コリントの信徒への第一の手紙14章 教会の礼拝

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

13章でパウロは、クリスチャンのあらゆる活動の基礎が何であるか、を明示しました。たとえ人にどのような賜物があろうとも、愛がなければ、それらは何の益ももたらしません。自分の賜物を自慢し尊大に振舞うかぎり、賜物は害になるだけです。賜物は教会を建てるどころか、分解してしまいます。もしもクリスチャンが、皆が同じところに属しており、皆がキリストにあってひとつの活きた存在であるという事実を、できるかぎり愛をもって見ようとするならば、状況が一変し、クリスチャンたちの多様な賜物は神様からの大いなる祝福となります。

パウロは自重してまず12章を書き、それから13章を書きました。そしてようやく今、様々な賜物の用い方についての詳細な指示を与える時が来ました。もしもここまでの箇所(12~13章)の説明がなかったならば、せっかくの指示も人々はただ聞き流したことでしょう。

礼拝における預言と異言 14章1~25節

この章の前半で、パウロは二つの「恵みの賜物」、すなわち預言と異言を詳細に取り扱い、それらの用い方について指示を与えています。

「異言」とは、人が霊の働きかけによって生じる特殊な心の状態の中で語り出すことです。それはとりわけ祈りや神様への賛美というかたちで現れます。聞いている人は誰もその話がわかりません。話している人自身でさえそうなのです。異言を理解可能なものとするのは、もうひとつの恵みの賜物、「解き明かしの賜物」です。この賜物は、単純に言えば、異言の内容を聴き手に伝えるために理解可能な言葉に通訳する能力のことです。

異言を話す人とは異なり、「預言」という恵みの賜物を与えられている人は、聴き手に言語的に理解可能な言葉を話します。しかし、預言も霊の働きかけによるものであり、話し手は特別な心の状態で話している場合もあります。その言葉は話し手自身から生まれたものではありません。神様の御霊がその人に、その人自身は考え及びもしなかったようなことをあきらかにするのです。預言は常に未来の予言だとはかぎりません。むしろそれは、「神様が預言者の目を開いて、他の人たちには見えていないことを今ここで見えるようにする」、ということを意味しています。たとえば、24~25節によれば、預言者は人々の一番隠しておきたい秘密の考えさえも視ることができるのです。

これらの賜物はコリントの教会でどのように用いられていたのでしょうか。そして、パウロによれば、それらはどのように用いられるべきなのでしょうか。

異言の問題点は、誰も異言の内容を理解できない、ということです。コリントでは、このことをとりたてて問題視する人は誰もいなかったようです。しかし、パウロにとってはそうではありませんでした。仮にコリントの信徒たちがパウロの言葉を理解できないのだとしたら、パウロのコリント訪問は無益になってしまうところです。異言を話す人とその聴き手とが互いに理解し合えないかぎりは、異言を話す人は聴き手にとっては「外国人」です。

教会の礼拝では、これは奇妙な状況をもたらします。一方が長い話をし、他方がその話について「アーメン」と唱和しますが、話し手がいったい何を言ったのか、聴き手には見当もつかないのですから。それゆえ、異言は不信者を一人も信仰者にすることができません(21~22節)。

こういうわけですから、異言を話す人はそれを解き明かす技能をも祈り求めなければならないのです。自分自身がコリントの信徒たちよりも優れた異言の話し手であるにもかかわらず、パウロはこのように言っているわけです。自分に与えられた賜物を軽んじることなく、パウロは、「教会の礼拝では異言を用いるつもりはない」、と言います。異言の内容を解き明かす人がいないところでは、異言を用いるべきではないからです。

礼拝に関する指示 14章26~40節

11~14節の箇所のおわりで、パウロは教会を指導するための「指示」を非常に簡潔な規則に凝縮しました。26節は26~40節の箇所の導入節であり、この箇所で扱われるテーマをすべて含んでいます。すなわち、
1)異言で話すこととそれを解き明かすこと、
2)啓示(預言)、
3)教え、です。
残念ながら、賛美歌についての指示はありません。

1)「異言で話すこととそれを解き明かすこと」(27~28節)の意味は明瞭です。礼拝では、二人か、多くても三人の異言の話し手が人前に出ることができます。ただし、同時に二人が話してはいけません。また、もしも解き明かす人がいないのならば、異言で話してはいけません。すでにこれまでの箇所で、パウロは指示の根拠を明確にしました。すなわち、「もしも異言を解き明かす人がいないのなら、異言を話す人は自分自身と神様に対して話すようにしなさい。教会の礼拝で話してもよいのは、聴き手が理解できることだけです」、ということです。

2)パウロによれば、「啓示(預言)」は教会の礼拝の中で行ってもよいことのひとつであり、パウロ自身この働きを高く評価していることが今までの箇所からもわかります。ただしこの点に関しても、きちんと秩序を保たなければなりません。同じ礼拝の中では、二人か三人の預言をする人だけが話すことができます。預言で大切なのは「吟味すること」です。すなわち、預言をする人が使徒的な信仰に沿って話しているか、そうではないか、を評価することです。もしも二人目の預言をする人が同時に話し始めたならば、一人目の預言をする人は即座に黙らなければなりません。教会の礼拝は「歌の競演の場」などではありません。預言をする人は黙するべき時には黙することができるし、ちゃんと自分の順番を待つことができるものです。

3)「教えること」が、33b~35節の箇所のテーマです。今ここでパウロは再び、コリントの教会の女たちの礼拝での振る舞いに関して事細かな指示を与えています。11章で彼は女たちに、「頭を被り物で覆う」という条件を付けた上で、「預言と公の祈りの奉仕」を許可しました。おそらくコリントの教会の女たちは、啓示を受けると、被り物を頭から取ることで自分たちが「自由」であることを誇示したのでしょう。しかし、女たちのこういった態度を、パウロは認めませんでした。その理由を14章で見ることができます。すなわち、パウロはコリントの女性信徒たちが礼拝で「教師」として振舞うのを許可しなかったのです。「コリントの信徒への第一の手紙」で、パウロはしばしば「外交官」のような書き方をしています。しかしここでの「女は黙していなさい」という禁止命令は、まったく無条件な命令です。

多くの研究者は、「パウロが11章で女たちが礼拝で公に登場するのを許可しておきながら、14章でそれを禁止しているのは、矛盾しているではないか」、と考えています。しかしながら、両方の箇所を正確に読んでみるならば、そこには矛盾などはないことがわかります。パウロは11章で、「預言の恵みの賜物と公的な祈りの奉仕」を女たちに許可しています。そして14章では、「他の種類の話をすること」を女たちに禁じているのです。ここで使徒は「礼拝を妨げるようなつぶやきや雑音」のことを意味しているのでは、決してありません。もしもそうだったとしたら、そのために彼が使徒の全権威にかけて命じる必要などなかったはずです(37~38節)。

35節に書かれている「尋ねること」は、パウロが意味していたことを理解するのを助けてくれます。初代教会の説教はしばしば、集まった教会員たちに教師が質問を発する「話し合いの場」だったのです。そこでは、質問をした人が話し合いを指導しました。ですから、聴き手のうちの誰かが質問者つまり教師の立場を奪取するような事態もありえたわけです。このようなことが実際にコリントの教会では起こったのでしょう。それゆえ、「コリントの女性信徒たちは自宅で夫に質問するように」、という大まかな指示をパウロは与えています。この箇所の意味は明瞭です。すなわち、「女性信徒は礼拝で教師として活動してはいけない」、ということです。

パウロは14章のおわりで誤解の余地のない指示を与え、それらに従うことを要求しています。これらの規定に従うかどうか、コリントの信徒たちは自分勝手に決めてはいけないのです。神様の御言葉はコリントから発したのではなく、他の無数の都市の場合と同様に、外からそこにもたらされたものです。一つの教会が他のすべての教会のやり方に逆らって、新奇なやり方を教会にもちこむのは、あってはならないことです。おそらくコリントの教会では、預言をする者たちの啓示と霊的な指導者たちの権威とにかこつけて、こうした新奇な礼拝のやり方を正当化したのでしょう。ここでのパウロは、歯に布着せぬ言い方をしています。コリントの教会に向けてパウロが書いていることは、「主の命令」なのです。38節は、現在の新約聖書のギリシア語の底本と文法理解によれば、次のように解釈して訳すことができます、「もしも誰かがこれ(主の命令)を認めないならば、神様はその人を認めない」。この規則は明瞭です。すなわち、主の使徒が書いていることは「主の命令」であり、これを認めない者は教会の外部にいる(すなわち、教会に実は属していない)、ということです。

この規則を無効にするほどに「霊的」な預言者はひとりも存在しません。それゆえ、すべては威厳と秩序を保ちつつ行われなければなりません。そして、この「威厳と秩序を保ちつつ」ということがどういう意味かを決めるのは、コリントの教会でも、どの各個教会でもなく、主の使徒なのです。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)