コリントの信徒への第一の手紙5章 無きに等しい自慢の種

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

パウロは最初の4章分をコリントの教会のもめごとの調停に費やしました。彼がこのようにしたのには理由があったことを私たちは見てきました。コリントの教会の一番の難問は、そこではパウロの権威が認められてはいなかった、という点でした。こうした状況の中で、教会の問題点をすぐさま取り上げて、教会の指導者として意見を声高に述べるほど、パウロはナイーヴではありません。まずAとBのことについて話すべきで、ようやくその後でCについて話すことができるわけです。それゆえパウロは、「コリントの信徒たちは、あらゆる諍いの現実を超えて、教会の設立者である彼の言うことに従わなければならない」、ということを示そうと苦心しています。このことをはっきりさせた上で、パウロは教会の他の諸問題に話題を移します。今や彼は歯にもの着せぬ言葉遣いで全力を投入しています。最初のテーマはコリントの信徒たちの性的関係に関する罪過です。

いい加減にしなさい! 5章1~5節

コリントの教会では激しい霊性と激しい放縦が奇妙に混交していました。コリントは「姦淫」の中で生きていました。それは、あらゆる意味でのルール違反を意味していたものと思われます。それは、結婚前の性的関係のケースも、また不倫のケースも含んでいました。

特にひどいのは、パウロが例としてあげたケースです。父親の妻と同棲している者がいた、というのです。これがどういう意味だったか、完全にはわかりません。おそらくその女性は自分の母親という意味ではなかったでしょう。もしもそうならば、パウロはそう記していたはずです。つまり、自分の継母と性的関係を結んだ男がいた、ということです。彼の父親がまだ生きているかどうかについては何もわかりません。ともあれ、モーセの律法はこのような関係を完全に禁止しています(「申命記」27章20節)。まさにこのようなケースについてモーセの律法は死刑を定めています(「申命記」17章6~7節)。「聖なる民」(ユダヤ人)からはあらゆる悪を滅ぼし尽くさなければならなかったのです。異邦人もまた、継母との結婚を認めてはいません。それゆえパウロは、「この点に関してコリントの信徒たちは異邦人たちよりも悪い」、と断言することができたのでした。

パウロがしきりにいぶかしんでいるのは、コリントの高度な霊性がこのようなことがらをまったく問題視してはこなかった、という点です。このことについて私たちは確かな理由を知りません。コリントの教会の有力者たちは、教会で上座を占めるのには長けていても、いざという時に教会を正しく指導する能力がなかった、ということはありえます。

しかし、より実情に近いと思われるのは、この問題には神学的な背景があった、ということです。初代教会の時代には、霊的な力を知った多くの人々は、「どんなことをしてもかまわないのだ」、という思い込みを抱くようになってしまいました。「(人が死ぬときには)どうせ肉体はこの世に残って朽ち果てる。大切なのは、霊が神の高みに上ることだ」、というわけです。コリントの教会には、「復活はもう起きたのであり、人間はもはや罪を犯すことがありえなくなっている」、と信じ込んでいる人たちがいたのはあきらかです。

しかしパウロは、このような話に耳を傾ける気など毛頭ありません。教会は罪の中で安住してはいけないのです。もしも人の心にキリストが住んでおられるならば、キリストはその人を罪との戦いに連れ出すものです。

パウロの「処方箋」は厳しいものでした。今、彼はコリントの信徒たちと話し合ったりはしません。彼らを問いただしたりもしません。彼は裁きを下しています。残された仕事は、それを厳粛に宣言することだけでした。

パウロが教会を訪れたとき、教会の総会が開かれます。そこで主の教会は「公に罪の生活を送っている者」を教会から排除する式を行います。

「その男は悪魔に引渡し、彼の肉体が滅びるようにしなければなりません。そうするのは、彼の霊が主の日に救い出されるためなのです」
(コリントの信徒への第一の手紙5章5節)。

この御言葉もまた謎めいています。その人は、教会の外部に追い出され、もはや教会の権利や宝にあずかることができなくなります。その人はクリスチャンではなくなり、誰もその人のことをクリスチャンとみなすこともなくなります。

当時の教会にはこの世の裁判においても有効であるような公式の判決を下す権利がまったくありませんでした。それゆえ、モーセの律法による懲罰である「石打の死刑」や、パウロの時代のユダヤ人たちが好んで用いた「鞭打ちの刑」は執行不可能だったのです。

ここでは特にある点に注目する必要があります。パウロは「躓いた教会員たち」の最善を考慮しているだけではないのだ、ということです。彼は教会員たちのレヴェルを引き上げることを目指しているのではありません。この罪を犯した人間の霊が「最後の日」に救われることを目的として、すべては執り行われているのです。

研究者たちは5節の正確な意味をつかみあぐねています。まさかパウロは、教会から除名される人間の上に肉体的な衰弱、たとえば病気を招来しようとしているのではないでしょう。また、この節で霊と肉体との非常に深い区別を提示しているのでもないでしょう。「罪人の肉」、「古いアダム」はクリスチャンの中で死んで、キリストの御霊に場所を譲らなければなりません。それゆえ、クリスチャンが自分自身を律して神様を探し求めるようになるために、厳しい手段を取るのもやむをえないことなのです。

現代に生きる教養人である我々クリスチャンにとって、パウロのやり方にはついていけないところがあります。パウロなら今の私たちの教会の中に倫理的な罪過を多く見出だすだろう、ということは誰にも否定できない事実でしょう。教会の中にさえ、同棲している人々がたくさんいます。離婚や婚外性交もあっという間に一般化してしまいました。もしも私たちの教会の中の誰かが、わずかばかりであれパウロと同じようなやり方で行動しはじめるならば、雑誌などのメディアや世間の意見は一斉に大喜びしてこの事件に飛びついてこう言うことでしょう、「こんなに愛に欠けた残酷な牧師が教会にいてよいものか。人は自分の頭で考えて好きなように行動するのは当然だ。彼らは自分の人生について神の前で責任をとらなければならないのだから、教会の職員である牧師が他人の生き方に関してあれこれ口出しする筋合いなどはないのだ」。私たち自身もこのような考えに慣れてしまっています。しかし、このような話を聞いても、パウロならまったく理解を示さなかったことでしょう。人々が知らず知らずに地獄に向かって転げ落ちていくのを見過ごすのも、「愛」ということになるのでしょうか。

数年前に交通安全の責任者が踏切事故についての懸念を表明したことがありました。テレビではこのテーマにスポットをあてたキャンペーンが展開されました。そこでは、車が列車の下敷きになる際の様子をさまざまな車で試していました。得られた結論によれば、列車との衝突を避けるためには、列車が来るときにレールの上にいてはいけない、ということです。神様の怒りと裁きはこの列車のようなものです。それを避ける唯一の方法は、キリストの十字架のみわざの守りの中に生き、神様の警告の御声に聴き従うことです。

無きに等しい自慢の種 5章6~8節

パウロは不幸な事例をひとまず置いて、今度はより一般的なことについて話し始めます。パウロはコリントの信徒たちが誇っている内容自体を否定しているわけではありません。コリントの信徒たちは自分たちの恵みの賜物と教会を誇りにし、使徒の権威を認めようとはしませんでした。こうした態度は、彼らが御言葉を捨て、神様の怒りの対象になる、という事態を招きました。本来ならば、コリントの信徒たちはキリストを誇りとし、神様に栄光を帰するべきだったのです。

パウロは今度は、台所のことや誰でも知っている事柄について話し始めます。パン種の入ったパンを作るときには、多くのパン種は要りません。少しでも入っていれば生地全体がふくれあがります。今、パウロはパン種を厳密な意味で完全に抜き去るように命じています。こうした言い方の背景にあるのは、ユダヤ人の過越しの祭と出エジプトの出来事です。その時、民全員はすべてのパン種を投げ捨てるように神様から命令を受けました。新しいパン種ができあがる前に、神様は御自分の民をエジプトの隷属から解放してくださいました。その当時、人々はパン種の入っていないパンを食べて生活していました。そういうわけで、ユダヤ人の過越しの祭には、今も昔も、パン種を取り除くこととパン種の入っていないパンを食べる日が定められているのです。今ここで、パウロはキリストの教会を「生地」と呼んでいます。この生地は古い生地をこねなおしたものではなく、完全に新しい、つまり罪のない生地だ、ということです。それゆえ、教会からは「古いパン種」、すなわち罪の生活を完全に除去して、教会を清く保たなければなりません。確かにコリントの信徒たちは清いのです。今パウロは彼の手紙の一番重要なことがらに話題を移します。それは、キリストはすべてを清めてくださった、ということです。

キリストが賜物として与えてくださった「聖さ」がすべての根底にあります。キリストは「過越しの羊」です。この羊が犠牲となって流される血が、私たちを神様からの罰と死から守っています。しかしそれは、もはや教会は神様の御心を探し求める必要がない、という意味ではありません。このように奇妙なやり方でパウロは、罪に塗れた者たちが清められるように勧めているのです。なぜなら、彼らは「すでに清い」からです。キリスト教の信仰は鉄壁な論理などではありません。それは神様とその恵みと共に生きることです。

世から出て行くのではなく 5章9~13節

パウロはすでに以前コリントの教会に、「姦淫を行う者と信仰の兄弟姉妹の交わりをもってはならない」、と手紙を書き送りました。今、コリントではこの言葉を、「教会員ではない人々も含め、あらゆる公の罪人との接触を避けなければならない」、と曲解する人たちがでてきました。パウロは大急ぎで彼らの誤解を解こうとします。ここで問題になっているのは、クリスチャンであるにもかかわらず実に放縦に生きている者たちのことなのです。言うまでもなく、コリントの一般市民は神様のことをまったくないがしろにして生活していました。にもかかわらず、(パウロによれば)クリスチャンは彼らのことを避ける必要はないのです。ただし、クリスチャンだと自認している公の罪人のことは、よく見分けて彼らを避けるようにしなければなりません。

ここで「罪のリスト」に載っているのは、第六戒を破る罪だけではありません。そこにはまた、貪欲、略奪、そしり、なども含まれています。この「そしり」というのは、ここでは、神様をそしることではなく、人をそしることを指しています。教会の外部にいる人たちのことは、神様が裁いてくださるでしょう。クリスチャンはこの世から出て行くことができません。それに対し、誰が教会の会員であるかということは、コリントの教会でも皆が正確に知っておかなければならないことでした。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)