ペテロの第一の手紙第5章

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

教会は目を覚ましています

5章1〜5節 教会とその牧者(長老)たち

「新約聖書」に含まれる多くの手紙がそうであるように、「ペテロの第一の手紙」もまた様々な状況の中で生活しているキリスト信仰者たちに向けられた指示を含んでいます。この箇所では、まず教会の牧者(長老)たちが、次に教会全体が、指示を受ける対象となっています。

教会の牧者(長老)に向けられた指示は簡潔ですが興味深いものです。「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい」(5章2節前半、口語訳)という指示を除くと、「彼らが何をやるべきであるか」に関する具体的な指示は与えられていません。あるのは、「彼らがどのようにその職務を果たすべきであるか」に関する指示です。

「しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである」。
(5章2節後半〜3節、口語訳)

この御言葉が教えているのは、牧者としての職務はお金などのためではなく自発的に真心を持って行うべきであり、その際、他の人たちに対して冷たい傲慢な態度をとってはいけない、ということです。「そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう」(5章4節、口語訳)という記述からは具体的なイメージが浮かんできます。手紙が書かれた当時、牧者には部下の羊飼いが何人もいるのが一般的でした。そして、牧者は部下たちの仕事ぶりを監督しました。部下の羊飼いたちは主人が来るのを待ちながら、自らに委ねられた羊の群れの面倒を見続けていました。それと同じようにして、教会の牧者は大牧者キリストの再臨の時がいつ起きてもよいような心構えをもって牧会に励むのです。

この箇所の記述は簡略ですが、きわめて重要な事柄を扱っており、私たちが教会の牧師の職務についてどのように教えるべきかを明確に伝えています。

現代人は一般的に権威を嫌う傾向があります。彼らは指導者の教えに気に入らない点があると、その指導者の率いるグループの一員にはなりたがりません。ですから、現代のキリスト教信徒の多くが教会の職制について拒絶反応を示すのは、とりたてて不思議なことではありません。「聖書が教えているのは教会の職制についてではなく、様々な個別の職務についてだけである。そして、それらの職務を果たすのは、その任を委ねられた人ならば誰であろうとかまわない」、という主張をする人も大勢います。しかしながら、「ペテロの第一の手紙」のこの箇所、および、とりわけ「使徒言行録」20章においては、聖霊様が教会の責任を委ねるために「ある特定の人々」を教会の職に任命することをはっきりと教えています。このことからわかるように、たとえば「教会に説教職を設定なさったのは神様御自身である」と教える「ルーテル教会信条集」(ルター派の正しい教義をまとめた書物)は、この問題に関しても聖書に書かれていることに対して忠実に教えていることになります。

旧約聖書の「祭司」と新約聖書の「牧師」との間にはどのような相違点があるのか、ということに関してスポットライトが当てられるのはきわめて稀なことです。旧約の世界における祭司は、祭壇に犠牲を捧げる役目を務めました。イエス・キリストは大祭司として、御自身を唯一の犠牲として捧げることによって、他のすべての犠牲の捧げ物を不要なものとなさいました。その結果として成立した新約の世界においては、旧約の祭司たちはもはや存在しません。新約の世界に残されたのは、キリスト信仰者全員に共通する「万人祭司」としての使命です(「ペテロの第一の手紙」2章9節)。すなわち、キリスト信仰者は皆、神様の大いなる御業を宣べ伝えるために「祭司」として選び分かたれている、ということです。旧約の犠牲を捧げる祭司職はすでに消滅しています。しかしその一方で、神様はキリスト教会に牧者すなわち牧師の職制を定めてくださいました。新約聖書ではこの職制について「監督」や「長老」など様々な用語によって説明しています。以下に例をあげます。

「さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう」。 (「テモテへの第一の手紙」3章2〜7節、口語訳)

「キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ」。
(「フィリピの信徒への手紙」1章1節、口語訳)

「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい」。 (「ヤコブの手紙」5章14節、口語訳)

現代の世界には、旧約の意味での祭司はもう存在していません。しかしその一方で、私たちキリスト信仰者は皆「万人祭司」となっています。そしてさらに、「万人祭司」とは明確に区別される「牧師」という職制が存在しています。

「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。聖徒たちのすべての教会で行われているように、婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか」。
(「コリントの信徒への第一の手紙」14章33〜36節)

この箇所に基づいて、「キリスト教会における牧師の職制は男性にのみ属するものである」、と私たちは教えます。どうしてそうなのか、私たちは知りません。また、その理由を詮索するのは私たち人間のやるべきことでもありません。

この箇所には、牧師の職務に関する素晴らしい指示が幾つかの短い言葉で与えられています。宗教改革者マルティン・ルターはそれを説明する際に、「牧師になることは誰に対しても押し付けるべきことではない」ということを強調しました。これは正しい態度であるといえます。牧師の仕事はとても大変なので、牧師になるにせよ、ならないにせよ、その選択は誰からも強制されずに自ら行うべきことだからです。「給料がもらえる」という理由で牧師の仕事に就くことがあってはなりません。また、牧師には「他の人々を上から支配したい」という権力欲がもたげることがあります。それに対して、この箇所の御言葉は、「そのようなことがあってはならない」と明確に教えています。

他の多くの箇所においてと同じように、この箇所においてもペテロの言葉は優しさに満ちています。しかし、そこで取り扱われている内容自体は非常に深刻です。私たちは自分の小さなグループの活動を続けるためだけに教会に通っているのではありません。大祭司イエス様が再臨なさる時がいつかは必ず訪れます。その時には、すべての人間が神様に対して申し開きをしなければならなくなります。次に引用する「コリントの信徒への第一の手紙」3章は、これと同じ内容をよりいっそう鋭利な表現によって説明しています。

「神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。
 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう」
(「コリントの信徒への第一の手紙」3章10〜15節、口語訳)。

このように、それぞれの教会が実際にはどのような要素から構成されてきたのかを、最後の裁きの時の火が吟味することになります。どうかこの視点が、牧師だけにではなく教会全体にとって、有益な謙虚さを教えるものとなりますように。

5章6〜11節 謙虚に、油断せずに生活しなさい

この手紙を閉じるにあたり、ペテロは心に刺さるイメージを用います。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」(5章8節、口語訳)。

ライオン(しし)は怠惰な動物であり、普段は陽の当たるところで横になって休んでいます。そして、約二日に一回ほど動き出しては、雄叫びをあげます。ライオンが活動を再開するのには単純な目的があります。ひどい空腹です。ふたたびこの箇所で、ペテロは手紙の受け取り手たちに試練と苦しみについて覚えておくべきことを記します。キリスト信仰者たちがこの世のいたるところで同じ苦境に立たされています。それはたしかです。しかし、一方でそれはわずか一瞬の短い出来事であり時間にすぎません。いつかは試練の時期が過ぎて、神様の御国に到着することになります。

ある時、私は妻と一緒に車に乗っていました。とても視界が悪い夜でした。私は急ブレーキをかけました。歩いて道を渡る暗い人影が見えたからです。その人は泥酔しており、近づく車のライトが告げる我が身の危険についても無自覚でした。この出来事には、ペテロがこの手紙で描くイメージと何か通底するものがあるのではないでしょうか。羊は獣の足音と吼え声を聞きます。しかし、獣がどこにいるのかわかりません。その危険にも無頓着です。悪魔は人がキリストを信じることも罪の赦しを信じることも許そうとはしません。
 マルティン・ルターは彼の記した洗礼式の式文において、いったい洗礼ではどのようなことが起きているのかを、おごそかに私たちに思い起こさせようとしています。洗礼において、子ども(赤ちゃん)はキリストのゆえに「神様の子ども」として受け入れられて、キリスト教会の一員とされます。その一方で、悪魔が洗礼を受けたその子に襲いかかろうとするようになります。受洗者は洗礼の前には悪魔に支配されていました。その元の状態に連れ戻すために、悪魔は受洗者に対して攻撃の手を緩めようとはしません。これと同様の危険が、キリストを信じる心をもつ人皆を依然として今も脅かし続けているのです。あなたが信仰を捨ててしまうか、あるいは栄光の御国にたどり着くまでは、悪魔はあなたを放置しません。ですから、慎重さを保ち、キリストの勝利の中に「避けどころ」を求める生活を送ることが大切です。そうしなければ、キリスト信仰者としての生活は頓挫してしまうことになるからです。

5章12〜14節 終わりの挨拶

この手紙の終わりにある「挨拶」には幾つかの興味深い名前が記されています。たとえば、「シルワノ」という人物は新約聖書で「シラス」という略名で呼ばれているのと同一人物である可能性が高いです。もしそうだとすると、「使徒言行録」16章に登場するパウロの同僚「シラス」は、この手紙の書かれた段階ではペテロと一緒に伝道していたとも解釈できます。ちょうどこの挨拶の箇所でペテロは、彼の手紙の受け取り手たちが日々の信仰生活の中で享受している恵みが神様のまことの恵みに由来するものであることを強調しています。シラスはパウロと共に福音を宣べ伝えました。その同じ福音を、ペテロもまた自ら認めて伝えようとしています。これには、パウロやペテロと一緒に福音伝道に従事した経験のあるシラスの立場も関係しているのかもしれません。

当時パウロと行動を共にしていたもう一人の人物はマルコです。「使徒言行録」12章25節および15章37〜39節には、パウロとマルコの間で起きた衝突が記されています。しかし、「フィレモンへの手紙」24節や「コロサイの信徒への手紙」4章10節の記述によれば、彼らの間の関係は後になって修復されたように見えます。伝承によれば、マルコはペテロの通訳として旅に同行し、その折に聞いたことがらに基づいてローマで福音書を書いたとも言われます。もちろん、この伝承については何も確実なことは言えません。ともあれ、ペテロはこの「ペテロの第一の手紙」を書いた時点では、マルコと共にローマにいます(5章13節)。「バビロン」とはローマの暗喩です。「マルコによる福音書」はペテロの視点から書かれているとよく言われます。これもまた「マルコによる福音書」とペテロの間の関係性を示唆しています。その一方で、「マルコによる福音書」はイエス様の身内や、後にエルサレムの教会の初期の指導者となる主の兄弟ヤコブに対してはまったく興味を示していません。ですから、「マルコによる福音書」の飾り気のない記述にも、そして「ペテロの第一の手紙」にも、年老いた使徒の同じ温かな肉声を聞き取ることができる、と考えてもよいのではないでしょうか。