ヤコブの手紙1章 神様の民は旅の途上にある

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

離散している神の民 「ヤコブの手紙」1章1節

「神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。」
(「ヤコブの手紙」1章1節、口語訳)

ヤコブは誰に向けてこの手紙を書いているのでしょうか。「離散している十二部族の人々」とは誰のことでしょうか。考えられる答えは三つあります。

1)ユダヤ人
2)ユダヤ人キリスト信仰者
3)すべてのキリスト信仰者

まず、ヤコブがユダヤ人を意味していたはずはありません。なぜなら、彼と彼の反対者たちとの間には「イエス様こそ主なり」という共通の信仰があったからです(2章1節)。ですから、ヤコブはユダヤ人を「わたしの兄弟たち」(1章2節)と呼ぶはずがないのです。二番目と三番目の答えのうちでどちらを選ぶかは研究者によって異なります。

三番目の選択肢によれば、すべての新しいイスラエル、すなわち「ディアスポラ」(我が家を失い離散した環境)の中で生きているキリスト教会のことをヤコブは意味していると考えることができます。バビロン捕囚の終了した後(紀元前538年)、ユダヤ人たちは次の二つのグループに分かれました。この状態は今もなお続いているとも言えます。

1)地中海の東の端にあるイスラエルの地に居住するユダヤ人たち
2)イスラエルの地以外の様々な場所で散り散りに、いわば「ディアスポラ」の中で生活するユダヤ人たち

大部分のユダヤ人たちと同じようにキリスト信仰者たちもまた全員が「我が家」から離れた状態で暮らしています。天の御国だけが彼らにとっての唯一の真の故郷だからです(「コリントの信徒への第二の手紙」5章1〜7節、特に6節)。

エルサレムの最初期の教会はキリスト教会全体の中で指導的な立場にありました。エルサレム教会で重きをなしたヤコブやペテロはユダヤ人伝道に取り組んでいましたが、それでも彼らの書いた手紙にはキリスト信仰者全員に向けられたメッセージが含まれているのはたしかです(「ガラテアの信徒への手紙」2章1〜10節)。

誘惑と試練

「ヤコブの手紙」1章2〜18節

これから扱う箇所には多様な視点があらわれます。しかし、それらは「誘惑」あるいは「試練」という言葉に集約できるでしょう。

ヤコブは二つのタイプの連鎖反応を私たちに提示しています。それらは肯定的な連鎖反応(2〜4節)と否定的な連鎖反応(14〜15節)です。私たちが自らの生活を内省する時、はたしてどちらの連鎖反応が起きていることに気づくのでしょうか。選択肢は次の二つです。

1)試練〜忍耐〜完全性 
2)誘惑〜欲望〜罪〜死

ところで「主の祈り」には「われらを試みにあわせず」という祈りがありますが、この「試み」とは誘惑のことなのでしょうか、それとも試練のことなのでしょうか。伝統的なキリスト教の考え方によれば、試練は信仰者を訓育する肯定的なものですが、誘惑はそれとは反対に信仰者に傷を負わせる否定的なものです。また、信仰者にとって誘惑は遠ざけるべきものですが、試練は避けることができないしまた避けるべきものでもありません。

キリスト信仰者が罪に堕落する多くの場合の原因は、本来ならば誘惑(あるいは試練)から逃れるべき時に自らその誘惑(あるいは試練)に挑んでいったことにある、と説明した聖書の教師がいました。とはいえ、いつも逃げ回っているばかりでは信仰において強められることもないでしょう。はたして信仰者は誘惑(あるいは試練)からいつ逃げ去るべきであり、またいつ反対するべきなのでしょうか。

先ほど述べた二つの連鎖反応に共通して言えることは、先に進めば進むほどそれを停止させることがよりいっそう難しくなっていくという点です。

「だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。」
(「ヤコブの手紙」1章13節、口語訳)

この節は「誘惑は神様からくる」と考える人々が当時いたことを示唆しています。しかし、このような考え方には「神様が私を弱い者として創造なさったせいで私は罪を犯すのだし、それに対して何をしてみたところで結局は無駄である」という諦念が含まれているように思えます。たしかに「試みる者」(すなわち悪魔)もまた全能なる神様の権威の下に服している存在です。とはいえ、私たち人間は自らの罪の堕落を神様のせいにすることはできないのです。

「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」10章13節、口語訳)

上掲の節にあるように、もしも私たちが誘惑(あるいは試練)から逃れたいと願うならば、神様は私たちが誘惑(あるいは試練)から逃れ出るようにしてくださるのです。

「たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。」
(「ヤコブの手紙」1章11節、口語訳)

パレスティナでは東風(シロッコ)が吹き荒み始めると瞬く間に草は枯れてしまいます。それと同じように富裕な者のこの世の幸福も束の間であり、結局は消え去ってしまうものなのです。ですから、私たちは富を羨望するべきではありません。

「だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」
(「ヤコブの手紙」1章4節、口語訳)

上節からうかがえるように、ヤコブは人が完全な状態になれることを信じています。このことから、ヤコブは人間の可能性についてあまりにも楽観的な見方をしている、としばしば批判されてきました。しかし、このようにヤコブを決めつけるのは一方的すぎるでしょう。彼はこの箇所全体を通して誘惑や試練について語り続けているからです。

「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。」
(「ヤコブの手紙」1章5〜8節、口語訳)

上の箇所を読んでいて「それではキリスト信仰者には疑う権利がないのか」という疑問を抱く人もいるのではないでしょうか。疑うことについては「理論的な疑い」と「実践的な疑い」の二つに分けて考える必要があります。ここで「理論的な疑い」とは、神様の与えてくださっている素晴らしい約束を完全に信じ切ることができないという人間の弱さのあらわれのことであり、「実践的な疑い」とは、疑いの心に囚われたまま行動すること、すなわち、神様に信頼せずに自分自身に助けを求めることです。この箇所でヤコブが意味しているのはおそらく後者の意味での疑いのことです。

「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」
(「ヤコブの手紙」1章17節、口語訳)

神様の御許には「変化とか回転の影とかいうものはない」という上節の表現は、輝きに満ちている神様の御許にはどこにも影がないので神様の光輝から逃れて隠れることはできないという大切なことを私たちに思い出させます。

従順さは神様に対する正しい礼拝である

「ヤコブの手紙」1章19〜27節

ヤコブは御言葉をただ聞くばかりではなく実行する大切さを強調しています。これは次に引用する箇所からもわかるようにイエス様やパウロとも共通する教えです。

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」
(「マタイによる福音書」7章21〜23節、口語訳)

「なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。」
(「ローマの信徒への手紙」2章13節、口語訳)

一般的にも言えることですが、ヤコブが関心を寄せているのは「真の信仰からはどのようなことがもたらされるのか」という問題です。それに対して、パウロは「何が信仰の基礎をなしているのか」という問題を重点的に扱っています。

私たちの行いは、私たち自身の言葉やメッセージを裏付けるものであるか、あるいは打ち消してしまうものであるかのどちらかであると言えるでしょう。もしも私たちが自分で教えていることとはちがうことを行うならば、私たちの教えは意味も信頼も失ってしまいます。イエス様はファリサイ派の人々について民に教えて次のように言っておられます。

「だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。」
(「マタイによる福音書」23章3節、口語訳)

次に、ヤコブは「完全な自由の律法」について教えます。

「これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」
(「ヤコブの手紙」1章25節、口語訳)

この節に出てくる「完全な自由の律法」という考え方は、人間によって自発的に採用された一連の追加規則が「自由の律法」と呼ばれていたエッセネ派あるいはクムラン教団の共同体規則と関連しているかもしれません。ヤコブによれば、キリスト信仰者は律法を実行することによって救われはしないが、報酬をまったく相手から期待することなく自発的に隣り人に仕えることはできるのです。

「おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。」
(「ヤコブの手紙」1章23節、口語訳)

上節にあるように、神様の御言葉はいわば「鏡」のようなものです。この鏡は「私たちがいかなる存在であるか」ということと「私たちはどのような者であるべきか」ということを私たちに教示してくれます。

寡婦と孤児を助けることは最初期の教会における中心的な奉仕の働き(ディアコニア)でした(「使徒言行録」6章1〜3節)。これが本当に聖書の教えに対して従順な活動であることは「最後の裁き」(「マタイによる福音書」25章26〜43節)についてのイエス様の御言葉の中に最もわかりやすく示されていると思います。

次の一節は「ヤコブの手紙」のこの箇所の教えの要約となっています。

「そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。」
(「ヤコブの手紙」1章22節、口語訳