コリントの信徒への第一の手紙6章 自由の限界

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

6章でもパウロはコリントの信徒たちに対して大鉈を振るっています。5章と6章は教会の現実の状態がどれほどひどいものであるかを、情け容赦もなく明らかにしています。これは、最初期の教会について私たちが抱きがちな美化されすぎた幻想を吹き飛ばしてくれることでしょう。

裁判官の前で 6章1~8節

コリントの信徒たちの間の諍いは、教会内部だけの問題としては収まりませんでした。争いはこの世の司法機関による裁判に持ち込まれました。そこでその裁判官が最終的な判決を下すのです。これを聞いてパウロは激怒しました。神様の教会でどうしてこのようなことが起こってよいものでしょうか。なすべきことはわかっていました。神様の御国では、誰も他の人から略奪してはいけないし、自分の権利に執着して裁判を起こすような真似をしてもいけません。

まったくもってひどいのは、クリスチャンの間の争いごとをこの世の司法機関に訴えて、クリスチャンではない人たちが裁定を下すような羽目になってしまったことです。あるクリスチャンのことで苦情を述べなければならない場合には、どうしてそれを教会内で信頼されているクリスチャンに訴えないのでしょうか。日常生活にかかわることぐらいについては、誰かちゃんとした信仰者が判断を下せるような「システムと共通認識」が教会の中にあるのが当たり前なのです。

パウロの目には、クリスチャンではない裁判官たちの判決によって争いごとを片付けようとする態度は、決して取るに足りない些細なことではありません。このことに関しても他の場合についても、「愛する最後の日」、「世の終わりと最後の裁き」のことが彼の念頭にあったからです。パウロは、「現代の私たちにとっては奇妙に聞こえるものの、当時のコリントの信徒たちにとっては馴染み深いテーマだったと思われることがら」を話し始めます。「まさか知らないのですか」という言い方には、「聖徒たちがこの世を裁くようになる、ということはすでに皆が知っているはずです」、という含みがあります。最後の裁きの時には、クリスチャンは裁きを行う側に参加するようになる、ということです。イエス様は弟子たちに、彼らがイスラエルの12部族を裁くようになる、と約束されました(「マタイによる福音書」19章28節)。パウロはこの御言葉を当然すべてのクリスチャンと全世界にもあてはまるものとして語っています。さらにクリスチャンは、被造物の中で最も高みに位置している天使たちのことさえも裁くようになるのです。このような眩暈がするほどすばらしい眺望からしてみると、コリントの信徒たちが自分自身で日常生活の問題さえ整理解決できないのは、パウロには本当に腹が立つことでした。彼らは裁判官を必要としており、しかも、クリスチャンのグループの外部の人間を裁判官とするつもりなのです!

パウロの言葉を私たちの状況に照らし合わせるとき、いろいろなことをじっくりと考えてみる必要に迫られます。フィンランドでは大多数の人が教会に属しています。また、多くの裁判官は少なくとも形式的にはクリスチャンです。一方では、裁判にかけられる人々も教会の会員であるケースが多いです。

こういうことに基づいて、「クリスチャンはこの点に関してはすっかり生活態度を改めたのだ」、と主張する人が出てくるかもしれません。「今や、キリスト教会の内部で裁判事を処理できるわけだから」、と。こんなことを言う人自身、実は屁理屈をこねているに過ぎないことを知っているはずです。この聖書の箇所はいまだに現代にもあてはまる内容です。それは、たとえ、フィンランドの国民の大部分が、形式的にはクリスチャンである場合でもそうなのです。「神様の民」であるクリスチャンは、自分自身の権利を主張するときには、非常に慎ましくやり始めるべきなのです。もしも争い合っている相手がクリスチャンである場合には、争いごとの調停はさらに慎重に、まったく別のやり方でその解決を模索していかなくてはなりません。教会の中から、調停をうまくまとめる人々がでてこなければならないのです。そして、牧師以外でも調停が上手な人がいれば、その人に任せればよいでしょう。ただし、私たちの中には、いったいそのような人がいるのでしょうか。

神様の御国を継ぐことができない人々 6章9~11節

パウロは、「どのようなことが罪深い悪い行いか」を記したリストを作成します。このようなリストは新約聖書の他の箇所にも幾つかあります。たとえば、「ガラテアの信徒への手紙」5章19~21節とか、「エフェソの信徒への手紙」5章5節などです。「正しくない者たち」(ギリシア語で「アディコイ」)というのは、神様を無視して生きている人々を指す、一般的な名称です。「姦淫をする者たち」(ギリシア語で「ポルノイ」)とは、いろいろなやり方で第六戒を破る行いをしている人々のことです。たとえば、不貞をはたらくとか、結婚する前に性的関係をもつとか、などがその例です。「男娼となる者たち」(ギリシア語で「マラコイ」)と「男色をする者たち」(ギリシア語で「アルセノコイタイ」)というふたつの言葉はどちらもホモセクシュアルの男性を指しています。後者はその積極的な側、前者はその受身の側のことです。

リストにはさらに、「酒に酔う者たち」、「盗む者たち」、「偶像を礼拝する者たち」、「略奪する者たち」などが入っています。注目すべきは、リストの中に「貪欲な者たち」や「そしる者たち」が入っていることです。これらの者には皆、ひとつの共通点があります。それは、「彼らは天の御国を継ぐことができない」、ということです。パウロは、「このこともコリントの信徒たちは当然知っているはずだ」、という書き方をしています。

「コリントの信徒全員がこのことを知っていたとは、いったいどういうわけだろうか」、と訝る研究者もいます。この疑問への納得のいく答えとして、「洗礼を受ける時にこれらのリストが読み上げられたので、洗礼を受ける者は皆このリストに明記されているひどい罪を捨て去るべきであるということを知っていた」、という説があります。パウロがこのリストを挙げた後の箇所で洗礼について語っているということも、この説の正しさを裏付けています。多くのコリントの信徒たちのクリスチャンとしての昔の生活態度には、たしかにあまりほめられたものではないところがいろいろとありました。しかしながら、彼らは洗礼を受けて「キリストのもの」となっており、こうして彼らはキリストにあって「聖で義なるもの」とされているのです。それはまた、彼らが自分たちの罪の生活を捨てて歩むことを義務付けるものでもあります。

パウロは私たちにとって、「誰が天の御国を継ぐことができ、誰ができないか」という疑問に対して答えることができるこのうえない専門家です。彼の言葉を疑問に付すのは愚かしいことです。ともかくも、彼の教えはここフィンランドでは忘れ去られています。フィンランド人は皆、「上のリストに上げられている公の罪を犯している者は永遠の命を継ぐことができず、永遠に滅びてしまう」、ということをちゃんと知っているのでしょうか。天国と地獄は存在するでしょうか。キリスト教信仰は私たちにとってたんなる趣味や暇つぶしにすぎないのでしょうか。「これは生きるか死ぬかの問題だ」、ということを私たちはしっかりと理解しているでしょうか。もしも理解しているならば、なぜ私たちは、他の人たちや自分自身の状態の抱えている危機を、燃える心をもって親身に心配したりしないのでしょうか。

自由の限界 6章12~20節

パウロは、「すべては私には許されている」とか、「食べ物はおなかのためにあり、おなかは食べ物のためにある」という言葉を引用しました。おそらくコリントの教会にあらわれた「変に霊的な人々」が、パウロが引用しているこれらの言葉を使っていたのでしょう。ギリシア古典時代には、「人間の欲求を満たすのは自然なことだ」、と主張する哲学の流派があらわれました。「人間の欲求には恥じるべきことも自制すべきこともないのだ」、というのです。あるいはコリントの異端教師たちの教えの背景には、こうした哲学の影響があったのかもしれません。

「コリントの教会の奇妙に霊的な人々は、御霊の力の発現に驚嘆して気を取られ、肉体の罪には注意を払わなかったのではないか」、というのも十分納得のいく説明です。パウロに特徴的なやり方として、「敵対者の用いる言葉に別の意味を含ませて逆用する」、ということがあります。たしかにすべては許されているが、すべてが益をもたらすわけではないのです。たとえどれだけ許されていることであるにせよ、人間がそのことの奴隷になってしまってはいけません。とりわけパウロは姦淫の罪について警告しています。ここでもこの「姦淫」(ギリシア語でポルネイア)という言葉の意味は、結婚前の性交渉のみではなく、第六戒を破るあらゆる行為を指しているのは明らかです。 

パウロにとって、クリスチャンが結婚の外部で性的関係を持つのはまったくあってはならないことです。クリスチャンは各々、「キリストの体」、すなわち「キリストの教会」の一員なのです。ふたりの人間が性的に結ばれるとき、彼らはひとつの肉体になります。これは結婚の偉大な奇跡です。それに対して、「クリスチャンが町の娼婦と性的交渉を持ち、彼女を通してキリストに結ばれる」、というのはまったくありえない考え方です。それゆえ、パウロは特に力を込めて、「教会員は婚外の性的関係をもって生活してはならない」、と教え命じています。クリスチャンの身体は「聖霊様の神殿」です。そして、そこには神様の聖霊様がお住まいになっているのです。「どのように生きるか」は、人間が自分で決めるべきことがらではありません。すべての根底には、キリストが教会を御自分の尊い血によって買い取ってくださった、という事実があるのです。そのことはまた、クリスチャンに「罪と戦う義務」を与えるものでもあります。

私たちはこの箇所を正確に読むことが許されています。「第六戒を破る罪だけが罪なのではなく、心の中だけで犯した躓きもまた神様の御前では罪過である」、と強調する人たちが私たちの周りにはしばしばいます。たしかにパウロはこの箇所で、「姦淫の罪」を罪の中でも最悪の部類のものと言っているのですが、それにもかかわらず、これはまったく正しい指摘です。私たちは聖書を「隣人の罪」についてのみあてはめて読む傾向があります。その一方で、自分自身の罪は明るみに出されることがありません。

この箇所は私たちに対して重大な言葉を語っているのです。結婚の価値は、私たちフィンランド人の間では、ひどくあいまいになってしまいました。同棲婚や結婚前の性的関係は例外というよりもある種のお決まりにさえなってしまっています。同じことがクリスチャンの間でも広まってきています。家庭問題を扱うあるベテランの専門家は、「結婚していない人たちが誰とも性的関係をもてないのは、本当に神様の御心なのだろうか」、と公然と問いかけたことがあります。神学者の中には、質問をするだけでは収まらない者もいます。聖書の教えを無視するときに持ち出される常套の手段は、「聖書は法律書ではない」という理屈です。結婚制度そのものが危機に瀕しているのは、何の不思議もないことです。にもかかわらず、それは神様がお定めになった制度であり、それゆえ永遠に有効であり続けます。

「誰が御国を継ぐことができ、誰が継げないか」は、おひとり神様のみが宣言できることがらです。私たちにできるのは、神様の御言葉を聴いて、それにしたがって悔い改めることだけです。自分の罪を知っている弱い人たちに対して、神様は罪の赦しを惜しみなく与えてくださいます。しかし、驕慢で自信満々な者たちは意外な結末に陥ることを覚悟しておきなさい。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)