ヨハネの黙示録19章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

天国の喜び 19章1~5節

 滅亡したバビロンを見た後、ヨハネは名状しがたい声を耳にします。それで彼はふたたび「あたかも」という言葉を援用します。言葉自体は明瞭に聞き取れるものでした。「ハレルヤ」という声が天から響いてきたのです。これは「主を賛美せよ」という意味のヘブライ語です。不思議なことに、この言葉は新約聖書w通じて「ヨハネの黙示録」のこの章にしか出てきません。しかし、この言葉を初期のキリスト信仰者たちが礼拝で使用していたのはほぼ確実です。彼らは旧約聖書を読んでいましたし、「詩篇」にも「ハレルヤ」という言葉は何度も登場しているからです。

 天国の大群衆の歌は、あまりにも多くの悪行を行ってきた諸悪の張本人に対して神様が最終的な裁きを下してついに世の悪を消し去ってくださったことへの感謝にほかなりません。神様は非常に長い間ひたすら忍耐しておられました。世の悪をごらんになりながらも、神様は世に悔い改めるための時をお与えになりました。その目的は、できうるかぎり多くの人が悔い改めて救われることでした。しかしとうとうその時期も終わりました。神様の教会が祈りつつ待ち望んできた「その日」をヨハネは今や目の当たりにします。

 5節で、神様の僕たちは「神様を畏れる者たち」と呼ばれています。神様を畏れる必要はない、と多くの人は考えています。彼らにとって神様は自分と対等な立場にある友達のような存在であり、友達をこわがる必要はないからです。しかし聖書はそれとはちがうことを教えています。神様はあまりにも大きく、私たち人間はあまりにも小さいため、私たちは神様の友達などにはなれません。神様は非常に偉大なお方であり、私たちとはまったく比較にならないので、神様を畏れるのは正しい姿勢なのです。しかしこの「畏れ」は、神様から逃げ出したり神様の御許に行く勇気をなくしたりするという意味ではありません。「神様を畏れる」というのは、神様を敬う心の深さのゆえに、私たちが自分と対等の友達に接するときとはまったくちがう態度を神様に対しては取るようになるということです。神様を畏れる人は神様が言われることに注意深く耳を傾けますし、神様と異なる意見に固執するような頑なさを持ち合わせてはいません。神様を畏れる人は神様の御心をないがしろにする無謀な生きかたはしないし、神様に属する人々のグループから離れることもありません。このような生活態度を取ることでおそらくこの世の人々からは疎まれるようになるかもしれませんが、神様を畏れる人は、人間から受ける怒りを耐えるほうが聖なる神様の怒りを耐えるよりもはるかに容易であることを知っています。

小羊の婚礼 19章6~10節

 それからヨハネはこの世の終わりの後にどのようなことが起こるかを目にします。小羊の婚礼の時が訪れたのです。天国に入った人々はこの結婚式について神様に賛美を捧げます。賛美の声はあまりにも大きく、ヨハネはそれを大群衆の歓声、多くの水の音、激しい雷鳴にたとえています。ついに神様は御自分があらゆる権威を有しておられることを示してくださいました。悪魔は一味もろとも打ち負かされ、永遠の喜びが天国で始まろうとしています。

 旧約聖書は神様の御民と神様との関係を「結婚」にたとえています。ちょうど夫婦が互いに対して忠実であるべきであるように、神様の御民も神様に対して忠実でなければなりません。彼らが他の神々に仕え始めたり、神様の御心を無視したりすることは「姦淫」でした。「ヨハネの黙示録」はこれと同じことを語っています。イエス様に属する人々、すなわち洗礼を受けていてイエス様を信じている人々はイエス様と許婚の関係にあるようなものです。彼らは自分の花婿に対して忠実を貫かなければなりません。イエス様にお仕えするのを中止したり、イエス様が言われたことをまったく心に留めなかったりするのは不実な態度です。今や神様の教会は「イエス様の花嫁」だからです。婚礼の時とは、キリストが再臨なさり世とその悪が終わり永遠の世界が始まる時です。

 7章では、罪深い存在である人間が大いなる婚礼の招待を受けるにふさわしい「衣」をどのようにしていただくのかが語られていました。小羊の血によって衣が洗われ白くされた人は、小羊の婚礼がある天国に入ることができます。神様は天国に住まわれる聖なる方です。それゆえ、人は自らの罪を抱えたままでは天国に入ることができません。罪は赦される必要があり、イエス様の血だけが私たちの罪を洗い落としてくれます。「自分は天国に入れる」と自認しながらもイエス様の血を大切にしない人は自らを欺いており、天国への道を歩んではいません。ここでも「ヨハネの黙示録」は天国に入った者たちの上に着せられた「衣」について語り、「この衣は聖徒たちの義なる行いである」、と言っています。しかしこれは、よい行いをすることが天国に入るための条件だという意味ではありません。人が天国に入る唯一の条件は罪の赦しを受けていることです。そして罪の赦しとは人がどのような行いも自分で成し遂げることなしに賜物としてイエス様からいただけるものです。8節は、天国での婚礼が始まる直前に神様に属する人々が何をいただくことになるかを語っているのでしょう。私たちの身を包んでくれる「神様の御心にかなう義なる行い」がそれです。これは、この世で極力真面目に生活している神様の子どもたち(つまり、キリスト信仰者たち)にさえ執拗につきまとう悪い行いがいまようやく過去のものとなったことを意味しています。とうとう悪は消え去ったのです。天国に入った人々は神様の御心にかなう正しい善いことのみを行います。このために天国は素晴らしい場所になります。相手を傷つける言葉も、悪い行いも、自己中心的な態度も、愛に欠けた冷たさも、もう存在しません。あるのはただ私たちが互いに行う善き業のみです。そしてこの善行も神様の賜物なのであり、私たち自身の手柄などではありません。「着せられた」という受動態の表現がこのことをよくあらわしています。本来私たちがもっていないはずのものを、神様は私たちの上に着せてくださるのです。

 それから天使は、「小羊の婚宴に招かれた者はさいわいです」、と言います。そのような人たちを祝するのは当然です。彼らは神様がおられるところに、それゆえよいことばかりのところにいるからです。それとは逆に、小羊の婚宴に招かれていない人は不快な苦しみにいつまでも悩まされる場所にいることになります。この点でも、天国に入った人々は祝されるのにふさわしい存在であると言えます。彼らは地獄に行かずに済んだからです。

 これを聴いてヨハネは、彼に話しかけた天使の足元にひれ伏して拝もうとします。しかし天使は、そんなことをしないように、と厳しく制します。ただ神様のみを拝するべきだからです。相手がたとえ神様の天使であろうと、あるいはどれほど不思議な存在であろうと、彼らを拝むことは許されません。「エホバの証人」と議論しなければならないときにはこの箇所のことを覚えておくと役立ちます。イエスは神ではない、と彼らは主張しているからです。ところが聖書は数多くの箇所で、「イエス様の御前にひれ伏して、イエス様を拝んだ」、と語っています(たとえば「ヨハネによる福音書」9章38節)。しかもイエス様は人々がそうするのをお許しになりました。その理由はひとつだけです。イエス様は神様であり、そのことを自覚しておられた、ということです。イエス様は神様の御子であり、父なる神様と同質のお方です。それゆえ、神様の御前にひれ伏し拝むようにしてイエス様の御前にひれ伏し拝んでもよいし、またそうすべきなのです。

 10節では、イエス様の証は預言の霊である、と言われています。これは、神様の預言者はイエス様について証するものである、という意味でしょう。「イエス様は何を行いまた話してくださったのか、私たちにとってイエス様はどのようなお方か」、というのが神様の遣わされる真の預言者のメッセージの核心です。イエス様ではない何か他のものに焦点を当てて語るメッセンジャーは、たとえどれほど巧みに話しどれほどすごい奇跡を行ったとしても、神様の遣わした預言者ではありえません。私たちはイエス様について語られる内容に基づいて正しい霊と偽りの霊を見分けることができます。聖書がイエス様について証しているのと同じ証をするところにこそ、正しい御霊はおられます。

小羊の戦いと勝利 19章11~21節

 世の終わりの後に神様に属する人々にどのようなことが起こるかについて、ヨハネはすでに啓示を受けました。新しい幻が始まるときに時間が逆戻りして、白い馬に乗っている方が悪魔に立ち向かう戦いをヨハネは目にします。その方の名は明示されていませんが、それが誰であるか、ヨハネは十分明瞭に書いています。この方は「神様の御言葉、王の王、主の主」です。正答はひとつだけです。この方はイエス様なのです。イエス様は敵に勝利して一味もろとも打ち砕いてくださいました。悪魔と手下どもは捕らえられ、地獄に投げ入れられます。私たちの主が再臨される「最後の日」にこれは実現します。

 12節には、イエス様の御名はイエス様以外には誰も知らない、とあります。私たちにとってこれは「神様の奥義」なのです。父、御子、聖霊なる三位一体なる神様は私たち人間にとって完全には理解できないお方です。三位一体なる神様をめぐる問いには答えが得られない場合が多くあります。しかし、私たちはすべてを理解してはいなくても、神様に属する者となることができます。また今はわからないことも、いつか天国でわかるようになります。イエス様は天国に入った人々に神様の御名を書き込む、という約束がフィラデルフィアの教会に与えられました(「ヨハネの黙示録」3章12節)。おそらくこれは、天国で私たちは神様のことがよくわかるようになるので、答えのない問いはもはやなくなる、という意味でもあるでしょう。

 悪魔が敗北する様子の描写は印象的です。戦いは終わり、戦場には死体が累々と横たわっています。たくさんの鳥が戦場の上を飛び交い、死者の肉をついばむ機会を伺っています。ヨハネが幻で目にしたこの有様は悪魔一味の末路を描いています。打ち負かされた彼らを獲物にしようと獰猛な鳥たちが狙っています。かつては悪魔とその帝国は強大であり、その手下と一緒に世界を支配していました。しかし今やそれも過去の話です。戦いは終わり、悪魔一味は一網打尽に滅ぼされたからです。