ヨハネの黙示録21章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

新天新地 21章1~8節

 この世は天地創造(「創世記」1~2章)に始まり、天地創造に終わります。神様は現存する諸悪と様々な点で腐敗した世界とを滅ぼし、その代わりに新しい天と新しい地を、すなわち「新世界」を創造なさいます。聖書がこの新たな創造について語っているのは、この箇所だけではありません。すでに旧約聖書がそれと同じことを約束しています(「イザヤ書」65章17節)。また「ペテロの第二の手紙」には 、「主の日は盗人のように到来します。その日には、天は轟音を立てて消え去り、天体は焼けて散逸します」(「ペテロの第二の手紙」3章10節)、と書かれています。聖書の最初の二つの章には楽園の描写があります。それによると、もともと最初に造られた世界は清く瑕の無いものでした。そこでの生活は快適そのもので、人と造り主との関係は良好でした。今ヨハネが目にしている光景にはそれと似ている点が多くあります。神様は新しい世界を創造なさいます。控えめに言っても、その世界は初めの楽園と同じくらい不思議な世界です。

 1節によれば、新しく創造された世界には海がありません。聖書の幾つかの箇所で「海」は死と悪の象徴として出てきます。ですから、新世界には海がないということは、そこには死もその他いかなる悪も存在しないことを意味しているのだと思われます。死と悪は最初の人間たちが罪に堕落してしまった後の「古い世界」に属することがらですが、神様は「新しい世界」を創造した時にそれらを滅ぼしてくださいました。新世界における命は終わることなく続いていきます。そこではもはや誰ひとり悪の果実を味わうことにはなりません。

 それからヨハネは新しいエルサレムを見ます。「新しいエルサレム」は、神様が「大いなる祝宴」のために整え清めた「キリストの教会」を意味しているものと思われます。19章には、新世界で挙式される「小羊の婚礼」の記述があり、「神様の教会」は清く輝く麻布の衣に身を纏う「花嫁」として描写されました(「ヨハネの黙示録」19章7~8節)。「新しいエルサレム」は「天国の都」、すなわち新世界の中心のこともあらわしています。このことは10節以降に書かれています。おそらくヨハネは「新しいエルサレム」という言葉によって「天国に入った神様の教会」と「新世界の都」という二つのことを意味しています。両者は互いに密接に関連しているため、同じ名で呼ぶことができるのです。

 ヨハネは御座から発せられる神様の御声を聴きます。その声は新世界がどのような場所かを告げています。神様は御自分に属する人々の中央に住んでおられます。そのおかげによって、新世界には素晴らしい善のみが存在します。新世界に入国した者はもはや悲しみも死も苦痛も感じません。新世界は罪に堕落したこの世とはまったく異なる場所です。この世では罪があらゆるところに入り込んでいるので、罪がまったくない生活は想像するのも困難です。新世界には罪が存在しないため、戦争も私利私益の追求もなく、愛に欠けた行動も人を傷つける言葉もなく、悪い考えすら浮かぶことがありません。永遠の命は罪を一切内在しない命なので、驚嘆すべき善そのものです。

 「ヨハネの黙示録」の冒頭で「私はアルファでありオメガである」と神様が言われるのを、ヨハネは聴きました(「ヨハネの黙示録」1章8節)。すべては神様から発し神様へと収束します。今ヨハネは実際にこのことを目にしたのです。この世が神様の御手を振り切って暴走したことは、いまだかつて一度もありません。すべては神様の御計画の通りに進行し、神様の御心を実現するために一定の役割を担ってきました。神様は世界を創造し維持する方であり、「時が満ちた」と判断なさったときにこの世を終わらせる方です。

 最後の裁きの後で起こりうる二つの出来事について、御座から聞こえてくる声は語ります。「命の水」を欲する者は皆、それを賜物としていただきます。新世界での永遠の命という神様の賜物がすべての人々に差し伸べられます。賜物を受け入れる人はそれを実際にいただけます。そして全能なる神様が御自分に属する人々の間に住んでおられる場所に、いつかは彼らも共に住むことができるようになります。それから声は、そうなる可能性があるもうひとつの出来事について注意を喚起します。それは「第二の死」と呼ばれ、火の湖として描写されています。これは、活ける神様に仕えないままこの世の人生を終わりまで過ごしてしまった人々の受ける裁きの結果です。神様が住んでおられる場所に入れていただけるか、あるいは悪魔のいるところに落ちていくか、という二つの可能性しかないことを神様が自らここで告げておられます。

新しいエルサレム 21章9~21節

 天使がヨハネのもとに来て小羊の妻を見せます。「小羊の妻」は新世界に入れていただいた「キリストのもの」である人々の群れを意味していると思われます。ヨハネは新しい都の様子を描き出します。前にも言及しましたが、ある目的のためにヨハネはそうしているのです。最終目的地に到着して歓喜する教会とこの新世界とは非常に密接な関係にあるので、両者は一緒にして語られ同じ名で呼ばれるのです。

 ヨハネは自分の現前に広がる光景を言葉であらわすことに困難を覚えます。彼は新しいエルサレムを光り輝く宝石にたとえます。神様が都にお住いになっているため、都は光を発散しています。新しいエルサレムの建築構造には12という数字が分かち難く結びついています。神様に選ばれた御民は旧約聖書で12の部族に区分されていました。それに対応するように、この新しい都でも12部族の各族長の名が都の12の門に書き込まれています。都の城壁には12個の礎石があり、そこには12人の使徒の名が記されています。このことは、神様の御計画に「旧約と新約」という二つの段階があったことを想起させます。人類を救うために神様が行ってくださったことがこの新世界にも刻まれている、ということになります。門のイスラエルの12部族の名と城壁の12使徒の名とがそれを表現しています。

 ヨハネは都の長さと幅と高さの寸法を測るよう命じられます。以前にもヨハネは同じ任務を与えられました。すなわち、11章で彼は「神様の神殿と祭壇とそこでひれ伏して祈っている者たち」のことを測るように命じられました(「ヨハネの黙示録」11章1節)。そして、その箇所の説明で「ゼカリヤ書」に言及し(「ゼカリヤ書」2章1~5節)、この測量には長さを正確に知る以上の意味が含まれていることも指摘しました。「測る」という行為には、保護されるべきものに目印をつける、という意味合いがあります。この21章の箇所でもその意味でこの言葉が用いられていると思われます。新しいエルサレムは神様の守りの中にあるので、いかなる災いにも襲われることがありません。神様が都をあらゆる悪から守ってくださるので、都の幸福な状態は永遠に続いていきます。

 ヨハネは測量の結果を報告します。都は立方体の形をしており、その一片の長さは12000スタディオン(約2300キロメートル)でした。つまり、この都はとてつもなく巨大なのです。ヨハネが私たちに伝えたいことは、都の寸法自体よりも都の巨大さと壮麗さなのでしょう。これは万人の想像を超える規模の都である、ということです。都の城壁の高さもそれと同じことを示しています。それは144キュビット(約72メートル)もあります。当時の平均的な都の城壁の高さは数メートルにすぎませんでした。また、ヨハネの報告書に登場する数字(12000と144)がどちらも12の倍数であることも注目に値します。ここでもふたたびイスラエルの12部族と12使徒が想起されます。

 旧約の神殿の最も聖なる場所である「至聖所」は立方体の形状をしていました。新しいエルサルムの形もまた立方体をなしている、とヨハネは語ります。これには偉大なメッセージが含まれています。旧約の時代には、神殿の至聖所は神様がお住みになる場所であると教えられていました。新しいエルサレムでは、至聖所について信じられていたことが本当に実現します。神様がそこに住んでおられるからです。都の形状もこのことを思い起こさせてくれます。旧約の神殿の至聖所は大祭司だけが年に一度入るのを許された場所でした。それに対して、新しいエルサレムには「神様のもの」である者ならば誰でも入ることが許されています。イエス様がそこへの道を開いてくださり、自らの血によって私たちを清く洗ってくださったからです。このおかげで、私たちは神様がおられる場所に参ることができるのです。

 ヨハネは都を描きながら、それをつぶさに観察していきます。都は不思議な場所です。通りは純金でできており、城壁には多様な宝石がちりばめられています。門はそれぞれひとつの真珠で造られています。ヨハネが詳細に紹介している12種類の宝石は当時の大祭司の胸当てを飾った宝石と一致しています。すでに旧約の時代に、最も高価で最上のものは神様の持ち物であると理解されていました。それゆえ、ここでも最上級の宝石が神様の持ち物とみなされているのです。輝きに包まれた新しいエルサレムの絢爛豪華な姿もまた、それが最高級の宝であり、王の中の王なる神様の所有物であることを物語っています。

人々の只中にある神様の幕屋 21章22~27節

 新しいエルサレムには神殿が存在しません。旧約時代の神殿は人々の罪のために犠牲を捧げる儀式が行われた場所でした。イエス様が十字架で死んでくださった後、これらの犠牲の捧げ物はもはや必要ではなくなりました。これは罪がまったく存在しない新世界では殊更のことです。神殿は神様と出会う場所でもありました。新しいエルサレムでは、御民の只中に住んでおられる神様と会うために特別な場所はもはや不要なっています。都では光も要りません。都に住まわれる神様が輝きの光源となって都を照らしておられるからです。

 この世にはよいこともあります。喜びをもたらすことや、神様が私たちにくださった賜物などがそうです。26節で「諸国民の光栄と誉れ」について語るとき、ヨハネはおそらくこのことを意味しているのでしょう。それらは新しいエルサレムにも携えられ喜びをもたらすものになります。それに比して、どのような悪も忌避すべきものも汚れたものも都に入ることができません。都はそこに住むのにふさわしくない者には誰に対しても固く閉じられています。「王の息子の結婚式」のイエス様のたとえはこれと同じことを語っています(「マタイによる福音書」22章1~14節)。結婚式の礼服に身を包んだ人々だけが神聖なる都にふさわしい存在なのです。その礼服とは、イエス様の血によって賜物として受けた罪の赦しです。それは私たちの悪さと汚さを覆い隠してくれます。