子どもに与えることができる一番大切な贈物

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

私たちは自分の子どもを愛しています。そして、彼らに最善のものを与えたいと望んでいます。しかし、はたして私たちは子どもに最善のものを与えているのでしょうか。たとえば、趣味は大切なことです。しかし、子どもによい趣味をもつ機会を提供することが子どものために一番大切なことではありません。子どもに外国旅行の費用を払ってあげたり、子ども部屋に最新流行のおもちゃを一通り買い揃えてやったりすることも一番大切なことではありません。一番大切なことととは、イエス様への信仰です。

子どもたちに信仰について長年教えてきた私のある友人は 、「子どもの心はイエス様の種まきのたとえ(「マタイによる福音書」13章)にでてくる「よい土地」と同じようなものだ」、と言ったことがあります。子どもは心を開いており、教えられたことを素直に受け入れます。ところが、人は成長すると心を閉じてしまい、信仰に関わる事柄を受け入れるのが以前よりもはるかに難しくなります。もちろん、神様に不可能なことは何もありませんが、こうした理由から、まさしく子どもたちに神様について話して聞かせるのは本当に大切なことなのです。

子どもの頃に聖書の教えを心に蒔いてもらった人たちの多くは、たとえ大人になってから他の道に迷い込んでしまう場合にも、やがてそれらが間違っていることに気が付いて、信仰の道へと戻ってくることがよく起こります。もっとも、その人の両親は自分の子どもの悔い改めを見ることなく、子どもが不信仰な生活を送っていることを悲しみながら、先に死んでしまうことになる場合もあるかもしれません。信仰者の家庭に育った子どもたちは、信仰の中に活きています。信仰の中に生活していない場合であっても、彼らは「自分のしていることは間違っている」というやましい良心をもっているので、何が正しいか実は知っている自分の良心にいつまでも逆らい続けることはできないものです。こういうわけですから、私たちも子どもたちに信仰について熱心に教えようではありませんか。

現代の子どもたちは、他のいろいろなことをたくさん学んでしまいます。その一方で、信仰に関わる事柄が脇へ追いやられるか、禁じられてしまうケースもあります。子どもの心は何か他のものでいっぱいになったりします。あるいは、信仰に関わる事柄が作り話や他の宗教などとごちゃ混ぜになったりもします。とりわけテレビやインターネットなどのメディアが子どもにこのようなことを教えてしまいます。

信仰は子どもに何を与えますか?

 私たちの息子マルッティは夜寝るのが怖い時期がありました。私たち夫婦は彼が暗い子ども部屋の中で4歳の子どものもつ真剣さでこう祈る声を聞きました、「イエス様、マルッティ・ランキネンによい眠りを与えてください」。翌朝息子は、夜寝るのがもうそれほど怖くなくなった、と語りました。 イエス様への信仰は、子どもにも大人にも、大いなる神様は実際におられて、どこでもどんなときにでも私といっしょにいて、私の世話をしてくださっている、という安心を与えます。

 イエス様への信仰は、人生に意味を与えてくれます。それは、「私がこの世に存在しているのは偶然ではない。私が存在しているのは、神様が私をこの世へと創造し、私に命を与えてくださったからだ」、というものです。もしもこの単純なことを知って信じるならば、人生は決して無駄にはなりません。ところが、多くの人はこのことを信じていません。ですから、子どもの人生からさえも生きる喜びが消えてしまっている場合があるのは、とりたてて不思議なことではありません。

 イエス様への信仰は、何が正しく何が間違っているかを最良の仕方で教えてくれます。 「正しいこと」とは聖書が行うように命じていることであり、「間違っていること」とは聖書が禁じていることです。もしも子どもが聖書に従うことを学ぶのなら、その子はあとになって苦しみの涙を流さずにすむのです。そして、イエス様への信仰が聖書に従う力を与えてくれます。

 自分でやってしまった悪いことについて、子どもには罪の意識があります。罪の呵責は子どもを苦しめ、落ち込ませ、生きる意欲を失わせます。罪の意識に対する最良の薬は、イエス様への信仰です。子どもには「それは罪ではなかった」などとは言いません。「自分は悪いことをやった」、と子どもは自分でもわかっています。しかし、子どもはイエス様からありとあらゆることについて罪の赦しをいただきます。そして、このことから子どもは(罪の意識から解放された)「よい良心(自意識)」を得ます。

 この世における人生で、イエス様への信仰が与えてくれる上述の事柄よりも大切なことは他にありません。もしも私たちが子どもたちに神様の御言葉を教えるならば、これら最善なものを私たちは子どもたちに与えることになります。イエス様への信仰を神様自ら生み出してくださる御言葉を私たちが子どもたちに与えないで彼らを放任しておく場合には、御言葉という最善なものを与えずに子どもたちを放任しておくことになるのです。

 私たちのこの世での人生の後には永遠の世界が待っています。そこには天国と滅びがあります。人はイエス様を信じることによってのみ、天国に入れていただくことができます。自分の子どもがいつか天国にいるようになることを、私たち親は心から望んでいるのでしょうか?それは、私たちが普段から子どもたちに神様の御言葉を教えているかどうか、ということからわかります。

どうして私たちは教えないのでしょうか?

 私たち親はキリスト教信徒として、信仰にかかわる事柄を子どもたちに教えることを大切だとみなしています。しかしながら、私たちはそれらについてあまりにも少ししか教えていません。このようになる理由は、たぶん時間がないからでしょう。一日は朝から晩まであっという間に過ぎ去りますし、他にやることはたくさんあります。しかし、生活があまりにも忙しくなりすぎ、信仰にかかわる事柄について子どもたちと話し合う余裕さえ持てなくするのは、悪魔の仕業であるとも言えます。そして、聖書は悪魔に対抗するように命じています。具体的に対抗する仕方はいろいろあります。たとえば、仕事や掃除など他のことをとりあえず後回しにして、これらもっと大切な事柄のために時間をとっておくことです。

 あるいは、私たちが信仰にかかわる事柄について子どもに話さない理由は、子どもがいろいろ難しい質問をしてくることを親として恐れているからなのかもしれません。しかし、すべての質問に答えられるようでなければならない、などという必要はないし、わからないことについては「わからない」と言ってかまいません。私たちは神様についてすべて理解しているわけではないからです。この大いなる神様に対してひざまずくという姿勢を、子どもにも教えなければなりません。私たちは活ける神様を信じています。人間は、自分が作り上げた「神」については、すみずみまで知り尽くしているものです。しかし、私たちキリスト教信徒はそのような偶像を信じたりはしません。

 私たちが信仰にかかわる事柄について語るのが少なすぎる理由は、まだ他にもあります。たとえば、子どもの友達全員が信じているわけではないから信仰について家庭で話すのは子どもに矛盾した思いを抱かせることになるのではないか、という恐れ。子どもがキリスト信仰者であるという理由でいじめられるのではないかという不安。たしかに、実際そのようなことが起こるかもしれません。しかし、すべての人が信じているわけではないし、自分が信じているがゆえにいろいろと苦しい目にあうこともあるという現実に、人が子ども時代に遭遇するのは悪いことではありません。いずれにせよ、キリスト教信徒はこの現実に遅かれ早かれ直面しますし、もしも天国への道を歩みたいのならば、この真実を受け入れるしかないからです。

私が話すなんて

 「自分は子どもたちに神様について話すにはふさわしくない者だ」、という思いに駆られることが、私にはしばしばあります。私は、本来そうあるべきであるような理想的な親ではありません。私は家で怒るし、優しくない物の言い方もします。それでも、私は神様について話そうとしています。「お父さんは聖人でもなんでもなかった。でも、イエス様を信じていた。だから、私もお父さんと同じようにイエス様を信じることができるし、信じていいんだ。たとえ私が罪深い者であったとしても」、というまさにこの点に、子どもたちが後になって気が付くことになる一番大切な教えがあるのではないでしょうか。

「教える」とは、どのようなことでしょうか?

私たちキリスト教信徒は子どもを教会に連れて行ったり、子どもと一緒に夜のお祈りをしたり、子どもに時おり神様について話したりします。これらのことはたしかに大切ですが、まだ「教える」ことにはなっていません。もしも子どもに算数を教えようとするならば、子どもの脇に座って、子どもと一緒に問題を解きます。これと同じようにして、信仰についても教えるべきです。時間を用意し、子どもの脇に座り、子どもと一緒に神様について話し、子どもが理解したかどうか、質問してみます。

私たち夫婦は息子ユホが学校に通うようになる前に、「十戒と使徒信条と主の祈りを学び覚えることにしよう」とユホと一緒に決めました。私たちは春と夏、何回にも渡って、一緒に座り、これらの事柄を学びました。私はひとつひとつ声に出して言い、息子はそれを繰り返し、暗唱しました。そしてそれから、今学んだことはどういう意味か、話し合いました。このようにして私たちは一緒に、信仰についてさまざまなたくさんのことを考えることができました。息子は注意深く聞き、また質問しました。そして、息子は学び理解したと私は信じています。息子はまた、父親である私に大切なことを教えてくれることがありました。私たちが第六戒(「あなたは姦淫してはならない」)を学んでいるとき、その命令がどのような意味か息子に尋ねたところ、ユホは少し考えてこう答えました、「もしも結婚して、結婚相手の中に自分の気に入らないところがあるとわかっても、相手を捨ててはいけない、という意味でしょう」。信仰の大切な事柄を自分の子どもに、たとえばこのようなやりかたで教えてみたらどうですか?少なくとも、たっぷり時間の余裕をとって子どもと一緒に信仰について話し合ってみてください。こうすることで、信仰に関わる事柄が子どもにとって、他のことと同様に自然なことになるからです。

何を教えるべきなのでしょうか?

子どもは正直ですし、また相手からも正直さを要求します。ですから、すでに子どもに教えてあることをないがしろにしてはいけません。もしもそのようなことをすると、「信仰についての話はすべてうそだったのか」、と子どもは心の中で疑うようになります。「滅び」が存在することを教えた後で、「誰でも皆天国に行ける」と子どもに言ってはいけません。とりわけこの問題に関して正直であるのは難しいです。しかし私が言いたいのは、イエス様とはまるで関係がないように生活していた隣人が死んだとき、「あの人は間違いなく滅びに落ちた」と子どもに言わなければならない、ということではありません。「正直である」ということは、「あの人がどうなったかは、私たちにはわからない。あの人のことは神様の御手にゆだねよう。神様はあの人を御自分がよいと思われるように裁かれるだろう。しかし、私たちはイエス様を信じている。だから、絶対に天国に行ける」、と子どもに言うことです。

子どもにも「律法と福音」について教えるべきです。神様の戒めがなんと言っているか、子どもに語ってください。罪を憎まれる聖なるお方、偉大なる神様について話してください。「イエス様が私たちのために死んでくださったゆえに、私たちのすべての罪は赦されている。イエス様の死のおかげで私はそのままで神様に認められ受け入れていただける」、ということを語ってください。私たちを愛し、憐れみ、天の家へと導いてくださる神様について子どもに話してください。

楽しいひととき

フィンランドでは戦時中にこういうことがありました。戦地で御言葉と祈りの集いが開かれている間、その場にいる兵士たちが配給のタバコを楽しむことができるよう、何人かの従軍牧師たちが願い出て、許可が下りました。そこには深い知恵がありました。私たち夫婦もそれと似たような次のことをしました。礼拝で説教が始まるときに、私たちは息子たちの手にお菓子の箱を渡しました。信仰について説教されている時は楽しいひとときだった、という思い出が残るのは大切なことです。こうすることで、御言葉が心に入りやすくなります。しかし、もしも説教を聞いているときに苦しい圧迫されるような印象が子どもに残るようだったら、逆効果になります。

大き目の子どもたちが御言葉の説教を聞くように強制することはできません。それでも、説教を聞くそのひとときが楽しくなるように工夫することはできます。お菓子などの補助手段を少しぐらい使ってもかまわないと思います。どのような理由から御言葉の説教を聞くことになるにせよ、神様の御言葉は子どもや大人の心の中で働いてくださるからです。

夜の聖書とお祈り

あなたがたの家では夜の聖書とお祈りのひとときをもっていますか?それはとりたてて手の込んだものである必要はありません。たとえば、居間か子ども部屋で聖書か子ども聖書かお祈りの本を読み、主の祈りを一緒にお祈りして、賛美歌を歌います。これらのひとときを通して、イエス様が言われるあの「よい種」が蒔かれるのです。御言葉を子どもがちゃんと聞いているかどうかおぼつかない場合でも、これは変わりません。そして、この蒔かれた御言葉の種は時が来れば芽を出します。夜の聖書とお祈りのひとときには、信仰やその日の出来事についても話し合うことができるように時間を用意しておきましょう。また、今読んだ聖書の箇所について質問してみましょう。子どもたちからしばしば驚くようなすばらしい答えが返ってきますよ。

信仰は神様のみわざです

 誰か他の人に信仰を与えることは、私たちにはできません。自分の子どもについてさえもそれはあてはまります。信仰を与えてくださるのは神様だからです。十字架につけられた主を信仰することは、多様な世界観の中から選び出して子どもたちにも教え込んでいくような「世界観のひとつ」などではありません。信仰とは、それよりもはるかに測り知れないほど偉大なものなのです。一方で、信仰は何もないところからなんとなくやってくるものでもありません。信仰とは、神様が御言葉によって創造してくださるものだからです。しかも、神様は信仰を御言葉以外のものによってはお与えにならないのです。

 あなたは自分の子どもに信仰を与えることはできませんが、神様の御言葉を与えることはできます。あなたが聖書を読み、教えるときに、その読まれた御言葉の中に神様はおられ、あなたの子どもの内で働いてくださるのです。おそらく、あなたが子どもに神様の御言葉を伝えているひとときは、あなたにとってはあまりにも地味すぎるか、あるいは落ち着きがなさすぎるように思われて、神様が御言葉を通して子どもに働きかけておられることを信じることができないかもしれません。にもかかわらず、まさに次のことが決定的に重要になります。すなわち、あなたの子どもは神様の御言葉を聞いてきたか、ということです。

神様に話してください

ある友人は私にこう言いました、「私の父は家にいることがほとんどなくて、この(キリスト教)信仰を私に教えてくれる暇がありませんでした。でも、父が旅行中に私のためにたくさん祈ってくれていたことを私は知っています。そして、私が今信じているのも、父の祈りの影響が大いにあると信じています」。もしもあなたがなんらかの理由で神様について子どもたちに直接話すことができない場合には、どうか子どもたちについて神様に話してください。それにも奇跡のような効果があるからです。