ガラテアの信徒への手紙3章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

私たちの身代わりに呪われたキリスト 「ガラテアの信徒への手紙」3章

「ガラテアの信徒への手紙」1〜2章においてパウロは自らの使徒としての正統性を中心に議論を展開しました。この3章でパウロは律法と福音の関係を取り上げます。

はじめにパウロはガラテアの信徒たち自身の経験に訴えかけます。ただし、それでも経験が過剰に強調されることはありません。パウロの場合には聖書(すなわち旧約聖書)の証に基づいて最終的な結論が下されるからです。

ガラテアの信徒たちがキリスト信仰者になった経緯 「ガラテアの信徒への手紙」3章1〜5節

私はこの箇所を読んでいる時に、フィンランド福音ルーテル教会のある小さな地方教会の主任牧師の体験談を思い出しました。「私は信じるようになったのでこの教会をやめることにした」と言って教会の事務局に入ってくる人が時折いるのだそうです。

「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章1節、口語訳)

上の節からは、ガラテアの信徒たちの突如の方向転換に対してパウロがどれほど苛立ち驚愕し心配したかがよく伝わってきます。

その10年ほど前にパウロはこれらの教会を設立しました。ところが今やそれらの教会はキリストの恵みを捨てて律法の行いへと移行しようとしていたのです。

パウロは「十字架の神学者」でした。

「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」2章1〜5節、口語訳)

パウロは「十字架につけられたイエス・キリスト」を宣べ伝えることを望んでいました。十字架における死はイエス様のこの世での人生において最も重要な出来事でした。なぜなら、それは人類全体に罪の赦しをもたらすものだったからです。パウロにとって大切だったのは、「十字架につけられたイエス様」を人々の感情を揺りうごかすやり方で描写することではなく、「イエス様の十字架の死」の意味を人々に公然と告げ知らせることでした。

「イエス・キリストの勝利」のみを強調する一方で、「イエス・キリストの十字架刑による死」については直接語らないか、できることなら忘れてしまいたいと思っているようなキリスト信仰者たちがいることをパウロは知っていました。それでも、聖金曜日(イエス様が十字架にかかって死んだ日)の意味するメッセージを抜きにしては真のキリスト教信仰は存立しえないことをパウロは看破していたのです。

「わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章2節、口語訳)

上掲の節で、パウロはガラテアの信徒たちに対して単純な質問を投げかけています。たしかに彼らはキリスト信仰者になりました。しかしそれをもたらしたのは信仰において福音の説教を聴くという御霊の働きの結果なのか、それとも律法を実行した成果なのかという問いです。ガラテアの信徒たちが信仰の道に入った時に律法の行いは一切関与しなかったことを、ガラテアの信徒たちと同じくパウロもよく知っていました。パウロの反対者たちがガラテア教会を訪れた後になってようやく、ガラテアの信徒たちはモーセの律法を守ることに強くこだわり始めたのです。

また上掲の節は「キリスト信仰者は皆それぞれが聖霊様をいただいている」という考え方と明確に結びついています。

「しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。」
(「ローマの信徒への手紙」8章9節、口語訳)

パウロの神学においては他の可能性は存在しません。パウロによれば聖霊様こそが人間の内に信仰を生んでくださるからです。ですから、キリスト信仰者ならば誰であれ聖霊様を受けているはずなのです。聖霊様を受けていない人はキリスト信仰者ではありえません。ですから「聖霊様を受けている人々」と「聖霊様を受けていない人々」という二つのグループにキリスト信仰者たちを分類するのは聖書に基づく考え方ではないのです。

パウロは律法の行いを福音の意味を無効にするものと見ています(3章4節)。律法は福音や恵みを補完するものではありません。逆に、それらを破壊する存在なのです。恵みを補完することは決してできません。なぜなら、キリストが私たちのために全てのことをすでに行ってくださったからです。

「これを行え」と律法は要求します。それに対して福音は「キリストがすでに全てを行われた」と答えます。これら二つは互いに正反対の存在であるため一緒にまとめることができません。互いに補完し合う関係にもなりえません。それゆえ、ガラテアのキリスト信仰者たちが恵みの下から迷い出て律法の行いの道に移ることは信仰の前進であるどころか退行を意味したのです。ある意味でパウロは「律法を通して救いを獲得しようとする人々」のことを「異教のうちに生きる人々」と同一視しているとさえ言えます。なぜなら、そのどちらの人々も自分のことを自分の力で救おうとしているからです。それはまた、ゴルゴタの十字架において成就された神様の御子の贖いの御業を否定することにもなるからです。

「十字架に架けられたイエス・キリスト」を無視して展開される信仰心や宗教性は「物分かりの悪さ」以外の何物でもありません。ガラテアの信徒たちはこのことを自分自身の体験を通して知っているはずだったのです。

「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。」
(「ガラテアの信徒たちへの手紙」3章1節、口語訳)

信仰の父、アブラハム 「ガラテアの信徒への手紙」3章6〜14節

パウロの反対者たちはモーセの権威を持ち出しました。それに対して、パウロは神様による人類の救済の歴史をさらに過去に遡り、ユダヤ人の父アブラハムを例にとって反論を展開します。なぜなら、ユダヤ人たちは自らを「アブラハムの子孫」と呼称していたからです。「アブラハムは神様から大切な約束をいただいた。神様と契約した民の歴史はアブラハムから始まった。その意味でアブラハムはモーセ本人やモーセの伝えた律法よりもさらに重要な存在だった」というのがパウロの論旨です。

「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。」
(「マタイによる福音書」3章9節、口語訳、洗礼者ヨハネの発言)

「そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。」
(「ヨハネによる福音書」8章33節、口語訳)

「ローマの信徒への手紙」4章と同様にパウロはここでも読者の意表を突く議論を展開します。「アブラハムが義とされたのは信仰によってであり、行いによってではなかった」というのです。アブラハムは「息子イサクから始まる子孫が大いなる民になる」という神様の約束を信じました。この約束を受けた時点ではアブラハムも妻のサラももはや子を授かる見込みのない高齢者になっており、人間的に見れば約束の成就は不可能でした。それにもかかわらず、アブラハムは神様の約束を信じたのです。

「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」
(「創世記」15章6節、口語訳)

アブラハムが神様の指示に従って割礼を受ける前に、神様はこの約束を彼にお与えになりました(「創世記」17章11節)。ということは、アブラハムは無割礼の状態で義とされたことになります。

「ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである」。さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。」
(「ローマの信徒への手紙」4章6〜13節、口語訳)

ユダヤ人たちはもちろんこれら全てを知っていました。しかし彼らは、自らの義を獲得するために不可欠な「行い」として「アブラハムの信仰」を理解したのです。このような「信仰は行いである」という考え方は今日でもしばしば見受けられます。

しかし「アブラハムの真の子孫」とは割礼を受けた人々のことではなく、アブラハムと同じ信仰を持っている人々のことなのです。

「ガラテアの信徒への手紙」3章10〜14節においてパウロは考えられうる二つの救いの道を提示します。
(律法の道) 律法は完全に守られなければならない。
(恵みの道) 律法による行いを全く混ぜてはならない。

次の聖句にあるように「律法を守ることによって義を報酬として得ること」も原則として可能ではあります。

「律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章12節、口語訳)

しかしその場合には、ごくわずかであっても律法に違反することは許されません。次の引用句が言う通りです。

「なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。」
(「ヤコブの手紙」2章10節、口語訳)

しかし、律法の完全な実行はイエス・キリストをおいては誰一人不可能です。すでに旧約聖書でも「すべての人間が罪深い存在であること」が明瞭に認識されています。

「主は天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者があるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない。」
(「詩篇」14篇2〜3節、口語訳)

次の聖句での「聖書」とは旧約聖書のことです。

「しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章22節、口語訳)

私たち人間は誰一人として律法全部を完全に守ることができないので、律法を遵守する道は救いの道とはなりえません。それとは逆に呪いにさえなるのです。

「いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章10節、口語訳)

「『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。」
(「申命記」27章26節、口語訳)

とはいえ、律法自体が呪いなのではありません。私たちが律法の要求内容を満たすことができないことが問題なのです。律法を破ることが人に呪いをもたらすのです。

キリストは律法に照らして落ち度の全くないお方でした。それにもかかわらず、十字架の死の苦しみを受けられました。ユダヤ人の理解によれば、十字架刑によって死んだ者は神様による呪いを受けた存在でした。

「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節、口語訳)

「もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。」
(「申命記」21章22〜23節、口語訳)

木に架けられること、絞首刑、十字架刑は、呪いをもたらす原因というよりも、むしろ、十字架にかけられた者が神様によって裁かれ呪われた罪人であることを証しするものでした。言い換えれば、神様によって呪われた者たちが木に吊るされたのです。

十字架刑についてこのような考え方が背景にあったからこそ、「十字架に架けられたイエス様はメシアである」というパウロの説明はユダヤ人たちにとって認めがたいものだったのです。十字架に架けられたこの方が他ならぬメシア(救世主)であるという「矛盾」を解く鍵は「イエス様は御自分のせいではなく私たち人間の身代わりとして呪いを受けられた」という点にあります(上に引用した「ガラテアの信徒への手紙」3章13節を見てください)。神様の呪いの対象となったのはイエス様御自身ではなく、イエス様が身代わりに担われた全人類のすべての罪だったのです。

国民の一人を全国民の代表者とみなす考え方は古代の中近東において広く見受けられました。とりわけ王がそのような代表者とみなされました。王の中の王であられるイエス様もゴルゴタの十字架の上で全人類を代表しておられたのです。「イエス様は全き神様であると同時に全き人間でもあられる」という教えは新約聖書において極めて重要であり、キリスト教においても根本的な教義の一つとなっています。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」
(「フィリピの信徒への手紙」2章5〜11節、口語訳)

律法はキリストに対する影響力を全く失いました。ですから、イエス様を信じる者たちに対して律法は永遠の滅びの宣告を下すことがもはやできなくなっているのです。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」
(「ローマの信徒への手紙」8章1節、口語訳)

律法は約束を無効にしない 「ガラテアの信徒への手紙」3章15〜18節

パウロは自分の議論を覆すことができる論証が実は一つあることに気が付いていました。それは「アブラハムに与えられた約束よりも時代的にみて後から与えられた律法は、それゆえ約束を無効にできる」という考え方です。

このような論理を、パウロはそれと比較できるような具体例を人間の日常生活の中から引き合いに出して論破します。その例とは遺言です。遺言には当の遺言作成者以外の者が勝手に変更できないという特質があります。 

パウロが援用する遺言に関する考え方を受け入れようとはしない聖書注解者たちもいます。「神様は不死の存在なのだから、遺言を書かれることもないはずだ」というのが彼らの言い分です。「この議論でパウロは遺産の相続人が被相続人の死を待たずにもらい受ける生前贈与を意味していた」という補足説明によって問題点を回避しようとする試みもなされてきました。たしかに新約聖書には生前贈与の例があります。「放蕩息子の譬え」です(「ルカによる福音書」15章11〜32節)。

パウロがここでイエス様の十字架上の死を念頭に置いていた可能性は大いにあります。十字架上では神様の御子(すなわち神様御自身)が本当に死なれたからです。

また、この問題は別の面からも考察することができます。これは「一般的に譬えはある一つの目的のために語られているので、譬え自体をそのまま文字通りに説明しようとするべきではない」という見方です。譬えはその元になった何かを完全に描き出すことができません。一つの譬えの中に互いに矛盾する複数の視点が含まれている場合すらありえます。

「さて、約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫とに」と言っている。これは、キリストのことである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章16節、口語訳)

上の節のように、アブラハムに与えられた約束の最終的な完成者はメシアなのです。

「わたしの言う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章17節、口語訳)

この節にある「四百三十年」とはイスラエルの民がエジプトで過ごした期間を表しています (「出エジプト記」12章40節)。ですから、それはアブラハムとモーセの時代的間隔を示すものではありません。しかし、ここで年数自体にはさほど重要な意味がありません。むしろパウロは「はじめに約束が与えられ、その後に律法が制定されたという順序」を強調したいのです。

「もし相続が、律法に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない。ところが事実、神は約束によって、相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。」 (「ガラテアの信徒への手紙」3章18節、口語訳)

この18節でパウロは律法と約束の間に存在する緊張関係を再度強調します。これらの二つのうちの一つのみが救いの道なのです。人は両方に同時に頼ることはできません。

原語では18節に出てくる「賜わった」というギリシア語動詞は完了形になっています(「ケカリスタイ」)。ギリシア語動詞の完了形はある活動が終わりまで完全に行われ、その効力がその後も続いていることを表します。この箇所の場合では「かつてアブラハムに賜った約束を後になって取り消すようなことを神様は決してなさらないし、その約束は人間の救いについて神様御自身が保証してくださっている最終的かつ決定的な言葉である」という意味になります。

神様が律法を賜った理由 「ガラテアの信徒への手紙」3章19〜29節

この段階までパウロの手紙を読み進めたキリスト信仰者の中には「律法は神様からいただいたものではないのか」という疑問を抱く人もいるでしょう。次のような数々の質問が出てくるのもいたって自然だと思います。「律法が約束と相反するものであり、救いの道となりえないのだとするならば、律法には一体どのような意味があるのか?」「律法は本当に神様からの賜物なのか?」「キリスト信仰者は律法全部を忘れて捨てるべきではないのか?」「そもそも律法にはどのような使い道があるというのか?」

「仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章20節、口語訳)

この「神はひとりである」という言葉は「律法を賜った方」と「約束を賜った方」が同じ神様であることを示唆する表現です。それゆえ、律法と約束の間にはあらゆる相違点にもかかわらずある種の結びつきが存在するのです。「ガラテアの信徒への手紙」3章の終わり(3章19〜29節)と4章のはじめの箇所(4章1〜7節)でパウロは律法の持つ意味および約束との関係性について考察しています。

パウロの考え方の根底には「神様は歴史全体を見渡した御計画を持っておられる」という確信があります。私たちはこの御計画のことを「救いの歴史」と呼んでいます。聖書は互いに無関係なまとまりのない思いや考えの単なる集合体ではありません。聖書はその全体が「神様による人類の救いの御計画」という「筋書き」とつながっているのです。次の引用箇所もこのことと関連しています。

「わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。」
(「エフェソの信徒への手紙」1章11節、口語訳)

聖書の重要な要素である律法もこの御計画に何らかの形でつなげられて理解されるのが正しい聖書の読み方なのです。

ユダヤ教の教師であるラビたちは律法を永遠なるものとみなしていました。しかし、パウロは律法をある特定の時代のために人間に授与されたものと見ていました。次の引用箇所にあるように、約束されたメシアがこの世に来られた時、律法の時代は終わりを告げるのです。

「それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章19節、口語訳)

ユダヤ教の教師たちは律法について、ユダヤの民を悪から隔離する「垣根」のようなものと理解していました。「律法の助けによって悪を避けることができる」と考えられていたのです。今日でも律法主義的なキリスト教のグループでは、このユダヤ人たちと同じようなやり方で律法を使用する場合がしばしば見受けられます。

しかし以下の聖書の箇所が示すように、パウロにとって律法とは「罪をあばきだす存在」に他なりませんでした。

「しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章22節、口語訳)

「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」
(「ローマの信徒への手紙」3章19〜20節、口語訳)

「いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。」
(「ローマの信徒への手紙」4章15節、口語訳)

「それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。」
(「ローマの信徒への手紙」7章7節、口語訳)

律法は人を裁きます。「どれほど善意の努力を試みたとしても人は神様の御心を完全に満たすことが決してできないこと」を律法は示します。そして「人は自分が落ち度のある存在であり、永遠の滅びという裁きを受けて悲惨な状態へとひたすら向かっていること」に気づくのです。しかし、まさにこのようにして律法は人をキリストへと追い込み、恵みの方向へと導く役割を果たします。律法が示すことは「人は自分で自分を救うことはできないこと」また「人は信仰を通してのみキリストの贖いの御業のゆえに救われること」です。

「事柄に関わる仲介者の数が多ければ多いほどその事柄はそれだけより価値のあるものになる」とユダヤ人たちは考えていました。シナイ山における律法の授与の出来事に大いなる天使の軍勢が結び付けられたのも、この考え方と通底するものでしょう。これについてはすでに引用した「ガラテアの信徒への手紙」3章19節に加えて以下の箇所も参考になります。

「あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった。」
(「使徒言行録」7章53節、口語訳)

「というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、」
(「ヘブライの信徒への手紙」2章2節、口語訳)

「仲介者を増やすことによって律法の権威は高まる」とユダヤ人たちは理解しました。しかし、パウロはユダヤの教師たちと正反対の見方をしました。すなわち「仲介者が多ければ多いほど彼らが関わる事柄の価値は下がっていく」という考え方です。律法には二人の仲介者がいました。天使とモーセです(「ガラテアの信徒への手紙」3章19〜20節)。それとは異なり、約束には仲介者が全くおらず、アブラハムが神様から直接に約束を授けられたのです。それゆえ、約束のほうが律法よりも価値があるということになります。

暴力も辞さない厳しい僕

「このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章24〜25節、口語訳)

上掲の箇所で「養育掛」と訳されている言葉は原語のギリシア語では「パイダゴーゴス」と言います。これは当時のギリシアのアテナイにおいて6歳から16歳までの子どもたちの学校への送迎を担当した奴隷を指す言葉でした。英語では教育者や教師を意味するpedagogueという言葉の語源にもなっています。彼らは現代的な意味での教育者や教師などではなく、むしろ懲罰者とも言える存在でした。昔の「教育者」は杖をもった姿で描かれることが一般的でした。この杖は正規の道を踏み外した子どもたちをすぐさま罰するためのものでした。このような「養育掛」としてパウロは律法の本質を理解したのです。律法の役割は律法からの逸脱すなわち罪過を罰することでもあり、また人々を正しいほうへと導いていくことでもありました。この正しい方向とは「キリストへの方向」です。

信仰は新たなことを生み出す

最後にパウロは、信仰がキリスト信仰者の生活に「新たなこと」を生み出すものであることを示します。パウロは三つの事柄を挙げています。

第一に、信仰は私たちを神様の子どもにします。「神様の敵対者」という状態から「神様の御国の臣民」という地位を得るという移行はまさしく洗礼(ギリシア語で「バプティスマ」)において起きる出来事です。

「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章27節、口語訳)

新約聖書は人がキリスト教会の一員になるために洗礼以外の入場門を知りません。このことを象徴的に表している例としては、フィンランドのルーテル教会では洗礼盤を礼拝堂の入り口付近に設置する伝統的なやり方を挙げることができます。

第二に、信仰は様々な人種や社会的地位、あるいは異なる性別に属するキリスト信仰者たちを互いに結びつけるものでもあります。

「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章28節、口語訳)

「ぶどうの木の譬え」においてイエス様はキリスト信仰者たちを「ぶどうの木の枝」になぞらえておられます。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。」
(「ヨハネによる福音書」15章1〜6節、口語訳)

全てのキリスト信仰者は「神様の家族」すなわち「教会」という一つの統一体なのです。これと同じことをパウロもまた教会を人間の身体に見立てる譬えによって教えています(「コリントの信徒への第一の手紙」12章)。イエス様の譬えとパウロの譬え、そのどちらもが同じことを教えているのです。それは「キリスト信仰者たちは互いに争ってはならない」という教えです。なぜなら、彼らはキリストにあって一つだからです。

第三に、信仰は私たちをアブラハムの子孫、約束の子孫とします。

「もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章29節、口語訳)

神様のみが人間に賜ることができる「あらゆるよいこと」を私たちは「自分のもの」として享受することが許されています。