ヨハネの黙示録5章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

七つの封印で封じられた巻物 5章1~4節

 ヨハネは全能者の右の手にある巻物に注目しました。普通なら巻物には片面だけにテキストが書き込まれているものです。ところがこの巻物は両面が文字で満たされ、内容がぎっしり詰まっていたのです。しかしその巻物を読むことはできませんでした。巻物は七つの封印で封じられており、それらの封印を解くためには特別な権限が要求されたからです。天使がその場にあらわれて、巻物の封印を解く権限を持つにふさわしい立派な者が見つかるかどうかを尋ねます。しかし天国の天使の中にも、地上で生きている人間の中にも、死者の中にも、悪魔の手下の中にも、そのような者は見つかりませんでした。この最後のグループには「地の下」という表現が使われています(9章1~2節とその説明を参照してください)。

御座におられる方の御手の中の巻物には何か大切なことが書き込まれています。巻物を開けることができる者がどうしても見つからないので、ヨハネは泣き出します。ヨハネ自身も巻物の中身に興味を持っていたでしょう。しかしヨハネが泣いたのにはもっと深い理由があったと思われます。神様に属する人々への大切なメッセージを含んだ巻物が全能者の御手の中にあることを、ヨハネは理解していたからです。巻物の封印が解けないかぎり、教会宛の神様のメッセージは伝達されないままになってしまいます。ヨハネが泣いたのも無理もありません。

 七は聖書では聖なる数字であり、神的な完全性を表しています。七つの封印は巻物の神聖さを暗示しています。この巻物には、それを開くのにふさわしい者が天国にも地上にも地下にも見出せないほど神的な何かが含まれているのです。

ほふられた小羊 5章5~14節

 天使も人間も悪魔の手下も七つの封印で閉じられた巻物を開けることができませんでした。それができるのは神様だけです。神様の御座の周りにいた長老のうちの一人は、「ユダ族の獅子、ダヴィデの根の若枝である方」が封印を解いて巻物を開くことができる、と示唆します。「ユダ族の獅子」のことは、死の床に就いていたヤコブの言葉の中に出てきます(「創世記」49章9~10節)。ヤコブのこの言葉は神様の御子のことを預言するものでした。すでに神様は御子を世に遣わすことを決めておられたのです。「ダヴィデの根の若枝」は「イザヤ書」11章にある表現です。ちょうど倒された木のように、ダヴィデの王族は死んだように見えました。しかし、死んだ切り株からいつか新しい枝が生える、すなわちダヴィデよりもさらに偉大な新しい王がダヴィデの家系から生まれる、という約束を神様は与えてくださったのです。新約聖書は、神様の御子が人としてまさしくダヴィデの家系にお生まれになったことを語っています。こうして「イザヤ書」の預言は実現しました。イエス様は王の中の王であり、天と地の主です。イエス様は人間や天使にまさるお方です。それゆえ、他の誰には行う資格がないこともおできになるのです。

 長老はイエス様の偉大さをほめたたえます。視線を御座に向けたヨハネが見たのは大いなる勝利者ではなく、ほふられた小羊の姿でした。小羊には七つの角と七つの目がある、とヨハネは語ります。「ヨハネの黙示録」で「角」は力と権威をあらわしています。ほふられているにもかかわらず、小羊には力と権威があるということです。七つの目は神様の七つの霊である、と言われています。「ヨハネの黙示録」の最初の章にも七つの霊が出てきます(1章4節)。おそらくそれは、すべての七つの教会に臨在なさる神の御霊を意味しています。七つの教会がキリスト教会全体を代表していると考えるならば、それは全キリスト教会に臨在なさる神の御霊を意味していることにもなります。イエス様は聖霊様を全世界に派遣なさいました。それゆえ、神の御霊はキリストに属する人々がいるところならどこであろうとも臨在なさっていることになります。

 同時に「偉大な王」また「ほふられた小羊」としてイエス様が描写されていることには深いメッセージが込められています。キリストはあらゆる権能をお持ちであり、この方を前にしては最も偉大な人間でさえも取るに足らぬ存在にすぎません。ところがイエス様はその偉大さを隠して普通の人間として生まれ、十字架への道を従容として歩まれました。そしてまったく無力な小羊がほふられるようにして、その身をほふられました。「王の中の王」がこの苦しみを我が身に引き受けてくださったのです。それは私たち罪深い人間のことを限りなく愛しておられたからです。かりにイエス様が栄光に包まれてこの世に来られたのなら、その神聖さが人類を滅ぼしてしまったことでしょう。しかしこの方は私たちを救うためにその偉大さを隠され、「イザヤ書」の預言の通りに小羊の立場にその身を置かれたのです。

「主は私たち皆の罪の負債をこの方の上に置かれました。この方は虐げられ苦しめられましたが、口を開きませんでした。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前で黙っている羊のように、口を開きませんでした」
(イザヤ書53章6~7節より)。

イエス様は巻物を御座にいます方の御手から受け取られました。ちょうどその時に天国ではふたたび礼拝が始まりました。天国にいる者たちは小羊の御前にひれ伏して歌い、尊敬を込めて賛美しました。

 旧約聖書を通して神様は御自分の御民に次のように命じておられます。

「私は主、あなたの神です。(中略)あなたには他の神々があってはなりません。(中略)それらにひれ伏したり、仕えたりしてはなりません」
(出エジプト記20章2~5節)。

 この「神様以外の何者にもひれ伏してはならない」という戒めがあるにもかかわらず、天国にいる者たちはイエス様の御前にひれ伏しました。なぜでしょうか。それはイエス様が神様だからです。聖書には「三位一体」という術語自体は登場しませんが、神様の本質が御父と御子と御霊からなる三位一体であることは明瞭な表現をもって教えられています。「ヨハネの黙示録」のこの箇所も神様の三位一体性をよく示しています。

 8節には、天国にいる者たちが金の器に入れて小羊の御前に持参する「犠牲の香り」が出てきます。これは聖徒たちの祈りである、と言われています。「聖徒」とは天国にいる人々のことではなく、この世で生きている「神様に属する人々」を指しています。つまり、私たちの祈りは天国で聴かれているのです。それらの祈りはあたかも犠牲の捧げ物の放つ香りのように神様の御座のもとへと昇っていき、天国における礼拝の大切な一部分を構成するものにさえなっています。天国にいる者たちがイエス様の御前にひれ伏すとき、彼らは金の器の中に私たちの祈りを運んで行きます。そしてイエス様は天国にいる者たちの賛美と共にそれらの祈りを聴いてくださるのです。

9節では、四つの生き物と二十四人の長老とが「新しい歌」を歌います。すでに旧約聖書の時代には、大きな祝会のために特別に新しい歌が作曲される慣習がありました。この箇所でもそれと同じことが行われているのです。イエス様が御手に巻物を受け取り、盛大な祝会の時が始まります。祝会を彩る新しい歌が特別に用意されて歌われます。

歌の内容は新奇なものではなく、古来変わることのない福音を伝えるものです。神様の小羊は自らがほふられることによって、国境や国民や民族や言葉の垣根を越えて神様のために民を贖い出しました。この方はすべての人のために十字架で死んでくださいました。これに基づき私たちキリスト信仰者は神様に属する者とされています。私たちはキリストを王としていただく臣民なのです。また私たちは神様にお仕えする祭司でもあるので、神様の御許に行くことが許されています。旧約時代における神殿で神様の御前に出ることができたのは、祭司だけでした。イエス様はこの権利を私たち皆に買い与えてくださったのです。

10節には、神様に属する人々が地上を支配することになる、という約束が与えられています。彼らが支配する「地」とは、神様がいつか創造なさる「新しい地」を意味しているものと思われます(21章1節)。イエス様も、「柔和な人々は地を受け継ぐ」、と約束なさっています。「地」という言葉でイエス様がこの世のことを意味していたとはとても思えません。考えられるもうひとつの解釈は、「地」を支配するこの約束が「千年王国」についてであるとするものです。この「千年王国」については20章でより詳しく語られています。

天国の礼拝と小羊の讃美には非常に多くの天使が参加しています。その数の夥しさはヨハネが無数の天使を見たことを物語っています。ヨハネが遥か遠くに眼を向けると、そこにもたくさんの天使が見えました。天国の他の住人たちと同じく、天使もまた小羊に讃美を捧げます。小羊は皆の感謝と栄光を受けるのにふさわしい方です。

小羊を讃美する者の群れはさらに増えていきます。天国と地上と地下と海中の被造物一同がイエス様に感謝を捧げます。これは、すべての人が今イエス様にひれ伏す、という意味ではありません。このことはヨハネの時代には実現しなかったことであり、今でもまだ実現していないことです。この箇所をパウロの手紙と合わせて読むことで理解が容易になると思われます。「ローマの信徒への手紙」には、被造物世界がキリストの再臨の時を待ち望んでいる、と書かれています。再臨の時には、罪の堕落によって世に入り込んだ一切の悪から被造物世界が解放されるからです(「ローマの信徒への手紙」8章19~23節)。この「被造物世界」という言葉は「自然」に大体相当するものと考えることができます。被造物世界がキリストの再臨を待ち望んでいる存在であるならば、それはキリストに感謝を捧げることもできます。もともと万物はキリストを通して創造されたものだからです。

 13節のもうひとつの可能な解釈は次のようなものです。ヨハネの視線は遥か未来へと向けられて、イエス様が栄光の王としてこの地上に戻って来られる日を目にします。その時には、皆が一様にイエス様を王として認め、イエス様に栄光を帰することになります。パウロは「フィリピの信徒への手紙」でまさしくこのことについて次のように書いています。

「それは、イエス様の御名によって、天上、地上、地下の万物がひざをかがめ、あらゆる舌(つまり、言葉を有する存在)が「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神様に帰するためです」
(フィリピの信徒への手紙2章10~11節)。