テモテへの第二の手紙2章 「神様のもの」としての生きかた

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

福音のために労苦しなさい 「テモテへの第二の手紙」2章1〜7節

「そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。」
(「テモテへの第二の手紙」2章1節、口語訳)

パウロはこれからさまざまな奨励について述べていきます。しかしそれに先立ってパウロはテモテにそれらの奨励が神様の恵みによってのみ実現できるものであることを再確認するように促しています。神様の助けと恵みがないかぎり私たちは神様の要求なさることを何一つ満たすことができないからです。

「そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。」
(「テモテへの第二の手紙」2章2節、口語訳)

パウロは福音宣教が四段階から構成されていることを指摘します。まずパウロが福音を神様からいただきました。次にパウロは福音をテモテに宣べ伝えました。それからテモテは信頼できる人々に福音を委ねなければなりません。それを受けて彼らはさらに他の人々に福音を教えていくのです。

上節は原文に基づくと二通りの解釈ができます。第一の解釈は、テモテが福音を多くの証人を通じてパウロから聴いたというものです。第二の解釈は、多くの証人が傍で聞いている時にパウロがテモテに福音を語ったというものです。後者のケースでは、テモテが同行していたパウロの伝道旅行のことか、あるいはテモテが教会の責任者(牧師)に任命された時のことを示唆しているものと考えられます。テモテが牧師としての按手を受ける際にパウロはテモテがこれから宣べ伝えていかなければならないキリスト教信仰の福音を公に語ったのかもしれません(「テモテへの第一の手紙」1章18節、4章14節、「テモテへの第二の手紙」1章6、14節)。

「キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。」
(「テモテへの第二の手紙」2章3節、口語訳)

福音宣教者は労苦に耐え忍ばなければなりません。この世的な多くの事柄について労苦するのは人として当然であるというのが一般な認識だと思います。それとひきかえ、神様の御国のために労苦することの意義は一般にはほとんど認められていないと思えることがしばしばあります。

パウロは労苦について三つの具体例を挙げています。
1)兵士(2章4節)
2)競技者(2章5節)
3)農夫(2章6節)

 

1)

「兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。」
(「テモテへの第二の手紙」2章4節、口語訳)

戦争で兵士は最優先課題を集中的に遂行しなければならないため、日常の瑣事に煩わされてはいけません(「コリントの信徒への第一の手紙」9章7節、「申命記」20章5〜7節、「コリントの信徒への第二の手紙」6章7節、10章3〜5節、「エフェソの信徒への手紙」6章11〜17節も参考になります)。

 

2)

「また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。」
(「テモテへの第二の手紙」2章5節、口語訳)

他の手紙でもパウロはキリスト信仰者を競技者にたとえています。例えば「フィリピの信徒への手紙」3章13〜14節や次の「コリントの信徒への第一の手紙」の箇所です。

「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」9章24〜27節、口語訳)

古代のオリンピック競技では優勝者に月桂冠が授与されました。それに対して信仰を人生の終わりまで守り通したキリスト信仰者には公平な審判者である主から「義の冠」が授けられるのです(4章8節)。

 

3)

「労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。」 (「テモテへの第二の手紙」2章6節、口語訳)

この節は当時の広大な農地の耕作について述べています。農地の大半は農夫たちに貸し出されていました。そして土地の借り手である農夫が誰よりも先に生産物の分配にあずかるべきであるとされました(「コリントの信徒への第一の手紙」9章7節)。

怠惰な者による土地の耕作は実を結びません(「箴言」10章5節、20章4節、24章30〜34節、27章18節)。

御言葉の種を蒔く作業においては神様のみが作物を成長させてくださるということを私たちは覚えておかなければなりません。

「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」3章6〜7節、口語訳)

もちろん普通の農業でも最終的にはほかならぬ神様が作物を成長させてくださっていることを忘れてはいけません。

パウロは御言葉の種を蒔くことや、キリスト教信仰を宣教する者としてふさわしい生きかたをすることに熱心でした(「コリントの信徒への第二の手紙」6章3〜10節、「フィリピの信徒への手紙」2章16節)。その一方でパウロは福音伝道が彼自身によるものではなく神様御自身によるものであることを明確に認識していました。

御言葉の種を蒔く作業においても「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」ことに注意すべきです(「ガラテアの信徒への手紙」6章7節より)。

今まで述べてきた三つの例を通してパウロは福音の宣教で大切になる次の三つの心構えを説こうとしています。

1)重要事項に集中するべきである
2)規則を遵守して、すなわち神様の御意思に沿って活動するべきである
3)労苦に耐えるために心を整えるべきである

「わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。」
(「テモテへの第二の手紙」2章7節、口語訳)

最後にパウロはテモテに御言葉を伝える仕事がこの世の基準だけでは測ることができないものであることを諭しています。人間的な視点からすると福音の宣教は愚かなことです(「コリントの信徒への第一の手紙」1章18〜25節、2章6〜10節)。しかし御言葉を宣教する仕事は人間の視点によってではなく神様の視点によって評価されるべきものなのです。

神様の忠実さ 「テモテへの第二の手紙」2章8〜13節

「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」
(「テモテへの第二の手紙」2章8節、口語訳)

旧約聖書にその到来が約束されていたメシアはダビデの子孫でした(「マタイによる福音書」22章42節、「ローマの信徒への手紙」1章3節)。

死人のうちからのキリストのよみがえりはパウロにとって決して譲歩できないキリスト教信仰の核心でした(「コリントの信徒への第一の手紙」15章12〜19節)。

パウロの宣教した福音は彼自身による発明ではなく神様からの賜物でした(「テモテへの第一の手紙」1章11節、「ローマの信徒への手紙」2章16節)。

「この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。」
(「テモテへの第二の手紙」2章9節、口語訳)

パウロは福音のゆえに多くの労苦を強いられました(「コリントの信徒への第二の手紙」11章22〜29節)。「悪者」はギリシア語で「カクウルゴス」といい「悪事を行なった者」という意味を持ち、イエス様と一緒に十字架につけられた二人の男たちに対する呼称でもありました(「ルカによる福音書」23章32節)。

「それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。」
(「テモテへの第二の手紙」2章10節、口語訳)

神様はパウロをまさに福音のゆえに苦しみを受けるために召命なさったとさえ言えます(「使徒言行録」9章10〜19節)。囚人となっていた時にもパウロは福音を宣べ伝えることができました。例えばフィリピ(「使徒言行録」16章25〜34節)、エルサレム(「使徒言行録」23章1〜6節)、カイザリヤ(「使徒言行録」24章10〜23節、26章1〜29節)そしてローマ(「使徒言行録」28章30〜31節)においてです。

「次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。」」
(「テモテへの第二の手紙」2章11節、口語訳)

「次の言葉は確実である」(ギリシア語で「ピストス・ホ・ロゴス」)は牧会書簡で何度も用いられている表現です(「テモテへの第一の手紙」1章15節および3章1節および4章9節、「テトスへの手紙」3章8節)。

「テモテへの第二の手紙」2章11〜13節には私たちには知られていない文書からの引用があります。これは初期の教会の礼拝あるいは洗礼式の式文から採られたものかもしれません。

「キリスト・イエスとともに死ぬこと」は人が洗礼を受ける時に起きる出来事です(「ローマの信徒への手紙」6章3、8節)。

「「もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。」
(「テモテへの第二の手紙」2章12〜13節、口語訳)

洗礼において受洗者はキリスト信仰者として生きていくという召命を受けます。

イエス様は使徒たちが来るべき神様の御国でイスラエルの十二部族を御自身と共に支配ようになると約束なさいました(「マタイによる福音書」19章28節。また「ヨハネの黙示録」20章6節も参考になります)。

キリストは御自分を否んだ者たちを最後の裁きで否むという聖書の記述(「マタイによる福音書」10章33節)は大勢のキリスト信仰者を怯えさせました。しかしここで思い出すべきことがあります。ペテロは公の場で三度も「自分はイエスを知らない」と言ってしまったにもかかわらず(「マタイによる福音書」26章69〜75節)後になると使徒のグループにふたたび参加させてもらえたということです(「ヨハネによる福音書」21章15〜19節。また「マルコによる福音書」16章7節も参考になります)。人に最終的な裁きをもたらすのはキリストが全人類の罪を帳消しになさった救い主であることを否定することであり、キリストの証人としてうまくいかなかった個々の出来事ではありません。

上掲の箇所の終わりの「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である」という言葉はキリストの忠実さを強調しています。これこそが救いの基になっているものです。救いは私たち人間の忠実さや不忠実さにではなくキリストが成し遂げられたことにのみ依存しているものです。

「彼(すなわち神様)は自分を偽ることが、できないのである」という点で神様が御心により御自分の全能性に自ら制限を設けておられることに注目しましょう。御自身の本質のゆえに神様は悪を行うことが決してできません。全能者なる神様はどのようなことでもできるにもかかわらず、その本質のゆえによいことばかり行われるのです。神様の特質のひとつに忠実さがあります。

「神は人のように偽ることはなく、
また人の子のように悔いることもない。
言ったことで、行わないことがあろうか、
語ったことで、しとげないことがあろうか。」
(「民数記」23章19節、口語訳)

人間たちの不忠実さでさえ神様が約束なさったことを別の何かに変えることはできないのです(「ローマの信徒への手紙」3章3〜4節および9章6〜8節)。

真理の御言葉の教師 「テモテへの第二の手紙」2章14〜19節

「あなたは、これらのことを彼らに思い出させて、なんの益もなく、聞いている人々を破滅におとしいれるだけである言葉の争いをしないように、神のみまえでおごそかに命じなさい。」
(「テモテへの第二の手紙」2章14節、口語訳)

言葉の争いは信仰に関わる懸案事項の解決には何の役にも立ちません。言い争っているうちに双方とも自分の意見をいっそう激しく主張するようになる傾向があるからです。さまざまな異端をたくさん研究したある牧師は「モルモン教などの信者たちと出会った時にはすぐ言い争いを始めたりせずに、むしろその出会いを彼らにキリストを証する好機と考えるべきである」と言いました。これは重要な視点です。キリスト教信仰とはキリストについて宣べ伝えることであり、宗教に関わる諸問題について対話したり口論したりすることではありません(「テトスへの手紙」3章10節も参考になります)。

上節の「破滅」はギリシア語で「カタストロフェー」といい、現代でよく使われる「カタストロフィー」の元になっている言葉です。救いをもたらす正しい信仰から迷い出てしまうことは真のカタストロフィーだと言えましょう。

「あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。」
(「テモテへの第二の手紙」2章15節、口語訳)

上節の「正しく教える」はギリシア語で「オルトトメオー」といい「正しく切り分ける」という意味を持っています。パウロも使用したとされるギリシア語旧約聖書七十人訳(セプトゥアギンタ)でこの単語は例えば「(神様の)道を正しく教える」という意味で用いられています(「箴言」3章6節および11章5節)。

「テモテへの第二の手紙」が書かれてから約30年後に執筆された「ヨハネの黙示録」では、エフェソの教会は自ら経験した忍耐と労苦について、復活されたキリストからお褒めの言葉をいただきました(「ヨハネの黙示録」2章2節)。ということは、テモテは真理の言葉をエフェソの信徒たちに正しく教えることができたのでしょう。

「俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。その中にはヒメナオとピレトとがいる。」
(「テモテへの第二の手紙」2章16〜17節、口語訳)

異端の教師たちは「がん」のような存在です。彼らの活動を抑止しないかぎり腐敗がどんどん蔓延していき、最終的には命取りになります。

ヒメナオについてはすでに「テモテへの第一の手紙」1章20節に名前が挙げられています。ヒメナオもピレトも他については何も知られていない人物です。

「彼らは真理からはずれ、復活はすでに済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰をくつがえしている。」
(「テモテへの第二の手紙」2章18節、口語訳)

異端とは真理からはずれてさまようことであり的外れな生きかたをすることです(「テモテへの第一の手紙」6章21節)。異端に陥った者たちは彼らに追従する人々も異端に巻き込んでいきます。例えばグノーシス主義者ヴァレンティノスがローマの主教にすんでのところで選出されてしまいそうになったことがありました。140年代にマルキオンは教会の大多数を異端に追い込みました。300年代にはアリウス主義が教会の正統な教えを根絶しかねないほどの脅威となりました。残念なことですが、キリスト教会が異端に惑わされかけた歴史的事例には枚挙にいとまがありません。

上節にあるように異端の教師たちは「復活」を否定しました。おそらく彼らはキリストの復活そのものを否定したのではなく、キリスト信仰者の復活はすでに受洗時に起きたから他の復活はもう起きないと教えたのでしょう。このような教えはパウロの洗礼(ギリシア語で「バプテスマ」)の教えに対する誤解によるものだと思われます。例えばパウロは次のように書いています(「ローマの信徒への手紙」6章3〜4節にも同様の教えがあります)。

「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章12節、口語訳)。

異端の教えがどれほど猛威を振るおうとも神様の築かれた土台は決して揺るがないことを次の節は教えています。

「しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。」
(「テモテへの第二の手紙」2章19節、口語訳)

たとえエフェソのキリスト教徒の大多数が正しい信仰を捨てたとしても(1章15節)、絶望的な状況であるとは言えません。神様は教会の主、真の主人、建築者であられるため人間が神様の御業を完全に無効にすることは不可能だからです。

「それゆえ、主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしはシオンに
一つの石をすえて基とした。
これは試みを経た石、
堅くすえた尊い隅の石である。
『信ずる者はあわてることはない』。」
(「イザヤ書」28章16節、口語訳)。

主は「主のもの」たち(「信ずる者」)のことをよくご存知です(「民数記」16章5節、「マタイによる福音書」7章23節、「コリントの信徒への第一の手紙」8章3節および14章38節)。

「主のもの」たちは不義から離れなければなりません(「イザヤ書」52章11節)。彼らは神様に由来するものを大切にしようとしますが、神様の敵対者に由来するものに束縛されることは望みません。

さまざまな使命 「テモテへの第二の手紙」2章20〜21節

「大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。」
(「テモテへの第二の手紙」2章20〜21節、口語訳)

神様はダマスコへと向かうサウロ(後にパウロと改名)を立ち止まらせて、異邦人たちに福音を宣べ伝えるために選ばれた「器」として召命なさいました(「使徒言行録」9章15節)。この「器」は上掲の箇所での「器」と同じ単語(ギリシア語で「スケウオス」)であり「武器」という意味も持っています。むしろここでは後者の意味のほうが妥当なのかもしれません。

もちろんパウロは本来の「器」という意味でもこの単語を用いています。神様は同じ粘土からさまざまな「器」を作る権能を持っておられるのです(「ローマの信徒への手紙」9章21節)。

「卑しい器」も「尊いきよめられた器」になれると上掲の箇所が指摘していることに注目しましょう。器の材料である粘土自体は相変わらず粘土のままなのですが、神様から力と輝きを付与していただくことができるのです(「コリントの信徒への第二の手紙」4章7節)。そのようにしてパウロは「キリスト教会の迫害者」から「異邦人の使徒」へと変えられました。そのすべてが神様の恵みによるものであったとパウロは述べています。

「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」15章10節、口語訳)。

霊的な戦い 「テモテへの第二の手紙」2章22〜26節

「そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。」
(「テモテへの第二の手紙」2章22節、口語訳)

若い指導者たちには誰の反論も許さないような情熱的すぎる教会運営を行なってしまう危険がつきまといます。しかし大きな船である教会の航路変更には多大の時間を要することを忘れるべきではありません。

「愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、」
(「テモテへの第二の手紙」2章23〜24節、口語訳)

2章16節と同様に上掲の箇所は無意味な論議をやめるように警告しています(「テモテへの第一の手紙」1章4節および6章4節、「テトスへの手紙」3章9節)。

教会の真の変化は教会員たちを忍耐強く教育することから始まります。論争では名目上の勝利が実質的な敗北となる場合があります。しかし相手側が正しい教えに聴き入るようにできる場合には、本質的な真の変化が起こり得ます。

「反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、」
(「テモテへの第二の手紙」2章25節、口語訳)

「柔和な心」については「コリントの信徒への第二の手紙」10章1節、「ガラテアの信徒への手紙」6章1節、「エフェソの信徒への手紙」4章2節、「コロサイの信徒への手紙」3章12節も参考になります。柔和な心は聖霊様の賜る信仰の実のひとつです(「ガラテアの信徒への手紙」5章23節)。

「一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。」
(「テモテへの第二の手紙」2章26節、口語訳)

この節は霊的な戦いを描写しています。私たちは真の敵が誰なのか明確にしておくべきです。実はそれは異端者ではなく悪魔です(「エフェソの信徒への手紙」6章10〜20節)。私たちは自力では悪魔と戦うことができません。しかしキリストの助けによってのみそれは可能になります。