コリントの信徒への第一の手紙3章 諍いの示していること

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

パウロは1章のおわりと2章で、「キリストの福音は人間の教えではなく神様の教えである」、ということを語りました。今から扱う箇所は、他から独立した部分ではなく、コリントの教会の内部の争いに対するパウロの返答でした。

今もパウロは返答を続け、それから再びコリントの状況に立ち戻って行きます。そこでも彼はコリントの人々の諍いを取り上げます。それと同時にパウロは、ごくふつうの「羊たち」の口元にも干草のかごを置きます。3章のテキストは、それ以前の箇所よりもあきらかに単純なものです。

単純な食材の選択 3章1~4節

コリントに到着したとき、パウロは神様の奥義をすべて一遍に明らかにして見せたりはしませんでした。彼は自分の「子供たち」を優しく世話し、乳を飲ませる「母親」のように振舞います。生まれたばかりの赤ん坊は何でも食べてよいわけではありません。そんなことをすればたいへんなことになります。それゆえパウロも、コリントの信徒たちによく気を配り、基本的なことがらを何度もおさらいし、さっさと先へ進んでもっと深くて難しい問題を取り上げたりはしません。

神様の知恵をまるごと彼らに与えるのは、以前は無理だったし(ここでパウロは瞬く間にコリントの争いに話を戻します)、実は今でも無理なのです。各々が教会での自分の教師たちをかついで派手に言い争っているところを見ると、コリントの信徒たちは信仰の問題についてあまり理解してはいなかったようです。まったくもって彼らには、改めて「ミルク」を飲ませることから、すなわち基本の復習からはじめなければならないのでした。

ところが、彼らは自分自身がすでに「霊的」であるかのように思い込んでいたのです。「霊的な人々」という言葉で、明らかにパウロはコリントの教会にたくさん現れていた「恵みの賜物」のことを指しています。主の御霊の力によって生きていると思い込んでいる人々は、実際は「信仰生活の新入生」に過ぎなかったことが突然ばれてしまいました。本来、彼らには「信仰生活のABC」を手取り足取り教える必要があったのです。

説教者の意味 3章5~9節

コリントの教会では、教会員のうち誰がどの説教者の肩を持つか、言い争っていました。とりわけアポロの力強い説教(「使徒言行録」18章を参照してください)は多くの信徒を魅了したようです。しかしパウロは、「コリントの信徒たちが人物に応じてさまざまなグループに分かれてしまうようではいけません」、と言います。使徒一同は神様のみわざに携わっている同僚であり、(福音を蒔き育てる)「畑」は「神様のもの」であり、コリントの信徒たちは「神様の建物」であることをパウロは強調します(9節)。畑も働く人も「神様のもの」なのですから、人物に応じてさまざまな派閥に分かれるのはまったく意味がないのです。

パウロはコリントの教会を設立しました。つまり、植えたわけです。アポロは教会の世話をしました。つまり芽に水を上げたのです。しかし、すべての背後には神様がおられ、成長させてくださったのでした。アポロもパウロも自分の仕事に応じて神様から「報酬」を得ます。つまり、「皆がそれぞれ自分の仕事に責任をもてばよい」ということです。御言葉を説教する者たちは皆、神様の同じみわざに携わっています。ところが一方ではパウロは、「神様の御前で彼らは「共同責任」を問われることになる」、とは言ってはいません。

説教者の使命 3章10~17節

パウロはここでも比喩を用いています。教会は「神様の建物」です。コリントに到着した後、パウロは「建築家」になって、建物にしっかりとした土台を置きました。神様のもうひとりの働き人、つまり誰か他の説教者がパウロの置いた礎石の上に建築工事を続けたのでした。しかし建物自体は、「パウロのもの」でも「もう一人の建築家のもの」でもなく、「神様のもの」でした。

パウロはコリントで、「自分が置いた礎石とはちがう礎石の上に誰も教会を建てたりしないように」、と厳しく警告しています。そのパウロの置いた礎石とは、「キリストとその十字架の死」でした。これこそが、揺らぐことのない唯一の基底なのです。この基底の上に、働き人は皆それぞれ、さまざまな建築材料を利用しつつ技量のかぎりを尽くして教会を築いていくことができます。その建物がちゃんとした耐久性をもっているかどうか、最後の裁きの時に火によって試されます。裁きの日に、ある説教者の働きが実は無価値であったことが明るみになる場合もあるかもしれません。言い換えれば、その説教者が労苦して築き上げた建物、たとえばコリントの教会、が裁きの時に燃えて灰となり誰も救われない、などという事態にもなりかねないのです。ただし、神様の働き人がキリストという岩の上に教会を建てた場合には、建て方がどんなに下手であったとしても、彼自身は救われます。とはいえ彼は、あたかも火の中をくぐりぬけるようにして、何ももたずに神様の御国に入っていくことになります。

この箇所は(カトリックの教えでいう)煉獄について語っているわけではありません。またこの箇所は平信徒一般についてではなく、牧者についてのみ語っています。牧者とは、神様の教会について責任をゆだねられている人のことです。しかし、こうしたちょっとびっくりするような(聖書の提供する)イメージをここで確認しておくのは、牧師だけではなく、すべてのクリスチャンにとっても有益です。最後の日に(神様の)裁きは「神様の部屋」、すなわち教会から始まります。その時、建物が持ちこたえるかどうか、明らかになります。パウロの言葉に、コリントの教会の教師たちへの、うっすらとヴェールに包まれた警告を見て取るべきでしょう。

パウロはさらにもうひとつの警告の言葉を発しています。彼がコリントに建てたのは、ありきたりの建物ではなく、そこに主の御霊がお住まいになっている「神様の神殿」でした。「神様の神殿は聖なる不可侵の場所であり、誰もそれを滅ぼし去ることができない」、と旧約聖書は何度も強調しています(「詩篇」125、129、132篇)。もしも今誰かがコリントの教会を訪れて、教会が正しい教えから離れるように仕向けるならば、悪い結果を生み増す。もしも誰かが神様の神殿を破壊するならば、神様はその人を滅ぼします。

この章全体からわかるのは、クリスチャン全員が有している「霊的な牧師としての資格」に加えて、それとは別に「牧師職」というものが存在するということです。牧者(教会の牧師)は教会の責任者であり、彼が教会で行ってきたことについても責任を負っています。

3章18~23節

この箇所でパウロは、それまで述べてきたことをまとめる方向へと少しずつ進み始めます。このまとめを彼は最終的には4章で行います。コリントの教会の信徒間の派閥争いがまったく不要で愚かなことであることを、パウロは強調しています。こうした諍いの背景にあるのは、自分を他の人よりも賢いとみなして尊大に振舞いたいという人間の欲望です。パウロは2章で扱ったテーマに戻ります。福音は人間的な知恵に基づく教えではありません。自分を賢いと思う者は愚かになりなさい。そして、キリストにあって知恵を自分のものとしなさい。人間のせいで神様の教会の中で争いごとを生むべきではありません。

パウロ、アポロ、ケファ(ペテロのこと)は皆、神様が御自分の「畑」の世話をするために与えてくださった働き人なのです。すべてはコリントの信徒たちの最善を考えてなされています。それはちょうど、神様がコリントの信徒たちに用いきれないほど豊かな賜物を分け与えてくださっているのと同じです。神様に甘やかされているからといって、誰も「教会は自分のものだ」などと思い込む誘惑に陥ってはなりません。教会は「キリストのもの」であり、コリントの信徒たちはキリストの御名によって洗礼を受けたのです。さらに教会はキリストを通して「神様のもの」なのです。それゆえ、教会員は主のみに栄光を帰さなければなりません。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)