コリントの信徒への第一の手紙8章~11章1節 犠牲をいとわない愛

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

8章でパウロは、ある問題を取り上げます。それについて彼は11章1節にいたるまで語ります。それは「偶像に捧げられた肉を食べてよいかどうか」という教会内を二分する大問題でした。ですから、パウロは問題の所在について(事情を知っている)コリントの教会員たちに細かく書く必要がありませんでした。それに対して、現代に生きる私たちは基本的な事情の説明を必要としています。「偶像に捧げられた肉」とはいったい何であり、どういうわけで、それが争いを巻き起こしたのでしょうか。

現在とは異なり当時の世界では、肉は珍しいご馳走でした。ふつう貧しい民は野菜と穀物を食べて生活していました。とはいえ、肉はごく一般的に売られてはいました。問題だったのは、売られている肉はすべて、なんらかの形で偶像礼拝に関係していた、ということです。

まじめなユダヤ人にとって、商店の肉がモーセの定めた規定に沿ってほふられたものではない、ということだけでもすでに嫌悪の念を起こさせるものでした。さらに悪いことに、ほふられるときに動物からその毛の房を少し取り分けて、偶像に捧げられた可能性もありました。しかも、これだけではありません。動物の大部分は、まず神殿で偶像に捧げられてから、ほふられたのです。それらのうちのほんの一部は祭壇で捧げられ、残りの大部分は肉屋に売りに出されました。ユダヤ人にとってとるべき態度は明らかでした。当然ながら、誰もこのような肉を食べることはできませんでした。ユダヤ人は閉じられた共同体を形成し、その中で、家族と親戚と同じ部族の者たちとのみ食事を共にしていました。

ところが、異邦人クリスチャンの状況はそれとはまったく異なっていました。彼らは閉じられた共同体でではなく、開かれた共同体で生活していたのです。もしも肉を食べることが禁じられるならば、親戚や友人たちとの(肉食に関連した)祝祭も禁じられることになります。宗教に関わる大きな祝祭が催された時には、この肉食の問題はいっそう一種即発の大問題となりました。これらの祝祭に関連して、民心を買おうとする役人たちは、しばしば祝祭の参加者たちに食べ物を、多くの場合には肉を、分けて配りました。コリントの教会の多くの貧しい信徒たちにとって、これは魅力的すぎる誘惑でした。こうして教会は、肉を食べる人と肉を食べない人とに二分されてしまいました。肉を食べない人たちは、肉食は偶像礼拝であるとして、肉を食べる人たちのことを責めました。こうした物言いが激しい争いの引き金になったのは、想像に難くありません。

知識、それとも、愛? 8章1~13節

あるコリントの信徒たちは問題を神学的にまるごといっぺんに扱おうとして、状況を悪化させました。彼らは次のように考えたのです、「偶像はそもそも存在しない。偶像などは存在しないのだから、偶像に犠牲を捧げるのはまったく無意味な行為だ。偶像への犠牲を捧げることが無意味なのだから、上等な肉が犠牲の儀式によって何か他のものに変わる、などということもありえない。そういうわけで、たとえどのような悪魔に肉が捧げられたのだとしても、偶像などは存在しないということさえわきまえていれば、誰でもその肉を食べてかまわないのだ」。こうした神学的な考え方の中に、パウロは多くの利点を見出していますが、一方ではまた、難点も指摘しています。

「偶像が存在しないというのは本当です」、とパウロは言います。活きておられる主であり全世界の造り主なる唯一の神様だけが存在しておられるからです。他のものはすべて「名目上の神々」です。それらが神扱いされるのは、人間たちがそれらを「神」に祭り上げて、自主的に崇拝しているからです。そのような「偶像」はうんざりするほどあります。しかし、唯一の主のみが存在しておられるのであり、この方こそが、人間が何と言おうとも、まことの主なのです。この意味で、前述のコリントの信徒たちは正しいのです。すなわち、偶像などはなんでもなく、偶像に犠牲を捧げることもなんでもありません。しかしながら、これで真理のすべて、というわけではありません。なぜなら、キリスト教の「知識」はたんなる頭の知識だけではないからです。クリスチャンは皆、他の人たちのことも考慮に入れて行動しなければなりません。コリントの信徒たちはこのことをすっかり忘れてしまっていました。彼らには正しい「知識」がありました。しかし、この「知識」は彼らを驕り高ぶらせました。それゆえパウロは、「何かを知っていると思い込んでいる者には、実はまだ正しい知識がないのです」、と彼らに警告しています。

前述のコリントの信徒たちは、彼らと共に生活している他のクリスチャンたちのことを根本的に忘れ去っていました。クリスチャンAの目には、他のクリスチャンBが偶像礼拝に自ら進んで参加しているように見えたのです。クリスチャンAにとっては、クリスチャンBのように偶像礼拝に参加することは、とても考えられないことでした。このようにおぞましいことを目の当たりにして、怒る人があらわれ、諍いが起こりました。クリスチャンの中には、偶像に捧げられた肉を食べてもよいとする「立派な理屈」を、その意味をちゃんと理解しないまま、己の良心の声を無視して偶像礼拝へ参加する口実として利用する人が出てきました。

「食べ物は私たちを神様に近づけもしないし、逆に遠ざけもしない」、ということをパウロはよく知っています。それに対して、次のようなケースもあります。あるクリスチャンAが、ある聖書的な根拠に基づいて、ある行動をとるとします。他のあるクリスチャンBは、クリスチャンAのそのような行動の根拠を理解しないし、それを「偶像礼拝」であるとみなしています。ところが、誰から強制されているわけでもないのに、クリスチャンBもまた、クリスチャンAと同じような行動をとるようになってしまう、というケースです。そうした理由からパウロは、「もしも自らの行動(ここでは偶像に捧げられた肉を食べること)のせいで、他のクリスチャンがキリストから離れ去って罪の生活を送るようになる恐れがある場合には、自分のもっている「自由と知識」をあえて放棄して、肉を食べることを自らに禁じることにする」、と言い切ったのでした。

私たち現代人はパウロのこうした言葉から学ぶべきことが多くあります。私たちは信仰に関わることがらを個人的なこととみなすのに慣れています。「私たちがあることをするかしないかは、他の誰にもかかわりがないことだ」、と考えるのです。これはある程度はまったく正しいことです。私たちは皆、自分自身の生活について、神様に対して直接に責任を負っています。にもかかわらず、クリスチャンとしての愛は、私たちが他の人たちのことを考慮に入れて行動することを要求します。これは幅広く応用されるべき態度であり、それを実行に移そうとする時に、私たちはいろいろと難しい局面に遭遇することになるでしょう。クリスチャンは完全主義者でなければならないのでしょうか。クリスチャンはダンスをしてもよいのでしょうか。何が「八方美人」的な振る舞いで、何がこの章の教えに本当に従うことなのでしょうか。

自分の自由を放棄したパウロ 9章1~27節

9章でパウロは、偶像に捧げられた肉に関する問題をひとまず「棚上げ」しているように見えます。しかし、彼はこの問題に10章で立ち戻ります。それゆえ、9章の内容は前後の文脈を考慮に入れて理解していくべきです。パウロは自分自身のことを例に挙げて、クリスチャンは自ら進んで自分の権利と自由を放棄するものであることを説明しています。

パウロにはコリントの教会から自分の生活費をもらう権利が確実にあったはずです。誰も自費で戦争に従軍したりはしないし、誰も自分で植えたぶどう園の収穫の分け前をとらなかったりはしないものです。神様の律法もそのように定めています。ここでパウロは、主の使徒として大胆な聖書の説明を行っています。それによれば、「御言葉の奉仕者(説教者)は、教会から生活費を得なければならない」という原則を利用せずに放棄するのが一番よいのです。パウロはコリントの教会から生活費を受ける権利が疑いもなくあったにもかかわらず、この権利を彼はいかなる場合であれ利用しなかったし、後でも利用しようとはしませんでした。それは彼の「誇り」だったのです。そして、コリントの信徒たちがこの誇りを彼から奪うことを、彼は許しませんでした。福音伝道の障害にならないように、使徒パウロは、むしろ自分の手で働いて生活費をまかなう道を選びました。このようにパウロは何ものにも依存していない自分を自発的に「すべてに依存する者」としたのでした。

彼は自分をモーセの律法の下にある者とは位置づけてはいませんでしたが、ユダヤ人と会った場合には、自分自身をモーセの律法の規定の下におきました。異邦人と一緒にいるときには、彼は神様の律法を気にかけずに生活していました。こうした態度をとる目的はただひとつ、福音伝道に障害をもちこまないようにする、ということにありました。

パウロの活動の背景にあったのは、すべての人の救いに関する危惧でした。この危惧のゆえに、パウロは自分自身とその自由を犠牲にする用意ができていました。「ちょうどスポーツ選手が練習するように、コリントの信徒たちも私を見習って訓練を積みなさい」、とパウロは助言しています。クリスチャンは、自分がたとえどれほど自由だったとしても、他の人たちのことを考慮に入れて、自分自身のことは彼らの「僕」の立場に置き続けなければなりません。

ここでは、勝利の栄冠を夢見ているトップクラスのスポーツ選手と同じような規律遵守の姿勢が要求されます。スポーツ選手の目標は、やがては枯れる月桂冠です。キリストは、「御自分のものたち」に、彼らがこの世の人生の歩みを終えてキリストの御許に行くとき、決して枯れることがない冠を与えてくださいます。しかし、この勝利は自明のことではありません。まさにそのゆえに、コリントの信徒たちは自分たちの自由を捨てて、信仰の鍛錬に身を入れるべきなのです。

この箇所のポイントは、まさにマルティン ルターが「キリスト者の自由」という書物の中で次のように語っていることです、

「クリスチャンは皆を支配し、誰の支配下にもいない自由な主人です。また、クリスチャンは皆の僕であり、各人の支配下にあります」。

これらふたつの対照的な命題を私たちクリスチャンは各々自分の人生の中で実行していかなければなりません。一方でクリスチャンは神様が解放してくださった存在であり、すべてについて神様の御前でひとり責任を負っています。クリスチャンは誰のことも一切考慮する必要がありません。しかし他方でクリスチャンは自ら進んで自分を皆の僕とします。キリストが御自分を低めて奴隷となられたように、クリスチャンも自分自身を低めて他の人たちに仕えるようになります。このことを「キリストのもの」であるクリスチャンは知っておかなくてはなりません。しかし、はたして私たちはこういうことを身につけることができているのでしょうか。

偶像礼拝に対する警戒

パウロは10章で元の話題に戻り、「偶像に捧げられた肉」のことを再び取り上げます。コリントの信徒たちの何人かは、この問題に巧妙な説明を与えました。つまり、「偶像なるものは存在しないので、偶像に捧げる行為も全く意味がないのだ」、というわけです。ある人々などは、徹底的に首尾一貫した立場を取り、わざわざ偶像礼拝の行われている神殿に出向いて、そこで肉を食する用意さえしていました。前の箇所でパウロは、「クリスチャンとしての愛は、隣人のこともちゃんと考慮に入れて行動しなければならないことを要求している」、と指摘しました。今ここで彼は「間違った確信」をもたないようにと真剣に警告しています。

警告の実例としてのイスラエル 10章1~13節

「新しい契約の民」(クリスチャン)は、「旧い契約の民」(イスラエルの民)の歩みと誤りとを正確に把握しておかなければなりません。パウロは、神様がどのようにして旧約の民をエジプトの隷属から解放してくださったか、について語ります。そして、皆が雲の下におり、皆が海の中を通り、皆がモーセへの洗礼を受けたことを、パウロは強調します。皆がマナを食べ、皆が岩から湧き出た水を飲みました。にもかかわらず、民のうちのごく少数の者だけが「約束の地」にたどり着くことができたのでした。他の人々は皆、旅の途中で力尽きました。このことについては、「ヘブライの信徒への手紙」3~4章も指摘しています。

あきらかにそれは、クリスチャンへの訓戒をこめた説教の一般的なテーマだったことでしょう。パウロは、旧約の民の上に起こった出来事全体が、皆に警告を与える実例であり、「私たち」すなわち「キリストの教会」にとっての前例でもある、と言っているのです。彼は聖霊様を雲と対応させ、洗礼を紅海の横断と対応させ、聖餐式をマナと対応させています。ここで大切なのは、教会は今もなお(天国の)栄光への旅を続けているのであって、もうすでに目的地に着いたというわけではない、という点です。教会の場合にも、目的地(天国)にたどり着けるのはごくわずかの人々だけになってしまうことは、十分ありうることです。

この箇所を読む時に、パウロがどのようなやり方で、聖礼典(サクラメント)と、神様が流浪する民に行ってくださった奇跡とを対応付けているか、について注目してみるのがよいでしょう。人間の信仰が聖礼典を造り出すわけではない、ということを私たちはここにも見ることができます。聖礼典は常に内実を失わない、とルーテル教会は信じ、教え、告白してきました(つまり、聖礼典は信仰者にも不信者にも効力を持つ、ということです)。聖礼典は、信じている人には神様の恵みを分け与えてくれますが、神様の恵みをはっきりと拒んだ人に対しては神様の裁きを招きます。

私たち現代人は、この箇所を注意深く読む必要があります。パウロの生きていた頃とは時代が変わりました。当時、教会は教会員一人一人の世話をきちんと行うことができました。この箇所は教会の中核のグループ、すなわち礼拝に参加することを大切にしている人々について語っています。彼ら以外の人々を教会に導くのは実にたいへんなことです。教会は、人々のお祝い、洗礼式、堅信礼式、結婚式、葬式などを通して、一般の教会員と接触を持っています。人々は、こういう機会がなければ、御言葉を聞く必要性を感じもしません。今ここで取り上げられている箇所は、現代の教会が謹聴すべき警告なのです。時代も習慣も変わったとはいえ、神様の真理はいささかも変わってはいません。神様を捨てたり、姦淫したり、主に反抗したりするのは、今でもなお、命を失うほど危険なことです。

とりわけ細心の注意を払うべきなのは、この箇所は国民の大部分が教会に形式的に所属している(たとえばフィンランドのような)状況を念頭において書かれたものではない、という点です。パウロが危惧している「グループ分け」は、教会員は救われるが他の者は地獄に落ちる、というような単純なものではありません。神様は教会員たちの集まりの只中に、この区別を行うために来られます。まさにそのゆえに、パウロはここで、教会の外部の人たちに対してではなく、コリントの信徒たちに対して警告を発しているのです。

主の聖餐と偶像礼拝 10章14~22節

ようやくこの段階で、「偶像に捧げられた肉と、それを異教の神殿で食する問題」に答えを与える時が来た、とパウロは考えています。パウロはこの世に存在するものの中で最も聖なるもの、「主の聖餐」、をこの問題の答えとして取り上げます。彼がこの聖礼典について触れているのは、この手紙のみです。しかし彼はここで、聖餐式の非常に大切な意味を誰にでもはっきりわかるやり方で語っています。おそらく16節は、アラム語を用いていた古教会の信条を含んでいます。アラム語による設定辞ははっきりわかりませんが、その内容はいたって明瞭です。私たちが感謝する杯は、キリストの血にあずかることであり、私たちが裂くパンは、キリストのからだにつらなることです。ひとつのパンを食することは、聖餐に参加する者皆をひとつのキリストのからだとします。そしてこのことは、偶像礼拝を行うことを不可能にします。

コリントの信徒たちが言っているように、偶像には何の意味もなく、それらに捧げられた犠牲にも何の意味もありません。とはいえ、異邦人は、悪魔、デーモンに犠牲を捧げており、それによって、それらとつながりをもっています。クリスチャンはこういう暗闇のこととは決して関係しないように、慎重に行動しなければなりません。時には主の聖餐につらなり、時には悪魔の食卓につく、というのはありえないことです。偶像礼拝者は、聖餐式にあずかることができません。聖餐式につらなる者は、偶像の神殿に行って犠牲の食卓についてはいけません。

あるコリントの信徒たちは巧妙なやり口でこの問題を回避しようとしました。全知全能の神様の御前では、こうした人間の小賢しさは意味をなしません。この問題が教会内部を分裂させ続ける限り、コリントの信徒たちは神様には申し開きができません。そういうわけで、このことについて争いはじめたりせずに、偶像をたたえる犠牲の食卓などには参加しないのが、最善なのです。神様は「熱情の神」です。この熱情は、激しく嫉妬する愛です。この愛は、神様への愛を奪うような競争相手に私たちがなびくことを決して認めません。それゆえ、「主のもの」である人は皆、偶像礼拝との関係をはっきりと断ち切らなければなりません。

私たちの時代の偶像礼拝は、さまざまな様相を呈しています。はっきりとした偶像礼拝には見えないスマートなものとしては、お金を大切にしすぎて神様のことを忘れてしまう、というタイプがあります。人気歌手やトップクラスのスポーツ選手を自分のアイドルとして拝むのは、すでに不健康な要素を含んでいます。よりあからさまなタイプは、ホロスコープ(星占い)や占い師を対象とした偶像礼拝です。現代人は、「自分には教養がありすぎて、キリストをそのまま受け入れることなどできない」、などと思い込んでいます。ところが一方では、現代人は古くからある異教的な考え(たとえば、星を神々とみなすとか、星には人間の運命が書き込まれているとか、といった類の迷信)を平気で鵜呑みにしています。それよりもさらにひどいタイプは、フリーメーソンとそれに関連するいわゆる「聖なる食卓」です。これらのことがらに関して、主の御言葉の答えはまったく明瞭です。このような食卓やグループとは、信仰者は何の関わりも持つべきではありません。

肉屋について 10章23節~11章1節

「すべては許されている」というフレーズは、あきらかに一部のコリントの信徒間で流行っていた言い回しです(6章12節を参照してください)。今ここでパウロは、「クリスチャンの自由」を非常に深く真剣に教えています。たとえすべてが許されているとしても、すべてが有益である、というわけではありません。(クリスチャンは行動する時に)他のクリスチャンたちのことも考慮に入れるべきなのです。

まだひとつ問題が残っています。もしも犠牲に捧げられた肉を食べるのが本当にそれほど危険なことだとしたら、肉屋ではいったいどうすればよいのでしょうか。店では偶像に捧げられた肉しか売っていないからです。クリスチャンはいつでもどこでも肉を食べないようにしなければならないのでしょうか。「そうではない」、とパウロは言います。神様は全世界の造り主ですから、何ひとつ犠牲の儀式によって「偶像に属するもの」に変質したりはしません。犠牲の食卓に参加しないならば、肉屋で売っている肉は良心を汚さずに食べることができます。そのかわり、肉を食べることに関して他のクリスチャンたちがどのように言っているか、ちゃんと把握しておかなければなりません。もしも家を訪れたクリスチャンが「おみやげ」として肉を持参した場合には、その肉については何も訊かずに食べてかまいません。しかし、もしもその場の誰かが、「その肉は偶像に捧げられたものです」と告げた場合には、その人のために肉は口にしないでおくべきです。クリスチャンの愛は、自分自身の権利や自由を行使しないでおくことを要求するものでもあります。このようにすることで、ユダヤ人のことも異邦人のことも無益に傷つけなくてすみます。パウロは大胆にも、自分自身のことをコリントの信徒たちの模範として提示しています。9章全体を通して彼は、「コリントで自分の有している権利を利用しなかった」、と語ってきたわけですから。

今回の箇所は、私たちに相当な量の「宿題」を与えています。「日常生活の中でクリスチャンは他の人たちのことをどのように考慮していかなければならないか」、ということが次から次へと出てきました。クリスチャンは自由であり、誰もクリスチャンを無理やり奴隷にすることはできません。にもかかわらず、クリスチャンは自分自身を「すべての人の僕」とします。このメッセージは、表面的あるいは理論的にその意味を思い巡らすために与えられているわけではありません。パウロの生き方がそれをよく示しています。その意味で今回の箇所は、私たちがその教えを日常生活の中で実践するように、という挑戦状であるとも言えます。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)