ヨハネの黙示録16章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

七つの怒りの杯 16章1~11節

 神様の怒りの七つの杯の幻はこの世の終わりについて語っています。以前に登場した七つのラッパもまた最後の時に起こる様々な出来事を告げるものでした(「ヨハネの黙示録」8~9章)。杯の幻の中で示された出来事は、時間的には七つのラッパの告げた出来事よりもさらに後に起こる出来事を指しています。杯の幻はこの世での出来事の最後のグランドフィナーレを飾るものです。つまり、キリストの再臨の直前に一体何が起きるのか、ということです。幻の中で語られているこれらの数字や量にどれほど象徴的な意味があるのか、私たちは知りません。はっきりしているのは、キリストが帰ってこられる前に多くの悪い災いがこの世を襲う、ということです。それらの災いを通して、最後の瞬間まで神様は人類を御許へ招こうとなさるのです。

 七つの天使はひとりずつ順番に杯を地上に傾けて空にしていきます。ヨハネが目にするのは、かつてエジプトを襲った災いに似たものです(「出エジプト記」7~10章)。ラッパの幻に比べると、ここでの災害ははるかに大規模です。もはや地と海の三分の一が滅びるのではなく、災害は世界全体に及びます。これは文字通り「この世の最後の瞬間」なのです。神様の忍耐は今や消えかけており、「恵みの時」もいよいよ終わろうとしています。

 5節には「水の天使」という謎めいた表現がでてきます。「ヨハネの黙示録」は、風をつかさどる天使(「ヨハネの黙示録」7章1節)や、火をつかさどる天使(「ヨハネの黙示録」14章18節)について語っています。神様は天使たちに自然に関連する仕事を分担させているように見えます。天使たちは自然を守り、その世話をし、自然の中で彼らが行うよう神様から命じられたことを実行します。「水の天使」は自然界の水脈の責任を担当する神様の僕であると思われます。

 この天使たちも前述の幻で天国に入った人々と同様に、神様がなさることをそのまま受け入れて神様に感謝します。たとえ神様の裁きがどれほど厳しく残酷なものに感じられるとしても神様の御業はやはり正しいということを、彼らも知っているのです。これは、神様が裁きを遂行せずには済ませられないほど多くの悪が世の中には存在するということでもあります。

 最後の災いも神様の叱責のあらわれです。神様は、御自分を無視している者たちが悔い改めて御許に来るように招かれます。私たち人間が神様の言われることを聴こうとしないので、神様は厳しいやりかたで叱責するほかないのです。この招きに対する人々の態度は読むに耐えないほどひどいものです。彼らは神様の御許に向かおうとはしません。それどころか神様を侮辱し、神様からの招待を無視します。それはおそらく、彼らには受け入れがたい恭順な態度を悔い改めが要求しているからなのでしょう。この世を襲う災害に関しても、自らの悪行を悔いて告白し罪を捨てるよりも、神様にすべての責任をなすりつけるほうが、彼らにとってはるかに容易なやりかたなのです。

 神様は全能です。このことは「ヨハネの黙示録」の無数の箇所が証しています。神様や神様に属する人々と戦う獣には強大な権力があり、神様に属する人々は獣との戦いで負ける側のように見えます。ところがそうではありません。神様はこの世の支配権を掌握なさっており、世界の歴史は神様の御計画の通りに進んでいきます。これについて語っているのが、10節です。神様の僕たちは一つの杯を獣の玉座にすっかり注ぎかけます。それを獣は妨げることができません。全能者は文字通り全部の権能をお持ちなのです。神様が「時が満ちた」と判断なさる時、獣の帝国は闇に包まれます。神様は勝利者であり、悪魔はその手下もろとも敗北することがすでに決まっています。皆がそれをいつ目撃することになるかはたんなる時間の問題にすぎません。  

その時が来た 16章12~21節

 第六の天使が杯を傾けて空にするとき、ユーフラテス川が涸れてしまいます。ここでは字義通りのユーフラテス川を意味しているとは限りません。ユーフラテス川はローマ帝国の領土の境界線であり、その対岸には強大な軍事力を誇る無数の恐るべき民族がいることが知られていました。川が干上がるということは、今まで守られていた境界線が消えてしまうことを意味します。こうして日の昇る方角からやって来る王たちに道が開かれるようになるのですが、この王たちはアジアの諸国の皇帝たちを指しているというより、むしろキリストの再臨直前の段階でこの世を守る境界線が消えたため世界に騒乱を自由に起こせるようになった悪の諸力を意味しているものと思われます。13節の「汚れた霊」と14節の「悪霊(デーモン)たちの霊」という表現からもそれがわかります。それらは竜の口、獣の口、また偽預言者の口から出てきます。つまり、それらは悪魔とその部下たちの手先なのです。

 第七の杯、つまり最後の杯が傾けられる前に、イエス様はもう一度人々を御許へと招き警告なさいます。「時」が来ようとしています。その「時」が来ると、悔い改めて清潔な衣をいただくことはもうできなくなります。それゆえ目を覚まし、「終わりの日」に不意を撃たれないように心構えをしておくべきなのです。イエス様がいつ戻って来られるか、わかりません。ですから、衣を清く保たなければなりません。それは、日々イエス様の血によって清められ、イエス様の御声を聴きながらイエス様の近くで生きていく、という意味です。そうすれば、終わりの日が悪い日になることはありません。神様の怒りが不義の世界に下る時に、最大級の嵐の最中でも御自分に属する人々の面倒を見てくださる、とイエス様は約束してくださったからです。

 前述の悪霊たちは神様に対して戦いを挑みます。これはふつう私たちが理解する意味での戦争なのでしょうか。それとも「ヨハネの黙示録」は悪魔が神様と神様に属する人々とに対して仕掛ける戦いについて話しているのでしょうか。「ハルマゲドンの戦い」は後者の意味の戦いである、と私自身は考えています。部下を引き連れて悪魔は神様と神様に属する人々とを攻撃してきます。この戦いがどのような形で行われるかについては記述がありません。ただし一番大事なことは語られています。つまり、神様が戦いに勝つ、ということです。神様は敵対者を打ちのめし、悪魔の権力をなぎ倒し、御自分の全能性を示されるのです。

 19節には都市「バビロン」がでてきます。この言葉がどの都市を意味しているか、これまでさまざまな憶測がなされてきました。ここでも以前触れたことについて語られているのではないかと思われます。バビロンは悪魔の帝国とその首都を表しており、神様はここでそれを滅ぼす約束を与えてくださっているのです。このことが実現する時がこの世の終わりの時です。神様は権力を掌握され、敵を最終的に打ちのめされるのです。バビロンの滅亡については、次章以降でより詳しい描写がなされます。

 「ヨハネの黙示録」16章は他の幾つかの章と同じく、世の終わりの描写によって閉じられます。しかし書物自体は続きます。次章からは再び時間をさかのぼり、最後の日の前に起きる出来事が語られていきます。