなります。

神様による裁き 「ユダの手紙」8〜16節

「しかし、これと同じように、これらの人々は、夢に迷わされて肉を汚し、権威ある者たちを軽んじ、栄光ある者たちをそしっている。」
(「ユダの手紙」8章、口語訳)

この節でユダは異端者たちのことを「夢に迷わされて」いる者(ギリシア語で「エンフュプニアゾメノイ」)と呼んでいます。これは、一般的に異端教師たちが(夢から得た)幻を重視していたからであるという意味にもとれますし、あるいは、彼らが旧約聖書の実例を通して学べるはずの真実から目を逸らし「夢に迷わされて」いるだけであるという意味であるとも理解できます。

旧約聖書では「夢見る者」が預言者を指している場合も当然あります(「「申命記」13章1〜5節、「エレミヤ書」23章16節および32節、「ゼカリヤ書」10章2節)。

「御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであった。」
(「ユダの手紙」9節、口語訳)

ミカエル(ヘブライ語で「誰が主のようであるか」という意味の名前)は七大天使の一人であり、イスラエルの守護天使を務めています(「ダニエル書」10章12〜14節、12章1節、「ヨハネの黙示録」12章7〜9節)。

教父オリゲネスによれば、上掲の節は旧約外典・偽典に含まれる「モーセの昇天」からの引用です。この書物は現在一部分のみが現存していますが、それにはユダが引用したとされる問題の箇所は含まれていません。また他の教父たちも「モーセの昇天」について度々言及しています。それらの証言を合わせて考えると、この書物の全体像はおおよそ次のように再構成することができます。

サタンはモーセを告発します。それによるとモーセの罪状は殺人か(「出エジプト記」2章11〜15節)、あるいは神様の御意思への反抗か(「民数記」20章1〜13節)のどちらかです。このような罪を犯したモーセは天国ではなく地獄に行くべきであるとサタンは糾弾します。しかし大天使ミカエルは自らモーセに裁きを下すことはせず、神様に全面的にお委ねしました。

また別の解釈によれば、ミカエルが裁きを下そうとしなかった相手はモーセではなくサタンでした(サタンが大祭司ヨシュアを告発している「ゼカリヤ書」3章1〜2節を参照してください。)。

復讐について新約聖書は次のように教えています。

「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。」
(「ローマの信徒への手紙」12章19節、口語訳)。

旧約聖書は「モーセの昇天」の出来事について一切言及していませんが、死んだモーセを主なる神様が埋葬なさり、その墓がどこにあるかを知っている者は誰一人いないことは述べています(「申命記」34章5〜8節)。

「しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。」
(「ユダの手紙」10節、口語訳)

異端を妄信する人々は真の神様や超自然的な事象について何も知りません。これらは神様の御霊によってのみ知ることができる事柄だからです(「コリントの信徒への第一の手紙」2章14節)。グノーシス主義者たちは「奥義の知識」(ギリシア語で「グノーシス」)の所有者であるという自負を持っていましたが、ユダはそれが妄想に過ぎないことを明らかにしました。彼らはさながら「分別のない動物」のように本能と衝動(例えば性的欲望)に振り回されていただけなのです。

「ユダの手紙」のこの箇所は現代にも通じるものがあります。理性によって理解可能な「宗教」は現代でもしばしば喧伝されています。しかしこのような「信仰」は真の信仰ではなく知識に過ぎません。これでは人は理性によって理解できないことを信じられるようにはならないからです。

「彼らはわざわいである。彼らはカインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである。」
(「ユダの手紙」11節、口語訳)

この節は神様が下された裁きの例を新たに三つ挙げています。

1)カインは神様の御意思に背きました(「創世記」4章6〜8節)。ヨハネは次のように警告しています。

「わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。」
(「ヨハネの第一の手紙」3章11〜12節、口語訳)。

2)バラムはイスラエルの民をとうとう罪に堕落させることができました(「民数記」25章1〜3節、31章16節)。「ヨハネの黙示録」のペルガモにある教会の御使宛のメッセージには次のように記されています。

「しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。」
(「ヨハネの黙示録」2章14節、口語訳)。

3)コラはイスラエルの民を二分させることができました。民の一部がモーセに対して公然と反旗を翻すように仕向けたのです(「民数記」16章)。

「ここに、レビの子コハテの子なるイヅハルの子コラと、ルベンの子なるエリアブの子ダタンおよびアビラムと、ルベンの子なるペレテの子オンとが相結び、イスラエルの人々のうち、会衆のうちから選ばれて、つかさとなった名のある人々二百五十人と共に立って、モーセに逆らった。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らって言った、「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」。」
(「民数記」16章1〜3節、口語訳)

この箇所でも三つの出来事が時間的な順序に従って列挙されていない点に注目しましょう。順序通りに考えればコラの出来事は二番目にくるはずですが、この箇所では最後の三番目に移されています。それはコラの罪がとりわけ重大なものであったことを強調するためでした。コラは神様に選ばれた指導者モーセとアロンに反抗し、彼らの代わりに自分が神様の民の指導者に成り上がろうとしました。その結末は人が神様に反抗するとどうなるかを如実に示しています。神様への反抗は死をもたらすのです。

カインは人類で最初の殺人者となりました。異端教師たちは自分の弟子たちを永遠の死に陥れることによって霊的に殺してきたとも言えます。私たちはカインの捧げ物が神様に喜ばれなかったことを覚えておくべきです。異端者は、たとえどれほど外面的に素晴らしく見えることを行ったとしても、神様には決して受け入れていただけるようにはなりません。

バラムは金銭欲のために行動しました(11節、「民数記」22章7、16〜17節、「申命記」23章5節)。ユダの時代の異端教師たちも私益を追求しました(11、16節)。ビジネス業に変質した宗教はもはや正しい信仰を伴わない見せかけだけの偽物です。神様が望んでおられるのは「御自分のものたち」に良い賜物を与えることであって、彼らから逆に何らかの貢物を要求することではありません。

「彼らは、あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、自分の恥をあわにして出す海の荒波、さまよう星である。彼らには、まっくらなやみが永久に用意されている。」
(「ユダの手紙」12〜13節、口語訳)

上掲の箇所の異端教師の描写は「ユダの手紙」の最初の読者たちには現実味を帯びていたと思われます。しかし現代人にはあまり実感が湧かないものかもしれません。

「それを汚し」と訳されているギリシア語の言葉の基本形は「スピラス」といい、新約聖書では一度だけ出てきます。この言葉には「水中に潜んでいる岩礁」という意味もあります。異端教師たちは教会という「船」にとって危険な存在です。船は水面下に隠れている岩礁に突然ぶつかって難破してしまうかもしれないからです。

上の箇所は異端教師たちが教会の外部ではなく内部に潜んでいることも示唆しています。

「愛餐」(ギリシア語で「アガペー」)は聖餐式にかかわる表現です(「コリントの信徒への第一の手紙」11章20〜22節)。

上掲の「ユダの手紙」12節と同様に「エゼキエル書」でも、教会の群れを顧みることなく自分のことばかり考えている偽の牧者たちのことを神様は厳しく断罪しておられます(「エゼキエル書」34章2節)。神様は偽牧者たちを裁かれるのです。

「主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。」
(「エゼキエル書」34章8〜10節、口語訳)。

乾燥した気候の中近東では「風に吹きまわされる水なき雲」は人々に失望をもたらしました。全く頼りにならない約束のようなものだったからです。例えば「箴言」25章14節にも「贈り物をすると偽って誇る人は、雨のない雲と風のようだ。」とあります。

中近東では「実らない枯れ果て」た「秋の木」は火の中に投げ込まれる以外に使い道がないものでした(「マタイによる福音書」3章8〜10節)。

人は皆、罪深い存在としてこの世に生まれてきます。「実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木」という箇所のギリシア語原文には「二度死んだ」(「ディス・アポタノンタ」)という表現が用いられています。これはとりわけ異端教師たちに当てはまります。彼らは罪人として他の全ての人間と同じく霊的に死んだ状態でこの世に生まれてきましたが、新しいいのちに生きるためにキリスト・イエスの死にあずかるバプテスマ(洗礼)を受けてキリスト信仰者となりキリストと共に葬られたのです(「ローマの信徒への手紙」6章3〜4節)。ところが彼らはキリストへの正しい信仰を捨て異端に走りました。この罪のゆえに彼らは霊的な意味で再び死んでしまったのです。また彼らは異端教師としてこの世から死去した後でさらに「第二の死」(永遠の滅び)を迎えることになるのです(「ヨハネの黙示録」2章11節、20章6、14節、21章8節)。

「抜き捨てられた」木はギリシア語原文では「根こそぎ抜き捨てられた」(「エクリゾーテンタ」)木という意味であり、この木が徹底的に滅ぼし尽くされるということが強調されています。

ユダヤ人は航海を生業とする海の民ではありませんでした。また古典古代の世界では人間にとって海は命を奪う敵のようなものとみなされていました。「海の荒波」は波打ち際までくると消えてしまい「あわ」や波の運んできた「泥と汚物」くらいしか残りません(「イザヤ書」57章20節)。

星は古典古代の世界で方角を知るために利用されました。動き続ける「さまよう星」に惑わされて方向感覚を失った旅人は間違った方向に迷い出てしまいます。

「アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言った、「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」。」
(「ユダの手紙」14〜15節、口語訳)

上掲の箇所でユダは旧約聖書外典・偽典に含まれている「第一エノク書」を引用しています(「第一エノク書」6章9節)。この書物が書かれたのは紀元前100年代であると推定されています。旧約聖書によるとエノクはアダムから数えて7代目の子孫に当たります(「創世記」5章18〜24節、「歴代志上」1章1〜3節)。エノクは死なないままこの世から取り去られました(「創世記」5章24節)。

「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章5節、口語訳)。

なおエノクはイエス様の系図にも登場します(「ルカによる福音書」3章37節)。

「彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者である。」
(「ユダの手紙」16節、口語訳)

人間は不平不満が溜まりすぎると、いつ反抗的な行動に出てもおかしくない一種即発の精神状態に陥ります。特に神様に対して不満を抱いている人間は「神よりも自分のほうが物事をよりよく理解しているのだ」などと大言壮語したりします。

「利のために人にへつらう」ように振る舞うことで人々の好意を得るのはたしかに容易かもしれませんが、まやかしの美事麗句では神様をだますことはできません。神様は真実をすべて見抜かれるお方だからです。

助言と奨励 「ユダの手紙」17〜23節

「愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。」
(「ユダの手紙」17節、口語訳)

この節からはユダが自分を使徒とみなしていなかったことがわかります。

「彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。」
(「ユダの手紙」18節、口語訳)

イエス様(「マタイによる福音書」24章23〜28節)もパウロ(「使徒言行録」20章29〜31節、「テモテへの第一の手紙」4章1〜3節、「テモテへの第二の手紙」3章1〜9節)も共に終わりの時に異端教師たちが出現することを予言しています。

「彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。」
(「ユダの手紙」19節、口語訳)

上節に述べられている異端教師の特徴はグノーシス主義者によく当てはまるものです。彼らは御霊を有しているのは自分たちだけであり他の人々は俗人にすぎないと思い込んでいました。それとは逆にユダはグノーシス主義者たちこそ聖霊様を受けていない俗物であると指摘しています。

「しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。」
(「ローマの信徒への手紙」8章9節、口語訳)。

聖霊様を持たない人が救われることは不可能です。

「しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」
(「ユダの手紙」20〜21節、口語訳)

上掲の箇所でユダは人が信仰に留まりつつ成長を続けていくために次のような助言を与えています。

1)キリストという基盤に留まり続けること(「マタイによる福音書」7章24〜27節)。

2)聖霊様によって祈ること。

3)神様の愛の中に自らを保つこと、すなわち神様の御意思に従うこと。

4)目をさましていること(「マルコによる福音書」13章37節)、すなわちキリストの再臨を待ち望み続けること。

また上掲の箇所からは聖書の啓示する神様が父、御子、御霊なる三位一体の神様であることも読み取れます。

「疑いをいだく人々があれば、彼らをあわれみ、火の中から引き出して救ってやりなさい。また、そのほかの人たちを、おそれの心をもってあわれみなさい。しかし、肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌みきらいなさい。」
(「ユダの手紙」22〜23節、口語訳)

異端に陥った人々をユダは三つのグループに分けています。

1)疑いをいだく人々

2)まだ悔い改めができる人々

3)あまりにも深く罪の中に沈んでしまった人々

ユダはこの箇所でキリスト信仰者の視点から異端者たちを分類していることに注意しなければなりません。神様の視点からすれば、救われる見込みのないほどひどい罪人は誰ひとりいません。しかし、あまりにも深く罪の中に沈んでしまった人々を救い出すのは人間であるキリスト信仰者たちには手に負えなくなるケースもあるということです。そういう罪人を首尾よく助け出せるどころか、逆に助ける側の人間もその罪に巻き込まれてしまう危険があるからです。

なお上掲の箇所についてはギリシア語原文を決定するための基礎的な資料となっている諸々の写本の間にかなりの相違がみられます。それは上述のグループ分けにも現れています。口語訳では三つのグループ分けになっていますが、他の翻訳によっては二つのグループ分けになっている場合もあります。

罪のことは徹底的に嫌うべきですが、罪人のことは愛さなければならないというのが聖書の教えの原則です(「ヨハネの第二の手紙」10〜11節)。

「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章1節、口語訳)

あるアメリカ南部の地方(アトランタなど)の方言に翻訳・編集した「聖書訳」(Cotton Patch版)は「ユダの手紙」23節を「手袋をつけて彼らのことを扱いなさい」と意訳しています。現代では病気の感染を予防するために手袋を使用することが一般的になっています。私たちは罪という病に感染するのを避けるために細心の注意を払わなければなりません(「テトスへの手紙」3章10節)。

キリスト教会は霊を見分ける恵みの賜物を今こそ必要としています(「コリントの信徒への第一の手紙」12章10節)。教会の働きかけによって救われる可能性がまだ残っている人ともはや救われる可能性のない人とをこの賜物を用いることである程度見分けられるようになるのは、教会を内側から破壊するために近づいてくる異端から教会を安全に守るためにきわめて重要なことだからです。

最後の讃美 「ユダの手紙」24〜25節

「あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた、すなわち、わたしたちの救主なる唯一の神に、栄光、大能、力、権威が、わたしたちの主イエス・キリストによって、世々の初めにも、今も、また、世々限りなく、あるように、アァメン。」
(「ユダの手紙」24〜25節、口語訳)

ギリシア語原文には24節の冒頭(2単語目)に「デ」(「しかし」)という接続詞がありますが、これは日本語訳には反映されていません。この接続詞はそれに続く文を直前の箇所に結びつける働きをします。残念ながら現代ではこうした小さな接続詞を軽視して訳出しない聖書翻訳が出てきました。

天の御国にはもはや罪が存在しません(「ヨハネの黙示録」22章1〜5節)。天の御国に入るためには私たち人間という罪深い存在は「傷なき者」に変えられなければなりません(「レビ記」1章2〜3節、「民数記」28〜29章)。神様が万物をまったく新たにしてくださることこそが私たちの唯一の希望です(「ヨハネの黙示録」21章5節)。私たちはただたんに自分自身の生活を改善していくだけでは天の御国に受け入れられるようにはいつまでたってもなれません。神様の助けによってのみ私たちは天の御国に入れていただけるのです。このことを決して忘れてはいけません(24節)。自分の力に頼るかぎり誰ひとり天の御国に辿り着くことはできないのです。

神様は力と権威を常に有しておられます(25節)。この世においてサタンと罪がどれほど猛威をふるおうとも(「ルカによる福音書」4章5〜7節)、主イエス・キリストによって栄光、大能、力、権威を今この瞬間も変わらずに持ち続けておられるのは神様なのです。ユダはそのように主を讃美し、この手紙を締めくくっています。

(おわり)