ペテロの第一の手紙第2章

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「神様の民」に属しているのは誰でしょうか?

「ペテロの第一の手紙」はすでに第1章において、私たちにこの手紙のもつ特徴を伝えてくれました。この手紙には、素晴らしい「福音」とそれに続く「奨励」とがかわるがわる記されています。これは第2章でも続きます。

2章1〜10節 キリスト信仰者は王族の祭司階級に属しています

この章のはじめの2節は前に述べられた内容のまとめでもあります。

「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」
(1章24節、口語訳)。

これは本当のことです。それゆえ、キリスト信仰者は「小さい子ども」のようにならなければなりません。生まれたばかりの乳児はただの水を瓶から飲むだけでは満足しません。混じり気のない本物の乳以外のものだけでは足りないのです。キリスト信仰者もそれとまったく同じような存在であるべきです。私たちは神様の御言葉の混じり気のない乳以外のもので満足するべきありません。もしも私たちに対して御言葉をねじ曲げた偽物が差し出される場合には、教会全体が大声で異議を唱えるべきなのです。

聖書の他の箇所においてもよく見受けられる粛然とした態度で、奨励の部がはじまります。キリストは「隅の親石」です。たしかに、はじめにキリストは捨てられました。しかし、それから後になって、キリストこそが「神様の御国」という建築物全体を支える中心であることが理解されるようになりました。このようにして「キリストの教会」についてのイメージが具体的に形作られていきます。このイメージによれば、キリスト信仰者は各人が「一個の石」として神様の建築物の一部分を構成しています。「神様の建築物とその一部分としてのキリスト信仰者」という同じイメージは「エフェソの信徒への手紙」の第2章にも登場します。「神様の宮」の一部分にさせていただくのは、人間にとってこの上ない光栄です。

この手紙の書き手はさらに話を進めます。キリスト信仰者はたんに「神殿の石」であるにとどまらず、それと同時に「神殿の祭司」でもあります。しかも、これはある特定の教会員たちだけに関わりがあることではなく、神様の民全員について言われていることがらなのです。この背景にはイスラエルの民に向けられた神様の語りかけがあります(「出エジプト記」19章6節)。この聖句のことはより詳しく研究する必要があります。

「それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」
(「出エジプト記」19章5〜6節、口語訳)。

これが語っている内容は、私たちがしっかりと学ぶべき大切な事柄です。神様はひとつの民、イスラエルを御自分のために選び出されました。しかし、これによって神様がすべて他の諸国民を見捨てた、という意味ではありません。むしろ反対です。イスラエルは諸国民の間で、神様の善なる本質をすべての人に伝えていく「祭司」としての役割を担うようになった、ということです。このことは、神様がアブラハムをお選びになった際に「アブラハムを通してすべての諸国民が祝福を受けるようになる」と告げてくださった出来事と内容的に共通するものです。神様がひとつの民を選ばれたのは、他の諸国民の犠牲によってではなく、むしろ、それら諸国民のためなのです。

モーセが受けた上掲の御言葉は、ペテロの手紙では、異邦人(すなわち非ユダヤ人)によって構成されたキリスト信仰者の群れに宛てられたものとなっています。ここで手紙の書き手は、次に引用する旧約聖書の「ホセア書」2章23節に記されている神様の約束についての御言葉のことも手紙の受け取り手たちに当てはめて書いています。

「わたしはわたしのために彼を地にまき、あわれまれぬ者をあわれみ、わたしの民でない者に向かって、『あなたはわたしの民である』と言い、彼は『あなたはわたしの神である』と言う」」
(「ホセア書」2章23節、口語訳)。

「ホセア書」は新約聖書の他の箇所においても大切なメッセージを伝えている旧約聖書の書物です。この書を通して神様は、本来なら神様の民ではありえない諸国民に語りかけ、皆の予想を裏切るやりかたで、彼らのことを御自分の民として宣言なさっているからです(「ホセア書」1〜2章)。

祭司制と牧師職

現代では「祭司制」と「牧師職」をめぐる論議はすっかり混乱してしまっています。神様の御言葉によれば、教会にはキリスト信仰者全員による万人祭司制(1)と、それとは別に存在する牧師職(2)というふたつの異なる役割が存在していることを、私たちは今ふたたび学びなおす必要があります。

1)「万人祭司制」とは、洗礼を受けた人は祭司となる、という意味です。神様の御国においては、キリスト信仰者ひとりひとりに対してそれぞれ大切な使命が与えられています。それを探し求めて、御言葉に対して従順にそれを実行していくことは、キリスト信仰者に与えられた課題でもあります。たとえば、あなたは子をもつ母親かもしれませんし、あるいは自分の姉妹にとってのただひとりの弟であるかもしれません。また、あなたは職場で自分がキリスト信仰者であることを明言している唯一の人間かもしれません。あなたには歌の才能が与えられているかもしれません。また、あなたの使命はキリスト教の良質な新聞や雑誌をできるだけ多くの人に販売することかもしれません。このように、神様の御国においてやるべき仕事は御国の住人全員に対して十分にあるのです!

2)「牧師職」は、ルーテル教会信条集によれば、神様が自ら設定なさった職種です。この職については、たとえば「ペテロの第一の手紙」の第5章や「使徒言行録」の第20章で取り上げられています。「牧師」(「エフェソの信徒への手紙」4章11節)、「長老」(「ペテロの第一の手紙」5章1節)、「監督者」(「使徒言行録」20章28節)など、新約聖書で牧師を表す用語はいろいろありますが、それらは内容的には同じものです。神様はある特定の人をその人が所属している教会の責任を担わせるために召命なさる、ということです。この牧師職は神様からの恵みの賜物です(「ローマの信徒への手紙」12章7節)。そして、この職を委ねられた者は、とりわけ神様に対する忠実さを要求されます。残念なことに、現代の私たちのルーテル教会においては「万人祭司制」(キリスト信仰者全員に与えられた共通の責務)も「牧師職」(特定のキリスト信仰者に委ねられた職業的責務)も一様に軽視される傾向がみられます。この点においても、私たちは各自悔い改める必要があります。

2章11〜22節 この世におけるキリスト信仰者

ペテロは奨励の言葉を続けます。この箇所のはじめの二節は一般的なことがらを扱っており、なぜ皆にとってこのような奨励が重要なのか、その最大の理由を説明しています。それは、キリスト信仰者はこの世に出自をもつものではないため、この世では常に不可避的に「寄留民」として過ごさなければならない、ということです。この考え方の背景に、神様の民が寄留民として荒野を歩み続けなければならなかったイスラエルの過去の歴史があるのは確実です。約束の地への旅の途中である彼らに固定した家屋を建築することを、神様は許可なさいませんでした。神様が御民を「約束の地」に導き入れてくださるまで、彼らは天幕で生活しなければならなかったのです。それと同じように、私たちキリスト信仰者も「旅の途上」にあります。私たちは二つの世界の国民なのであり、永遠の故郷へと向けて旅を続けています。この旅において私たちは、この世やこの世が提供する物事を貴重な唯一の宝物だと思い込んでいる大勢の人々と絶えず衝突を繰り返してことになります。この点で、私たちは自らを常に検証し続ける必要に迫られます。はたして私たちは自分がこの世に出自をもつ者ではないことを、どれだけ意識して生活を送ってきたでしょうか。それとも、私たちはいつか神様の御前で自分のことを恥じることになるのでしょうか。

2章13〜17節 キリスト信仰者とこの世の権威

キリスト信仰者は「この世の権威」に対して服従しなければなりません。このことをパウロは「ローマの信徒への手紙」の第13章でごく手短に教えています。ペテロは、やはりパウロ同様の簡潔さをもって、これを自明のこととみなしています。「主のゆえに従いなさい」(「ペテロの第一の手紙」2章13節、口語訳)、とペテロは言い、「彼(この世の権威のこと、訳者注)は、あなたに益を与えるための神の僕なのである」(「ローマの信徒への手紙」13章4節、口語訳)、とパウロは言っています。この世における秩序と権威は、言葉では言い尽くせないほど大いなる、神様からいただいた賜物なのです。この世の権威は、「神様の僕」である自らの立場のことを忘れてしまう場合には、神様から罰を受けます。しかし、キリスト信仰者はこの世の権威に対して反乱を企ててはなりません。「使徒言行録」(5章29節)にあるように、神様の御言葉に反して行動するようにキリスト信仰者に対して要求することは、この世の権威がしてはならないことです。しかし、もしもそのような事態が起こる場合には、私たちキリスト信仰者は、「人間に従うよりは、神に従うべきである」(「使徒言行録」5章29節、口語訳)、という原則に従うことになります。

初期のキリスト教会が一様に、この世の権威に対して服従するように教えていたことを、私たちは知っています。今でもキリスト教徒への迫害は起きているし、自分が住んでいる国の状況にもよりますが、現代のキリスト教信徒の多くはこの教えに関して、乗り越えるのが困難な問題に遭遇する機会はあまりないでしょう。しかし、たとえば、国民の多数が福音ルーテル教会に所属しているフィンランドにおいてさえ、キリスト教信徒が信仰にかかわる自己の良心を清く保つことができないような職業もたしかに中にはあります。人工妊娠中絶手術を施す義務を負わされている一部の専門医などがその例です。とはいえ、キリスト教が迫害されている国を除けば、神様に対する従順を貫くのか、それともこの世の権威に対して服従するのか、そのどちらかを選択することが困った状況を生むケースは、一般的にはそれほど多くないと言えるでしょう。それよりも、たとえば脱税などの不正直な行動によって、この世の権威と神様との双方に対して険悪な関係になってしまうケースのほうが実際には多いのではないでしょうか。

2章18〜25節 僕としてのキリスト信仰者

キリストへの信仰を告白することがそれほど大きな困難を招かない場合が多い現代の世界とは異なり、ペテロのこの手紙が書かれた当時の状況はたいへん厳しいものでした。とりわけ過酷な立場に置かれたのはキリスト信仰者となった僕(しもべ)たちでした。彼らの主人がキリスト教を心から憎み、キリスト信仰者である僕に過酷な労働を強いる場合もありました。そして、悪事を働いたわけでもないのにキリスト信仰者が懲罰を受けることがしばしば起きました。このような場合には、いったいどうするべきなのでしょうか。これに対して、ペテロは「キリストの模範」を提示します。私たちの愛する主は自らの栄光にしがみつくことがありませんでした。イエス・キリストは罪も責められる点もまったくないお方でした。それにもかかわらず、御自分を責める者たちを逆に責め返すことはなく、怒ることも脅すこともなさらず、御自分にかかわる一切のことを父なる神様にお委ねになりました。このようにしてイエス様は全世界の罪を肩代わりし、私たち皆に模範を示してくださったのです。ですから、「キリストに属する者たち」もまた、イエス様の模範と同じような態度をとるべきなのです。そして、それ相応の理由から当然の苦しみを受けるのではなく、まったく理由もないのに苦しみを受けるほうがよりよいことである、と考えるべきなのです。

今まで見てきたように、ペテロの手紙が奨励している内容はたいへん厳しいものです。はたして私たちにはそれを主の御言葉として受け入れる力があるのでしょうか。ここで基本を復習しておくことにしましょう。すなわち、このことについても、また他のすべてのことについてと同様に、このような力は神様からのみいただけるものなのです。私たち人間がするべきことは、キリストとその愛を見つめることです。このキリストの愛こそが私たちのうちに変化をもたらします。このような変化は私たち自身の力では決して実現できません。この力あるキリストの愛の影響を受けて、もしかしたら私たちは自分が傷つけられたことや害を受けたことを忘れることができるようになるかもしれません。皆さんはどう思われますか。