コリントの信徒への第一の手紙15章 復活、私たちの信仰の礎

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

11~14章において、パウロは教会の礼拝とその問題を扱いました。この後で、彼はコリントで懸案となっていた質問を取り上げます。それは「復活」についての問題です。

復活に関する最古の信仰告白 15章1~11節

パウロはまず、1~3a節で、これがどれほど重大な問題か、はっきり示しています。復活は福音の核心にかかわることがらなのです。この福音をパウロは自分で捏造したわけではありません。彼はそれを他の人々から伝承として受け取り、そして、その同じ伝承をコリントの教会に伝えました。ですから、コリントの信徒たちもその伝承を変更することなく、しっかり守っていくべきなのです。

3~7節で、パウロはとても古い信仰告白を引用しています。その核心にあるのが、「書かれてあるとおりに」、すなわち、旧約聖書が予言したとおりに、キリストは私たちの罪のために死んでくださった、ということです。書かれてあるとおりに、この方は墓に葬られましたが、三日目に死人のうちよりよみがえられました。

この後でパウロは、死なれた後でイエス様が誰に対して御自分をあらわされたか、について語っています。イエス様の復活の証言者たちを記したこのリストは、現在知られている最古のものであり、福音書の記述よりもさらに何十年も前に遡るものと推定されています。もっとも、ここでパウロがカリスマ的な経験やそれらに付随する「しるし」について語っているとは思えません。この証言者のリストは明確に限定されています。むしろパウロは、「しるし」はもはやあらわれなくなった、と考えています。彼自身は「月足らずで生まれた者として」証言者のリストに入ることができたのでした。

証言者のリストは(全証言者をもれなく含む)完全なものではありません。少なくともリストからは、福音書が記している女たちのことが欠けています。これは、当時の時代背景を考えるときに合点がゆくことではあります。ここでは「使徒たちの証言のもつ権威」に依拠しようとしたわけです。それに対し私たちにとっては、福音書の記している女たちによる証言も重要です。

イエス様が、ヤコブのことや、とりわけ同時に五百人の弟子たちにあらわれたことについて、もっと知りたいと私たちは願います。しかし残念ながら、私たちが知っているのは「このようなことが起こった」ということだけです。

古くからあるこの信仰告白の短く的を得た文章は、キリストの地上でのみわざが成就したことを語っています。キリストは苦しまれ、死なれ、墓に葬られました。そして、死者の中から復活なさいました。キリストの復活は、「こうだったらよいな」というような儚い希望などではありません。使徒たちは復活された主を目の当たりにしました。教会の信仰もまた、淡い望みなどではなく、堅い基底の上に据えられています。「キリストは活きておられる」という使徒たちの堅固な証言が、私たちにはあるからです。

コリントの自由思想家たち 15章12節

パウロが「キリストの復活」というテーマを取り上げたのは、コリントの教会がこのことに関しても問題を抱えていたからです。教会には人間が復活することを否定する人々がいました。しかし、これは別に不思議なことではありません。キリスト教において「身体の復活」は、いつの時代にも人々が躓いてきた信条だからです。現代人のうちのいったいどれほど多くの人が、使徒のように「身体の復活」を信じていることでしょうか。

古典時代におけるギリシア・ローマの世界では、「人間の身体は物質であり悪にすぎないが、人間の魂は栄光と善の火花である」という見方が支配的でした。身体は、魂が善を考え実行する可能性(たとえば信心深い生活を送ること)を制限してばかりいる、というのです。このように考える人間にとって、「人間は一個の全体であり、完全に神様のお造りになった存在である」という旧約聖書に基づく伝統的な考え方は、受け入れがたいものでした。聖書によれば、人間の中にはまったく腐敗していない特定な部分などはありません。実に人間は、罪がその隅々にまで染み付いた存在なのです。

コリントの思想家たちは、「身体の復活」を認めようとはしませんでした。それは彼らにとってひどく不快で無教養で異質な考え方、それから遠ざかるべき抽象的な考え方、またわざと誤解してやりすごすべき考え方だったからです。彼らがどのような信仰をもっていたか、私たちは知りません。彼らは、おそらく何らかの形での「魂の不死」を信じていたのでしょうが、「身体の復活」のことは断じて信じようとはしなかったのです。

復活という事実 15章13~28節

パウロはまず一見瑣末な細部を大きな外枠に結び付けます。ひとりの人間の復活の背景には、すべての人間の復活があります。すべての人間の復活の根底にあるのは、キリストの復活です。そして、キリストの復活の根本にあるのは、神様はキリストの贖いのみわざを認めてくださった、ということです。この連鎖の中では各部分が重要であり、そのどの部分も完全な真理です。ですから、私たちの復活はまったく確実です。

人は皆、死にます。なぜなら、アダムが人類の上に死を引き寄せてしまったからです。人は皆、死者の中からよみがえります。なぜなら、イエス様が世に命を与えてくださるからです。このことは、神様の御子イエス様が受けていた権威すべてを神様に返して、神様の権威に従うことになる「終わりの日」に、最終的に明らかになります。

パウロが話している内容は、彼自身にとってきわめて大切なものです。それゆえ、私たちはパウロの言葉を心して深く学ばなければなりません。神様は、キリストの贖いのみわざを認めたため、キリストを死者の中から復活させたのです。キリストが死者の中から復活したおかげで、人は皆、死者の中から復活するのです。人が皆、復活するので、クリスチャンは各々、自分が死者の中から復活すると確信できます。この連鎖の中のどれかひとつでも否定する者は、連鎖全体を否定することになります。人は皆復活することを信じない者は、キリストの贖いのみわざも、神様がキリストを遣わされたことをも否定することになります。

このようにパウロによれば、復活がなければ、キリスト教は決して存立しえないのです。もしも復活を忘れたり否定したりする場合には、すべてを否定することになるからです。

復活がなければ、すべては徒労 15章29~34節

29節については、少なくとも30通りの解釈が提示されていますが、大部分の説明はよくないものです。コリントの信徒たちは、ここで何が問題になっているか、知っていました。「復活した後で、クリスチャンの家族や親戚と一緒になるために、クリスチャンになる人たちがでてきた」、というのはありえる見方です。しかし、より真実に近いと思われる解釈は、「コリントの教会には、すでに死んだ家族や親戚のことも救い出すために、洗礼を受ける人たちがいた」、というものです。パウロはこのことに関しては、認めもせずまた斥けてもいません。彼は、こうしたケースを提示することで、復活の意味を強調しているのです。もしも復活がないのならば、そのような洗礼は無意味です。そして、使徒たち全員の労苦も、彼らが自らを危険にさらしたことも、無駄だったということになります。このように復活は、それとともに教会が立つか倒れるか、というほどに大切な信条なのです。

人間の死後の状態 15章35~49節

パウロはまた、死者がどのように復活して、どのような身体で生きることになるか、語っています。彼はたとえを用いていますが、たとえで覆われたカーテンの後ろには、まだ多くのことがらが隠されたままなのです。

とはいえ、それについて何かしら語ることはできるでしょう。この世での人生の間に、私たちは「はじめの人間、アダム」と同じような存在です。しかし、来るべき命のときには、私たちはもうひとりの「はじめの人間、イエス様」のようになるのです。私たちの変化は、滅びるはずの者が不滅を身にまとい、死すべき者が不死に包まれることによって起こります。ここで、「身体のよみがえり」がそのポイントです。もしも私たちの中から何かがよみがえるのだとしたら、人間全体が栄光を受けた存在としてよみがえることになるのです。種が畑に蒔かれて、そこから植物が生えてくるのと同じように、死者の中からよみがえらされた人間と、この世で生きていた頃の人間との間には、どこかしら深い共通点と相違点があります。このことについてパウロは、多様なたとえを用いて説明しています(ほの暗く光る星と光り輝く星、あるいは、魚の肉と鳥の肉、というように)。

(復活した)私たちがどのような存在になるのか、正確にはわかりません。この点でも、私たちの好奇心は満たされないままです。しかし、その時を待ちつづける忍耐があるならば、いつかそれを見ることができます。大切なのは、キリストは死者の中から復活して、死の力を私たちのためにも打ち砕いてくださった、ということです。

全員死ぬのでしょうか? 15章50~58節

この章のおわりは、復活と最後の裁きとがパウロの考えの中で互いに緊密に結びついていたことを明瞭に示しています。キリストが再臨されるときに、あるクリスチャンたちはまだ生きています。それはしかし、彼らがそのまま神様の御国の中に歩みながら入っていくという意味ではありません。「滅び行くもの」が「不滅のもの」を受け継ぐことはできないからです。ここでのポイントは、キリストの再臨までにクリスチャン全員が死の眠りに就くわけではない、ということです。しかし、キリストの再臨の際には、クリスチャン全員の上に変化が起こります。その時にまだ生きているクリスチャンたちには、その変化は突然起こるのです。このようにして「滅び行くもの」は「不滅のもの」を身にまといます。

ここでもまた、死や復活においてと同じことが実現します。すなわち、「死は呑み込まれ、勝利が得られた」のです(55節)。この来るべきキリストの再臨の光景をしっかりと見据えて、コリントの信徒たちはクリスチャンとして自らを鍛錬し続けていかなければならないのです。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)