ヨハネの黙示録はイエス様について何を語っているでしょうか?

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

日本語訳は口語訳に従っています。

聖書の箇所について「5章6節」のように章節のみが記されているものは、それが「ヨハネの黙示録」の該当箇所であることを示しています。

また「および」で結ばれている章節はその前後の箇所が同じ聖書の書物(福音書や手紙など)の該当箇所であることを意味しています。

さらに例えば「5:6」という表記は「5章6節」を意味するものとします。

なお日本語版では翻訳者の責任によりフィンランド語原文に多少の編集が施されています。


インターネットでヨハネの黙示録を読むか聴く(口語訳)


「この世に存在するもの」のうちで「天国にも存在するもの」とは?

「この世に存在するもの」は何であれ「天国にも存在するもの」になることはないとよく言われます。しかし実は「この世」と「永遠」の間の境界を超越するものが二つ存在します。

一つ目は十字架にかかられたイエス様の傷です。「ヨハネの黙示録」は屠られた小羊について次のように描写しています(他に「ヨハネによる福音書」20章20節、「ルカによる福音書」24章39節も参照してください)。

「わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。」
(「ヨハネの黙示録」5章6節、口語訳)。

救いはゴルゴタの丘の中央の十字架において成し遂げられ、その場所で神様の御許に通じ、救いに至る道が開かれました(「マタイによる福音書」27章51節)。

二つ目は信仰と不信仰という問題です。これについては次の「コリントの信徒への第一の手紙」15章50〜57節が参考になります。

「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。 死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」15章50〜57節、口語訳)

アルファとオメガ(1章8節より)

「ヨハネの黙示録」のギリシア語原文に記されているのは「初めと終わり」という言葉ではなく「アルファ」(口語訳では「アルパ」)と「オー」(オメガのこと)です。これらはそれぞれギリシア語のアルファベットの最初と最後の文字です。ちなみに、旧約聖書の原語であるヘブライ語では、最初の文字は「アレフ」(現在のアルファベットのAにほぼ相当)、最後の文字は「タウ」(現在のアルファベットのTにほぼ相当)です。「アレフとタウ」という表現は、物事の全体、すなわち始めから終わりまでの全体を意味します。敬虔なユダヤ人は「タウの民」と呼ばれ、アレフからタウまで、すなわち始めから終わりまで律法全体を守っていたとされます(「ルカによる福音書」18章21節を参照してください)。

「アルファとオメガ」は「ヨハネの黙示録」では「すべて」、すなわち始まりから終わりまでを、またその間にあるすべても意味しています。

旧約聖書では神様は最初であり最後であるとされています(「イザヤ書」41章4節および44章6節および48章12節(「ヤコブよ、わたしの召したイスラエルよ、わたしに聞け。わたしはそれだ、わたしは初めであり、わたしはまた終りである。」))。

イエス様についても同じことが言えます。イエス様はすべての被造物に先駆けて世の始まりから存在されているお方であり(「ヨハネによる福音書」1章1〜2節および8章58節(「イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。」))、またこの世の終わりの時にも変わらずに存在なさっているお方でもあります。

ヨハネは神様について、他の箇所でも4回これと同様の称号を用いています(括弧内はギリシア語)。

  • 1章17節: 最初の者(「ホ・プロートス」)であり最後である者(「ホ・エスカトス」)(=イエス様)
  • 2章8節: 最初の者であり最後である者(「上と同じギリシア語」)(=イエス様)
  • 21章6節: 最初であり最後である者、初めであり終わりである者(「ト・アルファ」と「ト・オー」)(=神様)
  • 22章13節: 最初であり最後である者、初めであり終わりである者(上と同じギリシア語)(=神様)

1章8節で神様は「全能者」(「ホ・パントクラトトール」)と呼ばれています。旧約聖書でこれに相当する称号は「万軍の主」です。「ヨハネの黙示録」では「全能者」は9回出てきます(1章8節、4章8節、11章17節、15章3節、16章7節および14節、19章6節および15節、21章22節)。新約聖書の他の箇所では、「コリントの信徒への第二の手紙」6章18節に1回だけ出てきます。なお「万軍の主」(「キュリオス・サバオート」)は新約聖書の他の箇所では2回だけ出てきます(「ローマの信徒への手紙」9章29節、「ヤコブの手紙」5章4節)。

ローマ帝国による迫害に苦しんだ多くのキリスト教徒にとって、神様が全能であられるというヨハネの証言を受け入れるのは容易ではなかったでしょう。しかし、そもそも信仰とは感情や個人的な「知識」ではなく、神の啓示に基づくべきものなのです。

どのような書物か?

「ヨハネの黙示録」は書物固有の特徴についてある程度の知識がなければ理解できません。読者が書物の特徴について完全に誤った考えを抱いている場合、その書物から読者が引き出す結論も誤ったものになってしまいます。

教会の歴史を通じて「ヨハネの黙示録」には様々な解釈が試みられ、異なる解釈を支持する人々の間で論争が繰り広げられてきました。代表的な解釈として以下の4つを挙げることができます。

 1. 年代史的解釈

この解釈を支持する人々(現代の新約聖書学者たちの大多数を含む)は、ヨハネの見たという「幻」を執筆当時の状況に照らしてのみ解釈されるべきであると考えます。「ヨハネの黙示録」に出てくる「獣」はローマ帝国などであるとされます。その意味で、この書物には現代のキリスト教徒に向けられた特別なメッセージなどはなく、せいぜいヨハネの時代のキリスト教徒の状況から何かを学ぶことができるといった程度です。したがって「ヨハネの黙示録」は迫害の只中に生きていた最初の読者たちに対してのみ聖書の神様への信仰と信頼を啓示し語りかける書であったとされます。

 2. 教会史的解釈

特に「ヨハネの黙示録」の2章および3章に記されている七つの教会への手紙が教会史的解釈の出発点となっているとされます。この解釈によれば、それぞれの教会は教会史における諸段階を象徴的に表しています。例えば、それぞれの教会は教皇の教会(ローマ・カトリック教会)、宗教改革の教会、敬虔主義の教会に対応していると考えるのです。しかし、七つの教会のどの教会がどのような時代のどの教会の流派に対応するかについての解釈も時代の変遷とともに変わり続けてきているため、皆から共通して承認されるような統一的な見解を得るには至っていません。

 3. 終末の時にかかわる解釈

この解釈を支持する人々は、イエス様の再臨の時に地上に生きている世代の人々についてだけヨハネは語っているという見方をします。当然ながらこの解釈の問題点は、どの世代もヨハネの預言がまさにその世代について語っているという確信を持ち得ないことです。この点を解決するために、イエス様の再臨の前に起こることとしてヨハネが描写した出来事について様々な解釈が生み出されてきました。

 4. 宗教史的解釈

この解釈によれば「ヨハネの黙示録」は他の諸宗教からの借用、特に旧約聖書とその終末に関する預言(特に「イザヤ書」、「ダニエル書」、「エゼキエル書」、そして「詩篇」)からの借用によって生まれたとされます。

上記の解釈はそのどれについても、正しいとも完全に間違っているとも言えません。どれも単独では「ヨハネの黙示録」を説明するには不十分なのです。当然ながら当時の状況と旧約聖書の終末に関する預言は「ヨハネの黙示録」の成立にも影響を与えました。しかし、それだけでは「ヨハネの黙示録」そのものを説明することはできません。「ヨハネの黙示録」が語りかけている対象は終末の時代に生きるキリスト教徒だけでなく、すべての読者なのだからです。自分が生きている間にイエス様の再臨を実際に経験することになるかどうかは本質的な意味を持っていません。

言葉を超えた出来事

「ヨハネの黙示録」の解釈と理解には困難が伴います。この書には私たち人間が持つ言葉やイメージでは表現できない何かが描かれているからです。ヨハネは言葉とイメージを用いてはいますが、それらはたんなる言葉やイメージ以上の何かを伝えているのです。この点に関してはパウロによる復活の描写(「コリントの信徒への第一の手紙」15章35〜49節)と比較してみてください。

詩や絵画にも同じようなことが当てはまります。詩はたんなる言葉以上のものであり、絵画もたんなる絵以上のものです。たとえ対象が同じ絵であったとしても、それを見る人によって絵に対する理解の仕方は異なります。それでも、ある人はその絵を正しく理解し別の人は間違って理解したとは言えません。

ここで注目すべきなのは、ヨハネが私たちに語っているのが彼自身による想像の産物などではなく、神様が幻の中で彼に啓示なさったことであり、現実世界にもその啓示に対応するものが確かに存在しているということです。ヨハネの幻は、敬虔な想像から出てきたものでも、迫害に苦しむ信仰者たちを慰めたいという願いから生じてきたものでもなく、実際に起こった(あるいはこれから起きる)出来事から出てきたものなのです。残念なことに、ヨハネも私たち人間の不完全な言語もヨハネが見たものを正確に描写することができません。あまりにも壮大なその幻をどのような言葉によっても隅々まで網羅的に描写することができないからです。

ヨハネとは誰だったのか?

西暦1世紀に遡る初期キリスト教の伝承によれば、使徒ヨハネが「ヨハネによる福音書」と「ヨハネの黙示録」の両方を書いたとされています。しかしほどなくして、この二つの書物は本当に同一人物によって書かれたものなのか、と疑う人々が現れ始めました。「ヨハネによる福音書」は「愛の使徒」とも呼ばれるヨハネの著作であるのに対し、「ヨハネの黙示録」は裁きの宣告と終末の恐怖に満ちています。言語的に見て「ヨハネによる福音書」の原文のギリシア語は優れていますが「ヨハネの黙示録」は劣っています。「ヨハネによる福音書」には旧約聖書からの引用がほとんどありませんが、「ヨハネの黙示録」には「イザヤ書」、「エゼキエル書」、「ダニエル書」そして「詩篇」への言及がたくさん含まれています。

両書について、同一著者によって書かれたとみなす研究者もいれば、異なる著者によるものだと主張する研究者もおり、また「著者をめぐる問題」は未解決だと考える研究者もいます。

私自身(パシ・フヤネン)は「ヨハネの黙示録」の著者に関する非常に初期の教会伝承を否定する必要はないと考えています。ヨハネは福音書の執筆には筆写者の助けを借りたが「ヨハネの黙示録」のほうは単独で執筆したと考えれば、両者の言語的な相違は説明できます。また、両書の書物としての特徴が互いに大きく異なっていることも両者の間の相違点についての(たとえ部分的にではあれ)説明を与えます。

この初期の教会伝承によれば、ヨハネはローマ帝国のドミティアヌス帝の治世中に「ヨハネの黙示録」を記したとされます。ドミティアヌス帝は西暦81年から96年までローマ帝国を統治し、自分に対して「神」に対するような崇拝を臣民に厳しく要求した最初の皇帝でした。皇帝のこのような要求は皇帝を「神」と認めることを断固拒否したキリスト教徒たちへの迫害につながりました。ヨハネ自身もパトモス島に流刑となり、そこで「ヨハネの黙示録」に描かれる幻を見ることになります。

すでにローマ帝国のネロ帝の治世下でもキリスト教徒への迫害は起きていました。皇帝自身が首都を焼き払ったという噂が広まり始めると、ネロ帝は首都ローマの大火事の原因をキリスト教徒たちになすりつけました。自分自身に向けられた疑惑を封じるためにキリスト教徒を迫害の対象にしたのです。ただし、この時の迫害はおそらく地域的なものにとどまり、首都ローマから帝国の他の地域に広がることはありませんでした。したがって、ドミティアヌス帝の迫害がキリスト教徒たちの直面した最初の国家的な迫害となりました。

「ヨハネの黙示録」は迫害と苦難の只中に生きていたキリスト信仰者たちに微かな希望の光をもたらしました。どのようなことが起きようとも、最終的な勝利者は神様なのです。この世の権力者はキリスト信仰者から多くを、命さえも奪い去っていくことができます。しかし、最も大切で最も貴重な「永遠の命」を奪うことはできません。それは彼らの手の決して届かないところにあるからです。

深遠なイメージ

「ヨハネの黙示録」には「7」という数字が頻繁に登場します(計58回)。以下にそれらのうちの異なる表現をまとめてみました。括弧内はその表現が出てくる箇所の一例です。

  • 七つの教会 1:4
  • 七つの霊 1:4
  • 七つの金の燭台 1:12
  • 七つの星 1:16
  • 神の七つの霊 3:1
  • 七つのともし火 4:5
  • 七つの封印 5:1
  • 七つの角と七つの目 5:6
  • 七人の御使 8:2
  • 七つのラッパ 8:2
  • 七つの雷 10:3
  • 七つの頭を持つ竜と七つの冠 12:3
  • 七つの災害 15:1
  • 七つの金の鉢 15:7
  • 神の激しい怒りの七つの鉢 16:1
  • 七つの山 17:9
  • 七人の王 17:9

ヨハネは世界の滅亡を三つの出来事によって描写しており、それぞれの出来事の間には天国の素晴らしさと救われた者たちの受ける嗣業が織り交ぜられていきます。滅亡の描写は七つの封印(6章1節〜8章1節)の描写によって始められ、次に七つのラッパ(8章6節〜11章19節)の描写が続き、最後に七つの怒りの鉢(16章1節〜18章24節)が描写されます。

はたしてヨハネは三つの連続して起きた出来事を描写しているのか、それとも同じ出来事を三度繰り返して描写しているのかについて研究者たちは議論を重ねてきました。

かつてスウェーデン福音ルーテル教会の教区長を務めたBo Giertzはこれら繰り返しの破滅の描写について適切な説明を与えていると私(パシ)は考えています。彼の説明によると、世界史はすでに旧約聖書の時代においてそうであったように終末の時代においても同じことを繰り返すことになるとされます。神様はイスラエルをエジプトから救い出したのと同じようにして後の時代ではバビロニアからも救い出してくださいました。ヨハネは終末の出来事についての幻を描写する際に、ある種の出来事が繰り返される度ごとに深刻さと危険度がいっそう増大していくのを目撃します。そして現実の歴史でもまさにこのようなことが起こるのです。破滅の種はすでに存在しており、芽吹くのに都合の良い時がやって来るのを待ち受けているだけなのです。

ヨハネによる終末預言について考えるとき、最初の聖霊降臨の出来事(ペンテコステ)以降の時代のすべてのキリスト信仰者は実は「終末の時代」を生きてきたことを忘れるべきではありません。「ルカによる福音書」そして聖書全体も世界史と救済史を次の三つの時期に区分しています。

  1. 約束の時: イエス様がこの地上に来られる以前の時代
  2. 成就の時: イエス様がこの地上で生きておられた時代
  3. 終末の時、聖霊様の時、教会の時: 最初の聖霊降臨の出来事(ペンテコステ)の時からイエス様のこの世への再臨までの時代

現代の私たちも「終わりの時」の只中に生きているのです!
ヨハネは今からはるかに遠い時代や物事についてのみ預言しているのではなく、私たちの眼前にある何らかの事象についても預言しています。

ヨハネの三つの一連の幻は、あたかもカメラが被写体に焦点を合わせてズームインしどんどんその細部に正確に迫っていくのと同じようなやりかたで描写されていると考えることもできるでしょう。最初の幻は全体像を映し出し状況を俯瞰しますが、細部はまだ不明瞭なままです。次の幻はより詳細になりますが、すべての細部が詳述されるのはようやく三番目の幻においてです。

すべてが実際に起きた後でなければ、私たちの歴史における出来事を「ヨハネの黙示録」のどこかの箇所に正確に対応させて当てはめることは残念ながら不可能です。あらゆる預言や兆候があらかじめすでに与えられてきたにもかかわらず世の終わりは突然訪れるものである、というようにイエス様が言われたのはおそらく次のことと関係があるでしょう。「ヨハネの黙示録」はそれがすでに「歴史」となった後でのみ最終的に私たちに開示される書物であり、その時が来て初めて私たちは物事を正しい光の下で見ることができ、パズルのピースを正しい位置にはめ込むことができるのです。

勧告し警告する存在

「ヨハネの黙示録」は最初の読者たちにとっては励ましの言葉でしたが、キリスト教徒の迫害者たちには次のような深刻な警告を与えるものでした。すなわち、この時代における強者、勝利者が必ずしも最終的な勝利者となるわけではなく、むしろ逆に、この時代において勝利することは勝利した者の魂が永遠に失われる結果を生むかもしれないということです。イエス様は次のように言っておられます。

「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」
(「マタイによる福音書」16章26節、口語訳)。

常に人間は、神を支配したい、神のようになりたい、という願望を持ち続けてきました。そして、この願望は最初の人間たち以降ずっと続いてきた人類の罪の堕落へとつながり、そこからローマ帝国での皇帝崇拝も生じてきたのです。そして、この願望からは今日まで存続している他の多くの罪の堕落の形態も生まれています。例えば、自らを救いたいと願っている人々は現代にも大勢います。「行いによる救い」を求める人々をわざわざ遠い異教(非キリスト教)の地まで探しに出かける必要はありません。国民の多くがキリスト教会に属しているはずのフィンランドにもそのような人々がいるからです。「ヨハネの黙示録」は神様の全能性について語っています。神様は御自分と並び立とうとする者を誰ひとり承認なさいません。時には王やその他の権力者がこの地球での物事を決定しているように見えることもありますが、実際には、聖書に啓示されている神様こそがこの世界を統べる権能を全て掌握しておられるのです。

核戦争や環境破壊の忍び寄る影に怯えて生きている現代の人々へのメッセージもヨハネにはあります。それは決しておぞましく恐ろしいものではなく慰めを与えてくれるメッセージです。この地球の時がいつ満ちるのか(終わるのか)を決めるのは神様以外の他の誰でもないということです!

いのちの書

「このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」
(「ヨハネの黙示録」20章15節、口語訳)

「いのちの書」に名が記されている者だけが天国に入ることができます。それでは、自分が天国に入れるのか、それとも入れないのか、私はどこから知ることができるのでしょうか。聖書の中で最も簡潔な救いの教理は「ローマの信徒への手紙」10章13節にある「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」という聖句であると言われることがあります。イエス様は私たち罪深い全人類のすべての罪のもたらす罰を身代わりに引き受けて十字架上で死にました。それによって私たちを罪と死と悪魔のくびきの下から贖い出してくださったのです。イエス様のこの贖いの御業は自分のためにもなされたのだと確信しイエス様の御国に入りたいと願う者は天国に入ることができます。それに対して、イエス様にではなく自分の行いに頼ろうとする者は天国に入ることができず、その外側に置き去られます。

イエス様のみに頼ることで罪人が救われるという「道」は安直すぎるのではないかと思う人もいるかもしれませんが、実際に試したことがある人なら誰でもこの「道」がどれほど難しいかわかっているはずです。自分の行いに基づく義と行いによる救いの教理は私たちの内面に非常な執拗さで根強く残っているからです!

千年王国

「ヨハネの黙示録」の解釈には「千年王国」の存在にかかわる問題も付随しています。この論点においてルター派の信仰告白は聖書と矛盾しているという批判がしばしば聞かれます。しかし、ルター派の主要な信条である「アウクスブルク信仰告白」がイエス様の再臨以前に到来するとされるあらゆる類の「千年王国」をはっきり否定していることは注目に値します。この世が千年間の平和な時代を迎えることはなく、むしろ「ヨハネの黙示録」で語られていること、すなわち、万事が常に悪化の一途を辿っていくことになるのです!

たとえ千年王国の到来がイエス様の再臨の後に起こるように変更された解釈を採用しても、この問題のすべてが解決されることにはなりません。聖書には「この世」と「永遠」という二つの時代についてのみ語っている箇所が多いからです。とはいえ、私たちは天国についてあまり多くを知らないことを忘れてはなりません。むしろ、天国には何がないのか(例えば天国ではもはや泣かなくてすむことなど)ということしか知らないと言えます。

終末をめぐる他の多くの問いと同じように、この点においても私たちは想像力を過度に飛躍させるのを避けるべきだし、私たちが知っていることは何であり、また神様のみが御存じの秘密の事柄は何であるかについて心に留めておく必要があります。

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」
(「申命記」29章28節(口語訳では29節)、口語訳)。

「ヨハネの黙示録」は神様の壮大さと人間の矮小さについて語っています。神様を信じているかどうかにはかかわりなく、すべての人間ひとりひとりの命も含めて、全世界は「より高次の力の御手の中」にあるのです。

最も重要なこととは?

「ヨハネの黙示録」を読むとき、この書がなぜ書かれたのか、その目的を思い出すべきです。それは迫害の只中に生きるキリスト教徒たちを励ますためでした。キリスト信仰者は信仰をもって生きていこうとするがゆえにこの世では迫害など種々の困難に直面することになります。それらに負けないで天国への道を歩み続けられるように、ヨハネは彼らを励ましたかったのです。

今の時代に「ヨハネの黙示録」を読んでいる私たちも、この書物の細部の描写にとらわれることなく、「私たちの歩みは天国へ向かっているのか、それとも滅びへ向かっているのか」と自問していくべきでしょう。ヨハネは不信仰者たちの迎える結末を暗鬱な色調で描写していますが、こうした暗澹たる描写の合間には天国の素晴らしさや救われた者たちの「さいわい」も活写されていることを忘れるべきではありません。

神様はすべての人を救いと永遠の命へと招いておられます。しかし、自ら滅びへ向かおうとする人々も残念ながら存在します。その滅びとは「悪魔とその使たちのために用意されている永遠の火」です(「マタイによる福音書」25章41節)。

おわり