「予型」についての教え 〜 予型的な聖書解釈について

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢 (フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

聖書の引用は口語訳によっています。
なお、日本語版では適度な編集及び聖書の箇所の付加がなされています。


はじめに

聖書には文字通りに実行するのが難しいような指示を含んでいる箇所が多数あります。私が知るかぎり、聖書の数々の指示の中に少なくとも一つ、容易に従えるものがあります。それは「ロトの妻のことを思い出しなさい。」(「ルカによる福音書」17章32節、口語訳)という指示です。

たとえばソドムとゴモラの出来事(「創世記」19章)を読むとします。この箇所における聖書の指示はそれを文字通りに解釈した場合にはどのようなことを意味しているのでしょうか。私は次のように理解します。あなたが住んでいる都市を神様が滅ぼすことにお決めになる場合には、神様は天の御使いたちをあなたのもとに遣わして、その都市を滅ぼす前にあなたをそこから安全な場所へと連れ去るようになさいます。その際に、あなたは神様から後ろを振り向かないようにと命じられます。だから、見てはいけません!しかし、キリスト信仰者がこのような状況に遭遇するのはきわめて稀です。しかし、もしも実際にそのようなことが起こるならば、おそらく私たちはその指示に従うことができるのではないでしょうか。

実際にはこの聖書の箇所は今私が言ったのとは異なるやりかたで理解されるべきであることをキリスト信仰者なら誰でもわかっていると思います。すなわち、ソドムとはかつて存在した都市のことではなく、今のこの世を指しているのです。ソドムから出ていくというのは自分の足で歩いてソドムの外に出ていくことではなく、この悪の世から霊的な意味で袂を分かつことを意味しています。後ろを振り向いてソドムのほうを眺めるというのは、ただたんに後ろのほうを見やることではなくて、いったん解放されたかつての自分の生き方にふたたび逆戻りしてしまうことを意味しています。

ソドムの出来事は新約聖書が旧約聖書を文字通りには説明していない具体例を読者に提供します。文字通りの解釈ではない様々な解釈のタイプはいくつもの種類に分類できます。それらのうちのひとつが「予型的な解釈」(英語で「typological interpretation」)と呼ばれるものです。これは、旧約聖書のテキストからそれ自体よりも重大な何かについての雛形すなわち「予型」(ギリシア語で「テュポス」、英語で「type」)を見出すやりかたです。前述の例で言えば、ソドムは今の世についての予型(テュポス)になっています。ソドムから出ていくことは今の世から霊的な意味で出ていくことの予型となっています。実際に世を離れて隠遁するという意味ではありません。この予型が喚起するイメージは新約聖書の他の多くの箇所でも、またキリスト教会における教えや賛美歌の伝統の中においても、しばしば提示されてきたものです。私たちキリスト信仰者はこの世では旅を続けながら生活しているということがその伝えようとしているメッセージです。

御言葉を視覚化する様々なやりかた

予型的な解釈、すなわち新約聖書の扱う事柄がすでに旧約聖書の出来事にあらかじめ示されているとする解釈はすでに新約聖書や初期の教父たちの文書にもしばしば見られます。それによれば、旧約聖書の叙述している事柄や出来事はいわば草稿や下書きやスケッチに相当するのに対し、新約聖書に記されている事柄や出来事は完成した芸術作品や衣装や建築物に相当することになります。新約聖書成立後の時代にサルデスの教会長を務めたメリトンという名の人物の説教が今も残っています。このすばらしい復活祭の説教で彼はイエス・キリストの復活を次のように叙述しています。

「愛されている者たちよ、
言葉や行いで表されるものは
譬(たとえ)や予型なしに表されることはないのです。
言葉や行いで表されるものはすべて譬に結びついています。
言葉で表されるものは譬に結びついており、
行いで表されるものは素描に結びついています。
それは、
何を行おうとしているかを素描がよく示すようにするためであり、
何を言おうとしているかを譬がよくきわだたせるようにするためです。
何の準備もなしに作品は生まれません。
完成品もまずはそのミニチュアを作ってみることからになります。
そうではありませんか。
それゆえに、
来るべき完成品の予型を蝋や粘土や木から形作るのです。
それは、
より大きく、
より堅牢で、
より美しく見える、
より豊かに構成されたものとして
立ち上がってくるものを
消えゆく小さな予型を通して
見えるようにするためなのです。」

メリトンは新約聖書を読むことによって予型的な聖書解釈を習得しました。一般の聖書の読者も彼の姿勢からは学ぶべきことがたくさんあります。

エジプトから脱出して目的地に到着するまでは

おそらく新約聖書で用いられた最も有名な予型はイスラエルの民がエジプトを脱出した出来事でしょう。この予型にも霊的な意味があります。キリスト信仰者の人生の歩みがそのメッセージの核心にあります。出エジプトの出来事については使徒たち以前にもすでにユダヤ教の教えにおいて使徒的な教えにおけるものと似通った解釈が試みられています。新約聖書において予型的な聖書解釈が用いられている箇所としてはたとえば「コリントの信徒への第一の手紙」10章や「ヘブライの信徒への手紙」3〜4章があります。これらの箇所における旧約聖書の解釈は内容的に同じものです。すなわち、かつてイスラエルの民はエジプトで隷属状態にありましたが、神様は彼らをモーセの指導によって解放してくださいました。そして、彼らは神様が彼らに賜ることを約束された地へと向けて旅立ったのです。それと同様に、人類は罪と死の地で奴隷となっていましたが、神様が彼らをキリストの指導のもとに解放してくださいました。そして、私たちは天の御国へと向けて旅に出たのです。しかし、これは危険な長旅です。旅上では多くの困難や試練に遭遇します。そのために旅人たちの多くは道半ばで行き詰まり、目的地までたどり着くことができなくなります。「こうならないように気をつけなさい」という警告が新約聖書のこの二つの箇所のメッセージには含まれています。

出エジプトの出来事の叙述ではエジプトがこの世についての予型となっています。この出来事は全体として私たちキリスト信仰者に私たちが今はまだ目的地に到着していないことを忘れないようにするために記されているともいえるでしょう。このように予型的な聖書解釈には容易に視覚化して構成できるという特徴があります。

青銅の蛇とキリスト

予型的な聖書解釈はルターが「小さな福音」と名付けた聖書の箇所の背景にもあります。イスラエルの民が神様に対してふたたび反抗したときに、その罰として彼らの只中に毒蛇があらわれました。蛇に咬まれた人間はひどく苦しんで死にました。恐慌に陥った民が神様に祈ると、主はモーセに青銅の蛇を作って杖の先につけるようにお命じになりました。すると、その蛇を見つめた者は誰であれ傷が癒されて死を免れることができました。まさしくこの旧約聖書の出来事が次に引用する「小さな福音」の背景にあったのです。

「そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(「ヨハネによる福音書」3章14〜16節、口語訳)

この出来事の予型的な聖書解釈の内容ははっきりしています。人は皆、蛇に咬まれてしまいました。蛇はそのようにして私たちに罪の毒を流し込んだのです。この毒は私たちを殺して永遠の滅びへと突き落とすものです。このような状態になっている人間にとっての唯一の希望はキリストを見つめることだけです。このキリストを神様は病を癒す「青銅の蛇」として与えてくださったからです。このお方を信じる者は誰であれ永遠の命を見出します。

「民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。」
(「民数記」21章5〜9節、口語訳)

二人のアダム

「ローマの信徒への手紙」5章でパウロは多くの言葉を費やしてアダムについて語り、アダムをキリストの予型として位置付けています。この箇所で使徒パウロは次のように言っています。

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
 というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。
 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。
 しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。
 かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。
 もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。
 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。」
(「ローマの信徒への手紙」5章12〜19節、口語訳、太字は引用者による)

上掲の引用箇所のとりわけ太字の部分(17節)に注目しましょう。キリストは新しいアダムであり、キリストから新しい世界が始まるのです。最初のアダムは罪に躓きました。そして、その報酬として我が身に罪と死と滅びを受け取ることになりました。しかも、これら負の遺産をアダムは自分の子どもたちに与えることになってしまったのです。これらは最初の祖先から私たちの代に至るまで引き継がれてきたのです。私たちは皆、いつか死にます。なぜならば、私たちは罪深い存在だからです。そして、私たちが受けるべき分は本来ならば滅びなのです。

「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」
(「ヤコブの手紙」1章14〜15節、口語訳)

このような悲惨な状態にいる私たちに助けを差し伸べてくれるのは新しいアダム、すなわちキリストだけです。キリストは十字架上での死という自己犠牲によって聖さと命と永遠の救いのさいわいを私たちのために獲得し用意してくださいました。このアダムは全人類を永遠の滅びに追い落とすようなことはなさいません。むしろ彼らに命を賜り、天地創造の本来の目的を成就なさるのです。その目的とは人が神様と共に活きるということです。

予型はたくさんあります

旧約聖書には新約聖書を基軸として読む時にはじめてその予型的な意味がわかるような人物や出来事が実に多く登場します。先に引用した教会長メリトンは復活祭の説教で次のように教えています。

「もしもあなたが主の奥義を見たいと欲するのなら、
当然ながらあなたが目を向けるべきなのは
アベルであり、
殺されたイサクであり、
縛られたヨセフであり、
売られたモーセであり、
放逐されたダヴィデ であり、
迫害された預言者たちであり、
キリストのゆえに苦しみを受けている者たちです。」

メリトンは聖書をよく読み、多くの予型の例を列挙しています。私たちの場合には、新約聖書で確実に予型とされている事柄のみに限定しておくのが安全なやりかたでしょう。

「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」
(「ローマの信徒への手紙」8章32節、口語訳)

アブラハムはイサクを神様への犠牲(いけにえ)として殺そうとしましたが、すんでのところで神様はそれを妨げられました(「創世記」22章)。実現しなかったアブラハムの犠牲がゴルゴタの十字架において私たちの身代わりに犠牲として死なれたイエス様の予型であったことを上掲の聖句は実に簡潔に表現しています。

「すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。」
(「マタイによる福音書」12章40節、口語訳)

キリストは大魚の腹の中にいたヨナを御自分の予型として示されました。

「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章7節、口語訳)

信仰は人に信仰を通して物事を見る目を与えます。方舟を建造したノアはこの信仰の目をもっている人間の予型となっています。

「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。」
(「ペテロの第一の手紙」3章18〜22節、口語訳)

ノアの建造した方舟は洗礼の予型となっています。

「兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」10章1〜5節、口語訳)

上掲の聖句に出てくる「霊の食物」とはマナのことであり、新約聖書における主の聖餐の予型となっています。

このように予型の例は枚挙にいとまがないほどです。予型的な聖書解釈は聖書全体を旧約聖書と新約聖書の相互連関を十分に踏まえて理解することの大切さを教えてくれます。