コロサイの信徒への手紙

執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢 (フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

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「コロサイの信徒への手紙」ガイドブック


  • 日本語版はある程度内容的な編集が施されています。
  • 聖書の引用は原則として口語訳によっています。
  • 例えば「1章18〜26節」のように章と節のみを記したものは、それが「コロサイの信徒への手紙」の箇所であることを示しています。


キリストは教会のかしらである

小さな工業町 「コロサイの信徒への手紙」1章

コロサイは南フリギアにあるリュコス川の渓谷、エフェソからシリアに通じる道の傍に位置していました。エフェソまでの距離は約160kmでした。近辺の町にはラオデキヤ(コロサイからの距離は約15km)やヒエラポリス(4章13節)があります。

コロサイ教会はパウロが設立したものではありません。実はパウロはコロサイの町を一度も訪れたことがありません(2章1節)。この教会を設立したのはエパフラスではないかと推測されています(1章7節)。彼は50年代の半ば頃にエフェソにおり、パウロの福音宣教を通してキリスト信仰者になりました。後に彼は故郷のコロサイに戻って教会を設立し、さらにラオデキヤにも教会を設立したと考えられています(2章1節)。

コロサイは毛織物工業の中心地であり交易上重要な街道に面していました。ですからこの町に大勢のユダヤ人が住んでいたのは不思議ではありません。それでもコロサイの教会はキリスト教に改宗する前に異邦人であった人々がその大多数を占めていたと考えられています(2章13節)。

パウロは「コロサイの信徒への手紙」を牢獄の中で書きました(4章3、18節)。この時パウロが投獄されていた場所が60年代初頭のローマであったのはほぼ確実です。「コロサイの信徒への手紙」のいくつかの写本の末尾に「テキコとオネシモの助けによってローマで書かれた」と記されていることもローマ説の正しさを支持するものです。

コロサイの町は61〜62年に起きた地震によって大打撃を受けました。パウロがこの手紙を書いたわずか数年後にコロサイは崩壊したことになります。その後の文献にコロサイに関する記述が見当たらないことから、震災後この町はもはや再建されることがなかったと思われます。

パウロがこの手紙を書いたのはコロサイの教会に広がりをみせていた異端の教えに気をつけるように警告するためでした。この異端は種々の宗教の混合物でした(これは英語で「シンクレティズム」といわれます)。この混合宗教には禁欲主義的な面(2章16節)や天使たちや他の霊的諸力への崇拝(2章18節)も含まれていました。さらに信者は割礼を受けることも要求されたようです(2章11節)。

おそらくパウロはコロサイの教会の直面している困難な状況について彼のもとを再訪したエパフラスから知らされたのでしょう(1章4、7〜8節、4章12節)。

はじめの挨拶 「コロサイの信徒への手紙」1章1〜2節

パウロの五通の手紙にはもうひとりの手紙の差し出し人としてテモテの名前が記されています(「コリントの信徒への第二の手紙」1章1節、「フィリピの信徒への手紙」1章1節、「コロサイの信徒への手紙」1章1節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章1節、「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章1節)。キリスト信仰者になってからというものテモテはパウロに従ってきました(「使徒言行録」16章1〜3節)。

テモテは手紙の代筆者ではなくパウロと共に手紙を送信した人物でした。もしもテモテが代筆者だったのなら、彼の名前は手紙の冒頭にではなく末尾に記されていたはずだからです(例えば「ローマの信徒への手紙」16章22節)。

パウロは神様によって召され権能を与えられた正統な使徒でした。それゆえに彼には自分が設立したのではない教会に対しても正しい教えと助言を与える資格があったのです。パウロは自らの名によってではなく、コロサイの教会の真の設立者、イエス・キリストの御名によって教会に語りかけました。

信仰への感謝 「コロサイの信徒への手紙」1章3〜8節

普通のキリスト教徒であることはたしかに信仰者としての出発点としては正しいものだが、それだけでは人をより優れた真のキリスト信仰者にする「何か」が欠けている、といった考えかたに端を発して様々な異端が現れました。その「何か」の例としてよく挙げられるのは異言や大人の洗礼(再洗礼)です。異言が話せることを優れた信仰者である証拠とみなしたり、幼児洗礼を否定し「信仰者の洗礼」のみを認めたりするという霊的に驕り高ぶった態度がこれらの異端に共通する特徴です。

コロサイでもそれと同じタイプの異端が現れたようです。コロサイの教会の指導者であったエパフラスが信徒たちに教えたことに異端教師たちは別な何かを付け加えようとしたのです。

例えば「パウロが教えていることの全貌をエパフラスはまだあなたたちに伝えていない」などとうそぶきつつ、異端教師たちはパウロとエパフラスの間にも教えに関して食い違う点があることをことさら強調しようとしたのかもしれません。

それに対してパウロはこの感謝の祈りでコロサイの教会では設立以来「人を救う真の信仰」が正しく教え続けられてきたことや、パウロとエパフラスの間には教えの内容に相違がないことを強調しています(8節)。

「ガラテアの信徒への手紙」を除く他のすべてのパウロの手紙は感謝の言葉で始まっています。これは私たちも大いに学ぶべきでしょう。感謝はさらなる感謝、信仰、希望を生み出しますが、不信仰は不満を大きくするばかりだからです。

信仰の中での成長 「コロサイの信徒への手紙」1章9〜11節

コロサイに来た新しい教師たちはエパフラスが福音の全貌を伝えてはいなかったと強弁し、コロサイの信徒たちの信仰を補完するためにやってきたとうそぶいたのです。

パウロはガラテアとコロサイの教会の置かれた状況がまったく同じであることを看破しました。ガラテアの教会の状態については「ガラテアの信徒への手紙」5章1〜6節に述べられています。福音を他の何かによって補完することは不可能です。人間ができるのは福音をそのまま受け入れるかあるいは拒絶するかのどちらかです。福音は「加工」できないのです。コロサイの信徒たちは必要とされる信仰と知識を持ってはいましたが、それらに習熟するためには信仰者として成長しなければなりませんでした。

信仰の中で成長するというのは何かを行うことではなく、イエス様のお近くで生きることであり、どのような状況においてもイエス様に依り頼んでいくことです(11節)。もしもイエス様との生き生きとした結びつきがあるならば、私たちは信仰の中で成長していく力をイエス様からいただくことができます。このためにはさまざまな「霊的な訓練」によって心を紛らわすのではなく、キリストとの生き生きとした結びつきをもつという最重要課題に集中するべきなのです(「ヨハネによる福音書」15章5節)。キリストのうちに留まることによってのみ私たちは信仰の実を結ぶことができるからです(10節)。

キリスト讃歌 「コロサイの信徒への手紙」1章12〜20節

この箇所はパウロの手紙の中にあるキリスト讃歌のうちのひとつです。もう一つは「フィリピの信徒への手紙」2章5〜11節にあります。両方とも手紙が書かれた当時すでに存在した礼拝式文からの引用であろうと推定されています。

パウロは引用した礼拝式文に二つのことを付け加えました。

「そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。」
(「コロサイの信徒への手紙」1章18節、口語訳)

一つ目は18節の「そのからだなる教会」です。

「そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。」
(「コロサイの信徒への手紙」1章20節、口語訳)

もう一つは20節の「その十字架の血によって」です。なお、もう一つのキリスト讃歌の中に含まれる「フィリピの信徒への手紙」2章8節の「しかも十字架の死に至るまで」もパウロが元々の礼拝式文に付加した箇所であると考えられています。

パウロ以前にもこのようなキリスト讃歌がすでにあったことは、キリスト教信仰の最初期からイエス様には神様の特質を表す表現(例えば造り主、全能者、贖い主など)が結びつけられていたことを証しているとも言えます。

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」
(「コロサイの信徒への手紙」1章13節、口語訳)

この13節でパウロは人々が暗闇の力から神様の御子の支配下へと移されたと語っています。現代ではこの事実を認めようとしたがらない人が大多数を占めています。しかし神様の支配と神様に反対する者の支配という二つの支配形態が存在するという真実は今日でも変わっていません。人間はそれぞれどちらか一方に属しています。人間は生まれながらの罪深さ(原罪)のゆえに生まれた時には魂の敵(悪魔)の支配下にあります。しかし次の箇所で述べられているように人間は洗礼を通して神様の支配下に移されるのです。

「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章12節、口語訳)

これと同じ内容についてキリスト讃歌の最後の部分は次のように歌い上げています。

「そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。」
(「コロサイの信徒への手紙」1章20節、口語訳)

この節でパウロは神様と人間たちとの間の和解について述べています。戦争のないところに和解は必要ありません。人間には本質的に神様に敵対する傾向があります。にもかかわらず神様はイエス様による和解の御業を通して人間を救おうと望まれたのです。

キリスト讃歌は二つの部分に分けることができます。両者ともに「このお方は」(ギリシア語の指示代名詞でもあり関係代名詞でもある「ホス」)で始まっています。

第一の部分(13〜18節の前半)はこの世の造り主で支配者なるキリストについて、第二の部分(18節の後半〜20節)は贖い主なるキリストについて述べています。

神様は二重の意味で人間たちの所有者であられると言うことができます。第一に天地創造を通して、第二に贖いを通してです。

キリスト教の誕生後まもなくして異端の教師たちが現れてきました。彼らはイエス様が神ではないある種の神的な人間であると教えました。例えばアリウス派は、イエス様のヨルダン川での受洗後、神様は「人間イエス」の中に住まわれたにすぎず、イエス様がゴルゴタの十字架上で死ぬ前に「人間イエス」から外に抜け出したと教えました。十字架刑で死んだのは「人間イエス」だけであったと彼らは主張したのです。

「イエスは神ではなかった」といった「学問的な主張」が言い広められている現代も残念ながらこの点では昔と変わりません。

イエス様は処女マリアより生まれる以前から存在しておられたと聖書は教えています(いわゆる「キリストの先在」)。例えば「ヨハネによる福音書」1章1節の「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」の「言」とはイエス様のことを指しています。

イエス様が処女からお生まれになったことを否定する者たちは、いつイエス様が神になったのかをきちんと説明しようとしません。もっとひどい例だとイエス様は生まれてからこのかた神となったことはないという主張さえ聞かれます。

ユダヤ教では来るべきメシア(すなわちキリスト)が神であることは予期されていませんでした。ところがイエス様はメシアがダビデの子ではなく主なる神様であるとはっきり示されました(「マタイによる福音書」22章41〜45節)。このため、次の引用箇所で御自分が神の子であることを認めたイエス様をユダヤ教の指導者たちは神様を侮辱した罪で告発し、十字架刑に処そうとしたのです。

「夜が明けたとき、人民の長老、祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き出して言った、「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」。イエスは言われた、「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。また、わたしがたずねても、答えないだろう。しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。すると彼らは言った、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。」
(「ルカによる福音書」22章66〜71節、口語訳)

ユダヤ教ではペルソナ(位格)としての「知恵」についての議論が盛んになされました。この「知恵」なる存在は天地創造に関わっていました(「箴言」8章22〜31節)。キリスト教会は旧約聖書の述べているこの「知恵」が三位一体を構成する一つのペルソナ(位格)であるキリストを意味していると解釈しました。

人の子としてこの世に生まれたイエス様が三位一体なる神様であられるという真理はキリスト教信仰とユダヤ教を今日も依然として互いに分け隔てています。

「神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。」
(「コロサイの信徒への手紙」1章19〜20節、口語訳)

このようにキリスト讃歌はイエス様がすべての人のすべての罪を帳消しにしてくださったと結論しています。御自分の犠牲死と死者の中からの復活によってイエス様は罪の赦しと罪や死や悪魔からの解放という救いを全人類に用意してくださいました。このことをそのまま信じて受け入れることで誰でも救いを「自分のもの」としていただくことができるのです。

しかしイエス様が神様とすべての人間の間に和解をもたらしてくださったという真理と、すべての人間が救われるのかという問題とははっきり区別しなければなりません。イエス様が用意してくださった救いを人間が不信仰によって拒絶することは起こり得るからです。イエス様が不信仰な人々の罪のためにもゴルゴタの十字架で死んで神様との和解を用意してくださったにもかかわらず、彼らは自らの不信仰のゆえに神様と永遠に分たれ地獄に陥ることになってしまうのです。全世界の罪はイエス様の御業によってすべて帳消しにされています。しかし人間全員がこの和解を自分のためになされたこととして受け入れて救われるのではありません。

イエス様がすべての人のすべての罪を帳消しになさったということは、もはや他の調停者や救い主が必要ではなくなったという意味でもあります。イエス様は神様によって選ばれた唯一の救いの道だからです。コロサイに現れた異端教師たちの喧伝した間違った教えも含めて、イエス様以外のすべての「救いの道」は人間が勝手に捏造した偽物にすぎません。

「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)

過去、現在、未来 「コロサイの信徒への手紙」1章21〜23節

人がイエス様を救い主として信じるようになったことを皆の前で証する時、「以前の私は(・・・)であったが、キリスト信仰者となった今の私は(・・・)である」という構成の話しかたになることが多く見られます。すでに指摘した通り、人がキリスト信仰者となることは人が魂の敵の圧制下から神様の支配下に移行するという意味があります。それゆえこのような話の構成の仕方は適切であると言えます。パウロはこの箇所でやはりこの構成に沿って書き進めています。しかし彼は「現在」についてばかりではなく、これからどのようなことが起こるかという「未来」についても語っています。

この箇所は次の三つに分けることができます。

1)過去(21節)
2)現在(22節)
3)未来(23節)

「あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。」
(「コロサイの信徒への手紙」1章21節、口語訳)

この節はコロサイの信徒たちの大多数が元々は異邦人であったことを示唆しています。もちろんユダヤ人たちも「神様の敵」であるかぎりは上節の例に該当しますが、2章13節から判断するかぎり、ここでは異邦人について述べられていると考えるのが妥当です。

「しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。」
(「コロサイの信徒への手紙」1章22節、口語訳)

私たちがキリスト信仰者となったのは私たち自身の中にそれを可能にするような特別な何かがあったからではありません。ゴルゴタで起きた出来事こそがそれを可能にしたのです。このことをキリスト信仰者は決して忘れるべきではありません。

キリスト信仰者として生活し成長することもゴルゴタの出来事に密接に結びついています。この正しい基盤に留まらないかぎり、基盤の上にある「建物」は、たとえそれがどれほど素晴らしい資材から造られていようとも、神様に認めていただけるようにはなりません。このことをイエス様は次のたとえで教えておられます。

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。」
(マタイによる福音書7章24〜27節、口語訳)

人がキリスト信仰者にふさわしい聖なる生活をしようと努める時には次の二つの危険が伴います。第一に、聖化は全くキリスト信仰者自身にかかっていると考えるようになる危険です。ところが人が自力でキリスト信仰者としての生活を送ろうとしてもうまくいきません。私たちが自力で罪に立ち向かうことはできないからです。罪との戦いは聖霊様の助けによってのみ可能になるものです。宗教改革者マルティン・ルターは小教理問答で次のように教えています。

「第三条 聖化について  
聖霊を私は信じます。
また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。

これはどういうことですか?

答え。自分自身の理性や能力によっては私の主イエス・キリストを信じることも、その御許に行くこともできないことを私は信じます。それに対して聖霊様が地上のすべてのキリスト信仰者を召し集め、照らし、聖とし、イエス・キリストの御許において唯一の正しい信仰のうちに保ってくださるのと同じようにして、聖霊様は福音を通して私を召し上げ、その賜物をもって私を照らし、正しい信仰のうちに私を聖とし、保ってくださることを私は信じます。キリスト信仰者たちの中において聖霊様は私とすべてのキリスト信仰者に対して日々すべての罪を豊かに赦し、そして終わりの日に私と死者全員をよみがえらせ、キリストを信じるすべての人々と並んで、私にも永遠の命を与えてくださいます。これは確かに本当のことです。」

第二の危険は、完全な人間など一人もいないのだから神様はどのみち罪を赦してくださるはずだ、と考えて自らの罪深さを過小評価するようになることです。人は信仰の基盤の上にしっかりと留まり続けるべきなのです。魂の敵の圧制下に逆戻りすることがあってはなりません。パウロは特に「ローマの信徒への手紙」の6章で人がどのようなものに隷従しているかはその人の生き方から見えてくると教えています(「ローマの信徒への手紙」6章15〜23節)。

聖化の基盤であるキリストにしっかりと留まりましょう。

使徒の使命 「コロサイの信徒への手紙」1章24〜29節

神様はダマスコへ向かっていたタルソ人パウロを異邦人の使徒として召されました。そしてパウロがキリストを証する使命のゆえに迫害を受けて苦しむことになるとも言われました(「使徒言行録」9章16節)。この世は福音を受け入れようとしないため、いわば当前のようにキリスト信仰者たちを迫害するのです。特に迫害の対象となるのは公に福音とキリストを宣べ伝える人々です。

パウロは自分には二つの使命があると見ていました。第一にキリストをすべての人々に宣べ伝えなければなりません(27〜28節)。第二にキリスト信仰者たちが神様のすべての奥義を知るように教えなければなりません(25〜26節、28節の後半)。たとえ人々に福音を伝えたとしても、そのあと彼らに教えるのを怠るならば伝道した意味がなくなるからです。イエス様は次のように教えておられます。

「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。」
(マタイによる福音書12章43〜45節、口語訳)

救いにあずかれるように新しい人々をキリストの御許に招かなければなりません。しかしまたキリスト信仰者になったばかりの人々に正しい教えを与えることも忘れてはいけません。宣教においてはそのどちらも必要なことです。

「神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。」
(コロサイの信徒への手紙1章27節、口語訳)

キリストにおいてのみ未来と希望があります。キリスト教会としても個々のキリスト信仰者としてもこのことは変わりません。