人間の行いによっては得られない「恵み」について

フィンランド語原版執筆者: 
ヴァルッテリ・ティッカコスキ(フィンランド・ルーテル福音協会)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

説教 2019年2月17日 ヘルシンキ・ルター教会
日本語版には一部加筆修正がなされています。


イエス様は次のように言われました。

「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。」
(「マタイによる福音書」20章1〜16節、口語訳)

イエス様は本日の福音書で「ぶどう園の譬え」を話されました。この譬えはどうして、誰に対して、どのような状況において語られたものなのでしょうか。

実はこの箇所のすぐ前のところで、ある金持ちの青年がイエス様に次のような質問をしています。

「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
(「マタイによる福音書」19章16節より、口語訳)

イエス様はこの青年に次のようにお答えになりました。

「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
(「マタイによる福音書」19章21節より、口語訳)

この青年はイエス様の返答を聞いて悲しみ、その場を立ち去りました。このやり取りを傍らで聞いていたと思われるペテロは、あの青年とはちがって悲しくはなりませんでした。彼はイエス様が青年にお命じになった通りのことを自分が他の弟子たちと一緒に実行してきたことに気がついたからです。それでペテロはイエス様に次のように言いました。

「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。
(「マタイによる福音書」19章27節より、口語訳)

イエス様はどのようにお答えになるでしょうか。

「ペテロの愚かな質問に対して、まずイエス様はお叱りになるだろう」と私は思いました。例えば「私イエスに従うことができるだけでは足りないのですか。私に従う報酬として私はあなたがたに何か与えなければならないとでも言うのですか」というように。

ところが、イエス様はペテロに私の予想とは異なる返答をなさいました。

「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」
(「マタイによる福音書」19章29節、口語訳)

イエス様の弟子たちにはこれほど素晴らしい約束が与えられているのです。しかもこの約束は、イエス様の御名のゆえにこの世でいろいろなものを失った全てのキリスト信仰者にも等しく与えられているものなのです。 ところが、それからイエス様は奇妙な言葉を付け加えられます。

「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
(「マタイによる福音書」20章16節、口語訳)

これはいったいどういう意味なのでしょうか。この謎めいた言葉を、イエス様は福音書にある「ぶどう園での労働の譬え」を通して説明しておられます。この譬えはどのように理解するべきなのでしょうか。

一般的に言えば、イエス様の譬えからはあまり多くの教えを探すべきではありません。譬えのごく細部に関して何か気の利いた説明を思いついたとしても、それは読者自身の想像によるところが大きく、イエス様の教えそのものについての説明ではない場合が多いのです。むしろイエス様は譬えを通して大事な一つのことを教えようとなさっていると言えるでしょう。

ところで、よくできたジョークは話の最後で聴衆の意表を突いて笑いをとるものです。一般的に譬えにはそれと似たところがあり、多くの場合、そのメッセージは終わりから見つかります。

「ぶどう園の譬え」の終わりの部分を見てみると、ぶどう園の所有者(「ある家の主人」)は、日中に何時間も労苦した者たちが苛立って不平を言うのが当然であるような態度を意図的に取っています。ぶどう園の所有者は、やろうと思えば、その日一番長く働いた者たちに最初に賃金を与えて立ち去らせ、その後になって、さほど働く必要のなかった者たちに対して最初の者たちと同額の賃金を払うことで予想外の喜びを与えるという気遣いのあるやりかたもできたはずなのです。ところがぶどう園の所有者は、わずかの時間だけ働いた者たちに対して真っ先に丸一日分の賃金を払いました。これでは、真面目に長時間働いた者たちを怒らせるためにあえて主人はそのように振る舞ったと思われても仕方がありません。当然ながら、長時間にわたって労働に従事した者たちは当初の契約に基づく賃金以上の報酬を期待しました。ところが結局、契約通り日当分しかもらえなかったので深く落胆しました。日中ずっと酷暑の中を働き続けた彼らの処遇には誰もが容易に共感できるのではないでしょうか。

仮にあなたが職場で週40時間働いているとします。あるとき同じ部署に週5時間だけ働く「怠け者」の職員が新規採用されたとしましょう。そして給料日に社長が大声で「この週5時間だけ働いた職員は丸一月分の正規の給料をもらえるが、週40時間働いたお前もそれと同額の給料しかもらえない」と宣言したとしましょう。どうですか。ジョークだとしたらとても笑えたものではないですね。

しかしイエス様の譬えによると、天の父なる神様はこのような「ぶどう園の主人」や「社長」と同じような存在であることになります。これは私たちにとってどのような意味があるでしょうか。

「ぶどう園の譬え」は「天の父なる神様はこの世の一般的な雇用者たちとは全く異なる原則に基づいて事業を運営なさっている」ということを教えてくれます。天の御国にはこの世の国々とは異なる独自の評定基準があるのです。

すでに上でも述べたように、ペテロは「イエス様の弟子となった者たちがどのような報酬を受けるのか」についてイエス様にたずねました。このことと関連して、弟子たちは「天の御国では誰が一番偉いのか」とか「イエス様の栄誉ある左右の席に座ることができるのはいったい誰か」とか「誰が最高の報酬を得るのか」といったテーマをめぐって互いに議論を戦わす機会が何度もありました。

しかも、このようなテーマは現代の私たちにも全く無関係であるとは言えないでしょう。今日でも私たちキリスト信仰者は周りの人々をいろいろと分類したり比較したりしますし、自己満足に浸ったり高慢になったりする傾向を持ってもいます。

仮にみすぼらしい服を着た人が酒に酔ったまま教会に入ってきたとしましょう。教会にいたあなたは「あのような人もここに来れてよかった。ただし礼拝中は私の邪魔をしないでほしいな」などと考えるかもしれません。一方で、例えば誰か有名人が教会に入ってきた場合には「あのような人が私たちの教会に来てくれたのは素晴らしいことだ。よし、礼拝中にあの人ができるだけ快適に過ごせるように配慮しよう」とあなたがたは互いに囁き合うのではないでしょうか。この例からわかるのは、私たちキリスト信仰者も教会を訪れた人々をいろいろな基準で仕分けする傾向があるということです。しかし人間は皆、神様の御前では等しく尊い存在であるはずです。

私たちは互いに比較し合う傾向があります。「私は人間としてもキリスト信仰者としても一番優れた者ではない。しかし、少なくとも一番悪い者でもない」などと自分について考えることがありませんか。自分以外の人間から、とりわけ家族や親しい人々から、少なくとも自分にはないと思われるような、いろいろな嫌なところや欠点を見つけて批判するのはいたって簡単です。喧嘩をした場合には「悪いのは相手であって自分ではない」などとついつい考えがちです。

あなたが自分を省みて自己満足や高慢なところが見つかるとき、イエス様があなたにかけてくださる最初のメッセージは「あなたの罪は赦される」です。イエス様を信じているあなたは天の御国に入ることが許されます。しかしその一方で、イエス様が伝えたい次のようなメッセージは私たちを恥じ入らせることでしょう。「自分は公の罪人とはちがって、神様からご褒美をもらってもおかしくないほど聖い人間である、などとまさかあなたは思い込んではいないでしょうね。あなたは自分が他の人よりも欠点が少ないと本気で思っているのですか。あなたは自分が他の人より少しは天の御国に近いところにいると空想しているのですか。実際には全く逆なのですよ。その高慢さのゆえに、あなたこそ神様から最も遠くのところにいるのです。それとも、あなたの目には不相応に見える他の人たちが神様から恵みの賜物を豊かにいただけることをあなたは妬んでいるのですか。そして、その同じ賜物はあなたからは奪われているとでも言いたいのですか。自分を他の人と比較するのはもうやめなさい。そのような態度こそキリスト信仰者にふさわしいものではないのですから。」

次にイエス様のこの譬えを「少ししか仕事をしなかった者たち」の視点から見てみることにしましょう。彼らに対してぶどう園の主人は特に気前よく賜物を分け与えました。まさにそれゆえに、この譬えは私たちに深い慰めを与えてくれるのです。

自らの不信仰と戦っているあなた、同じような罪に繰り返し陥ってしまうあなた、隣り人や神様を愛することに熱心になれないあなた、自分の目にもおそらく他の人の目にも救いようがないダメ人間に思えるあなたに、私は次のことを伝えたいです。

あなたには善なる天の御父がおられます。イエス様の血塗れの十字架の死は、あなたが父なる神様にとってどれほど深い愛の対象となっているかをはっきりと示しています。イエス様があなたの身代わりとしてあなたの全ての罪を引き受けて死んでくださったおかげで、神様はあなたの全ての罪を赦してくださるのです。あなたは神様の御前では、たとえわずかであっても他の人よりも軽視されてよいような存在ではありません。あなたは神様にとってかけがえのない存在であり、はかり知れないほどの豊かな愛が注がれている大切な存在なのです。

あなたは自分の悪さや弱さを実感している時にこそ、愛に満ちた善なる神様がそのようなあなたと共にいてくださることに深く気づくことでしょう。もしもあなたが「自分は全ての人間の中でも一番悪い人間だ」と感じているのなら、それは神様が他の全てにもましてあなたのすぐ傍に寄り添ってくださっている証拠であると言ってもよいくらいです。しかし、あなたは自分の悪さや罪深さを感じている時に自分のことを他の人と比較するべきではありません。ただイエス様を見つめ、イエス様が磔にされた十字架を見つめればそれで十分です。イエス様は必ずあなたを受け入れてくださいます。

このように見てくると、イエス様のこの譬えは傲慢な者を叱るものでもあり、それと同時に、弱い者を慰めるものでもあります。しかし、これは「人間には傲慢な者もいれば弱い者もいる」ということではありません。高慢さと弱さ、この二つの側面は私たち皆が持っているものです。私たちは全員が、己の自己満足で傲慢な態度についてイエス様からお叱りを受ける必要があり、またその一方では、弱っている時にイエス様から慰めと励ましをいただく必要があるのです。

どうか神様が日々私たちを叱るとともに慰めてもくださいますように。アーメン。