ガラテアの信徒への手紙4章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

奴隷と自由人 「ガラテアの信徒への手紙」4章

パウロは3章の終わりに始めた「奴隷と自由人」というテーマを4章の冒頭でも続けます。

私たちが現在使用している聖書の章節分けは聖書を書き記した人々自身が決めたものではなく、後の時代になって付け加えられたものです。ですから、章の区分から過大な意味を読み取るべきではありません。とりわけ聖書の中に含まれているパウロの手紙などの短い文書は元々は章立てのない一つのまとまりをなしていました。

「世のもろもろの霊力」からの解放 「ガラテアの信徒への手紙」4章1〜7節

「もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら」
(「コロサイの信徒への手紙」2章20節より、口語訳))

やや大げさな言い方でパウロは次のように説明しています。未成年であるかぎり遺産相続者は奴隷と変わらない立場に置かれているとも言えます。遺産の法的な継承者も成人するまでは遺産の使い道を自分で決める権利がありません。遺産相続者の保護者や管財人が代行者として遺産の用途を決めることになります。

これと同じようなやり方を神様は霊的な事柄について行われます。ユダヤ人にとっては律法が、また異邦人にとっては「世のもろもろの霊力」(ギリシア語で「ストイケイア」)が人々の生活を支配しています。そして、このような隷属状態はキリストが人々を律法や世のもろもろの霊力から解放してくださる時まで続いてきました。

ユダヤ人の律法と異邦人の世のもろもろの霊力とを並置するのは奇妙に思われるかもしれません。しかし、実はそれらは互いに非常に似通っている面があるのです。人が己の罪深さを自覚して神様に避けどころを求めるようにするために、神様が律法を設定なさったのはたしかです。しかし、悪魔は律法を人がこの本来の目的とは異なる用途で用いるようにそそのかします。例えば悪魔は、あたかも律法が救いに至る道であるかのように見せかけたり、律法の暴力性を悪用して、律法を守れない人の心を絶望させたりします。

このように、結果的に律法は人々を神様の御許に導くどころか、逆に神様の御許とは正反対の方向に追いやってしまいました。律法は人々を「行いによる自己の正しさを立証する方向」や「神様を捨て去る方向」へと駆り立てたのです。

ところで、今日における「世のもろもろの霊力」に相当するものは一体何でしょうか。パウロの時代の大多数の人々は様々な偶像を実際に崇拝していました。

現代の新聞や雑誌などのメディアにはホロスコープ(星座占い)が掲載されていることがしばしば見られます。それを読む人はたくさんいるでしょうし、その予言を軽い気持ちで信じる人々も少なくないでしょう。

様々なオカルトを扱った本や不思議な効能があるとされる薬などが今でも各種メディアを通して大々的に宣伝されています。それらがよく売れるからこそ広告もなくならないわけです。

例えば、現代のフィンランドではアジア的な宗教に対する関心も高まっています。様々な運命論にもたくさんの人が関心を持っているようです。

人間には本来「宗教的なもの」への関心があり、それは決して消えることがありません。とりわけ「一般受けする宗教的なもの」はただ時代とともに新たな形態をとって私たちの前に立ち現れるのです。大量に存在する新興宗教はその最も良い例です。人は誰であれ何かしらを信仰の対象としています。何も信じないというのであれば、その無宗教さがその人にとっての信仰の対象になっています。

未成年のままで

「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。」
(「ガラテアの信徒への手紙」4章4節、口語訳)

神様がお選びになった時にイエス様はこの世に来られました。上掲の節は真の神様であられる御子イエス様が真の人間でもあられることを強調しています。ローマやギリシアの神話に出てくるような人間の形をとった想像上の神々とは異なり、人間としてのイエス様はれっきとしたユダヤ人男性でした。ところで、キリスト教会が今からちょうどおよそ二千年前に誕生したのはどうしてでしょうか。これには幾つかの要因を挙げることができます。

(要因1)内部分裂する以前のローマ帝国は「国々の国境を超える」という面倒な手続きなしに広範囲にわたって伝道活動を展開できる状態だった。

(要因2)ローマ帝国内に整備された幹線道路は陸路での移動を容易にした。

(要因3)ヘレニズム文化とギリシア語という共通の環境が広域にわたって存在した。

(要因4)ギリシアとローマの従来の宗教の地位は揺らぎつつあった。

上記のような要因があったにせよ、キリスト教会がこの時期に誕生したのは、神様御自身がそう望まれたからです。しかしこれは「当時の世界がキリストを受け入れるほど成熟していた」という意味ではありません。とはいえ、神様が世界の成り行きを導いてくださっているのもたしかです。

神様の御子イエス様はゴルゴタの十字架の死によって私たちを贖ってくださいました。

「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。」   (「ガラテアの信徒への手紙」3章13節、口語訳)

キリストの十字架の贖いの御業によって、私たちは「大人」になったのではなく「神様の子ども」とされました。

キリスト信仰者の信仰生活には「霊的な大人になることの意味を誤解してしまう危険」がつきまとっています。もちろん私たちはキリスト信仰者として絶えず成長して行くべきです。しかし、それは自己満足の状態に凝り固まって行くことではありません。ここでいう「自己満足の状態」とは、もはや単純な福音も日々の罪の赦しも自分には必要と感じられなくなっている状態のことです。

私たちキリスト信仰者は死んで埋葬されるまで「未成年」のままであり続けるとも言えます。そして「神様の子ども」である私たちには神様のことを「お父さん」と呼ぶことが許されているのです。

「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」4章6節、口語訳)

聖書と「三位一体」の教え

キリスト教の基本的な教義によれば、神様は「父、子、聖霊」という三つのペルソナ(位格)を有すると同時に一つなる存在でもあられる、という「三位一体の神様」です。ところが、この教えを批判して「三位一体論は新約聖書には存在せず、後からキリスト教会が作り上げた教義である」などという主張がなされることもあります。

三位一体論が教義文の形としては聖書に見当たらないのはその通りです。しかし、例えば上掲の「ガラテアの信徒への手紙」4章6節では「父、子、聖霊」という神様の三つのペルソナ(位格)が一つにまとまって登場しています。

新約聖書を文書として書き記した人々が神様の三つの位格を知っていたのは確実です。そして、彼らが自分で三つの異なる神々を拝んでいるとは考えていなかったのも明らかです。すなわち、彼らは「父、子、聖霊」の関係性についての教えを持っていたのです。それゆえ「すでに新約聖書の中に存在するこの教えについて後のキリスト教会が信仰の教義としての具体的な表現を与えた」ということになります。

前進が後退に 「ガラテアの信徒への手紙」4章8〜11節

新たにやってきた教師たちの指導に従って、ガラテアの信徒たちはパウロの単純な福音よりもさらに先へ進もうとしました。しかしその結果、彼らは前進ではなく後退してしまいました。彼らは「異教を信仰していた頃とよく似た状況」に逆戻りしてしまったのです。

信仰に入る前の彼らは星々を神々として仰いでいました。ところが、今や星々が間接的に彼らの生活を再び規制するようになりました。ユダヤ教の暦と数々の祝祭日がそれぞれの日に「何をしてよいか」「何をしてはいけないか」「何をするべきか」といったことに関して指示を下すようになったからです。

よく観察するとわかるように、律法に基づいて自らの義を追求する姿勢は「異教に酷似した宗教性への回帰」を意味しています。ユダヤ教の暦に固執する宗教的態度は、星々の運行が人間の生活全般を規定するという思い込みからさほど遠いものではないからです。

パウロは「世を実際に支配しているのはどのような存在か」「地球の運行を本当に規定しているのは何者か」と私たちに問いかけています。私たち人間は様々な事柄を重要視する傾向があります。なぜなら、それらの重要性が一般的に承認されているからです。しかし「何が実際には重要か」「誰あるいは何が最終的に私たちの人生の方向を規定するのか」という問いかけのほうがはるかに大切なのです。旧約聖書の「ダニエル書」にはこれに関連する素晴らしい箇所があります。ペルシア帝国のベルシャザル王が酒宴でイスラエルの神様を侮辱した時、次のような不思議な出来事が起きました。

「すると突然人の手の指があらわれて、燭台と相対する王の宮殿の塗り壁に物を書いた。王はその物を書いた手の先を見た。そのために王の顔色は変り、その心は思い悩んで乱れ、その腰のつがいはゆるみ、ひざは震えて互に打ちあった。」
(「ダニエル書」5章5〜6節、口語訳)

突然現れた「人の手」がペルシア王を裁く預言の言葉を壁に書き記したのです。

私たちが自分の人生で価値を置いている「世のもろもろの霊力」がどのようなものか、私たちは自らに問いかけてみる必要がありそうです。それらは「価値がある」とみなす価値が本当にあるものなのでしょうか。私たちは正しい道を歩んでいますか。それとも間違った道に迷い出てしまったのでしょうか。人々の目には価値あるものに見えても神様の御目には価値がないこともしばしばあります。

キリスト信仰者も含めた全ての人間を絶えず脅かしている「ある危険」が存在します。それは「自分にとって独自の神的存在を作り上げていく」という危険です。人間には独自の信仰によって礼拝する対象、自分にぴったりの「オーダーメイドの神」を捏造する傾向があるのです。

偽りの謙遜

「キリスト教伝道という霊的な仕事からは具体的な成果を求めるべきではない」などと言われることがよくあります。「そのような考え方は目に見える成功を重視する間違った神学であるから」と。しかし、福音を広く宣べ伝えることが具体的に実を結ぶのを期待するのは、私たちにとっては権利であるばかりか義務でさえあることを次の引用箇所は思い起こさせてくれます。

「わたしは、あなたがたのために努力してきたことが、あるいは、むだになったのではないかと、あなたがたのことが心配でならない。」
(「ガラテアの信徒への手紙」4章11節、口語訳)

「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」9章26節、口語訳)

私たちの伝道の仕事には「全ての民をキリスト信仰者にする」という明確な目標があります。このことは「マタイによる福音書」の最後の箇所からもわかります。

「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。」
(「マタイによる福音書」28章16〜20節、口語訳)

「種蒔く人の譬え」(「マタイによる福音書」13章1〜23節)で人が種を蒔く目的は種がいばらの地に落ちることではなく、土の薄い石地に落ちることでもありません。そうではなく「良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(8節)という具体的な成果が上がることです。

福音は、そのもたらす成果を全く期待せずに宣べ伝えるにはあまりにも尊いものなのです。

友か?敵か? 「ガラテアの信徒への手紙」4章12〜20節

この箇所からはパウロがガラテアの信徒たちを心から愛していたことがはっきり伝わってきます。ここまでは厳しい書き方を続けてきたにもかかわらず、彼はガラテアの信徒たちを敵視してはいなかったのです。ガラテア教会に生じた問題は偽教師たちによって引き起こされたものであることを彼は知っていたからです。

「彼らがあなたがたに対して熱心なのは、善意からではない。むしろ、自分らに熱心にならせるために、あなたがたをわたしから引き離そうとしているのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」4章17節、口語訳)

パウロはユダヤ人でした。しかし、彼はキリストによって解放されたユダヤ人でした。そして、この「キリストにある自由」へとガラテアの信徒たちを招待したのです。

福音を伝える海外および国外での宣教j活動では、伝道者が心に刻むべき大切なことがあります。「福音を聞く側の人々の立場に自分を置いてみる姿勢自体が伝道の最終的な目的や目標になってはいけない」ということです。相手の身になって考えることは、福音を聞いた人々がキリストに従う者となるために用いられる手段の一つにすぎないからです。

「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」
(「コリントへの信徒への第一の手紙」9章19〜23節、口語訳)

種々の異端の教えにほぼ共通して見られる基本的な特徴があります。それは「教団の指導者への絶対的な服従の要求」です。それに対して、本来のキリスト教は教会の指導者が中心的な役割を担うものではありません。イエス・キリストのみが教会の中心になるべきお方だからです。パウロは次のように教えています。

「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」11章1節、口語訳)

パウロの敵対者たちはガラテアの信徒たちをパウロとその教えから引き離そうとしました。もしも敵対者たちがそれに成功していたのなら、パウロの教えの伝統を受け継ぐキリスト教信仰はその結果として潰えてしまった可能性もあります。というのは、ガラテアの教会で問題が起きたのと同じ時期にコリントの教会も同様の問題に巻き込まれていたからです(「コリントの信徒への第二の手紙」を参照のこと)。その意味で、これはパウロの広範な海外宣教活動の根幹を脅かした実に危機的な時期であったとも言えるでしょう。

パウロの病

「あなたがたも知っているとおり、最初わたしがあなたがたに福音を伝えたのは、わたしの肉体が弱っていたためであった。そして、わたしの肉体にはあなたがたにとって試錬となるものがあったのに、それを卑しめもせず、またきらいもせず、かえってわたしを、神の使かキリスト・イエスかでもあるように、迎えてくれた。その時のあなたがたの感激は、今どこにあるのか。はっきり言うが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してでも、わたしにくれたかったのだ。」
(「ガラテアの信徒への手紙」4章13〜15節、口語訳)

上掲の箇所に基づいて、どのような病がパウロを苦しめていたのかを確定しようとする試みがなされてきました。おそらく次の箇所もパウロの同じ病を指しているものと思われます。

「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」12章7節、口語訳)

パウロの病は癲癇(てんかん)だったのではないかという説もあります。この病については福音書の癒しの奇跡の出来事に多くの例が見られます。次に一例を挙げます。

「さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。」
(「マタイによる福音書」17章14〜18節、口語訳)

パウロの病としてはマラリアも候補に挙げられています。ガラテアもそこに含まれるパンフィリア地方にはたしかにマラリア原虫を媒介する羽斑蚊(ハマダラカ)が好んで生息する沼地がたくさんありました。

上に引用した「ガラテアの信徒への手紙」4章13〜15節にある「自分の目をえぐり出してでも」という言葉は諺的な表現とも解釈できますが、それでもやはりパウロの病はおそらく何らかの眼病だったのではないかと思われます。眼病は当時さほど珍しくない病気でした。次の引用箇所は、パウロが文字を書くことに不慣れであったのか、あるいは視力が悪かったのか、そのどちらとも解釈できます。

「ごらんなさい。わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章11節、口語訳)

さらに、次の引用箇所でパウロが大祭司をすぐにはそれと見分けられなかったことも、彼の視力の悪さがその原因であったという説明もできるでしょう。

「パウロは議会を見つめて言った、「兄弟たちよ、わたしは今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきた」。すると、大祭司アナニヤが、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じた。そのとき、パウロはアナニヤにむかって言った、「白く塗られた壁よ、神があなたを打つであろう。あなたは、律法にしたがって、わたしをさばくために座についているのに、律法にそむいて、わたしを打つことを命じるのか」。すると、そばに立っている者たちが言った、「神の大祭司に対して無礼なことを言うのか」。パウロは言った、「兄弟たちよ、彼が大祭司だとは知らなかった。聖書に『民のかしらを悪く言ってはいけない』と、書いてあるのだった」。」
(「使徒言行録」23章1〜5節、口語訳)

しかし、パウロの病が何であったかについては確実なことは言えません。

当時の世界では「病気は悪霊によって引き起こされた」という見方がしばしばなされました。それゆえ「悪霊に取り憑かれないために病人からは遠ざかる」というのが人々の取る一般的な行動でした。それでも、ガラテアの信徒たちはパウロが初めて彼らの教会を訪れた際には彼の教えに感動したあまり、彼の病については気にも留めなかったほどだったのです。

使徒の正統性を決めるのは?

「そして、わたしの肉体にはあなたがたにとって試錬となるものがあったのに、それを卑しめもせず、またきらいもせず、かえってわたしを、神の使かキリスト・イエスかでもあるように、迎えてくれた。」
(「ガラテアの信徒への手紙」4章14節、口語訳)

上掲の節は次の箇所と合わせて読むことでより深く理解できるようになるでしょう。

「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。」
(「マタイによる福音書」10章40節、口語訳)

「マタイによる福音書」のイエス様の教えで「あなたがた」とは「福音を宣教する者たち」や「イエス様に従う者たち」を意味しています。ですから「ガラテアの信徒への手紙」でパウロは自分のことを誇っているのではありません。パウロがガラテアの信徒たちに宣べ伝えた内容は自分自身のことではなくキリストの御業であったことが肝心な点なのです。

このことに関連して次の点を考察する必要があります。パウロが宣べ伝えた福音をガラテアの信徒たちが無視したからといって、それでパウロの使徒としての正統性が消えるものではないという点です。パウロのメッセージの使徒的な正統性はガラテアの信徒たちの好き嫌いに左右されるものではありません。使徒的な正統性とはパウロの宣教が神様の御心に沿っているかそれとも沿っていないかという基準に基づくことだからです。

「新約聖書に出てくる考え方が現代の私たちの考え方に合っているかそれとも合っていないか」という基準に基づいて、新約聖書を使徒的な部分と使徒的ではない部分とに細かく刻み分けていくことは不可能です。聖書の使徒的な正統性を判断するのは私たち人間ではなく、御言葉を賜った神様御自身だからです。

「できることなら、わたしは今あなたがたの所にいて、語調を変えて話してみたい。わたしは、あなたがたのことで、途方にくれている。」という4章20節と「律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。」という4章21節との間で、本当ならパウロは口述筆記を少し休んで、ガラテアの信徒たちを正しい道に連れ戻すための「特効薬」を模索すべきだったのではないか、と考える研究者もいます。そうかもしれません。ともあれパウロは「奴隷と自由人の異なる点」をはっきり示すために次の話題として旧約聖書のある出来事を取り上げることになります。

ハガルとサラ 「ガラテアの信徒への手紙」4章21〜31節

この箇所には新約聖書でただ一度だけ用いられた旧約聖書のアレゴリー的解釈(すなわち寓喩的解釈)が登場します。この解釈のやりかたは中世のキリスト教会において盛んに用いられました。「字義通りの解釈は歴史的な真実を語っており、アレゴリー的な解釈は霊的な真理を語っている」と中世では教えられていました。しかし、宗教改革者マルティン・ルターはアレゴリー的な聖書解釈を退けました。なぜなら、ルターによれば聖書は明瞭な書物であり、そのメッセージを「行間」や「言葉の背後」から探し回る必要などはないからです。

現代でもなおアレゴリー的な解釈は用いられています。しかしこのやりかたには「解釈が恣意的なものになる可能性がある」という危険が付きまといます。「ガラテアの信徒への手紙」のこの箇所で「ユダヤ民族はハガルの子孫である」というパウロの視点は、アレゴリー的解釈が自由度の高い恣意的なものであることをよく表しています。ところが、旧約聖書はそれとは全く逆に「ユダヤ民族はサラの子孫である」と教えています。

アレゴリー的解釈に類似したものとしてはトポロジー的解釈すなわち予型的解釈があります。この解釈のやりかたは新約聖書では非常にたくさんの例があります。

「ガラテアの信徒への手紙」のこの箇所におけるパウロの考えの流れを追うことは実に容易です。アブラハムには二人の妻と二人の息子がいました。サラは自由人であり、それゆえ彼女の息子であるイサクも自由人でした。それに対して、ハガルは女奴隷であり、それゆえ彼女の息子であるイシマエルもまた奴隷でした。これら息子たちの誕生に関しても両者の間には明確な違いがありました。イシマエルは「肉によって生れた」のに対して、イサクの誕生は全く奇跡的な出来事でした。イサクは神様の「約束によって生れた」のです(4章23節)。

「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章11節、口語訳)

パウロが旧約聖書に記された出来事をキリスト教信仰に適用し始めると、途端にこのテキストは難解なものに変わります。パウロの用いた解釈法はユダヤ教では一般的なものでしたが、現代の私たちにとっては馴染みの薄いものです。パウロの考えかたの主要な流れは次のようなものです。ユダヤ人たちはキリストを捨てて律法の下敷きになってしまいました。こうすることで彼らはハガルの奴隷としての身分を(霊的な意味で)受け継ぐ立場に自らを置いたことになります。彼らは「キリストにおける自由」を退け、自発的に「律法の奴隷」となったのです。

それに対して、キリスト信仰者たちは「真のイスラエル」すなわち「神様の子ども」としての自由を享受して生きていくことが許された「上なるエルサレム」です(4章26節)。

ここでいくつかの細部に注目してみることにしましょう。

1)イシマエルは家を追われた時にはすでに割礼を受けていました(「創世記」17章23節、口語訳)。つまりイシマエルはユダヤ人としての外面上の資格を持っていたことになります。

2)「しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。」
(「ガラテアの信徒への手紙」4章29節、口語訳)

しかし、旧約聖書はイシマエルがイサクを「迫害した」とは書いていません。ただし「創世記」21章9節にはイシマエルがまだ幼いイサクを「からかった」とは書いてあります。それに対して、ユダヤの伝説によればイシマエルがイサクを弓矢で圧迫したとされています。ちなみに「からかった」という動詞はヘブライ語ではピエル態分詞形の動詞「ツァハク」であり、これがイサクの名前の元になっています。

3)「さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。」
(ガラテアの信徒への手紙)4章24節、口語訳)

この節ではやや唐突にシナイ山とハガルが結び付けられています。これはアラビア語で石や岩を意味する「ハジャル」という言葉が「ハガル」に類似しているからである、という説もあります。

4)「すなわち、こう書いてある、
「喜べ、不妊の女よ。
声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。
ひとり者となっている女は多くの子を産み、
その数は、夫ある女の子らよりも多い」。」
(「ガラテアの信徒への手紙」4章27節、口語訳)

この節は次の「イザヤ書」54章1節からの引用です。

「子を産まなかったうまずめよ、歌え。
産みの苦しみをしなかった者よ、
声を放って歌いよばわれ。
夫のない者の子は、
とついだ者の子よりも多い」と主は言われる。」
(「イザヤ書」54章1節、口語訳)

この箇所自体は旧約聖書ではイサクとイシマエルと直接に関連するものではありません。聖書のそれぞれ別々の箇所にある文章を互いに連結するのはアレゴリー的解釈に典型的なやりかたです。

このように見てくると、アレゴリー的解釈に基づくこの聖書の箇所は信憑性がないということになるのでしょうか。いや、そうではありません。神様はガラテアの信徒たちだけではなく私たちをも聖書の記述を通して、ここではアレゴリー的な解釈を用いつつ、大切なことを教えようとなさっているのです。しかしだからといって、聖書をアレゴリー的に解釈する権利を私たちにも許可するものではありません。パウロは「主の選ばれた使徒」でしたが、私たちはそうではないからです。

聖書の出来事が今の私に伝えたいこと

聖書の記している様々な出来事を前にして「このことは今の私に何を伝えたいのだろうか?」と問う必要があります。聖書は過去の遺物と化した歴史なのではなく、今日でも生き生きとした影響力を持っている「神様の啓示」なのですから。

ここで大切な教えを二つ考えてみることにします。

1)一つ目の教えは、キリスト信仰者たちは教会史全体を通して迫害を受け続けてきたということです。そして、パウロの時代における迫害者はユダヤ人たちであったということです。

「しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。」
(「ガラテアの信徒への手紙」4章29節、口語訳)

ここで注目すべき点があります。キリスト信仰者を迫害したのはキリスト教会の外部者ばかりではなかったということです。それとは逆に、キリスト教会内の特定のグループが迫害の対象となるケースもしばしば起こりました。例えば諸々の異端も元々はキリスト教会の内側から生じた場合が多くありました。もちろん先ほど挙げた「特定のグループ」とは異端の教派のことではありません。これらのグループは、キリスト教会においてそれぞれの時代に猛威を振るった非聖書的な考え方と距離を置いて、聖書に基づく正統的な意見を主張したために教会内部で迫害を受けた人々のことです。例えばローマ教皇の教会はルターを迫害したし、ユダヤ教の指導者層は旧約の預言者たちを迫害しました。次に預言者エレミヤの事例を聖書から読んでみましょう。

「さて祭司インメルの子で、主の宮のつかさの長であったパシュルは、エレミヤがこれらの事を預言するのを聞いた。そしてパシュルは預言者エレミヤを打ち、主の宮にある上のベニヤミンの門の足かせにつないだ。その翌日パシュルがエレミヤを足かせから解き放した時、エレミヤは彼に言った、「主はあなたの名をパシュルとは呼ばないで、『恐れが周囲にある』と呼ばれる。主はこう仰せられる、見よ、わたしはあなたを、あなた自身とあなたのすべての友だちに恐れを起させる者とする。彼らはあなたが見ている目の前で敵のつるぎに倒れる。わたしはまたユダのすべての民をバビロン王の手に渡す。彼は彼らを捕えてバビロンに移し、つるぎをもって殺す。わたしはまたこの町のすべての富と、その獲たすべての物と、そのすべての貴重な物と、ユダの王たちのすべての宝物をその敵の手に渡す。彼らはこれをかすめ、民を捕えてバビロンに移す。パシュルよ、あなたと、あなたの家に住む者とはみな捕え移される。あなたはバビロンに行って、その所で死に、その所に葬られる。あなたも、あなたが偽って預言した言葉に聞き従った友もみなそのようになる」。」
(「エレミヤ書」20章1〜6節、口語訳)

キリスト教信仰は形骸化してしまう危険が常にあります。キリスト教信仰は単なる規則の寄せ集めに変質してしまう危険にも晒されています。そして皮肉なことに、自らの信仰がこのようなものに変わり果てた人々が、純粋な信仰を保とうとする人々のことを迫害するようになっていきます。

私たちの生きている現代において「活きた信仰」を脅かしている大きな要因の一つとして、民主主義的な支配形態を挙げることができるのではないでしょうか。この民主主義なるものは多数派の牛耳る独裁的な支配にいともたやすく変質してしまうという傾向を持っています。「信仰者たちはいつの時代であっても常に少数派の立場になること」をイエス様はすでに予言しておられました。

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」
(「マタイによる福音書」7章13〜14節、口語訳)

2)二つ目の教えは、キリスト信仰者は「遺産」を受け継ぐ者とされているということです。私たちは天の父なる神様の御許にある「上なるエルサレム」(「ガラテアの信徒への手紙」4章26節)を継承することが許されているのです。

「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」」
(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)

キリスト信仰者として生きていこうとすることは一般の人々の羨望の的になるようなものではないことがしばしばあります。しかしたとえそうであったとしても、キリスト信仰者たちは最終的には救いの幸福に与ることになるのです。なぜなら、彼らは勝利者の側についているからです。