コロサイの信徒への手紙3章  衣を脱ぎ捨てることと衣を身につけること

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢 (フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

コロサイの信徒への手紙3章をオンラインで読む


ほとんどすべてのパウロの手紙においてその前半部は「教え」であり後半部は「奨励」になっています。これら二つの間にはいつも明確な境界線を引けるわけではありません。「教え」の箇所は「このようにしなさい!」という「奨励」を含意している場合が多いからです。

「コロサイの信徒への手紙」の3〜4章は実践的なキリスト信仰者にふさわしい生活のありかたについて教えています。

キリストにおける新しい生活 「コロサイの信徒への手紙」3章1〜4節

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章1節、口語訳)

信仰はたんなる頭の中の知識ではなく人間をその振る舞いかたも含めて根本的に変革するものであるとパウロが常に考えていたことを上の節は示しています。教えと生きかたは分かちがたくひとつに結びついているものだからです。例えば次のようにパウロは教え奨励しています。

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」
(「ローマの信徒への手紙」12章1節、口語訳)

「さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」
(「エフェソの信徒への手紙」4章1節、口語訳)

もしも私たちがキリストの側に立っているのであれば、私たちは「上にあるもの」を求めなければなりません。様々な状況の中に自分が置かれた時には「もしもイエス様がちょうどいま私の隣に立っておられるなら私はどのように行動するだろうか」と考えてみてください。イエス様が次のように言われている通りに本当にイエス様はいつも私たちの隣におられるのです!

「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」
(「マタイによる福音書」28章20節、口語訳)

もしも私たちが勝利者なるイエス・キリストの側に立っているのであれば、敗北者である魂の敵(悪魔)の側につく理由も意味もまったくなくなります。

「あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章2節、口語訳)

信仰はたんなる頭の中の知識ではありませんが、知識であるのもたしかです。信仰のない人々が評価できない何か神秘的で内的な知識にすぎなくなった「信仰」は本来のキリスト教信仰とはまったく別物です。救いの歴史の出来事はすべての人々に対して開かれている公のものであり、誰か特定の個人や団体の占有物ではありません!

「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章3〜4節、口語訳)

パウロはキリスト信仰者と非キリスト信仰者の間にある根本的な差異を極めて深刻なものと受け止めています。キリスト信仰者は「いのちの側」におり、非キリスト信仰者は「死の側」にいるのです。今この瞬間は両者ともにまったく同じように生きているように見えますが、キリストの再臨が起きる時、あるいは、私たちが死んでキリストの御前に出る時、実際に私たちがどちらの側についていたのかが明らかにされます。

この世では誰がいのちと死のどちら側にいるのかという境界線を引くことは人間にはできません。それを御存知なのは神様だけです。

「また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。」
(「マタイによる福音書」13章24〜30節、口語訳)

古い人の生き方を脱ぎ捨てよ 「コロサイの信徒への手紙」3章5〜11節

パウロはキリスト信仰者としての生きかたについて今までよりも詳しい助言を与えるにあたり「何をしてはいけないか」という禁止事項についてまず教え始めます。「何をしてはいけないか」を知ることは「何をするべきか」を知ることと同じように重要です。魂の敵は私たちの目を眩ますことに長けており、その影響で何が神様の御意思かを理解する力が私たちから失われてしまう場合さえ起こりえます。

「互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章9〜10節、口語訳)

古い人を脱ぎ捨てて新しき人を着ることは洗礼にかかわりのある表現です。洗礼はキリストの死に与ること(脱ぎ捨てること)だけではなくキリストの復活に与ること(着ること)でもあります。

自分の生きかたにおいて「キリストを求めること」と「悪の諸力を死なせること」は常に一緒に行われていきます。このことを心に刻みましょう。一方なしではもう一方もありえないのです。キリストなしで私たちは悪に勝利することができません。私たちの人生においてキリストが何も達成なさらないままになることは決してありません。キリストは常に罪に対して戦いを挑まれます。人間の内部で真の戦いが始まるのは古い人に代わってキリストが魂の敵に対抗するようになってからです。古い人と魂の敵は容易に意見が一致しますが、キリストと魂の敵の間にそのような協調関係が生じることは決してありません。

「だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章5節、口語訳)

この節にある悪徳の一覧にある最初の四つの悪徳(不品行、汚れ、情欲、悪欲)は人間の性的側面に、第五の悪徳(貪欲)は金銭欲や所有欲に関わるものです。

イエス様は山上での説教で、人間は神様と富という二人の主人に仕えることができないと教えられました(「マタイによる福音書」6章24節)。聖書は人間のもつ性的側面や富が人間と神様との間に本来あるべき健全な関係を壊してしまう「偶像」になる危険があるものとみなしています。

これはしかし性と富がそれ自体として悪や罪であるという意味ではありません。これらは正しく用いられるかぎり神様からの素晴らしい賜物ですが、誤用されると人生を狂わせて人を隷属させてしまう「偶像」に等しいものになるのです。その実例を探すのに手間はかかりません。

このことはパウロの教えが今でもなおまったく古びていないことを私たちに思い起こさせます。この世界は二千年の間に数多くの変化を経てきましたが、人間の基本的な性質は変わることがありませんでした。

よく言われることですが、どのような罪が人間を最も誘惑するかはその人の年齢によって変わってきます。例えば男性の場合、青年にとっては性に関わる罪、中年にとっては金銭、壮年にとっては世間の評判と名誉です。これは女性の場合も同じなのではないでしょうか。

キリスト信仰者は真実を話さなければならず、互いにうそを言ってはいけないし、他の人について偽証してもいけません(3章9節)。パウロとヤコブの教えの内容はここでふたたび見解が一致しています(「ヤコブの手紙」3章1〜12節)。

「そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章11節、口語訳)

上節の「そこには」の「そこ」とは何を指しているのでしょうか。天国のことでしょうか、それとも(3章9〜10節にあるような)この世でのキリスト信仰者としての生活のことでしょうか。

パウロの考えていることは明瞭です。すでにこの地上においてキリスト信仰者たちはキリストにおいて一つとなっているということです。これは皆が互いに似通っているとか同じものになっているという意味ではなく、皆に共通の基盤があるという意味です。その基盤とは、私たちキリスト信仰者は皆、神様がつくり、あがなってくださった存在であるということです。もちろんこの世の時においてはキリスト信仰者たちの間にもさまざまな垣根が依然として残っています。しかし本来はそうあるべきではないのです。

初期の教会は当時の社会において例外的な存在でした。そこではさまざまな垣根が取り払われていたのです。ユダヤ人とギリシア人の間には違いがありませんでした。「未開の人」とはギリシア語で「バルバロイ」(複数形)といい、当時の共通言語であるギリシア語を解さない人々を指しています。このいわゆる「無教養な人々」も教養のあるギリシア人たちとまったく同じようにキリストのからだの一員として神様に承認されたということです。残酷さで悪名高い「スクテヤ人」をユダヤ人歴史家ヨセフスは動物同然のものと見なしていましたが、彼らもまたキリスト教会の一員となることができました。スクテヤ人たちは黒海の北方、ローマ帝国の国境の向こう側に住んでいました。国々を隔てる国境線さえも福音を妨げることはできなかったのです。福音はいかなる境界も意に介しません。またどのような境界も福音が広く宣べ伝えられていくことを停止させることができません。

上節の「キリストがすべてであり」とは、異端教師たちによるいかにも深淵そうな神聖さを誇示する教義に対するキリスト教信仰の返答であると理解することができるでしょう。キリスト以外のいかなるものも必要ではなく、キリストこそがすべてであり、真に意義深いことなのだとパウロは言いたいのです。

キリストを着なさい 「コロサイの信徒への手紙」3章12〜17節

「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章12節、口語訳)

旧約聖書がイスラエルの民について語ったのと同じように(「申命記」7章6〜8節)パウロはキリスト信仰者たちや教会について語っています。教会は新たなイスラエルなのです。

「そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章17節、口語訳)

パウロは「からだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげ」ること、すなわち自分の人生を神様の導きに委ねることがキリスト信仰者のなすべき「霊的な礼拝」であると教えています(「ローマの信徒への手紙」12章1節)。これと同じように上節はキリスト信仰者の「日常における礼拝」がどのようなものかについて教えているものと考えることができます。「神聖さ」とは非人間的あるいは超人間的なもの、この世の生活の外側にあるようなものではないということをここで覚えておきましょう。「神聖さ」とはいたって日常的なものなのです。それはキリストと一緒に常に生き続けることです。

「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章13節、口語訳)

互いに赦し合うことは人々が一緒に生きていくために欠くことのできない基本的な態度です。たとえ仮に赦し合いに欠けた共同生活があったとしても、それは完全無欠な人々だけで構成されているものか、あるいはそもそも共同生活とは呼べないものであるかのどちらかです。

隣人愛の出発点となるのは「神様がまず私を赦してくださった」という事実です。真の共同生活は神様が人間生活のために定められた律法が効力を発揮している場所にのみ存在しうるとも言えるでしょう。ソ連の社会主義が崩壊して明るみになったのは、それまでさんざん理想化され喧伝されてきた「社会主義的道徳」や「社会主義的人間」なるものが実際にはいかに腐敗し切ったものだったかということです。

「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章14節、口語訳)

上節でパウロは愛を身に纏うことの大切さを述べています。ペテロは「何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。」(「ペテロの第一の手紙」4章8節、口語訳)と教えています。神様の愛は私たちの罪深い性質を覆ってくれる「衣」なのです。

しかし愛はたんなる衣なのではありません。神様は私たちの生活の中心となり、すべての中央に位置し、出発点となることを望んでおられます(3章13節)。それゆえに愛は「付加されたもの」というよりもむしろ「すべてを完全に結ぶ帯」(3章14節)なのです。

「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章16節、口語訳)

神様の御言葉は神様から私たちへの語りかけです。聖書を通して私たちは永遠なる神様と出会います。喜びをもって日々聖書を読み、学び続けることが大切です。

上節に書いてあるように、信仰復興運動が起きる時には新しい讃美歌が生まれます。キリスト教会の讃美歌集には神様がさまざまな時代に起こしてくださった信仰復興運動についての名残が記録されているとも言えます。

家庭や職場でキリスト信仰者として生きること 「コロサイの信徒への手紙」3章18節〜4章1節

この箇所の内容は「家訓」であるとも言えます。パウロが人間同士の関係よりも人間と神様との関係を重視した上でこの家訓を記していることにまず注目しましょう。人は神様との関係に問題がある場合には人間関係においても多くの問題を抱えているものだからです。

この箇所にあるような家訓は聖霊様の働きかけなしには決して実現されない理想的なものです。3章18節に「主にある者にふさわしいこと」と書かれている通りです。もしもこれらの家訓の内容を無理やり実現しようとすれば、深刻な争いを生むようになるだけです。

パウロはこの家訓で三つの異なる関係性を扱っています(なお「エフェソの信徒への手紙」5章21節〜6章9節にはここよりも詳細な家訓が記されています。)

1)妻と夫 (3章18〜19節)
2)子と親 (3章20〜21節)
3)僕と主人 (3章22節〜4章1節)

古典古代にはこれと同じような家訓がキリスト教のほかにもあったことが知られています(例えば哲学者アリストテレス)。パウロの家訓は人から人への適切な助言だけではなく本質的に霊的な教えです。

パウロの家訓の内容の順序は普通の家訓とは異なっています。一般的に家訓では地位の高い方をまず先に挙げるものなのに対して、上記の三つの組についてパウロは地位の低い方をまず先に挙げているのです。

「主人たる者よ、僕を正しく公平に扱いなさい。あなたがたにも主が天にいますことが、わかっているのだから。」
(「コロサイの信徒への手紙」4章1節、口語訳)

パウロはそれぞれの組の双方に義務を課しています。地位の高い側が低い側を一方的に主人として支配してはいけないのです。なぜなら、どちらも同じようにイエス様を主としていただいている立場だからです。

「妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章18節、口語訳)

相手の下になって「仕える」ことは現代人にはあまり喜ばれない考えかたです。誰かに隷属するというイメージがつきまとうからかもしれません。しかしパウロは相手に仕えることを相手に隷属することとはみなしていません。家訓を実行していく起点は神様の御意思への従順であると彼は考えています。神様の御意思に従順であろうと欲しない人はやがて隣人とも仲違いするようになってしまいます。もちろん人間は神様の御意思に反抗することはできます。しかしその結果どうなるかはあらかじめ分かりきっています。

パウロの家訓の中からは当時の教会における教会員の構成が読み取れます。奴隷の身分の教会員が大勢いたため、彼らに対する家訓は4節分もあります。それに対して主人の地位にいた教会員は少なかったようです。それで彼らに対する家訓はわずか1節分だけになっています。

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章23節、口語訳)

キリスト信仰者が何を行う場合であっても結局それは神様に対して神様の目の前で行われているのです。

「僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。」
(「コロサイの信徒への手紙」3章22節、口語訳)

人間は神様との関係において見せかけだけ仕えることはできません。神様はすべてを見通しておられ、私たちの深奥に隠された考えさえもご存じだからです。