ヨハネの黙示録7章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

144000 人とは一体誰のことか? 7章1~8節

 第六の封印が解かれたとき、ヨハネは世界が揺り動かされるのを見ました。神様の怒りが地を覆い、空の星が地に落ち、艱難の只中で人々は死を願います。このような幻におびえないような人がはたしているでしょうか。神様に属する人々も恐れを抱かずにこの幻の描写を読むことはできないでしょう。8章にも様々な幻が立て続けにあらわれます。最後の日はすぐそこまで来ており、前代未聞の災いが世界を震撼させます。終わりの時が改めてよりいっそう詳しく描写される前に、神様に属する人々を励まし慰め力づける幻がヨハネに示されます。

 まずヨハネは世界の四隅に立つ四人の天使を見ます。天使が一人ずつそれぞれの隅にいるわけです。彼らの役割は、風が地を台無しにしないように風を留めておくことです。むしろ嵐と言ってもよいこの風は、最後の日に世界中を吹き荒れる諸力を表しています。それらによって世界は揺り動かされ、地上の艱難は拡大していきます。この世界は偶然に左右されているわけではないことに、私たちはふたたび気付かされます。神様の天使たちが自然や人間を痛めつける諸力をしっかり抑えてくれていたのですが、神様のなさった決定に基づいてそれらの諸力はこの段階でようやく解き放たれたのです。神様はあらゆる権威をお持ちなので、この世では神様が知らず許可しないことは決して起きることがありません。

 それからヨハネは、活ける神様の印を携えて東のほうから上ってくる天使を見ました。かつて印は所有物に目印をつけるために用いられました。物に押された印によってそれが誰の持ち物かわかるという仕組みです。悪の力が解き放たれる前に、天使は神様の僕たちの上に神様の印を押して回ります。印を押された人々は「神様のもの」になるのです。ヨハネは印を受けた人々のことを目にしてはいませんが、彼らの人数がどれほどかは耳にしました。彼らは144000人いました。

 「ヨハネの黙示録」には特に難解な箇所が幾つかあり、これはそのうちのひとつです。この幻はどういう意味なのでしょう。また144000人の印を受けた人々とは誰なのでしょう。7章の初めで、ヨハネは地上での出来事を見ていきます。それを踏まえると、この幻は天国に入った人々ではなく、地上で生きて戦っている「神様に属する人々」をあらわしていると思われます。世の終わりの出来事が始まる前に、彼らは印を受けます。彼らは一体何者であるか、これまで多種多様な説明が提案されてきました。聖書釈義者の多くは、神様に属する人々の中のある特定のグループ(例えば殉教者とかユダヤ人キリスト信仰者など)を指している、と考えます。これはありえない解釈ではありません。しかしこれよりも妥当だと私が思う説明は、144000人の印を受けた人々とはキリスト教会の中の特定のグループのことではなく、「神様のもの」全員、すなわちイエス様の再臨を目前に控えて地上で戦いつづける神様の御民全体のことを表している、という見方です。

 この幻の目的はイエス様を信じる者一人一人を次のように励ますことにあります。 「あなたは「神様のもの」です。神様は御自分に属する者をちゃんと世話してくださいます。あなたに印を押したのは神様です。あなたは「天地の主のもの」です。それゆえ、恐れる必要はありません。たとえ世界に嵐が吹き荒れようとも、神様は御自分に属する人々を滅びるようにはなさいません」。 恐ろしい封印の幻が幾つか続いた後でこのような約束を耳にするのは喜ばしいことです。

 「ヨハネの黙示録」には、印を受けた144000人に関する箇所がもうひとつあります。14章でイエス様は144000人の印を受けた人々と共にシオンの山におられます。上述の説明はこの幻にもよく適合します。13章には地上で活動する神様の教会と戦い暴れる「獣」についての記述があります。イエス様と印を受けた144000人に関する幻は、イエス様が決して御自分の群れを見捨てないことと、獣が神様の御民を滅ぼすままにもなさらないことを神様に属する人々に対して保証するものです。イエス様は教会の中心にいて、神様に属する人々を見守っておられます。「ヨハネの黙示録」が描写する嵐の数々を読むときに、このことを覚えておくのはとても大切です。「私は世の終わりまで、日々、あなたがたと共にいます」、とイエス様御自身も約束しておられます(「マタイによる福音書」28章20節)。

 神様に属する人々の中から特別な優遇を受ける小さなグループをさらに選別するのは、聖書に基づいて正当化するのが極めて難しいことです。洗礼を受けイエス様を信じている人は皆が神様の子どもであり、互いに優劣を比べ合う存在ではないからです。「ユダヤ人であるかギリシア人であるか、奴隷であるか自由人であるか、男であるか女であるか、ということは関係ありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあってひとつだからです」、と「ガラテアの信徒への手紙」3章28節は教えています。この御言葉は、144000人の印を受けた人々が神様に属する人々の中で特別に優遇された集団などではありえないことを告げています。

 終わりの時の嵐の中ですべての人は印を受けている、というのが「ヨハネの黙示録」の教えであるようです。「ヨハネの黙示録」は「神様の印」の他に「獣の印」についても語っています。つまり、人間は一人一人「神様のもの」か「悪魔のもの」かのどちらか一方の存在である、という意味です。他の第三の選択肢は誰にも与えられていません。「イエス様のもの」として洗礼を受けておりイエス様を信じている人は「神様のもの」です。これはしかし、人はそれぞれ自らの受ける分がすでに「封印」されているので何の変更も起きない、という意味ではありません。今は「悪魔のもの」になっている人をも神様は御許に招かれます。その一方では、「神様のもの」である人が信仰を失って「悪魔のもの」になってしまう危険も存在しています。

 それならば、どうしてここで144000人の印を受けた人々について語られているのでしょうか。もしもそれが信仰のために戦う教会全体を意味しているのであれば、そこには確実に144000人以上の人が属しているはずです。「ヨハネの黙示録」では、数字はしばしば数字そのものとは異なる意味をもっています。144000という数字は、神様が御自分に属する人々のことを人数まではっきり言えるほど正確に把握しておられることを意味しています。私たち人間はそれを知りませんが、人間の心をごらんになるお方は御存知なのです。この正確な数字は、神様の御計画には秩序と調和があることを想起させます。イスラエルの12部族の一覧表もそれと同じことを示すものです。どの部族にも印のついている人々がちょうど同じ数だけいます。これによって、神様の救いの御業が御計画通りに実現していくことを表そうとしているのでしょう。まさしく神様が「御自分のもの」として選び召された人々が救われた者のグループに入っているわけです(「ローマの信徒への手紙」8章30節)。    一覧表が文字通りにイスラエルの部族を意味している、という説明には問題があるでしょう。その表にある部族はどれももう残っていません。「ヨハネの黙示録」が書かれた時すでにそのような状態だったのです。一部の部族は他の諸国民に入り混じってついには消えてしまいました。だとすると、この一覧表には印をつけられたユダヤ人部族とその数そのものとは異なる何か他のメッセージが込められている、と考えるべきでしょう。

 神様に属する人々は終わりの時の最後の段階で起こる最悪の災いを被らずに済む、と教える聖書釈義者もいます。その災いがやってくる前に「神様のもの」である人々は天国に連れ去られるからだ、と言うのです。しかし聖書にはそのような約束は書いてありません。神様の御民は悪の世界の只中で終わりまで生活し戦い続けるのです。共にいて私たちを守り助ける、と神様は約束してくださいました。このことを知っておくなら、これからたとえどのようなことが起ころうとも、私たちは安心していることができます。

誰も数えることのできないほど大きなグループ 7章9~17節

 この世で戦っている神様の教会は、神様が御自分に属する人々の面倒を引き受けてくださっているおかげですでに励ましを受けています。それからヨハネはもうひとつの幻を見ます。その幻も神様に属する人々がこの世の嵐の中で耐えていけるように励ましてくれます。「戦う教会」を目にしたヨハネに今「天国で歓喜する教会」が示されます。とうとう世の悪が過ぎ去って神様に属する人々が一人残らず天国に入った瞬間をヨハネは目撃しました。天国に入ったグループには、あらゆる国民、国、部族、語族の人々が含まれています。彼らは長く白い衣を身に着けて棕櫚の枝を手にしています。「白い衣」は神様に属する人々がもっている「義」をあらわしているものでしょう。14節には、どのようにしてこの義をいただけるかが書いてあります。白い衣をもっているのは、自らの衣を小羊の血で洗った者です。イエス様の血だけが罪人をきれいに洗うことができます。それなしでは、誰ひとり聖なる神様の御前で耐え抜くことができません。

「棕櫚の枝」は当時一般に「勝利のしるし」として競技などの勝利者に授与されたものであり、ここでもそのような意味で用いられています。天国に入った人々は終わりまで信仰を失わずに勝利しました。今や彼らはもはや悩みも苦しみもない場所にいます。とはいえ、その勝利は彼ら自身の力で得たものではありません。イエス様が勝利者であるがゆえに、イエス様に属する人々もその勝利にあずかれるのです。

 ヨハネは以前すでに一度、天国の礼拝を傍らから眺めることができました(「ヨハネの黙示録」4~5章)。今彼は、神様に属する人々が皆天国に入り永遠の命が始まった時にどのように神様を礼拝するのかを目にします。救われた人々は天使たちと共に神様に感謝し歌います。人が罪赦されて天国に入れたことで栄光をお受けになるのは、神様おひとりだけです。誰も自らの力に頼っては天国に入れません。しかし神様が信じる者を天国へと運び入れてくださるので、そこにはあらゆる国民に属するおびただしい数の人々がいることになるのです。