テモテへの第二の手紙

執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

聖書の「テモテへの第二の手紙」をオンラインで読む


聖書の引用は原則として口語訳によっています。

例えば「2章3節」のように章節のみが記されている場合には「テモテへの第二の手紙」における該当箇所を指しています。 ただし「「使徒言行録」2章3節および3章5節」などと記されている場合には後者も「使徒言行録」からの引用です。

本文中に出てくる使徒教父文書「コリントの信徒への第一のクレメンスの手紙」からの引用箇所はDie Apostolischen Väter: Griechish-deutsche Parallelausgabe. J.C.B.Mohr (Paul Siebeck) Tübingen 1992に基づく私訳です。

日本語版は内容や表現に関して一部フィンランド語版と相違しています。


「テモテへの第二の手紙」ガイドブックの内容

「テモテへの第二の手紙」1章 救いの基盤となるもの

「テモテへの第二の手紙」2章 「神様のもの」として生活すること

「テモテへの第二の手紙」3章 終わりの時における信仰生活

「テモテへの第二の手紙」4章 忍耐の勧め

「テモテへの第二の手紙」について

牧会書簡および「テモテへの手紙」の概要については「テモテへの第一の手紙」ガイドブックの冒頭で説明しました。

告別の手紙

「テモテへの第二の手紙」は「パウロの遺書」と呼んでも差し支えありません。死刑の執行を間近に控えたパウロの記した最後の手紙だったからです(4章6〜8節)。

パウロは人生で何度か囚人になったことがありますが、今回の投獄生活は以前よりも過酷でした(以前のケースについては「使徒言行録」28章30〜31節に記されています)。パウロが鎖に繋がれていることや(2章9節)、ローマに着いた友人たちが熱心に捜しまわった末にようやくパウロを尋ね出すことができたことからもその厳しさが推察できます(1章17節)。

パウロは孤独でした。友人や同僚の中にはパウロを見捨てた者たちもいましたし(1章15節、4章10、16節)、福音伝道のために他の場所に出かけていた者たちもいました(4章10節)。ただ医者のルカだけがパウロのもとに留まっていました(4章11節)。パウロはテモテと会いたがり(1章4節)、テモテがパウロのもとを訪れてくれるように、またその際にはトロアスに以前パウロが残してきた上着や書物(とくに羊皮紙のもの)を携えてきてくれるように頼んでいます(4章9、13、21節)。

とはいえ、孤独感だけがパウロにこの手紙を書かせた唯一の動機だったのではありません。この手紙でパウロは23人もの名前を挙げています。死が近づく中で使徒パウロはキリスト教会とキリスト信仰者ひとりひとりのことに心を配っていたのです。

この手紙でもパウロはテモテに対して異端の教えに気をつけるように忠告を与えています(2章23節)。

スウェーデンの神学者Bo Giertzはこの手紙の書かれた当時の状況について次のように説明しています。パウロはテモテをエフェソにおいてマケドニヤに旅し、そこで「テモテへの第一の手紙」を書きました。その後で彼はクレタを訪れ、そこにテトスを残しました(ただしパウロはエフェソを訪問する前にすでにクレタを訪れていた可能性もあります)。クレタから彼はふたたびエフェソに赴き、そこでテモテと再会しました(「テモテへの第一の手紙」3章14節を参照してください)。そこから彼はミレトに行き、病気になったトロピモはそこに留まることになりました(4章20節)。ミレトからの旅はトロアスを通ってニコポリへと続けられたものと思われます(「テトスへの手紙」3章12節)。パウロはさらにイタリヤへと向かいました。しかしパウロはローマに着いてから捕らえられたのか、それともすでにクレタで捕まってそこからローマに連行されたのかははっきりしません。

ローマでパウロは死刑の判決を受けました(4章6〜7節)。後にローマの教会長となる教会教父クレメンスはパウロの死刑が剣によって執行されたと記しています。これはローマ市民に対する死刑執行法によるものでした(「使徒言行録」22章25〜29節にはパウロがローマ市民であったことが記されています)。

教父ヒエロニュムスはローマ皇帝ネロの在任14年目すなわち西暦68年にペテロもパウロも死刑に処されたと記しています。そしてネロは同年6月8日に皇帝の座を追われ、翌日に自殺しています。

「テモテへの第二の手紙」は使徒パウロの死の少し前に書かれています。彼の裁判はすでに済んでいたことがこの手紙からわかるからです(4章16節)。おそらくパウロは死刑の執行を待つばかりの身となっていたのでしょう(4章6〜7節)。

この手紙の末尾の「恵みが、あなたがたと共にあるように。」はパウロが書き記し現存している言葉のうちでも最後の一言であると思われます。