ヨハネの黙示録1章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

題名 1章1~3節

 「ヨハネの黙示録」という題名は誤解を生みかねません。黙示を受けたのはイエス様であって、ヨハネではないからです。復活されたキリストが父なる神様から受けた黙示を伝えるためにヨハネに天使を遣わしたことが、最初の節に書いてあります。これを「黙示の連鎖」と名づけることができるかもしれません。罪深い存在である人間は聖なる神様の直接の語りかけに耐えることができません。イエス様は人間と神様の間をつなぐ仲介者です。またイエス様は「変圧器」のようなお方です。罪深い存在である人間の許容力に合うように、神様の巨大な力を変えてくださるからです。神様がお決めになったこととそれに基づき将来起こることを自らの僕に伝えるために、イエス様は黙示を受けたのです。

 「ヨハネの黙示録」の書き手は自分のことを「イエス様の僕(あるいは奴隷)」と呼んでいます。パウロも自らを同じ名称で呼んでいます(フィリピの信徒への手紙1章1節)。このヨハネとはいったい誰なのか、私たちは序章で究明を試みました。断言はできませんが、十二弟子の一人、使徒ヨハネその人であった可能性は大いにあります。

 「ヨハネの黙示録」はヨハネ自身の考えやこれから世界で起こることに関する想像が記された書物ではありません。このことは2節からわかります。ヨハネは神様から書くように言われたことを書き記しました。それゆえ、彼は神様の御言葉とキリストの証について語るのです。このことを念頭におくかぎり、私たちは「ヨハネの黙示録」を正しく読んでいると言えます。この本を通して私たちが取り組んでいるのは、人間の精神が作り出したものではなく、神様が私たちに語るべきだと思われたことがらだからです。

 神様がヨハネに黙示を与えた目的は、その黙示が記録保存され、神の教会で読まれ、皆に聴かれるようにすることでした。黙示が与えられたのは、人間の際限ない好奇心を満たすためではなく、人々が黙示の内容を信じ、それに基づいて正しい判断を下すようになるためでした。3節にある「守り抜く」というのは、そういう意味です。「ヨハネによる黙示録」は、イエス様の再臨を直前に控えた時代に生きている人々のためだけに書かれたものではありません。この書物には、あらゆる時代のすべての人々に対するメッセージが込められています。それゆえ、ヨハネは自分に示された黙示をすべての人が読むように促しているのです。

 新約聖書では「さいわいなる者」(ギリシア語で「マカリオス」)という言葉には主としてふたつの意味があります。ひとつは、天国への旅を続けている「救われた者」という意味です。もうひとつは、「おめでとう」と言われるのにふさわしい人のことです。この節では後者の意味に近いでしょう。「おめでとう」と言われるのにふさわしい者とは、「ヨハネの黙示録」を読み、聴き、その内容を信じる人のことです。「時が迫っている」からこそ、なおいっそうそう言えるのです。その「時」とは、キリストが再臨される時のことを意味しているのでしょう。それはもうすぐ来ます。「ヨハネの黙示録」を読む人はこのことを知って、自分でもキリストの再臨に備えるようになります。このように行動する人に「おめでとう」と言うのは、ふさわしいことなのです。

諸教会への挨拶 1章4~8節

パウロが手紙を諸教会に書き送ったのとおそらく同じようなやり方で、ヨハネは「ヨハネの黙示録」を小アジアの七つの教会に書き送りました。ヨハネの挨拶もまた、パウロの手紙のはじめの挨拶に似ています。ヨハネは、諸教会に恵みと平和があるように、と書いています。4節では、ヨハネについては名前だけが記されており、それ以上のことは語られていません。これはヨハネが皆によく知られた人物であったため詳しい説明が要らなかったことを示唆しています。またこれは「ヨハネの黙示録」の書き手がイエス様の弟子のヨハネであったことを裏付けるものです。キリスト教会が大切に保持してきた信頼できる伝承によれば、このヨハネこそ、「ヨハネの黙示録」が書き送られた諸地方の教会で約30年間ビショップ(教会の責任者)の地位にあった人だからです。

「ヨハネの黙示録」で後ほどその名が挙げられる七つの教会は、ローマ帝国の小アジアの属州内にあった諸教会の一部にすぎません。どうしてこれら七つの教会のみが取り上げられているのでしょうか。それは、名が挙げられている教会には他の諸教会にとっても参考になる様々な事例があったからでしょう。「ヨハネの黙示録」は、七つの教会には他の諸教会の模範になるような美点がある、と語ります。しかし他方では、七つの教会で表面化した様々な罪についても言及し、他の諸教会がそうした罪に陥らないように警告しています。七つの教会は、他の諸教会でも教会生活がどのように良くも悪くもなりうるのか、包括的なイメージを提供しているのです。おそらくはそれゆえに「ヨハネの黙示録」は七つの教会についてのみ語っているのでしょう。教会の名がちょうど七つ挙げられている理由は、聖書で七は完全性を表す数だからでしょう。つまり七つの教会は全キリスト教会および各地のキリスト教会すべてを同時にあらわしているのです。

神様はモーセに「私はある」(出エジプト記3章14節)という御名を啓示しました。今おられ、かつておられ、やがて来られるお方からの恵みと平和があるように、とヨハネは書いています。あたかもここでヨハネは神様の御名の奥義を解き明かして、神様の御名のもつ意味について語っているかのようです。神様は「かつておられた」ので、存在する万物の始原です。神様は「やがて来られる」ので、この世をいつか終わらせるお方でもあります。神様に関するヨハネの言及は、過去と現在と未来とが不思議な仕方で共在している永遠の中で神様が活きておられることを、私たちに思い起こさせます。

4節の「七つの霊」とは聖霊様のことを意味しているのでしょう。イザヤ書11章は来るべきメシアについて語り、神様の七つの霊の性質があきらかにされています(イザヤ書11章2節)。それと関連して考えると、「七つの霊」は聖霊様の本性を表現したものであるのかもしれません。もうひとつ可能な解釈は、七つの霊と七つの教会について語ることを通して聖霊様がすべての教会に臨在しておられることを教えている、というものです。言い換えれば、神様の御霊を受けないまま放置されている教会は一つもない、ということです。

父なる神様と聖霊様に加えて、イエス・キリストからの恵みと平和があるように、とヨハネは書いています。神様の三位一体性はここにも見られます。イエス様には三つの職務がある、と言い表すことが昔から行われてきました。イエス様は預言者であり、祭司であり、王なのです。これと同じことを「ヨハネの黙示録」はイエス様について教えています。イエス様は「忠実な証人」です。すなわち、預言者、教師、説教者なのです。

それからヨハネは、イエス様が私たちのために何をしてくださったのかを私たちに思い起こさせます。イエス様はその血によって、私たちを罪と罰から解放してくださいました。すなわち、イエス様は全世界の罪のために御自身を犠牲として捧げた祭司なのです。この犠牲の力によって、イエス様に属する者皆が祭司となりました。旧約の時代には、祭司のみが神様の御前に出ることができました。さらに彼らの中でも大祭司のみが、神様のお住まいであると信じられた「至聖所」と呼ばれる部屋に入っていくことができました。ところが新約の時代である今では、かつて大祭司が独占していたこの特権は私たち皆のものになりました。神様の御許への道は開かれています。イエス様がそれを私たちのために開いてくださったからです。しかしこれは、教会にはもはや牧師が要らない、という意味ではありません。新約聖書は、牧会という職務を果たすために任命された人々について指示を与えています。このように神様は、御心にかなう秩序が教会で実現し、教会が「恵みの手段」(神様の御言葉とサクラメント(聖礼典))によって養われ培われるように、お定めになったのです。

この世の最も偉大な人々をも支配なさっているイエス様にのみ栄光と権威とを帰すべきである、とヨハネは言っています。すなわち、イエス様は王様でもあるのです。フィリピの信徒への手紙は同じことを次のように表現しています。

「神様はこの方(イエス様)を高く引き上げ、すべての名にまさる名をこの方に賜りました。それはイエス様の御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のもの、あらゆるものが(御前に)ひざまずくようになるためです」 。
(フィリピの信徒への手紙2章9~10節)

 イエス様は雲に乗って天へ昇られました。神様の天使たちは、イエス様がいつかこれと同じように戻って来られる、という約束を残しました(使徒言行録1章11節)。それが実現する時、皆がイエス様を見ます。イエス様を殺した者たちもイエス様を見ることになります。死者はよみがえり、「王の中の王」に戦いを挑んだ者たちは途方もない苦痛を受けます。そのとき彼らは自分が「天と地の主」に反抗していたことに気づきます。

 神様は御自身が「アルファでありオメガである」と言われます。「ヨハネの黙示録」はもともとギリシア語で書かれました。ギリシア語のアルファベットの最初の文字はアルファ、最後の文字はオメガです。すなわち、神様は御自分が万物の初めであり終わりである、と言っておられるのです。万物は神様から発しており、いつかは神様へと収束していきます。神様は全能であり、大いなる知恵によって定められたとおりに、初めから終わりまで世界の歴史を導かれます。

復活の主の顕現 1章9~20節

 パトモスはエーゲ海に浮かぶ島であり、エフェソから南西約100キロメートルのところに位置しています。ローマ人たちはこの小さい島を流刑地として利用していました。ローマ皇帝ドミティアヌスの時代(西暦81~96年に在位)に、キリスト教徒はひどい迫害にあいました。自分を神として崇めるようにという皇帝の要求をキリスト教徒はとうてい受け入れることができなかったのです。この時期の迫害でヨハネはパトモス島に追放され、そこで「ヨハネの黙示録」が書かれました。神様は、それ自体は悪いことがらさえも御自分に属する人々の益となるように「善用」なさいます。迫害と追放がなかったならば、「ヨハネの黙示録」が書かれることもなかったでしょう。

 普通なら人間には見る機会がまったくないようなことがらを、神様はヨハネにお見せになりました。ヨハネは、御霊が彼をすっかり支配したと語っています。ヨハネは自分自身の外側に出て神様の特別な呼びかけに感応する状態に置かれたと言えるでしょう。似たような体験をした聖書の登場人物はヨハネだけではありません。旧約聖書の多くの預言者たち、さらにパウロ(コリントの信徒への第二の手紙12章)やペテロ(使徒言行録10章)も同様なことを体験しています。

 「主の日」とは日曜日のことです。それは、教会ができて間もない頃にキリスト教徒がユダヤ人の安息日(土曜日)の代わりに選んだ聖日でした。イエス様が死者の中からよみがえったのは日曜日でした。それでこの日を主の聖日と定めたのです。

 ヨハネは大きな声を聴きました。その声を彼はラッパの音にたとえています。その声は、ヨハネがこれから目にする内容を書き取って小アジア地方の七つの教会に送るように命じます。声が聞こえるほうへと振り向いたヨハネは、かつて旧約聖書の預言者ダニエルが見たのと同じような幻を目にします(ダニエル書7章9~14節)。それは七つの金の燭台とそれらの間を通る「人の子」に似た方でした。20節で言われているように、燭台は前に列挙した七つの教会をあらわしています。全部で七つある燭台はキリストの教会全体、地上のすべての各個教会のこともあらわしています。そしてこの幻には大いなるメッセージが託されています。イエス様は自らの教会の只中にいて、御自分に属する人々と共に歩み、苦難の時にも彼らを見捨てない、ということです。

 ヨハネは燭台の間を歩む人の子のような方の姿を説明するのに困難を感じているようです。そのため彼はシンボル(象徴)を用いて描写を試みます。第一印象はキリストの強烈な輝きです。ヨハネは光沢のあるウール、雪、火、白熱した青銅、太陽について語ります。イエス様の偉大さはその声からもわかります。エーゲ海の波がパトモス島の浜辺の岩に打ち砕かれるときに発する轟音と共通する何かが復活の主の声にはありました。イエス様は手に七つの星を持ち、口には鋭い剣がありました。口から両刃の剣が突き出ているイエス様の姿がどのようなものであったかを私たちは無理に詮索しようとは思いません。用いられている言葉が象徴表現に満ちていることをここでは指摘するに留めておきます。おそらく「剣」は神様の御言葉をあらわしています(エフェソの信徒への手紙6章17節、ヘブライの信徒への手紙4章12節)。これは人間が作り上げた障害物をものともせずに、あらゆるところへと入り込んで行く剣です。

 神様に属する者であるキリスト信仰者も罪深い存在であることには変わりがありません。それゆえヨハネはキリストの輝きを前にして地に倒れて死んだような状態になります。神様の神聖さを前にして罪人にできることは他にはありません。イエス様は、福音書の多くの出来事のときと同じように、「恐れるな」と話しかけてくださいます。イエス様は真理、恵み、聖さ、愛に満ちています。

 17節で、イエス様は神様の本質に関するこれまでの言及を御自分にもあてはめます。御父と同様に御子もまた「初めと終わり」、万物の始まりと終わりです。「ヨハネの黙示録」は他の箇所でも神様の三位一体性について教えています。イエス様は父なる神様と同じ本質をおもちなのです。

 18節で、イエス様は御自分の偉大さと悪魔の矮小さについて語られます。悪魔は実に取るに足らぬ存在であり、自分の帝国に入る鍵さえ持ちあわせていません。イエス様がその鍵を悪魔から取り上げたからです。イエス様には人間を苦痛の絶えない地獄へと裁く権能と、地獄に陥らないように人を救い出す権能とがあります。人と神様の間の裁き主は、悪魔ではなくイエス様なのです。

 1章の最後の節で、イエス様はその御手の中にある七つの星の奥義をあきらかにしています。星は七つの教会の天使をあらわしています。天使は狭義の意味での天使ではないでしょう。旧約聖書が言及する「天使」(ヘブライ語で「使者」という意味)という言葉には、神様の預言者(ハガイ書1章13節)とか、神様の祭司(マラキ書2章7節)という意味があります。今の場合もおそらくこの意味で「天使」という言葉が用いられているのでしょう。つまり天使は教会の牧者なのです。次章から始まる教会書簡が「教会の天使」宛てになっていることも、この見方の正しさを裏付けています。それらのメッセージは諸教会の牧者たちに向けて書き送られているのです。

 イエス様は教会の牧者に対して特別の配慮をしてくださいます。七つの星がイエス様の御手の中にある、とはそういう意味なのでしょう。教会の牧者は、自分たちの功績によって神様に属する人々の群れの中で特別な地位を獲得したわけではありません。彼らに対して特別な配慮が払われるのは、極めて大切な任務が彼らに委ねられているからなのです。彼らはキリストに属する人々の一群を天国へ導いていく立場にあります。もしも牧者が道を間違えれば、群れも一緒に迷子になってしまいます。教会の牧者もまた弱い人間です。それで彼らはイエス様の特別な世話を受ける必要があるのです。群れが牧者に導かれて輝く天国の中へとたどり着くことができるように、イエス様は牧者を御手の中に包んで、できうるかぎりのことをしてくださいます。