ヤコブの手紙

執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

インターネットで聖書の「ヤコブの手紙」を読む


「ヤコブの手紙」ガイドブック


本文中に引用される聖書の日本語訳は口語訳によっています。 なお翻訳者の判断に従って日本語版では表現の変更や聖書の引用などについてある程度の編集が施されていることをあらかじめお断りしておきます。


「ヤコブの手紙」は公同書簡のうちのひとつである

新約聖書にはパウロの13通の手紙や「ヘブライの信徒への手紙」の他に「公同書簡」と呼ばれる7通の手紙が含まれています。「公同書簡」の「公同」とは「一般的」という意味です。これら7通の手紙は3通の「ヨハネの手紙」、2通の「ペテロの手紙」、「ユダの手紙」、およびこれから取り上げる「ヤコブの手紙」を指しています。

奨励と警告

「ヤコブの手紙」にはたくさんの奨励と警告が記されています。この際立った特徴のゆえに、この手紙には時を超えてあらゆる時代のキリスト信仰者たちに伝えようとしているメッセージが含まれているとも言えるでしょう。とはいえ、奨励や警告の多さは他の「公同書簡」の特徴でもあります。

手紙を書き記したのは誰か?

この手紙を書いたのは「神と主イエス・キリストとの僕ヤコブ」であると手紙の冒頭に記されています。

新約聖書には「ヤコブ」という名の人物が3名登場します。
1)イエス様の弟子であり、ヨハネの兄弟であり、ゼベダイの息子であるヤコブ(「マルコによる福音書」3章17節)
2)イエス様のもう一人の弟子であり、アルパヨの子であるヤコブ(「マルコによる福音書」3章18節)
3)イエス様の弟であるヤコブ(「マルコによる福音書」6章3節)

彼らのうちゼベダイの子ヤコブは西暦44年頃に殉教しました(「使徒言行録」12章1〜2節)。ですから、彼がこの手紙の書き手であったとは考えにくいです。また、アルパヨの子ヤコブについて知られていることはごくわずかです。

キリスト教会の伝承では、ごく初期の頃よりこの手紙の書き手がイエス様の弟ヤコブであったという見方がされてきました。

イエス様が公に伝道活動をなさっていた頃にはまだ、このヤコブはイエス様への信仰を持っていませんでした。それはイエス様の他の兄弟たちにもあてはまることです(「ヨハネによる福音書」7章2〜5節)。しかし、最初のペンテコステ(聖霊降臨)の出来事が起きた時点ではすでにヤコブはキリスト信仰者の群れに加わっていました(「使徒言行録」1章14節)。また、彼は死者の中から復活されたイエス様と出会っています(「コリントの信徒への第一の手紙」15章7節)。ヤコブはペテロの後を継いでエルサレムの最初期の教会の指導者として活躍しました(「使徒言行録」12章17節、15章13節、「ガラテアの信徒への手紙」2章9節)。

「義人ヤコブ」と呼ばれもするこの人物は西暦62年に殉教します。彼は神殿の屋根から突き落とされて石打の刑に処されたとも言われています。

もしもこの手紙がイエス様の弟ヤコブによって書き記されたものであるとするならば、手紙の執筆時期は西暦50年代であった可能性がかなり高いと思われます。

この見方とは異なり、この手紙は2箇所(1章1節と2章1節)にイエス様のお名前を書き加え、名目上の執筆者としてヤコブの名を冠した、元々はユダヤ人の手によってすでに30年代には執筆された文書であったという説もあります。

しかし、この説を反駁する根拠はいくつも見つかります。例えば「ヤコブの手紙」には旧約聖書関連の引用がたくさんありますが(全部で65個)、そこには福音に関連する引用も多く含まれています(全部で26個)。さらに、2章の終わりの部分はそこで扱っている問題の背景にパウロの教えを想定しなければ理解しにくくなります(2章14〜26節)。

一方では、現代の研究者の大半は「ヤコブの手紙」が成立した年代はもっと遅かったと考えており、約70〜130年代頃であったという説が一般的であるようです。もしもこの説を採用するならば「ヤコブの手紙」を書いたのはヤコブ本人ではなくて名のわからない誰か他のキリスト信仰者であったことになります。

この手紙がイエス様の弟ヤコブによって書き記されたことを擁護する立場と否定する立場との間にある意見のちがいは次のようにまとめることができるでしょう。

この手紙はヤコブが書き記したものである。なぜならば、
1)最初期のキリスト教会の伝承がそのように主張しているからである。
2)この手紙の書き手は自己紹介をしていない。ということは、彼は皆によく知られた人物であったということになる。
3)この手紙にはイエス様に関連する引用がたくさんみられる。
4)この手紙にはパレスティナ的な特徴がある。例えば、神様の働きかけを言葉で表現する際に受動態が使用されている(1章5節、1章17節)。

この手紙はヤコブが書き記したものではなく、たんに彼の名前が借用されただけのものである。なぜならば、
1)手紙の言葉遣いは上質のギリシア語のそれである。そして、手紙にはヤコブの母国語であるアラム語の影響は見られない。
2)パウロによる伝道からすでにかなりの時が経ち、彼の教えがまちがって理解され始めていた、と解釈することによってのみ「ヤコブの手紙」の2章の終わりの書き方に説明がつく。それゆえ、この手紙は早くとも70年代に書かれたものと推定するべきである。

しかし、これら後者の主張に対しては次のように答えることができます。

1)手紙の執筆にあたってヤコブは代筆者を利用することができたはずである。また、当時の地中海の東海岸地域にはギリシア語のできる人が大勢いたことが知られている。それゆえ、ヤコブ自身ギリシア語がよくできた可能性もある。そして、もちろんよい文章を書く才能は出身や教育にばかり左右されるものではない。
2)パウロはすでに生前の頃からその教えを曲解されていたことがわかっている(「ローマの信徒への手紙」6章1〜2節、「ペテロの第二の手紙」3章14〜16節)。

評価の分かれる手紙

新約聖書に含まれるべき福音書や手紙など(すなわち「正典」)の選定が最終的に決定された時に「ヤコブの手紙」を新約聖書に入れることを問題視した人々がいたことが知られています。彼らは「ヤコブの手紙」が使徒によって書かれたものではなく異邦人キリスト教徒に向けて書かれたものでもないとみなし、それゆえにこの手紙はパウロの教えと矛盾していると考えたのです。

宗教改革者マルティン・ルターもまた「ヤコブの手紙」に対して批判的な態度を取りました。それは彼が書いた「ヤコブの手紙」についての次の序文からもわかります。

「この聖ヤコブの手紙を昔の人々が捨ててしまったのはたしかだ。しかし、私はこの手紙に感謝しているし、よい手紙だとも思っている。なぜなら、この手紙は人間の教えを宣べ伝えようとはしておらず、それとは逆に、神様の律法の大切さについて熱心に教えようとしているからだ。これから私は自分の意見を述べようと思うが、それによって誰のことをも傷つけるつもりはまったくない。私はこの手紙を使徒によって書かれたものであるとみなすことはできない。その理由をこれから述べていくことにする。第一に、聖パウロや聖書の他のすべての書物群とは反対に、この手紙は行いを義なるものとして描いており、2章21節で「わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。」と述べている。ところがそれとは正反対に、聖パウロは「ローマの信徒への手紙」4章2節でアブラハムは行いによってではなく信仰のみによって義とされたと教えている。パウロはこのことを旧約聖書の「創世記」の記述(すなわち、アブラハムが我が子を神様に犠牲の捧げ物とする前に義とみなされたこと)に基づいて証している。この手紙が「行いによって義とされる」という立場をとっていることについては何らかの説明を与えることはできる。しかし、2章21節以降の記述で「創世記」15章6節(「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」)を「行いによる義」として理解するその考え方を弁護することはできない。「創世記」の箇所は聖パウロも「ローマの信徒への手紙」4章3節で引用しているように、アブラハムの行いではなく信仰についてのみ語っているのである。それゆえ、このような欠けた点があることからしてこの手紙は使徒の書いたものではないと結論することができる。第二に、この手紙はキリスト教徒を教えようとしているが、この長い教えの中でキリストの受難や復活や御霊については一度も言及していない。キリストの御名は二度ほど出てくるが、キリストがどのようなお方であるかということについてはまったく教えないまま、ただたんに神様への一般的な信仰について語っている。正しい使徒職とは、キリストの受難と復活と使命について説教し、このキリストへの信仰をキリスト教信仰の基とするためのものである。キリスト御自身が「ヨハネによる福音書」15章27節で「あなたがたも(・・・)あかしをするのである。」と言っておられる通りである。正統な聖書に含まれる書物群はそれらすべてがキリストについて宣べ伝えキリストをひたすら追求しているという点で一致している。また、キリストについて正しく述べているかいないかを明らかにしてくれるという意味で、この特徴はあらゆる書物を評価する際の正しい基準ともなっている。

聖書全体はキリストを証している(「ローマの信徒への手紙」3章21節)。パウロはキリスト以外のいかなるものについても知りたいとは願っていない(「コリントの信徒への第一の手紙」2章2節)。主キリストについて教えないものは、たとえそれを教えているのがペテロやパウロであったとしても、使徒的ではない。その一方では、キリストについて宣べ伝えている者は、たとえそれを行っているのがユダやアンナスやピラトやヘロデであったとしても、使徒的なのである。ところが、このヤコブは律法とその行いばかりを追求している。それに加えて、彼は一つの話題からもう一つの話題へと構成を考えずに飛び跳ねているため、善意と正義の人として使徒たちの幾つかの文言を収集したものを彼自身が書き記したか、あるいは誰か他の者が彼の宣べ伝えたことに基づいて手紙を書いたのではないかと私は推測する。1章25節で彼は律法を「自由の律法」と呼んでいるが、それに対してパウロは律法を「奴隷と怒りと死と罪の律法」と呼んでいる(「ガラテアの信徒への手紙」3章23節以降、「ローマの信徒への手紙」4章15節、8章2節)。そのほかにも、彼は4章10節で聖ペテロの言葉「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。」(「ペテロの第一の手紙」5章6節)を引用している。また、4章5節ではパウロの言葉「御霊の欲するところは肉に反するからである。」(「ガラテアの信徒への手紙」5章17節)も使用している。ヘロデはペテロの殉教よりも以前にヤコブを殺害した可能性も残されているが(「使徒言行録」12章2節)、これらのことから考えて「ヤコブの手紙」の書き手はペテロやパウロが殉教した後にもこの世で生きていたのではないかと推測することができる。短くまとめると次のようになるであろう。「ヤコブの手紙」の書き手は行いなき信仰に依り頼む者たちに反対しようとした。しかし、霊や理解や言葉によっては反対することができなかったため、聖書を引き裂いてしまった。こうして彼はパウロや聖書全体に対抗した。使徒たちが人々の心を神様の御心にかなう愛へと向けさせたことを彼は律法を教えることによって実現しようとしたのだ。それゆえに、私はこの手紙を私の聖書の中での正しい主著のうちのひとつに数え入れるつもりはない。とはいえ、他の人がこの手紙の書き手を高く評価するとしても、それを妨げるつもりもない。なぜなら、この手紙にとてもよい言葉がたくさん含まれていることもたしかだからである。この世のことについても人はひとりでは何もできない場合が多い。ましてやこの人物がたったひとりでパウロ(の手紙)や聖書の他の書物群の絶対的な価値に反対するようなことがありえようか。」 (以上、ルターによる「ヤコブの手紙」についての説明)

しかし、パウロとヤコブは本当に互いに正反対の考え方をしていたのか、それともパウロの教えに関する間違った解釈とヤコブの考え方との間に齟齬があったのか、という問題についてはじっくり考えてみる必要があります。それについては後ほど2章の説明でより詳しく扱うことにします。

ルターの批判の影響もあってか、新約聖書において「ヤコブの手紙」の置かれている位置は翻訳によってまちまちな場合があります。ある翻訳では公同書簡の中で最後から二番目に置かれています。しかし、「口語訳」も含め大多数の現代語訳の定本となっているギリシア語聖書(Nestle-Aland版)では「ヘブライの信徒への手紙」のすぐ後に続く「公同書簡」の最初の手紙になっています。