コリントの信徒への第一の手紙」12章 一つの身体の一員として

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

コリントの教会の大きな祝福と問題の元となっていたのは、教会に与えられていた豊かな恵みの賜物でした。一方では、コリントの教会の霊的な恍惚のなかで聖霊様が力強く働いてくださっていました。他方では、教会員たちはこれらの賜物を用いることによって、またもや分派を生みだしていました。
12章でパウロは、コリントの信徒たちを正しい道に引き戻すために指導しています。11~14章は全体として、教会の礼拝について語っている、という点をここでもふまえておくべきです。

霊を見分ける基準 12章1~3節

霊に導かれているように見える者が皆、正しい道を歩んでいるわけではない、ということをパウロは非常によく知っていました。古典時代の異教でも宗教的な恍惚はつきものでした。コリントの信徒たちには暗い過去がありました。彼らは以前、異教の神々を崇拝していたのです。何も語らない絵の前にひざまずく者もいれば、恍惚状態でしゃべりまくる者もいました。「しっかり見極めなければならない」、とパウロは言います。悪霊と神様の御霊とを互いに識別しなければならないのです。神様の御霊は、「イエス様は主です」という教会の信仰告白に「アーメン」と言います。それに対して、悪霊は教会のこの信仰を受け入れません。逆に、イエス様を呪いさえします。これは、神様の御霊が決してなさらないことです。

多様な御霊の賜物 12章4~11節

「恵みの賜物」は多様であり、様々な人に与えられるものです。それにもかかわらず、それらすべての背後には、神様の聖霊様がおられます。この方は、ある人には信仰を、またある人には癒しの賜物を、またある人には預言する賜物を、またある人には異言の賜物を分け与えてくださいます。御霊の賜物のなかには、奉仕の職も含まれています。すべての賜物は教会の益となります。

この箇所は、「たとえ賜物は多種多様でも、それらはすべて神様から発しており、教会の最善を考えて与えられている」、ということをコリントの信徒たちが見て理解するために書かれています。賜物のうちのどれも拒むべきではないし、それらを互いに争わせるべきでもありません。

パウロは説明を加えずに多くの「恵みの賜物」をリストアップしています。コリントの信徒たちには周知のことだからです。しかし、現代の私たちはよく知らないわけですから、この賜物のリストをざっと概観する必要があるでしょう。

8節における「知識」とは、明らかにコリントの信徒たちが重視した知恵と知識のことをさしています(1章1~4節を参照してください)。
「信仰」が恵みの賜物のリストのなかに入っているのは理由があります。信仰もまた、人間の懸命な努力によって生み出されるものではなく、神様の賜物だからです。
「癒しの賜物」については説明を要しないでしょう。
「力あるわざ」とは、一般的に奇跡のことを指しています。
「預言」とは、人が神様から他の人々に伝えるためのメッセージを受け取ることです。この賜物はもうひとつの「教える賜物」とは区別しなければなりません。預言はカリスマ的な性格のものだからです。
「霊を見分ける恵みの賜物」とは、いつ悪霊が話しており、いつ聖霊様が話しているか、を区別できる能力のことであるのは明らかです。
「異言を話す賜物」は、人間が話す言葉ではないような特別な言葉によって、クリスチャンが神様に祈り、神様を賛美することを意味しています。このような異言は他の人々皆にとっても、話している当人にとってさえも理解不可能なものです。それを理解できるのは、「異言を解き明かす恵みの賜物」が与えられている人だけです。このような人は、異言を話す人と他の人々との間の通訳者として働くことができます。

4~6節は、御父、御子、御霊としての神様の深遠性を探っています。注目するべき内容です。これらの節を読む人は、すべてが同じパターンで構成されていることに気づくことでしょう。「御霊、主(イエス様のこと)、神様」が恵みの賜物の背後におられます。新約聖書で「聖なる三位一体性」について直接教えている箇所は、それほど多くありません。いくつかの箇所、たとえば洗礼命令(「マタイによる福音書」28章18~20節)には聖三位一体性が明瞭に示されています。にもかかわらず、多くのことがらは「神様の奥義」として手付かずのまま残されています。ともあれ、エホバの証人たちが言っていることとは異なり、聖三位一体性は完全な真理です。それを否定する三位一体反対論者になる者は、クリスチャンではありません。

「キリストのもの」であるための基準 12章12~13節

今パウロは、「キリストのもの」である人々が主の身体をどのように構成しているかについて、実に驚くべきやり方で語り始めます。この教えは多くの聖書の箇所に出てきます(たとえば、「ローマの信徒への手紙」12章、「エフェソの信徒への手紙」5章など)。ここでいう「身体」とは、死体ではなく、生き生きと活動している体のことです。クリスチャンひとりひとりがこの身体の構成員です。クリスチャン全員が一丸となって行動するとき、この生きて活動しているもの(キリストの身体なる教会)は、この世の中で自分の使命を果たします。

キリストに属するための基準は、人間の能力や優秀さではなく、あるいはその人に与えられている賜物でもありません。「キリストのもの」となり、この方の身体の構成員となるのは、聖なる洗礼においてです。洗礼において、聖霊様は人間を、その人の民族的あるいは社会的な立場を一切無視して、キリストへと結びつけ、キリストの構成員としてくださいます。

ここにクリスチャン同士の平等性の基盤があります。しかしこの平等性は、皆に同じ賜物と同じ使命が与えられている、という意味ではありません。御霊が各人にそれぞれ違った賜物と使命を与えてくださっているのは確かです。しかし、人は洗礼を通してキリストに結び付けられ「キリストのもの」となっている、という点では皆平等なのです。それゆえ、教会では誰も他の人よりも自分が「劣っている」と感じる必要はないし、それとは逆に、「優れている」と思い上がってもいけないのです。

キリストの身体の働き方 12章14~31節

キリストの中へと洗礼を受けている人は皆、キリストの身体の構成員であり、一人一人にそれぞれ使命があります。今パウロは、人の身体も同一の部分のみから構成されているわけではない、ということを指摘します。「手もあれば足もある。耳もあれば鼻もある。それらにはすべて独自の役割があります。もしも人が足ばかりだったら、生きるのは難しいことでしょう。それゆえ、神様は人にちょうどよい数の身体の諸部分を与え、行うべきことをすべてちゃんと行えるようにしてくださったのです」、と。これと同じことが教会にも言えます。教会員にはそれぞれ役割があります。

私たちが皆互いに異なっているのは、大いなる豊かさの証拠です。もしも私たちが皆同じようだったとしたら、私たちは何か大切なことをしないまま、あるいは見ないままになってしまったことでしょう。人の身体では手が足に対して反抗してはならないのと同じように、キリストの教会でもクリスチャン同士が争い合ってはならないのです。素晴らしい役割を果たしている人に対して、他の誰も劣等感を抱く必要はありません。それと同様に、誰も他のクリスチャンを見下してはなりません。たとえ人間的にはそうするのがどれほど当然に思える場合であっても、それはいけないことです。神様の御前では、私たちは皆同一線上に並んでいる、神様の愛する子供なのです。

むしろ私たちはお互いの成功を共に喜び、不幸を共に悲しむ姿勢を学ぶべきです。まさにこのような姿勢で、私たちは自分自身の体に対しても接しているわけですから。目にゴミが入ると、足が人間を鏡の前に連れて行き、目からゴミを取り除くために手があらゆる手段を講じます。教会でもこのように活動できるよう、努めるべきです。

神様が教会に、ある者たちを使徒として、またある者たちを預言者として、また他の者たちを教師として任命してくださったことは、神様の賜物にほかなりません。

さらに神様は、教会の職制の他にも様々な恵みの賜物を豊かに与えてくださいました。これらの賜物を一人で全部もっているクリスチャンは誰もいないし、またその必要もありません。皆が使徒である必要はないし、皆が異言を話す者であったり、預言者であったりする必要もありません。私たちの救いの基礎は、恵みの賜物ではなく、キリストのみであり、その十字架のみなのです。

この最後に述べたことは徹底して強調されなければなりません。私たちの時代には、霊の力と特別な恵みの賜物に人々は不思議がり驚いています。このこと自体はよいのですが、そこにはしばしば、不健康な現象が付随しています。なによりもまず問題なのは、特別な恵みの賜物をもっていないクリスチャンは、それをもっているクリスチャンに対して、劣等感をいだくようになることです。また、特別な恵みの賜物をもっているクリスチャンは、神様の御霊の力を他のクリスチャンたちよりもよく知っているという理由から、知らず知らずのうちに彼らを見下すようになるでしょう。ここで第一に強調するべきことは、救われるためにクリスチャンはどのような特別な恵みの賜物も必要としない、ということです。キリストとその恵みで十分なのです。私たちがキリストの教会に属しているのは、自分自身の優秀さのゆえではなく、私たちが受けた洗礼のゆえです。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)