ペテロの第一の手紙

執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

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「ペテロの第一の手紙」ガイドブック

聖書の引用は原則として、口語訳によっています。 翻訳者の判断により、この日本語版ではフィンランド語原著に多少の補足・変更等が加えられています。

「ペテロの第一の手紙」を読む前に

「ペテロの第一の手紙」は回覧されるのを前提として書かれた手紙です。新約聖書に含まれている手紙の多くは、ある特定の地方教会に宛てられた手紙でしたが、このペテロの手紙はキリスト信仰者の小さな幾つものグループに宛てられたものでした。手紙を受けとった人々は小アジアに住んでいました。小アジアはおおむね現在のトルコの地域に相当します。彼らは当時の激動の状況下で生活し、様々な困難に遭遇しました。この手紙は読者を助言し、勇気付け、慰めるために書かれた公開書簡なのです。

「ペテロの第一の手紙」は、新約聖書の一般的な読者があまり注目する機会のない手紙です。しかし、その内容は皆の賛嘆を受けるのにふさわしい貴重な宝石そのものであるといえます。この手紙からは愛と平和が伝わってきます。この手紙は激しい迫害の最中に書き留められたことが知られています。まさにそれゆえに、この手紙の湛える愛と平和の雰囲気はいっそうかけがいのないものに感じられるのです。

誰が、誰に宛てて、どうして、この手紙を書いたのでしょうか?

手紙に明記されている書き手の名は、イエス・キリストの使徒ペテロです。彼は手紙の受け取り手のことを「神様によって選ばれた寄留の民」と表現しています。

「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。」
(「ペテロの第一の手紙」1章1〜2節、口語訳)

手紙のこの箇所には、小アジア地方の(全てではないですが)多数のローマの属州の名が記されています。ということは、手紙の受け取り手たちは現在のトルコの地域に居住していたことになります。彼らの大多数は異邦人(つまりユダヤ人ではない)キリスト信仰者であったと思われます。手紙の成立時期を正確に知るのは困難です。唯一の手がかりは迫害です。ローマ帝国全域にわたる最初の大規模な迫害は皇帝ドミティアヌスによるものです。それは西暦90年代に起こりました。すでにそれ以前にペテロは殉教の死を遂げており、死に勝利した天の御国の教会の一員に加えられていました。当時のキリスト信仰者たちはすでに以前から各地で憎悪の対象となっていました。ですから、この手紙は最初の大規模な迫害の起こる以前に書かれていた可能性もあります。
 この手紙を書き取ったのはシルワノという名の人物です(5章12節)。彼はパウロの古くからの同僚で共に牢獄生活を送ったシラスと同一人物であったとも考えられます(「使徒言行録」5章12節)。このことについてはガイドブックの終わりで取り上げることにします。

素晴らしい生き方を宣べ伝える

このペテロの手紙はとても困難な状況の下に置かれた人々に向けて書かれています。自分の犯した過ちのせいで苦しみを受けるのがどれほど辛いことであるか、誰でも知っています。ましてや、自分のほうに落ち度がないにもかかわらず苦しみを受けなければならない場合には、なおさらのことです。当時のキリスト信仰者たちはまさに後者の状況に置かれていました。彼らは誰に対しても何も悪いことをしませんでした。にもかかわらず、人々は彼らを憎悪し、あらゆる点において悪者扱いしました。ローマ皇帝も庶民も、あらゆる階層の人々が皆こぞって、キリスト信仰者を憎悪することを自らの使命であると考えているようにさえ見えました。キリスト信仰者は処罰の対象となり、流血の事態も起きました。このような状況において、キリスト信仰者はいったいどのように行動するべきなのでしょうか。

ローマ皇帝や他のすべての人々に対して敬意を払うようにと、使徒ペテロはキリスト信仰者を奨励しました。キリスト信仰者たちが彼らから不当に苦しみを受けていることをこの手紙の書き手はもちろん知っていました。そうであっても、キリスト信仰者はすべての人間に愛を示し罪の赦しを与えるべきであることを、ペテロは奨励しているのです。
 もしも自らの悪い行いのゆえに苦しみを受けることになるなら、自分自身を責めるべきでしょう。しかし、もしも不当な理由から苦しみを受けているなら、どうかその苦しみを「神様の恵み」とみなしてください。
 後者の場合に模範となるのは、私たちの身代わりとして死の苦しみを引き受けてくださったキリスト御自身です。キリストはまったく罪のないお方であったにもかかわらず、御自身に死刑宣告を下した人々や虐待を加えた人々に対して、威嚇するような姿勢を一切示されませんでした。今日でもこのイエス様の態度は、キリストを信仰告白するゆえに苦しみにあっている人々に、素晴らしい生き方とはどのようなものであるかを知らせてくれます。これは、自分を圧迫してくる者たちのことを赦し、彼らに祝福を静かに願うという生き方です(これは圧迫などの悪行自体を容認するという意味ではありません)。これは、人に見せびらかすものでも、自分を「殉教者」に祀り上げることでもなく、心から純粋にそのように行っていく生き方なのです。