ヤコブの手紙2章 あなたの生き方が何に基づいているかはあなたの行いにあらわれている

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

真の愛は打算的ではない

「ヤコブの手紙」2章1〜9節

「わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。」
(「ヤコブの手紙」2章1〜4節、口語訳)

ヤコブは実践的なキリスト教の教師であったと私たちは断言できます。上掲の「ヤコブの手紙」2章の冒頭が彼の実体験に基づくものであることはまちがいありません。実際の事例を通してヤコブは手紙の読者に教えようとしています。

この事件が起きたのが教会の礼拝においてなのかそれとも何か他の状況においてなのかについては、研究者の間には一致した見解がありません。後者の状況の例としては、二人の教会員の間で争われる裁判の場を挙げることができます。「コリントの信徒への第一の手紙」6章1〜7節はちょうどこのような事例です。しかし、より自然な「事件現場」は通常の礼拝の場であったと思われます。

キリスト教の黎明期にあたる当時にはキリスト教会用の会堂はまだ建造されておらず、礼拝などの集会は誰か教会員の家で開かれていたと推定されます。そのような家庭集会に二人の新しい人がやってきました。一人は金持でもう一人は貧乏人でした。そして金持は丁重に扱われ、貧乏人はぞんざいな扱いを受けたのです。

もちろんこの対比的な描写はかなり単純化されています。よく知られているように、最初期のキリスト教会の会員の大部分は貧しく、奴隷の身分の人々も多かったのです。貧者たちが教会を訪れるのは当時としては珍しくなかったわけですから、彼らが教会の人々から邪険にされるのは決して一般的ではなかったはずです。しかしその一方では、当時、富裕者が礼拝に参加するのは稀でした。このことから、なぜこのような事件が起きたのかの説明がつくのではないかと思います。教会員たちは富裕者から教会がどのような利益を受けられるか想像して、この新たな訪問者に対して大袈裟な歓迎の態度を示したのではないでしょうか。それとは反対に、新たな貧者の来訪は教会の負担になります。教会が世話をしなければならない人間がもうひとり増えることになるからです。

ヤコブはこのような教会員たちの差別的な態度を厳しく裁いています。その理由を次にいくつか挙げていきます。第一に、これは信仰的なことではなくこの世的なことにばかり関心を寄せるまちがった態度でした。第二に、この態度は神様が自ら示してくださった模範に反しています。神様は社会の貧しい人々の面倒を親身に見てくださったのだし、今もそうしておられるからです。パウロはコリントの信徒たちに次のように書いています。

「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」1章26〜29節)。

第三に、経済的な豊かさを基準にして人間を差別する態度は、神様がすべての人々を分け隔てることなく扱ってくださる公平さと矛盾しています。このことについて旧約聖書の律法も次のように教えています。

「あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし、人をかたより見ず、また、まいないを取らず、みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった。」
(「申命記」10章17〜19節、口語訳)。

第四に、人を差別する態度は自分自身を愛するように隣り人を愛しなさいという神様の戒めに反しています(「ヤコブの手紙」2章7節、「レビ記」19章18節、「マタイによる福音書」22章34〜40節)。

しかしもちろん、他の人々を貶めることにならない場合には、それぞれの人に対して、例えば大統領など国の指導者たちに対して、彼らにふさわしい敬意を表することはふさわしいことです。

キリスト教会の歴史を振り返ると、ここでヤコブが断罪しているような出来事が実際に起きてきたことがわかります。例えば、かつてフィンランドの教会には富裕者のために用意された特別席がありました。

残念なことに、これと似たような事例は私たちの身近な生活の中からも実に容易に見つけることができます。例えば、ある日曜日の朝、教会の入り口に有名な芸能人と浮浪者とがあらわれたとしましょう。教会員たちが彼ら二人に対してまったく同じ態度で接するとは考えにくいです。「有名人がキリスト教の礼拝に通って信仰を証することは私たちの教会にとってまたとない宣伝になる」などと考えて自分の差別的な態度を正当化しようとする人も中にはいるのではないでしょうか。しかし、これはその有名人に対しても不適切な態度になっています。人の名声を通して教会が受けられるかもしれない利益に目がくらんで、その有名人もまた神様によって贖われたかけがいのない存在であるという最も大切なことが忘れられているからです。

再びヤコブは私たちに対して実行するのが非常に難しく不可能と言ってよい課題を突きつけます。それは、私たち人間はすべての隣り人を平等に愛することができないという事実です。

「私の周りには隣り人が非常にたくさんいるし、彼らの必要としている助けも多すぎる。彼らに対して私はいったい何をするべきなのか」と自問する人もいるかもしれません。ここで覚えておくべき大切なことは、神様は誰に対しても過剰な重荷を押し付けたりはなさらないということであり、私たちは誰一人、すべての人間に対して「その人の隣り人」となる使命を課されてはいないということです。

私はいったい「誰の隣り人」なのでしょうか。次に挙げる三つの原則は私たちがこの問題について健全な判断をするために役に立つと思います。

1)この世における「あなたの使命」が何であるか、また神様があなたに何を望んでおられるか、自問してください。

2)この世における「他の人たちの使命」も尊重してください。神様は街頭で伝道することや異教徒に福音を宣べ伝えることを全員に望んでおられるわけではありません。

3)福音伝道には様々な活動があります。大切なのは、それらが互いに支え合えるようなやり方を見つけることです。神様の御国のために働くことは個人事業ではなく、一つの目標の実現のみを目指す改革運動でもありません。むしろ、それはキリスト信仰者全員による共同作業なのです。

私たちの祈りは「主よ、ここに私はおります。どうか私の兄弟姉妹を派遣してください」ではなく「主よ、ここに私はおります。どうか私を派遣してください」というものであるべきです(「マタイによる福音書」9章36〜38節)。

「あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。」
(「ヤコブの手紙」2章7節、口語訳)

「尊い御名」とはイエス・キリストという御名前のことです。そして、この尊い御名が唱えられる特別な時として、主の御名によって人が洗礼を受ける時のことを挙げることができます。

結び目の強度は一番弱い箇所で決まる

「ヤコブの手紙」2章10〜13節

「なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。」
(「ヤコブの手紙」2章10節、口語訳)

この節でヤコブが書いていることは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」5章3節と内容的には同じですが視点は異なっています。

「割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。」
(「ガラテアの信徒への手紙」5章3節、口語訳)

この節でパウロは律法の教義的な側面を強調しています。人はもしも律法を通して救われたいのなら、罪の赦しの恵みを救いの根拠として持ち出すことはできないし、もしも罪の赦しの恵みを通して救われたいのなら、律法のどれかひとつの戒めを完全に守ることを救いの根拠として持ち出すことはできないということです。それに対して、ヤコブは神様の啓示の絶対性を明示します。律法の中から自分の気に入った規則だけを守るために選び出し、他の残りは無視するというやり方は許されないのです。

以下に引用するイエス様の山上の説教における律法の厳しい解釈は「ヤコブの手紙」にとても近い考え方であると言えます。

「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。」
(「マタイによる福音書」5章27〜32節、口語訳)

律法の全てを遵守することが不可欠であるという考え方は旧約聖書にもあります。

「『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。」
(「申命記」27章26節、口語訳)

神様の啓示はその全体がひとつのまとまりをなしています。「ヤコブの手紙」2章11節で十戒のうちの第六戒が第五戒よりも先に挙げられている理由は、新約聖書が書き記された時代にすでに存在したギリシア語訳旧約聖書(いわゆる「七十人訳」)においてもこれら二つの戒めがこの順序で書かれているからでしょう(「出エジプト記」20章13〜14節、「申命記」5章17〜18節)。

シナイ山で神様はイスラエルの民に御自分を啓示なさいました。その時に神様はイスラエルの民に何かしらの彫像を彼らが神として崇めるためにお与えにはなりませんでした。そのかわりに神様が彼らに遵守すべきものとして賜ったのが律法だったのです。その意味で律法には神様の御心が具体的に表現されていると言えます。

「だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。」
(「ヤコブの手紙」2章12節、口語訳)

上節の「自由の律法」とはどういうものでしょうか。そもそも自由と律法とは互いに相容れないものなのではないでしょうか。実際の日常生活にあてはめてこの問題を考えてみると、律法(あるいは法律一般)が私たちの自由を制限するものとして働いていることがわかります。

そもそも本当の意味で自由な人間など存在するのでしょうか。人が自由であるために満たすべき基本的な条件は自分がいったい誰であり何者であるかを正確に把握しているということです。しかし、自分が何者かを知らない人は真の意味で自己を実現することができません。結局のところ、己の何たるかを知らない人は金銭や権力やその他諸々の事柄によって支配されるようになるのです。

では、人間とはいったいどのような存在なのでしょうか。人間は「神様の似姿」であると聖書は答えています。

「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」
(「創世記」1章27節、口語訳)

このように人間が「神様のかたち」であるように、律法を含めた神様の全啓示もまた神様についてのかたちの表れであると言えます。元々は人間と神様の啓示とは調和していて互いに矛盾するものではなかったのです。それゆえにこそ、本来ならば律法は「自由の律法」でもありえるものなのです。

最初の人間たちが罪に堕落する前には、人間と神様の啓示は調和していました。ところが、彼らが罪に堕落してしまった結果、人間のうちにある「神様のかたち」が損なわれ、彼らの子孫である全人類は神様の御心に反抗するようになりました。それとともに、律法は人間生活における憎らしい敵になってしまったのです。しかし、元々はそうではありませんでした。神様が私たちのうちで御業を行われているときには、律法の善い面が私たちに明らかにされて律法に従うことも嫌なことではなくなります。私たちが律法を神様からの素晴らしい賜物とみなすようになるからです。

様々な被造物や事柄に対して奴隷の振り回されないかぎりにおいて、人は自由な存在でありえます。真なる自由は神様の御意思のうちのみ見出されます。人は神様の御意思のうちにおいてこそ自分に本当にふさわしい場所を見つけることができるからです。

「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。」
(「ヤコブの手紙」2章13節、口語訳)

実際に私たちの拠り所となっているのが罪の赦しの恵みであるのかあるいは一般的な公正さなのかは、私たちの行いからわかります。そのことをここでヤコブは指摘しているのです。

最後の裁きの時に神様に対して「神様、どうか私を憐れんでください!」と言うのと「神様、どうか私に対して公正であってください!」と言うのとでは大きなちがいがあります。

私たちのうちの誰ひとりとして全ての律法の要求を完全に満たすことはできません。それゆえ、私たちが律法を通して救われようとする試みはうまくいかないのです。私たちに残されているのは恵みの道だけです。しかし、もしも私たちが本当に恵みの道を歩んでいるのならば、私たちは互いに対して憐み深い態度を示すようになるはずです。このことについては、憐みに欠けた僕についてのイエス様のたとえと比較してみてください(「マタイによる福音書」18章21〜35節)。また、イエス様は有名な山上の垂訓においても次のように教えておられます。

「あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。」
(「マタイによる福音書」5章7節、口語訳)

ところが、もしも互いに対して憐みに欠けた態度を取るのならば、神様が私たちに憐み深く接してくださることを期待することはできません。

私たちは「律法による救いの道」を天に登り詰めていくために全身を預ける「鎖の輪」のようなものにたとえることができるでしょう。たとえ鎖の大部分がどれほど良質で頑丈なものであったとしても、もしもいくつかの鎖が質の悪さのせいでちぎれてしまうのならば、しかたがありません。その場合、私たちは下へ下へとひたすら落ちていくことになります。しかし、いったいどこに落ちていくというのでしょう。神様の恵みの中になのか。あるいは孤軍奮闘を再び始める場所になのか。

信仰は見えないままでは終わらない

「ヤコブの手紙」2章14〜26節

これから取り扱うのは「ヤコブの手紙」でも激しく議論されてきた箇所です。ここでヤコブがパウロその人とではなくパウロをめぐる誤解と戦っていると多くの研究者は考えています。同じように、パウロもまた自分の神学に対する人々の誤解を正さなければなりませんでした。それらの中には意図的な誤解もあれば錯覚によって生じた誤解もありました。このことは次に引用するパウロの手紙の箇所からも読み取れます。

「しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に仕える者なのであろうか。断じてそうではない。」
(「ガラテアの信徒への手紙」2章17節、口語訳)

「むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である。」
(「ローマの信徒への手紙」2章17節、口語訳)

「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。」
(「ローマの信徒への手紙」6章1〜2節、口語訳)

「ヤコブの手紙」が誤解を受けて問題視されたのは、ヤコブが「行い」と「信仰」という二つの最重要な神学用語を例えばパウロが「ローマの信徒への手紙」3〜4章で用いたのとは異なる意味で用いたからでもあるでしょう。

パウロにとって、何によって人は救われるのかという根拠を問うた時に「信仰」と「行い」とは対極的に位置付けられるはずのものでした。「行い」とは人が救われるために必要な前提条件なのか、それとも人が救われた結果生じてくるものなのか、というのがこの問題の核心です。

それに対してヤコブは、人が信仰に入った後にどのようなことがそれに続いて起きてくるかについて述べています。「信仰」は信じるようになった人に具体的な影響を及ぼすものなのか、それとも何の影響ももたらさないのか、という問題であるとも言えるでしょう。

あるフィンランド人の神学者によれば、「ヤコブの手紙」において対置されているのは信仰と行いではなく、活ける信仰と死んだ信仰です。ヤコブが活ける信仰はそれをもつ人間の行いのうちにあらわれないままに留まることはありえないと主張したとするならば、たしかにパウロはそのヤコブの考え方を全面的に支持したことでしょう。検討すべき課題はまだ残っています。以下に引用する「ヤコブの手紙」2章21〜24節です。

「わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。」
(「ヤコブの手紙」2章21〜24節、口語訳)

この箇所でヤコブはアブラハムの行いについてパウロとは異なる解釈を提示しています。あたかもヤコブはルター派の信仰理解の根幹に関わる信条「人は信仰のみを通して救われる」を否定しているかのように見えます。

イサクの燔祭についてのヤコブの解釈はユダヤ人の聖書学者たちの解釈とよく似ています。この解釈においてはアブラハムの行いが強調されます。それに対して、パウロは「ローマの信徒への手紙」4章でアブラハムの信仰を強調しています。まさにこの信仰こそがアブラハムに神様の指示通りの行動をとるように促したからです。

こうして見てくると、ヤコブとパウロの神学は決して調和できないほど互いに矛盾しているのではないか、という疑念が生じるのではないでしょうか。この問題を解く鍵となるのは次に引用する2章19節です。

「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。」
(「ヤコブの手紙」2章19節、口語訳)

この節でヤコブは、哲学的な意味で「真である」と認めること(すなわち、これが死んだ信仰です)では人は救われることがない、と主張しています。人を救うことのできる信仰は活ける信仰だけです。それでは、どのようにして私たちは活ける信仰を判別できるのでしょうか。信仰に続いてあらわれてくる行いによってです。行いの伴わない信仰は救いません。それは偽りの信仰だからです。人を救う信仰は行いも内包しているものです。とはいえ、行いは人が救われる根拠ではありません。信仰こそが人が救われる根拠なのであり、よい行いはそのような信仰の結果として生じてくるものなのです。

とはいえ、信仰と行いを区別することは必ずしも容易ではありません。例えば「マルコによる福音書」3章1〜6節にはイエス様が手の萎えた人を癒された出来事が記されています。そこには信仰がたんなる論理的な判断ではなく真に活動的な生き方であることが示されています。そのような生き方はずっと狭苦しい型に押し込められたままにはなりません。

「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」5章6節、口語訳)

パウロは生前の頃も自分の神学に対して様々な誤解を受けていましたし、それを意図的に歪曲する者さえいました。例えば「コリントの信徒への第一の手紙」6章9節や上述の「ガラテアの信徒への手紙」5章6節などはそれと関連している箇所です。ともあれ、そのようなパウロの神学に対する誤解や曲解を修正しようとしたヤコブはあえてパウロとは逆の極論を主張するような書き方をしています。それゆえ、ヤコブの神学はパウロの神学と同様に誤解を生みやすいものとなりました。激しい論戦が繰り広げられているところではともするとこのようなことが起きやすいものです。

キリスト教会の歴史を振り返ってみると、ルター派の倫理は主としてパウロの神学に基づいて形成されてきたのに対して、改革派の倫理はヤコブの神学のほうをより重視してきたとは言えるかもしれません。例えば社会科学の古典であるマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は改革派の職業倫理が西欧の資本主義の発展と密接な関わりがあったと述べています。