聖書は洗礼について何を教えていますか

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

 この小文では洗礼に関する問題を扱い、このことについての聖書の教えを簡潔にまとめます。そして、洗礼が恵みの手段であること、すなわち、洗礼を通して罪の赦しを受けること、を否定する人々との対話をめざしています。私の議論の出発点はルター派の洗礼についての見解です。

 この小文は洗礼をめぐる対話の中の一つの意見の提示するものです。これを最後まで読んだ人が、洗礼をめぐる種々の対立意見のどの主張に関してどのように自分では思っているか、どの点で意見を異にするか、しばし立ち止まって考える機会となればさいわいです。その後で、読者は、洗礼に関する考えを個別のテーマにしぼって深めていくことができるからです。

 簡潔にまとめることに重きをおいたために、この小文は残念ながらかなり表面的な内容にならざるをえませんでした。取り上げることができなかったテーマとしては、たとえば、旧約聖書の予型(雛形)、洗礼者ヨハネの洗礼、洗礼にかかわる聖書の多くの重要な箇所(使徒言行録など)があります。

1)人間はその隅々にまで染み付いた罪(原罪)によって腐敗しています

 洗礼にかかわる問題は、それを適切な問題設定の枠組みに入れないかぎり、誰一人それを理解することができません。私たちがここで出発点とする見解は、「全人類は神様から完全に離れてしまっている」、ということです。

 この問題を考える上で基本的でもっともわかりやすく、まったく慰めない聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙1章です。それによれば、神学用語でいうところの「一般的啓示」によってすべての人間は(聖書ではなく)自然を通して神様の活動の一端を知覚できるようになっています。ですから、本来ならば人類は自らの創造主を知って仕えるべきだったのに、そうしませんでした。逆に、罪を重ねることで、神様に背を向け神様を捨てました。それゆえ、今現在そうなっているように、この世は慰めのない罪と暗闇の巣窟となってしまいました。この世界では、誰一人、聖書で言う「肉」(すなわち、罪の中に落ちた自己)によっては神様のことを探そうとしません。また、神様のほうでもご自身を人間から隠して誰一人見出すことができないようになさいました。神様は「隠れたる神」です。人間はいくら自身の宗教性を駆使したところで、それで神様に近づけるわけではありません。それどころか逆に、造り主からより遠ざかってしまうことになります。

 このように、「人間は神様から完全に離れている」、というのが聖書の出発点です。聖書の核となるメッセージは次の通りです。愛の神様は、罪の中に落ち込み永遠の滅びの裁きを受けているこの世のことを、ふたたび顧みて憐れんでくださり、キリストを通して私たち人間を罪と死と悪魔の圧政下から贖い出してくださいました。キリストをこの世に派遣する前にそのための下準備として、神様はアブラハムを選んで彼の子孫を「神の民」とし、御旨をモーセと預言者とを通して告げ知らせました。こうしてできた道は神様の御子イエス様がこの世に来られるために開かれたものでした。御子の生誕によって、光は闇の中で輝き、神様は人間に近づいてくださったのです。

 この出来事は神様の大いなる愛の御業でした。旧約聖書の段階ではその準備が進められました。そして、イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかかって死に、三日後に死者の中から復活なさった時に、それは成就されました。使徒たちとその後継者であるキリスト教会全体は、この救いの御業を全世界に告げ知らせる使命を与えられてきました。神様の恵みの活動は、使徒たちの伝えた神様の御言葉である聖書とその使徒的な説教と、洗礼と聖餐という聖礼典とを通して、私たちのもとに届けられます。

 最初の人間たちの罪の堕落の出来事以来、人は皆、この世に罪深い存在として生まれてきます(詩篇51篇)。人はほうっておけば勝手に自分の生き方を決めて、神様から離れて生活し、しまいには滅びの苦しみが永遠につづく世界に落ちていきます。「子どもは皆、キリストなしでも天の御国に入れる」、とする考えかたは人間が捏造したものであり、聖書に基づいていません。神様がキリストを通してこの罪深い世界に自ら近づいて贖いの御業を成就してくださったところにのみ、救いは存在します。「イエス様の弟子」としてのみ、人は救われるのです。そして、イエス様の弟子になるのは、洗礼を通してです。

「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。」
(マタイによる福音書28章18〜20節、口語訳)

2)洗礼とは何ですか

 聖書は洗礼について実に様々なイメージを豊かに用いて説明しています。

A)「埋葬と復活」(ローマの信徒への手紙6章)

「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」
(ローマの信徒への手紙6章1〜8節、口語訳)

 パウロはローマの信徒への手紙の最初のほうの章で、恵みがキリストのゆえに無条件で与えられることを重ねて強調しています。その後で、予想される反対意見をあらかじめ取り上げて議論しています。それは、「キリスト信仰者は洗礼を受けているのだから、好きなだけ罪を犯してもよいのか」、という問題です。パウロの答えは意表を突くものでした。「キリスト信仰者は洗礼を受けているからこそ、罪を犯してはいけない」、というのです。これに続いて、「洗礼を受けていることには二つの意味がある」、という素晴らしい説明がなされます。

 第一の意味は、洗礼は神様の賜物であるということです。人は洗礼を通してキリストの死と復活とに結びつけられます。それによってさらに神様の栄光にあずかれるようになります。

 第二の意味は、洗礼は人に義務を課すものであるということです。洗礼を受け「神様のもの」とされた人はそれにふさわしい生き方をしなければなりません。

 洗礼の意味は、私たちの内なる「古き人」がキリストの死と共に埋葬されて、この洗礼の墓から、キリストの復活に結ばれた新たな存在、神様が私たちの内に創造される「新しき人」となって甦ることです。このように、洗礼は洗礼を受けた者が生涯にわたって聖く生きていくことを義務付けます。この「聖化」は、「古き人」を日々脱ぎ捨てて「新しき人」として生きて行くことです。パウロはローマの信徒への手紙の後半を通してこのことの大切さを繰り返し取り上げています。皆さんも是非読んでみてください。

 パウロは新約聖書の他の手紙でも「古き人」と「新しき人」という二項対立を強調しています。

 「古き人」とは、キリストが全人類のすべての罪のすべての罰を引き受けて十字架にかかって死んでくださったことを受け入れず、自分自身の力で生きている人間の状態をさします。キリスト信仰者に関して言えば、この「古き人」は洗礼の水のなかに沈められ埋葬されています(ローマの信徒への手紙6章)。

 「新しき人」とは、神様が贖い出してくださった者としてのキリスト信仰者の新しい立場をさしています。キリスト信仰者としての生活は、キリスト信仰者がキリストの尊い血によって贖われていることを常に念頭に置いて自らの生き方を決定していくことであり、「古き人」を脱ぎ捨てて「新しき人」を着ることを日々繰り返していくことです。

「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」
(エフェソの信徒への手紙4章22〜24節、口語訳)

「互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。」
(コロサイの信徒への手紙3章9〜10節、口語訳)

B) 新たな誕生(ヨハネによる福音書3章5節、テトスへの手紙3章4〜6節)

「パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。
イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」
(ヨハネによる福音書3章1〜18節、口語訳)

「わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。
ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。
この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。」
(テトスへの手紙3章3〜7節、口語訳)

 ヨハネによる福音書3章は、ローマの信徒への手紙1〜6章の核心的な内容を含んでいます。上記のイエス様とニコデモとの対話の箇所は、その全体をひとまとまりとしてみていかなければなりません。律法の教師であり律法に従って生きていたニコデモは、夜に主の御許を訪れて神の道を尋ね求めます。イエス様は彼に、「だれでも新しく(あるいは「上から」)生れなければ、神の国を見ることはできない」、とお答えになります。この考えはローマの信徒への手紙1章の教えと同じです。すなわち、人間は自らの宗教性によってはキリスト信仰者としての新たな生き方をすることができない、ということです。「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」からです。ですから、神様ご自身による働きかけが必要になります。福音書記者ヨハネはその中心的な内容を3章16節にまとめています。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネによる福音書3章16節)

 このようにして神様は、死すべきはずの人間がキリスト信仰者として新たな生き方を送れるように取り計らってくださいました。天の御国に入れていただけるこの生き方には、「水と霊とから生れ」ることが含まれています。

 「新生」という言葉は新約聖書に数回だけ出てきます。ある宗派の教えによれば、新生とは、とりもなおさず体験であり、おそらくは信仰に入った時の経験をさしています。しかし、この言葉を広く聖書の他の箇所と関係させ、生と死という観点から扱うと、ちがったものが見えてきます。新生もまた神様の大いなる救いの活動です。このことについて、ローマの信徒への手紙は、神様が命を死の只中にもたらし暗がりの片隅に光を照らしてくださる、と語っています。神様の救いの活動はひとつの大きな全体をなしています。多くの様々なことがらはこの活動の一部なのです。それはたとえば、キリストの十字架の死と復活にみられるように、死の只中に命をもたらすこと、新生のもたらす愛 、聖霊様が人々をキリストの御許に呼び集めてくださる活動、キリスト教会を様々な恵みの賜物によって祝福すること、そして洗礼です。

C) キリストの体の一部となること(コリントの信徒への第一の手紙12章12〜13節)

「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。」
(コリントの信徒への第一の手紙12章12〜13節、口語訳)

 コリントには、パウロにとって問題でもあり愛の対象でもあった教会がありました。問題だったのは、一方ではいきすぎた霊的な状態であり、他方ではそれと深く結びついたあまりに肉的な生き方でした。恵みの賜物に関しては、人々は互いにどちらが優れているか劣っているか比べ合うという無益なことをしていました。コリントの信徒への第一の手紙12章で、パウロは同じことをくどいほどコリントの信徒たちに対して忍耐強く教えています。

 人がキリストの身内に属する者とされるのは、その人が得た力ある恵みの賜物のおかげではなく、その人自身のうちにある特別な何かのせいでもありません。聖霊様が人をキリストの体の一部となるように洗礼を授けてくださったから、その人はキリストに属する者となったのです。

 このあとで聖霊様は、キリストの体の一部である人々に対してそれぞれの場所と使命を用意してくださいます。各々には互いに異なる使命が与えられています。しかしそれは、彼らが不平等に扱われている、ということではありません。洗礼を受ける者は御言葉を周りに広めていく使命を委ねられています。キリスト信仰者には全員、この世で伝道していかなければなりません。しかし、人をキリストに属する者とするのは、人に与えられた多様な恵みの賜物ではなく、神様の恵みの御業なのです。この御業に人は洗礼を通して結びつけられ、その救いにあずかれるようになります。

D)キリストを着ること(ガラテアの信徒への手紙3章26〜29節)

「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」
(ガラテアの信徒への手紙3章26〜29節、口語訳)

 ガラテアの信徒への手紙が書かれた背景にあった基本的な問題は、異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒との間の関係でした。「キリストに依り頼むことによってのみ、異邦人は神様のものとなることができる」、とパウロはガラテアの教会で教えました。ところが、パウロが去ったあとでそこに他の教師たちがやってきて、「モーセの律法に従って少なくとも割礼の規定を守らなければ、異邦人キリスト教徒は天の御国への道を歩んではいない」、と教え始めました。

 「神様はアブラハムとそのただ一人の子孫に祝福をお与えになった」、とパウロはガラテアの信徒への手紙3章で言っています。どのようにすれば、私たちは神様の祝福をいただけるのでしょうか。「この一人の子孫とはキリストのことである」、とパウロは答えます。私たちは洗礼を受けてキリストに結びつけられる時、キリストを着ます。そして、すべてのキリスト信仰者と、とりわけキリストご自身と、結び合わされてひとつの活ける存在となります。こうして、私たちはキリストの体の一部になります。このことに関しては、誰が生れながらのユダヤ人で誰がギリシア人か、ということはもはや意味がありません。なぜなら、神様の御業は私たちに恵みを賜り、洗礼はそれを私たちのもとに個人的に送り届けてくれるからです。

E)洗礼はよい良心の契約(あるいは約束)です(ペテロの第一の手紙3章20〜22節)

「これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。」
(ペテロの第一の手紙3章20〜22節)

 ペテロは洗礼をノアの箱舟と洪水にたとえています。洗礼は、大洪水が押し寄せてきた時にキリスト信仰者を安全に運んでくれる船のようなものです。洗礼を受けたキリスト信仰者がこのような恩恵を受けるのは、その人が自らの決断によって汚らしい生き方を捨て去る約束をするからではありません。こうした姿勢自体は、ローマの信徒への手紙6章の教えにかなっています。しかし、ここで大切なのは、神様が「よい良心の契約」をしてくださった、ということです。「契約」とここで訳したギリシア語の新約聖書での「エペローテーマ」という言葉の原義は、弱い立場にある者が強い立場にある者からの提案として受け入れる「契約」(「約束」)のことです。

「よい良心の契約(約束)とは、まず神様が人に罪の赦しとよい良心を提供してくださり、それらを人が感謝を持って受け取ることを意味しています。」
(新約聖書教授 ユッカ トゥレンによる説明)。

3)洗礼は救うか、それとも救わないか

 洗礼をめぐる議論で重要であるにもかかわらずしばしば忘れられている箇所があります。それは、コリントの信徒への第一の手紙10章1〜11節です。そこでパウロは、新約の民の生き方を旧約の民のエジプトから約束の地までの旅路になぞらえています。旧約の民は全員が海を通してモーセに従う者としての洗礼を受けました。ところが、全員が約束の地にたどり着けたのではありませんでした。不信仰に陥った人々がいたからです。たしかに神様はこれら不信仰な人々をエジプトとファラオの軍隊から救ってくださり、彼らが約束の地へ向けて旅をするようになさいました。しかし、不信仰のゆえに、彼らは目的地にはたどり着けませんでした。これとまったく同じことが洗礼についても言えます。洗礼を受けた者はその全員が、神様の救いのまことの御業をたしかに自分のものとして受けました。この御業に私たちは安心して頼り切ることができます。しかしその一方では、私たちはまだ天の御国という約束の地には到着していません。そこまでの道のりは長くて危険なものです。洗礼を受けたものの洗礼で受けた恵みを覚えないまま、永遠の滅びへの道を歩んでいる人は大勢います。彼らに対して洗礼の意味を正しく教えるのは、私たちに委ねられた非常に大切な使命です。

4)激しい議論の的になる点について

 皆さんがそれぞれ自分の意見をもてるように、これまで述べてきた内容に基づいて幾つかの命題をまとめてみたいと思います。もしもこれらの命題について皆の意見が一致するようであれば、ここでは取り上げなかった他の問題についても答えが見つかることでしょう。しかし、もしもそのような意見の一致をみない場合には、そうした意見の相違は他の問題について話し合う場合にもなんらかの形で表面化することでしょう。それゆえ、次に挙げる一連の命題をじっくりと考えてみるのはよいことです。

A)人は皆、自分の力に依るかぎり完全に罪の圧制の下にある。私たちが救われるのはひとえに神様の御業のゆえである。このことは子どもにもあてはまる。

B)神様は洗礼を救いの道として設定された。それゆえ、洗礼は救いの幸いにあずかるために不可欠である。このことは子どもにもあてはまる。しかし、神様ご自身はこのことに束縛されてはいないため、洗礼を受けていない人のことも救う場合が起こりうる。神様は自由に活動なさるからである。

C)洗礼は神様が私たちにくださった賜物である。洗礼において神様は、私たちが天の御国に入るために必要なものをたしかにまことに与えてくださる。洗礼に関する核心的な問題は、「キリストが洗礼のうちにおられるのか、おられないのか」、また、「洗礼において罪の赦しをいただけるのか、いただけないのか」、ということである。もしも答えが否定的なら、洗礼は何の役にも立たないことになる。もしも答えが肯定的なら、この神様の御業以外には何も必要ではなくなる。

D)洗礼は賜物であるとともに、義務を課すものでもある。私たちは洗礼において天の御国へ向けて旅する者とされる。しかし、私たちはまだ目的地に着いたわけではない。洗礼を受けていても、主が主であることを否定し続けるならば、旅の途中で倒れてしまうことになる。しかし、私たちはすでにこの世で神様の民の一員とされ彼らとともに天の御国へと向けて歩み、約束の地において彼らの群れに加えられることが許されている。


聖書の訳は口語訳によっています。