ヨハネの黙示録2章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

エフェソの教会への手紙 2章1~7節

 七つの教会への手紙は「教会の天使たち」すなわち教会の牧者たちに宛てられています(1章20節の説明を参照してください)。これらの手紙のメッセージは各個教会また教会全体に向けられていることが、手紙の内容からわかります。

エフェソは小アジアの最重要都市でした。エフェソは地理的にみて要所に位置し、長い歴史を有し、ローマ帝国の非常に重要な中心地のひとつでした。エフェソの教会の始まりについては「使徒言行録」の19章に記述があります。この教会の設立者はパウロでした。古い教会の伝承によれば、使徒ヨハネ、テモテ、イエス様の母マリアがエフェソの教会に影響を与えました。

 諸教会に送られた手紙では、まず手紙の真の差出人が紹介されます。すでに前章の終わりでイエス様について語られたことがら(1章9~20節の説明を参照のこと)が今ここでくりかえされます。手紙は次にそれぞれの教会の状態を描写します。まず教会の美点を賞賛し、次に問題点を指摘します。エフェソの教会はイエス様から大いにほめられています。この教会は迫害に屈せずに活動する教会でした。特に教会が偽教師たちに活動の余地を与えなかったことを、イエス様は教会に感謝しています。偽教師たちはその正体を暴かれ、教会の外に追放されました。偽教師の例としては、「ニコライ教徒」すなわちニコラオスの支持者が挙げられています。彼らが誰でありどのようなことを教えていたのか、私たちは知りません。わかっているのは、正しい教えと神様の御心にかなう生活をしっかりと守り抜くことをイエス様は本当に大切になさっていた、ということです。このことは他の諸教会に送られた手紙からもうかがえます。

 エフェソの教会はイエス様から批判も受けています。それは、教会が初めの頃にもっていた愛から離れてしまったという点でした。イエス様は教会がふたたび初めの頃の愛のわざを行うように勧告します。「使徒言行録」には、エフェソ市民がキリスト信仰者になった時にどのような変化が起きたか、語られています。魔術書を所有し魔術を行っていた人々は、それらの書物をかき集めて火に投じました。燃えた書物の総額は銀貨五万にものぼりました(「使徒言行録」19章19節)。銀貨は当時の成人の約一日分の労働賃金に相当しました。ですから、非常に莫大な金銭的価値をもつ書物が大量にまとめて焼き捨てられたことになります。人々は真剣にイエス様を信じ、それを実行に移しました。

信仰に入ったばかりの頃に見られたこの熱心さが、いつしかエフェソの信徒たちから消えてしまっていたのでしょう。彼らはもはや以前のようには本気で信仰しなくなっていました。この点についてイエス様は教会を批判し、誕生間もない頃の教会に漲っていた燃える信仰に立ち返るように勧告しているのです。「もしも悔い改めなければ、エフェソの教会を私に属する人々のグループからはずしますよ」、とイエス様は明言なさっています。そのようなことになったら、教会にとっては最悪の事態です。イエス様に見捨てられた教会は必ず死んでしまいます。その一方でイエス様は、御自分の警告に聴き従う者には祝福が豊かに与えられるという約束をくださいました。その人は天国に入って命の木から取って食べることができるようになり、その木から食べる者は決して死ぬことがありません(「創世記」3章22節)。

スミルナの教会への手紙 2章8~11節

 スミルナはエフェソからみて北方約80キロメートルの地点にありました。この都市はエフェソと同等の競争力を有する主要な港湾都市でした。紀元156年、この都市でキリスト教徒を殺傷する迫害が起きました。犠牲者の中にはスミルナ教会の長(ビショップ)であったポリュカルポスも含まれていました。迫害者を前にして彼は、「私はイエス様に86年間お仕えしてきた」、と語りました。おそらく彼は子どものときに洗礼を受け、それからずっと主に従ってきたのでしょう。彼は死が目前に迫ってもイエス様を否認しませんでした。「ヨハネの黙示録」が書かれた頃には、ポリュカルポスがすでにスミルナの教会のビショップになっていた可能性があります。

 スミルナの教会のことをイエス様は一言も批判していません。それは迫害を受けた貧しい教会ですが、実際には富んでいます。ここでいう「貧しさ」とは、迫害で教会がそのわずかばかりの持ち物さえも略奪されたことを指しているのでしょう。ユダヤ人たちは異常な執拗さで教会を迫害しました。彼らは神の御民ではなくサタンに属している、という厳しい裁きをイエス様は宣告します。しかしこの宣言はキリスト信仰者にユダヤ人を憎む口実を与えるものではありません(実際にこの箇所はそのように説明されたこともあります)。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」、とイエス様は命じました(「マタイによる福音書」5章44節)。スミルナの教会に宛てたイエス様の言葉が教えているのは、イエス様を拒絶しつづけるかぎりユダヤ人は神の選民という自らの地位を台無しにしているということです。イエス様は、ユダヤ人にとっても他のどの国民にとっても、天国への唯一の道なのです。

 イエス様は教会に苦難の時代が来ることを明言します。そして、その苦難は十日間続く、と言われます。それは、迫害の時期は短く神様が許される期間だけ続く、という意味です。ですから死の脅迫を受けたとしても、イエス様への信仰を捨ててはいけないのです。当時、競技の勝利者は冠を受けました。同じように、終わりまで主に忠実であり続ける人は勝利の冠を受けます。ここで言う「冠」とは、天国での永遠の命をいただくことと、第二の死をまぬかれることを意味しています。「第二の死」とは、この箇所でも「ヨハネの黙示録」の他の箇所でも、滅びることを意味しています。イエス様を模範とするように、という忠告を教会は受けます。たしかにイエス様は殺されましたが、三日目によみがえり栄光に輝く天国に入られました(8節)。主を拒まない人なら誰にでも、それと同じことが起こるのです。

ペルガモンの教会への手紙 2章12~17節

 ペルガモンは当時のローマの支配階級にたいそう気に入られた富裕な都市でした。その都市の最後の王となったアッタロスはペルガモンを遺言によってローマ人に委譲しました。ローマ人たちはこのことを決して忘れませんでした。

 ペルガモンには「サタンの玉座」が設置されていました。それがどういう意味なのか、確実なことはわかりません。次のようなふたつの答えかたが考えられます。ペルガモンにはありとあらゆる偶像崇拝の祭壇がありました。ことに有名だったのは癒しの神アスクレピオスの神殿と最高神ゼウスの祭壇でした。偶像礼拝は悪魔を拝することです。それゆえ「サタンの玉座」は偶像礼拝の神殿にはうってつけの表現と言えます。もうひとつのありうる答えは皇帝崇拝です。これもまた偶像礼拝であることには変わりがありません。ペルガモンは皇帝崇拝のための神殿が最初に建てられた場所としても有名です。そしてまさに皇帝崇拝のゆえに、多くのキリスト信仰者は殺されたのです。その意味で「サタンの玉座」は皇帝崇拝が行われる神殿を指すのにふさわしい名称と言えるでしょう。

 アンティパスという名のペルガモン教会の会員が殺害されました。おそらくこの事件は組織的な迫害の結果ではなかったでしょう。もしもそのような迫害であったならば、犠牲者の数は一人には留まらなかったはずだからです。この事件を通して教会は自分がどれほど世から憎まれている存在かを思い知らされることになりました。それでも教会は信仰を捨てませんでした。この点について、イエス様はペルガモンの教会に感謝の意を表しています。それに対して、教会内部に「バラムの教えに従う」者たちがいることについては批判しておられます。バラムは旧約聖書に出てくる人物です(「民数記」22~24章、31章)。バラムの罪は、イスラエルの民をそそのかして偶像を礼拝させ、その際に不品行も行わせたことです。ここでイエス様は偶像に犠牲として捧げられた肉を食することを挙げました。パウロはこの問題について「ローマの信徒への手紙」(14章)や「コリントの信徒への第一の手紙」(8~10節)で詳しく説明しています。おそらくペルガモンのキリスト教徒たちは偶像の神殿で偶像に捧げられた肉を食べるように誘いを受けていたのでしょう。そのようなことをパウロはすでに厳しく禁じていました。

偶像の神殿で礼拝に参加することは悪魔を礼拝することです。キリスト信仰者はそういう誘惑から明確に距離を置かなければなりません。さらに悪いことに、神殿では姦淫が行われました。このことからも教会の会員は遠く離れるべきです。そのためには神殿に行かないようにするのが最善策です。バラムの追従者たちはおそらく過度に自由な考えかたの持ち主であり、こうした行為をとりたてて問題視しなかったのでしょう。また彼らは、「キリスト教徒は自らの肉体に対してはどんなことをやってもよいのだ、肉体はキリスト教徒の救われた魂とは何の関係もないからだ」、などと考えていた可能性もあります。しかしイエス様はこのような詭弁を決して受け入れません。「教会の中でこのような教えを広げる者たちを口の剣によって撃つ」、とはっきり言われます。

 バラムの信奉者に加えて、ニコライ教徒のことがふたたび取り上げられています。これらふたつのグループが同じような考え方をしていたのかどうか、私たちは知りません。しかし、イエス様の御言葉の大切なメッセージは明瞭です。間違った教えや偽教師を教会内部で野放しにしておいてはならないのです。

 イエス様は「隠されたマナ」を「勝利を得る者」に与えると約束しています。イエス様のこの言葉は、偶像の神殿に行って肉を食べることに大きな誘惑を感じていた人々に向けられたものでしょう。神殿での宴会よりもはるかに素晴らしい祝宴が天国では待ち受けています。偶像に捧げられた食事よりもずっと美味しい食事を天国ではいただくことができます。この天国の祝宴に参加できるためには、イエス様への忠実を貫き、悪魔の礼拝所を遠く迂回しなければなりません。

 古典古代には神殿などの入場券として石が用いられることがありました。17節にある「白い石」というのは、このような目的のための石だと思われます。白い石を得た者は天国への入場券をもっているわけです。誰の名が石に書き込まれているのか、たとえば神様の御名なのか、あるいは天国に入れたその人の名なのか、といったことはわかりません 。ただ言えるのは、天国に入れた人は自らの受けた救いを他の人に譲渡することはできない、ということです。天国への門の通交切符である石には、その石の持ち主の名前が記されているのではないでしょうか。救いとは個人的なことがらなのですから。  

テアテラの教会への手紙 2章18~29節

 テアテラは職人の都市としてよく知られていました。「使徒言行録」には、リュディアという名の女の人が登場します。彼女は紫布の商人で、テアテラ出身でした(「使徒言行録」16章14節)。

 テアテラの教会では、ひとつのことを除けばすべてが順調であったように見えます。教会が福音伝道についていっそう熱心になってきたのは、よいことでした。「最近、教会が初めの頃よりも多くのことを行っている」、という指摘はそういう意味なのでしょう。この教会の問題点は「イゼベル」と呼ばれる女でした。これは彼女の本当の名ではないかもしれませんが、その本質をよくあらわしています。私たちは旧約聖書を通して、イスラエル王であったアハブの「イゼベル」という名の悪妻のことを知っています(「列王記上」16章31節)。今テアテラの教会の問題点とみされている女は偽教師であり、その教えによって教会員たちを間違った道に引き入れました。イゼベルが彼らの教会に持ち込んだ「不品行」は、通常の意味での不品行とは限りません。旧約聖書は、イスラエルの民が「姦淫」を行い堕落した、と語ります。多くの場合、それは偶像礼拝を意味しています。

イスラエルの民は神の御民であり、本来なら神様に忠実を貫くべき存在でした。また旧約聖書では、異教の神々を礼拝することは姦淫を行うことに等しかったのです。20節の「不品行をさせる」というのは、これと同じ意味でしょう。この節の終わりの「偶像に捧げられた肉を食べさせる」という言葉も、それを裏付けています。おそらく「イゼベル」がテアテラ教会のキリスト教徒たちを偶像の神殿に連れて行って、そこでの犠牲の式で偶像に捧げられた肉を彼らに食べさせたのでしょう。このような儀式に参加することは偶像礼拝です。またこうした儀式では、神様が第六戒(「姦淫してはならない」)で禁じていることが行われる場合もあったでしょう。ですから「不品行」という言葉は実際の姦淫行為をも意味していた可能性があります。

 イエス様は偽教師に「悔い改めのための猶予期間」をお与えになりました。しかし、もはやその期間は終わろうとしています。もしも彼女が悔い改めなければ、彼女を待ちうけているのは裁きです。この裁きは彼女の「愛人や子どもたち」にも及びます。「愛人や子どもたち」とは、おそらく偽教師の弟子たちのことを指しています。

 ここで注意しておきますが、イゼベルが「女の」預言者であったことが問題だったのではありません。神様が預言をくださる場合には、女の人が教会の集まりで預言してもよい、と使徒パウロは教えています(「コリントの信徒への第一の手紙」11章4~5節を参照のこと)。問題だったのは、イゼベルが神様の御名によって不信仰な行いをするように教えたことにありました。彼女は偽預言者だったので、本来ならテアテラの教会はそれに気づいて彼女を教会から追い出すべきだったのです。    テアテラのキリスト教徒全員がイゼベルの弟子になりさがったわけではありません。「彼らがもっているもの」すなわち使徒たちが教えた本来の信仰生活のありかたに留まるように、イエス様は彼らに助言します。「他の人々が知らないような奥義を自分たちだけは学んで知っているのだ」、などとイゼベルの弟子たちは自慢していたのではないでしょうか。そしてイゼベルから教わった「神の奥義」なるものを吹聴したのでしょう。この類の奥義が実はどこから由来するものなのか、イエス様は教えてくださいます。それは神様からのものではなく、神様の敵であるサタンからのものなのです。偽教師に従わなかった人々に、イエス様は豊かな約束を与えてくださいます。すなわち、彼らには諸国民を支配する権威が授けられるのです。パウロも同じことを書き留めています。すなわち、キリスト信仰者は皆、この世を主と共に裁くことになるのです(「コリントの信徒への第一の手紙」6章2~3節)。これがどういう意味か、私たちには詳しく語られていません。しかし最後の裁きの時には、裁き主が共におられる側のグループに入れていただくほうがよいに決まっています。

「ヨハネの黙示録」2章28節の「明けの明星」は金星を指しています。それは皇帝に捧げられた星でした。イエス様は御自分に属する人々に明けの明星を与えると約束されています。それは、いつか彼らが世の支配者である皇帝に等しい者になることを示唆しています。この約束はすでに26節で与えられています。