コリントの信徒への第一の手紙16章 これからの計画

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

エルサレムの貧しい人々のための献金 16章1~4節

エルサレムの使徒会議でなされた唯一の決定事項は、「貧しい人々のことを覚える」ということでした(「ガラテアの信徒への手紙」2章10節)。もちろんパウロは、「自分にもそれを実行する義務がある」、と言っています。これはいわゆるふつうの「貧民援助」ではありませんでした。それには深い神学的な根拠があったのです。福音はユダヤ人の中からはじまりました。異邦人クリスチャンは、自分たちがこのことを自覚しているということを、「愛の贈り物」を通してエルサレムの教会に対して示さなければならないのです。

パウロは約束を実行する意志を固め、自分のためではなくエルサレムの聖徒たちのために、献金を熱心に集めます(コリントの信徒への第二の手紙8章1~7節や「ローマの信徒への手紙」15章25~29節も参照してください)。1~4節でパウロは、献金を集める際の詳細な指示をコリントの信徒たちに与えています。彼はこの献金活動を非常に重要視していたので、「コリントの信徒たちの献金活動がうまくいかずに落胆する」、といった構図は彼にとっては思いもよらないことでした。

現地訪問 16章5~12節

使徒パウロはエフェソからこの手紙を書いています。彼はそこから船でコリントへと手際よく渡ることができました。パウロは使徒の教会視察としての旅をつづける予定でした。あきらかに彼は、同じ旅行の行程で、マケドニアの諸教会、テサロニケ、フィリピ、べレアの信徒たちと連絡を取り使徒としての義務を果たすことをめざしていました。また、パウロはコリントにしばらく滞在する予定でした。しかし、「コリントの信徒への第二の手紙」からわかるように、この計画は実現しませんでした。パウロはコリントを訪れはしましたが、早急にその地を離れるべきであるとの判断を余儀なくされたのです(このことについては、このガイドブックの「はじめに」の部分を参照してください)。パウロがコリントの信徒たちから派遣されて宣教の旅を継続する、などということは夢想すらできないひどい状況だったわけです。

エフェソにパウロはペンテコステの時期まで滞在する予定でした。ユダヤ人たちはペンテコステを「レビ記」23章15~22節の規定に従ってお祝いしました。このお祝いはイースターの50日後に行われました。ここでパウロがユダヤ教のペンテコステについて話しているのか、それとも、キリスト教のペンテコステ(聖霊降臨)について話しているのか、はっきりしません。エフェソでは、ある人たちは福音を信じ、またある人たちは福音を憎むようになりました。

エフェソでパウロの身の上に何が起こったのか、その詳細を私たちは知りません(15章32節を参照してください)。「使徒言行録」には「大騒乱があった」と記されています(19章)。熱心に福音の側に立つ者もいれば、本気で福音に反対する者もいました。パウロにとってこれは他のところでも経験済みの状況でした。

テモテがコリントに来ようとしていたのは、まず間違いありません。それに対して、アポロは事態の沈静化を待っていました。1~4章からわかるように、多くのコリントの信徒たちはアポロをパウロの競争相手とみなしていました。今パウロは、少なくとも彼とアポロという二人の説教者の間には仲違いがないことを示そうとしています。アポロは確かに使徒パウロとは独自の行動をとっていて、彼の熱心な忠告にも耳を貸そうとはしません。にもかかわらず、アポロは「兄弟アポロ」であって、パウロはアポロがコリントにいることに対して何の反対もしません。むしろ逆です。私が想像するに、コリントの教会は、今やあまりにも手がつけられない状態になってしまい、アポロにしても、このような「蜂の巣」に鼻を突っ込むような真似は避けたかったのでしょう。

勧めと挨拶 16章13~24節

パウロは手紙を終えるにあたり、さらにいくつか勧めの言葉を与えています。「目を覚ましていなさい」というのは、「主の再臨を待ち望みなさい」という意味です。キリストの再臨の日は、パウロの心から決して離れることがなかったように見えます。パウロは、目を覚まし主の再臨を待つということを、コリントの教会の争いにも、また復活に関する論争にも、緊密に関係付けています。

ステファナ、アカイコ、フォルトナトは、パウロと共にエフェソに滞在したことがあります。今回彼らはパウロの手紙をコリントへと届けてくれました。手紙は、「ステファナのように教会のために大いに労苦している人たちをできるかぎり支えて、彼らの仕事への感謝の証を示すように」、と勧めています。

終わりの挨拶の中では、22節の「マラナタ」(「私たちの主よ、来てください!」という意味のアラム語です)という短い言葉に注目するべきでしょう。これは初期の教会の聖餐礼拝で響き渡った初代クリスチャンたちの祈りの叫びなのです。このように、真のクリスチャンは主の再臨を待ちつづけるのです。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)