コリントの信徒への第二の手紙13章 弱い人々と強いキリスト

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「コリントの信徒への第二の手紙」13章1〜4節 弱い者も強くあれる

パウロはコリント教会を彼の三度目の訪問に備えさせようとしています。

以前パウロはエフェソからコリントにやってきて短い間滞在したことがあります。不毛な結果に終わったその訪問で彼は罪を行い続けている者たちを叱責しました。それはどのような罪だったのでしょうか。性に何らかの関係がある罪だったのではないか、という解釈がしばしばなされてきました(「コリントの信徒への第一の手紙」5章1節も参照してください)。もちろんその他の類の罪であった可能性もあります。実のところ、それが一つの罪であったということさえ定かではありません。

パウロは「会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」という批判を受けています(10章10節)。パウロは自分が必要ならば強硬な態度にも出れることをここで強調しています。キリストは人間が罪の中に安住することを決して容認なさいません。それゆえに、神様の使徒であるパウロもそれを認めることはできないのです。これまで彼はひたすら忍耐を重ねてきました。しかし今や罪を罪としてはっきり裁く時が来たのです。そうすることによって、罪を行い続けている者が悔い改めて救われるようになるためです。

私たちもある程度までは忍耐を持ち続けるべきです。私たちの誰一人として完全無比な人間はいません。誰でも罪を犯してしまうことがありえます。しかし、このことを言い訳にして、罪を継続的に行い続けることを正当化することがあってはなりません。

コリントの信徒たちはキリストが本当にパウロを通して語っておられる確証を要求しました(13章3節)。おそらく彼らが納得する証拠とやらは奇跡や幻(12章1〜10節)や異言で話すこと(「コリントの信徒への第一の手紙」14章1〜25節)やその他の恵みの賜物といったものだったでしょう。

それでもパウロは「弱い者」であり続ける態度を維持しました(12章9〜10節)。そのような場合にこそ、神様御自身が彼を通して働いてくださるからです。キリストも十字架につけられた時に「弱い者」となられました。しかし、キリストの真の力はその復活において明示されたのです。

「すなわち、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。このように、わたしたちもキリストにあって弱い者であるが、あなたがたに対しては、神の力によって、キリストと共に生きるのである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」13章4節、口語訳)

今度のコリント訪問ではパウロは「強い者」として振る舞うことになるでしょう。当時のコリント教会は彼がそうせざるをえないような状態に陥っているように見えたからです。使徒ペテロは私たちに神様の裁きがまさしくキリスト教会から真っ先に始まることを指摘し警告しています。

「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。」
(「ペテロの第一の手紙」4章17節、口語訳)

実際にもパウロはこれからコリント教会で「裁き」を遂行する予定でした。13章1節には旧約聖書の「申命記」の次の箇所からの引用が含まれています。

「どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。」
(「申命記」19章15節、口語訳)

パウロが具体的にどのような裁きを下すつもりだったのかについては様々な解釈が提案されてきました。「民数記」35章30節や「申命記」17章6節によれば、死刑を宣告するためには複数の証人が必要とされます。もしもパウロがこれらの旧約聖書の箇所を意識して手紙を書いたのならば、罪の生活を続けている者たちを教会から除名することを要求したとしてもおかしくはありません。この除名処分によって、彼らが悔い改めるか(「コリントの信徒への第一の手紙」5章4〜5節)あるいは悔い改めないようとしないために永遠の滅びに落ちていくか、そのどちらかが実現することになります。

「コリントの信徒への第二の手紙」13章5〜10節 自分自身を吟味しなさい!

コリントの信徒たちはパウロ批判に熱中しました。それに対してパウロは批判する側の人間の信仰がいかなる状態にあるかということのほうが重要であると指摘します。

私たちも他の人の信仰の状態をあれこれ批判しすぎる傾向があります。その一方で、自分自身の信仰の状態の自己吟味はなおざりにするのです。

神様は各人のことを個別に吟味なさいます。人は皆たった一人で神様の玉座の前に立つことになるのです。

しかし、このことは私たちがキリスト信仰者として他の罪人を叱責してはならないという意味ではありません(「マタイによる福音書」18章15〜18節)。もしも私たちが「自己完成」の時まで待機し続け、その後でようやく他の罪人を正しい方向に導こうとするのなら、そのような時は決して来ないでしょう。

パウロはコリントの信徒たちに対して(もちろんその後の時代のキリスト信仰者たちに対しても)「自己吟味を間断なく続けていくように」とは奨励していません。パウロの投げかける質問はたった一つです。しかしそれはとても大切な質問です。それは「あなたはキリストに属する者となっていますか。もしもそうでないならば、あなたは信仰の試練に耐えることはできませんよ」というものです。

「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」13章5節、口語訳)

上掲の節の終わりの部分が意味しているのは、私たちは自らの信仰の状態についてどう感じているかということではなく、私たちとキリストとの関係はどのようなものであるかということです。

ところで「イエス・キリストがあなたがたのうちにおられる」というのは「イエス・キリストが私たちの内におられる」という意味なのでしょうか、それとも「イエス・キリストがあなたがたの只中におられる」という意味なのでしょうか。次の箇所も重要です。

「神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。」
(「コロサイの信徒への手紙」1章27節、口語訳)

「キリストがあなたがたの只中におられる」とは「キリストがキリスト教会に住まわれている」という意味です。「ルカによる福音書」17章20〜21節でイエス様は神様の御国が御自身を通してこの世に住んでいる人々の只中に到来したことを宣言なさいました。

「キリストが私たちの内におられる」という表現はキリストが個々のキリスト信仰者の内に住まわれることを意味しています。とりわけ個人的な信仰の覚醒の大切さを説く人々はこの解釈を支持してきました。例えば「使徒言行録」17章27〜29節や次に引用する「ガラテアの信徒への手紙」の箇所はこの解釈の正しさを示していると思われます。

「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」2章20節、口語訳)

前述の二つの選択肢のうちからどうしても一つの解釈を選ばなければならないのならば、「キリストが私たちの内におられる」という表現のほうを選びたいと思います。なぜなら、パウロは自己吟味について語っているからです。この自己というのはキリスト信仰者一人一人のことであって、キリスト教会全体を指しているものではありません。

おそらくパウロには前述の両方の選択肢が念頭にあったと思われます。そして、どちらの解釈も真実です。キリストはキリスト信仰者個人のうちにも、またキリスト教会の只中にも住んでおられるからです。

「わたしたちは、あなたがたがどんな悪をも行わないようにと、神に祈る。それは、自分たちがほんとうの者であることを見せるためではなく、たといわたしたちが見捨てられた者のようになっても、あなたがたに良い行いをしてもらいたいためである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」13章7節、口語訳)

この節でパウロがコリントの信徒たちに言いたいことは、もしも彼らが悔い改めるならば、彼はコリントに行った時に自分の力や強さを明示する必要がなくなるということです。彼がそうする必要に迫られる場合には「パウロは不用意にコリントの信徒たちを脅迫した」と難癖を付ける人が現れるかもしれません(13章1〜4節)。しかし、そのようなことを意に介するパウロではありません。ここでも大事なことはパウロの名誉ではなく神様の御心がコリントでも実現することだからです(13章8節の他に「ローマの信徒への手紙」9章3節も参照してください)。コリントの信徒たちが悔い改めることはパウロにとってとりなしの祈りの課題でもありました(13章9節)。

この箇所から私たちが学ぶべきことは、人が信仰を捨ててしまうことは実際に起こりうるということです。人はキリストの御許を離れて信仰から外れた道に迷い出てしまうことがありうるのです。そのような状態のままで最後の時の神様の裁きを迎えることになる人は裁きの宣告に耐えることができません。

「コリントの信徒への第二の手紙」13章11〜13節 終わりの挨拶

最後にもう一度、パウロはコリントの信徒たちが彼の奨励を受け入れるように訴えかけています。

結局、パウロはどうなったのでしょうか。彼の手紙は受け入れられたのでしょうか。それとも拒否されたのでしょうか。ルカは「使徒言行録」20章2〜3節でパウロが第三回目のコリント訪問の際にそこに三ヶ月滞在したことを示唆しています。もしもそれ以前にパウロとコリントの信徒たちの関係が修復されていなかったのなら、彼がこれほど長くコリントに滞在することは無理だったでしょう。さらに、この「コリントの信徒への第二の手紙」が現存しているという事実そのものが、この手紙によって当時パウロが望んでいた結果が得られたことを証ししているとも言えるでしょう。

「きよい接吻をもって互にあいさつをかわしなさい。聖徒たち一同が、あなたがたによろしく。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」13章12節、口語訳)

「コリントの信徒への第一の手紙」16章20節にも出てくる「きよい接吻」という慣習は聖餐式にかかわるものであり、教会によっては現在でも見られることがあります。またその代わりに互いに握手する教会もあります。

「きよい接吻」は深い一致を証しする目印です。他のキリスト信仰者たちとの繋がりが壊れている状態では神様との真の繋がりも持てないことをイエス様は教えておられます(「マタイによる福音書」5章21〜26節)。

「聖徒たち一同」(13章12節)とはパウロがこの手紙を執筆した時に滞在していたキリスト教会の信徒たちのことを指しています。この教会はマケドニアの諸教会(7章5〜7節)のうちの一つであり、フィリピ教会のことであったのはほぼたしかであると思われます。

「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」13章13節、口語訳)

この手紙の最後の言葉は「使徒の祝福」としても知られています。

「聖書からは三位一体の教えが見出せない」という主張がなされることがあります。しかしそのような論法を使うなら、聖書からは洗礼や聖餐の教えも見出せないことになるでしょう。しかし、洗礼も聖餐も三位一体も聖書からちゃんと見つかります。新約聖書には三位一体なる神様の三つの位格(ペルソナ)が一緒に述べられている箇所がたくさんあります。例えば、「マタイによる福音書」28章18〜20節、「ローマの信徒への手紙」8章8〜11節、15章16節、「コリントの信徒への第二の手紙」1章21〜22節、「ガラテアの信徒への手紙」4章6節、「エフェソの信徒への手紙」2章18〜22節、4章4〜7節、「テトスへの手紙」3章4〜7節などです。三位一体の神様への信仰がなければ、パウロがこのような表現を用いることはありえなかったでしょう。

三位一体は、洗礼がキリスト教の洗礼かどうかを決定する境界線となっていることにもその重要性を見ることができます。「父と子と聖霊の御名による洗礼」のみがキリスト教の洗礼なのです(「マタイによる福音書」28章18〜20節を参照してください)。また、一度正しい洗礼を受けた者が他のキリスト教会に転会する場合に、その人に新たに洗礼を施すことは許されません。しかし、他の宗教における「洗礼」はキリスト教のものではありません。ですから、そのような「洗礼」を受けた人がキリスト教信仰に入る場合には、その人にはキリスト教の洗礼を授けなければなりません。

「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」13章13節。口語訳)

パウロはキリストを三位一体の位格(ペルソナ)のうちで最初に挙げています。キリストへの信仰はキリスト教信仰の核心です。キリスト教信仰の教えの根幹は「恵み」です。まことに「主イエス・キリストの恵み」はキリスト教信仰全体を凝縮した表現なのです。

(終わり)