ヨハネの黙示録13章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

獣 13章1~10節

 ヨハネは海から上がってくる獣を見ます。聖書の少なくとも数箇所では、海は死や悪の象徴になっています(例えば「ヨハネの黙示録」21章1節)。その意味では、獣がそこから上ってくる場所自体、獣が誰の僕であるか物語っているとも言えます。獣は恐ろしい姿をしており、おびただしい角や頭が生えています。これは獣の有する力と権力と知力をあらわしています。前章に出てきた竜がその権力を獣に譲渡するのをヨハネは目にします。それからヨハネは獣が神様や天の者たちのことを侮辱するのを聞きます。さらにヨハネには「聖徒たち」すなわち地上で生活している神様に属する人々に対して獣が戦いを仕掛ける様子が示されます。誰の手先として獣が働いているのかを疑う余地はまったくありません。獣は悪魔の仕業の手段なのです。

 獣とは何かあるいは何者か、聖書の釈義者たちは考えあぐねてきました。獣はキリスト教徒を迫害したローマ帝国をあらわしている、という説があります。また、獣は悪魔の手下として活動する支配者を意味している、という意見もあります。獣の候補としては、ネロ帝、ナポレオン、ヒトラー、スターリン、その他大勢の人物の名が挙げられてきました。私はこの獣について特定の人物をあてはめて考えるのとはやや異なる解釈をしています。聖書の預言のうちの少なくとも幾つかは何度も実現するもののように見えます。獣の幻もまたこのようなものではないかと思われます。おそらく獣は、ヨハネが幻で描写しているような仕方で悪魔に仕えている権力や力一般のことを象徴しているのではないでしょうか。古代ローマ帝国にはここで獣について語られている事象がよく該当します。それと同じことは、ヒトラーのドイツやスターリンのソ連についても言えます。つまりこの獣はある特定の国や思想や支配者を指しているものとは限らないのです。人類の歴史を通じて多くの国やイデオロギーや支配者などがキリスト教会に対して戦いを挑んできました。それらは活ける神様を侮辱し、悪魔に仕え、こうして獣の特徴を満たしたのです。その意味でそれらは「ヨハネの黙示録」の獣であった、と言えるのです。

 聖書は「反キリスト」(「ヨハネの第一の手紙」2章18節)や「滅びの子」(「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章3~10節)について語っています。彼らは終わりの時にあらわれ、活ける神様および神様に属する人々に対してその大いなる力によって戦いを挑み、多くの者を自分の味方に引き込みます。おそらく獣の幻が示唆しているのはこのような状況のことであり、それは反キリストの策動として最悪の形で現実のものとなっていきます。    あたかも獣は目的を達成してしまうかのように見えます。7節には、獣がイエス様に従う人々のグループに打ち勝つ、とあります。11章でもこれと同じことを取り上げました(「ヨハネの黙示録」11章7節とその説明を参照してください)。ちょうどイエス様の再臨の直前に「神様のもの」であるグループはひどく痛めつけられ負けてしまうように見えます。しかしそれでおしまいではありません。「テサロニケの信徒への第二の手紙」には次のように書いてあります。

「その時に不法の者があらわれるが、この者を主イエス様は口の息吹によって殺し、再臨の輝きによって滅ぼすことになります」
(テサロニケの信徒への第二の手紙2章8節)。

このように、最後の言葉を口にするのは神様御自身です。まるで勝利者のように振舞う獣を打ち倒すキリストこそが真の勝利者です。

 神様が何を許可されるかということに獣の活動も左右されています。7節からそのことがわかります。獣は神様が容認されたことだけを行うことができます。万物の上におられる神様が決定なさったことによって悪魔もその手下も束縛されているのです。

 8節は難解な箇所です。神様はすでに天地創造の時点で天国に行く人と滅ぶ人とを予め定めているということなのでしょうか。ルター派の教理の整備に貢献した宗教改革の神学者たちは、「神様は誰かが地獄へ行くように予め定めてはおられないが、その一方では誰が天国に入るかを知っておられる。もしもそうでなければ、神様は全知ではなくなるからである」、というように二つのことを正しく区別して説明しました。またルター派の教父たちは、神様の「選び」は「救い」にのみ関わるもので「裁き」には関係がないことを強調しました。神様は誰のことも永遠の滅びへと前もって選び出すことはなさいませんが、その一方では、救われる人たちを天国へと選んでくださっているのです。これは人間の理性には把握できない奥義なので、このことから誤った結論を導出するべきではありません。例えば、私たちが他の人々にイエス様を信じるようには勧めないとしましょう。そしてそのような態度を、天国に入れる人は神様がすでにそうなることを知っている人々だけだからという理屈で正当化するのは間違いです。たとえ皆が救われるわけではないにせよ、神様はすべての人が救われるよう望んでおられることを、私たちは皆に隔てなく伝えます。本当に神様はそう望んでいらっしゃるからです。またこの難解な節には非常に素晴らしいメッセージが込められています。イエス様を信じる人は次のように言うことができるのです。 「すでに天地創造の時に、私の名前は「命の書」に書き込まれた。神様は私がいつか天国の実家に帰ることを望まれている。そのために神様は私に信仰を与えてくださったのだ。私が天国に入れるのは、私自身に可能なよい行いによる報酬などではなく、神様が決定されたことと神様が全能であることとに基づいている。私が天国に入ることは絶対に信頼できるお方の御手にゆだねられているのだ」。

第二の獣 13章11~18節

 ヨハネは第二の獣が「地底」から、つまり悪魔の帝国の所在地から上ってくるのを見ます。そしてその獣が小羊に似ていることを報告します。しかしその獣の話しかたはその獣が本当は誰の僕であるかを暴露します。獣は悪魔が望んでいる通りのことを話します。第二の獣は第一の獣が人心を掌握するように画策します。つまり第二の獣は宣伝係のような役割を担っているのです。このような活動に従事した人々も今までこの世には大勢いました。20世紀にも、自らの才能を悪魔のために使って群衆が思想や国家や支配者を崇拝するように仕向けた人々がいました。これはヨハネの描く獣のイメージによく合致しています。

 以前にも述べたように、獣の描写は反キリストのことも指しています。第二の獣についての記述は、出現した宣伝係が多くの人々を反キリストの側につくように仕向けることを語っています。    第二の獣は大規模な奇跡を行うことができる、と言われています。火を天から降らせ、獣の像が物を言えるようにします。このことからわかるように、奇跡は必ずしも神様の働きの証拠であるとは限りません。悪魔も奇異なことを行うことができるからです。ですから、盲目的に奇跡を追いまわしてはいけません。最悪の場合、そういった奇跡は私たちを悪魔の僕にしてしまうからです。もちろんすべての奇跡が悪魔の仕業だというのではありません。様々な奇跡を行われたイエス様は、御自分に属する人々も奇跡を行うようになることを約束してくださったからです。

 神様に属する人々にとって、獣が支配する場所で生活するのは楽ではありません。獣の側に立つ人々のグループは大きく、獣は彼らにイエス様への信仰を根絶やしにするよう命令します。これは神様の御民にとって厳しい時代の到来を告げるものです。キリスト信仰者は獣が支配した場所で実際にひどい目に遭ってきました。イエス様は御自分に従う者たちに対して、天国への道が平坦で楽な道であるとは決して約束しておられません。

 18節には「獣の数字」として666という数が登場します。この数字に込められたメッセージを解き明かすべく、今まで多くの試みがなされてきました。この数字に獣の名が隠されているのはたしかです。ヘブライ語やギリシア語のアルファベットにはそれぞれ特定の数価が対応しています。単語を構成するそれぞれのアルファベットに対応する数価を合計すると、その単語に対応する数価が算出されます。このいわゆる「ゲマトリア」という方法は古典古代には盛んに行われました。この666という数字に対しては様々な試算が行われ、歴史上のいろいろな人物に当てはめられてきました。獣としてみなされたそれらどの人物の場合にも、この数字が問題なく合致することはありませんでした。反キリストが誰であろうが何であろうが、おそらくこの数字は本来の反キリストの名に対応するものなのでしょう。獣の数字については、もう一つの説明が考えられます。聖書において神様の御名の数価は7です。悪魔はその有する権力や力に関して言えば神様にほとんど匹敵するとはいえ、やはり神様よりも劣った存在であることには変わりありません。このような悪魔に6という数字はよく合っています。ヨハネが獣の数字として6を3個含む数字を告げるとき、獣が誰の僕で誰の手先であるかが暗示されているのです。獣は悪魔と一緒に活動しているのです。ですから、神様に属する人々が獣と「兄弟関係」を結ぶのは絶対にいけないことです。