コリントの信徒への第一の手紙11章 聖餐式の奥義

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

偶像に捧げられた肉を食べることと、それに関連する隣人愛とについて懇切丁寧に説明してきた後で、パウロは今まったく別のテーマに移ります。11章2~16節の箇所は教会の礼拝に関するものです。

被り物の有無 11章2~16節

この箇所でパウロは、コリントの教会で彼が正したいと思っていることを取り上げます。ちょっと読んだだけでは、正確にはいったい何が問題になっているか、皆目見当がつきません。使徒は、礼拝でコリントの女たちが頭を被り物で覆わないことについて、苦言を呈します。この箇所からわかるのは、パウロには、この問題は些細なことではない、ということです。

2節は、古典世界の弁論術に典型的な、聴衆の共感を得ようとする書き出しです。この箇所でパウロは、ふたたびコリントの信徒たちのご機嫌を取っています。それにより、彼がこれから言おうとしていることを彼らがすんなりと受け入れてくれるように、努めているわけです。パウロによれば、礼拝で祈ったり預言したりするときに、男たちは頭を被り物で覆わないこと、また、女たちは頭を被り物で覆うようにすることは、大切なことなのです。祈ることと預言することは、その両方とも、公的な場に登場することや、祈りの奉仕をすることや、御霊の伝えたメッセージを皆に知らせることを意味しています。

パウロはこの被り物の慣習の根拠を「創造の秩序」に見出します。女は男から生じたので、彼女は「権威の下にいる者のしるし」を頭に被らなければならないのです。顔ではなく髪を覆うこの被り物について、私たちは古典時代当時の絵から知っています。それとは逆に、男は公の場所で祈ったり預言をしたりするときには、何の被り物も頭につけてはなりません。男は女から生じたわけではないからです。使徒によれば、長い髪は、男にとっては恥ずべきものだが、女にとっては光栄なものであることを自然も教えています。かりに誰かがこれに反論するとしても、神様の諸教会の慣習はその人自身に対しても規範となっていることを知るべきなのです。

この箇所に関しては、聖書の解釈者も教会の信徒も一様にお手上げという状態です。パウロが描いている教会の慣習の中で実際に生活していた教父テルトゥリアヌスが、私たちの理解を助けてくれます。彼はパウロの言葉を次のように理解しました、「コリントの教会の女たちは常に頭の上に(今話題となっている)「被り物」をつけていた。ところが、預言の霊が彼女たちの中に入って来ると、彼女たちはその被り物を投げ捨てたのだ」、と。

この態度に込められているメッセージはどのようなものでしょうか。それは、預言の霊を受けて話し始めた女は、もはや女として話しているのではなく、教会の教師として説教しようとしている、ということです。これをパウロはよくないこととみなしました。それゆえ、彼は誤解を避けようとしました。パウロの命令のポイントは、教会の女たちが皆同じような服装で礼拝に参加しなければならない、というようなことではありません。パウロは、コリントの教会の女たちが教会の教師になろうとするのを止めさせようとしているのです。彼はこのことを14章で極めて明瞭に禁じています。

この箇所に基づいて、世界各地の教会のなかには、男たちは教会の建物の中に入る時に帽子をはずす、という慣習を千年以上も守りつづけてきたところがあります。同様に、女たちは教会でスカーフや被り物を頭の上につける、という習慣が残っている教会もあります。フィンランドのなかにもこうした慣習を今でも守っているキリスト教のグループがあります。この慣習自体を悪く言う人は誰もいないでしょう。にもかかわらず、この慣習はあきらかに間違った聖書解釈に基づいている、と言わざるをえません。こうした聖書の誤解が生じた理由は、単純です。何百年もの歳月を経て服装にかかわる慣習がすっかり様変わりし、もはやパウロの言わんとすることが正しく理解されなくなってしまった、ということなのです。

聖餐式における問題 11章17~22節

パウロにとってより大きな問題だったのは、コリントの信徒たちの聖餐式の行い方にはいろいろと改善するべき点がある、ということでした。このことについて彼は、コリントの教会を実際に訪れた人から聞いていました。

今使徒は、教会を内部抗争のゆえに叱責するつもりはありません。それに関しては、すでに1~4章で厳しく戒めたからです。ここでの彼は優しく、「教会がさまざまなグループに分かれるのは至極当然である」、とさえ言っています。しかしこれらの言葉にもかかわらず、パウロの意見ははっきり読み取れます。すなわち、自分のグループの殻に閉じこもる教会員たちの内輪的な態度がコリントの教会に問題を引き起こした、ということです。

当時、主の聖餐式を行うときに、それと共に会食をする慣習がありました。それは多くの人にとってその日の唯一のまともな食事だったのです。その食事会のなかで、パンとぶどう酒という本来の聖餐も食されました。空腹を満たすための食事は各自の「もちより」でまかなわれるはずでした。おそらく、まずパンを食し、それから食事を取り、その後でぶどう酒の入った杯が祝福されました。

ところが、教会員たちの閉鎖的なグループ根性がここで露呈してしまいました。裕福な教会員たちが、長時間働いてから食事会に参加する貧しい人たちのことをわざわざ待ってあげたりしなかったのは、あきらかです。ともかくも、彼らには自分で用意してきたお弁当を自分のグループ以外の人たちにも配るような配慮はありませんでした。こうして、ある人たちには食べ物がありあまるほどあったのに、他の人たちには食べるものが何もない、という状況が生じました。聖餐式を行うときに、信徒間の経済的な格差に基づく不平等と、自分のグループに閉じこもる内輪性が、もろに表面化する結果となりました。それは教会員同士の溝を深め、争いを悪化させました。「どこかまったく別の場所で十分飲食するように」、とパウロは助言しています。「教会の集まりではパンとぶどう酒のみを食するべきである」、と。

主の聖餐の設定 11章23~26節

パウロは、主がどのように聖餐式を設定されたか、コリントの信徒たちに思い起こさせることによって、彼らを正しい道に指導しなければなりません。それで、エルサレムのとある家の二階の広間で行われた最初の聖餐式に遡る古い伝承のことを持ち出します。この箇所は、新約聖書の中で聖餐式の設定に関する最古のものです。それゆえ、その設定辞が今日の教会の礼拝の聖餐式における設定辞に含まれているのは、きわめて適切なことと言わなければなりません。

聖餐式で分けられるパンは、私たちのために与えられたキリストのからだです。ぶどう酒はキリストの血における新しい契約です。キリストを覚える聖餐式は、それに与る人々が聖餐にあずかることによって主の死を宣べ伝える、という意味をもっています。キリストの再臨の時まで、主の聖餐はこのようにずっと続いていきます。

パンを裂いて祝福することは、ユダヤ人の食事の慣習に関連しています。家の主人が食卓からパンを取り、隣席者全員の目の前で上へと持ち上げることで、食事が始められます。パンを高く持ち上げたまま、主人は神様を次のように賛美します、「私たちの主なる神様、世界の王様、地がパンを産するようにしてくださるあなたが、ほめたたえられますように!」。この言葉に来客は「ア-メン」と唱和します。この後で、主人は食卓についている人数に合わせてパンを裂き、それを皆に配ります。それから、食事をします。主が聖餐式を設定なさるときにも、食事の後にぶどう酒の入った杯とそれに関するイエス様の御言葉が続きました。

聖なる礼典、聖餐式 11章27~34節

コリントの信徒たちが聖餐式を誤用しているため、主の聖餐の本質を彼らがよく見極めるよう、使徒は勧めています。彼の言葉は真剣な警告です。主の聖餐にふさわしくない態度で参加することは、主の死に対して罪を犯すことを意味します。それゆえ、人は聖餐が聖なる式であることを心に銘じておかなければなりません。「主のからだをわきまえないで」聖餐を食べ飲む者は、それによって自らに裁きを招くことになります。

この御言葉は、二通りの意味にとることができます。まず、「主のからだを他の食べ物と明確に区別しなければならない」、という意味です。もう一つは、「主のからだ、すなわち主の教会をわきまえないで飲み食いする」、という意味です。後者の解釈は、「主の聖餐には主のからだ、すなわち主の教会が臨在している」、と指摘しているわけです。この「からだ」(教会)では皆が平等なので、コリントの教会で起きてしまったような差別は誰に対してもあってはならない、というわけです。確実なことは言えないにせよ、前者の説明のほうが正しいと思われます。

31節で、パウロは自分自身を正しく裁く(吟味する)ことについてこう語ります、「もしも自分で自分を裁くならば、私たちは裁かれることにはならないでしょう」。人は、自分で自分を裁く(吟味する)ときに、正しい心構えで主の聖餐に参加することになるのです。そういう場合には、神様はその人を裁いたりはしません。

コリントの信徒たちが病気になったり死んだりしたケースについては、謎めいた部分が残ります。それは主の裁きですが、特定の個人や教会全体に向けられたものではありません。この裁きの目的は、コリントの教会を破壊することではなく、それを(霊的に)目覚めさせることでした。もしもそうでなければ、教会は世と共に同じ裁きを受けることになるでしょうから。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)