神様は畏れるべき、また愛するべきお方です

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

これから神様について考えてみることにしましょう。神様はどのようなお方なのでしょうか。「神様を知る」とはどういうことでしょうか。神様がどのようなお方であるか、一体どこから知ることができるのでしょうか。

「神が存在するのはたしかかもしれない。しかし、神については(少なくとも確実なことを)知ることはできない。だから、こういうことは深く考えないほうがよい。」 人が信仰にかかわることがらに接するときに示すごく一般的な反応はこのようなものではないでしょうか。そして、この考え方には真実をついている面もあります。神様を知るようになるための特別な能力が私たち人間のうちに備わっていないのはたしかです。

私は10代半ばに 堅信キャンプ(堅信礼に先立って行われキリスト教の基礎を学ぶキャンプ)に参加しました。そこで学んだいくつかのことを今でも覚えています。そのひとつは「神様は隠されている」という教えです。これは、神様が私たちの思いもしないところにおられることを意味しています。また、私たちが氷点下の冬の夜に満天の星空を見上げて、「神様はたしかに存在する。だけど、神様に直接会うことも見ることもできないし、私の思いの中で把握することもできない」、と実感することでもあります。

人間というものは、神様についてあれこれ想像をめぐらすものです。こういうことが人間は得意なのです。この世界は多種多様な宗教や宗教的思想で充満しています。しかし、神様についての話は、「私はこう考えている」とか「ある偉大な思想家はこう言った」とかいう類のものであるかぎり、たんなる推測の域を出るものではありません。実際に見たこともなく知ってもいないことについて話しているに過ぎないからです。そうした推測の中には正しい考え方に近いものが部分的に含まれている可能性もあるでしょう。しかし大部分の点では、神様について見当違いな見解が示されているものです。たとえば、本屋から「偉大な思想家たち」といった啓蒙書を買い込んで、そこから神様について意味のある思索を探す人は、実は徒労なことをしています。そうする人は多いのですが、このようなやり方によっては神様を知るようにはなりません。

神様は隠されている、というのは真実ですが、それと同様に真実なのは、神様を知ることができるということです。「神様は私を愛しておられるのか?」、「神様は私を裁かれるのか?」、「神様は私について関心がおありなのか?」、こうした質問の答えを本当に知ることができるほどに、私たちは神様のことをよく知ることができるのです。また、人と神様との間には、「私は神様を知っており、私は神様のものである」、と言えるような親密な関係があります。どうしてそのようなことがありうるのでしょうか。その答えは神様の御言葉にあります。神様は私たちの視線や考えが及ばないところから、御言葉を送ってくださっているのです。神様は御言葉を通して話し始め、御自分について語り、隠された真のお姿を私たちに明らかに示してくださいます。

このようになさる神様は御言葉を私たち人間には見えないところから送られました。これには次のふたつの意味があります。

第一に、神様は聖書という書物を賜わりました。聖書は神様の御言葉です。キリスト教信徒はいつの時代もそう信じてきましたし、私たち現代のキリスト教信徒もまた同じように信じています。周りの人から「幼稚だ」とか「時代遅れだ」と言われても私たちは意に介しません。世界のすべての人間に対して御自身について伝えたいことを書き取らせるために、神様はある人々をお選びになりました。「神様はさまざまな状況において何をなさったか」、「神様は何をお命じになったか」、「どのように神様は愛を示されたのか」、「何を神様は裁かれたか」、「神様の選ばれた男たちや女たちは神様についてどのようなことを教えたか」、といったことについて聖書は語っています。これらは、私たちが神様のことを知るようになるために神様は御自分を私たちにあきらかになさっている、ということを意味しています。神様を知る能力がない私たち人間に対して聖書を通して語りかけておられるのは、神様御自身なのです。もちろん神様は御自分のことをよくご存知です。

第二に、神様が御言葉を送られたということは、神様御自身が御言葉を通してこの世に来られたことを意味しています。そしてそれは、イエス様がこの世に来られた時に実現したのです。新約聖書の「ヨハネによる福音書」によれば、イエス様は神様の御言葉であり、神様御自身です(1章)。それは、目に見えない隠された神様がどこか遠くから御子の中で見える形になられて人々の只中に来てくださった、ということを意味しています。あるとき十二弟子のひとりフィリポは、彼ら弟子たちが父なる神様を見ることができるよう、イエス様にお願いしました。それに対して、イエス様は何とお答えになったでしょうか。

「フィリポよ、あなたは私を知らないのですか。私はあなたがたとこれほど長い間一緒にいたというのに。私を見た者は、お父様を見たのです。」
(ヨハネによる福音書 14章9節)

イエス様を見つめてください。そうすれば、他の方法では見ることができないお方を見ることになります。イエス様をより深く知るように学びつづけてください。そうすれば、唯一なる真の神様を知ることになります。どのようにイエス様が愛を示してくださったか、たずねてみてください。そうすれば、どのように神様が愛してくださっているか、わかるようになります。あることがらや人々についてイエス様が裁かれたかどうか、考えてみてください。そうすれば、神様がそれらをお裁きになるかどうか、わかるようになります。誰に対してイエス様が関心を示されたか、考えてみてください。そうすれば、神様があなたに対して関心をおもちかどうか、わかります。

ここで再び、聖書に戻りましょう。イエス様を知るように、と聖書は私たちを教え導いてくれます。聖書全体はまさしくイエス様について語っており、私たちがイエス様を知るようになることを目指して書かれています。このことは新約聖書のみならず、すでに旧約聖書についてもあてはまります。聖書から見出されるイエス様だけが、真のイエス様です。そして、このイエス様の中に神様は御自分をあきらかに示されたのです。

私は単純な次のことを強調したいと思います。聖書を通して私たちは神様を知ることを学びます。私たちが神様を知るために聖書以外の他の手段はありません。自然の中を散策しても、思索を凝らしても、それらが神様の御言葉に結びつかないかぎりは何の助けにもなりません。神様は御言葉の中で語りかけておられます。ところが、私たちキリスト教信徒の間でも聖書はあまり読まれていません。聖書を教えたり学んだりする機会もわずかです。聖書が語っているメッセージも無視されることが多いです。聖書は本棚でほこりをかぶったままです。「聖書を気に留める必要などさらさらない」、と言い放つ人々もたくさんいます。「聖書は人々が神についての経験を語っている本であって、神について書かれている他の書物と比べて特別に価値があるわけではない」、などと彼らは主張します。「私は聖書が語っている神とは別の神を信じている」、と言う人もいます。

上に述べたケースは、神様は私たち人間に御自分について語ろうとなさっているのに、私たちのほうでは耳をふさぎ、神様が話しておられることを気に留めもしない、という実情を物語っています。こうした態度を取り続けるかぎり、私たちは神様を知ることを学ぶようにはなりません。神様についてあれこれ思いを巡らすことはできますが、それらはたんなる推測にすぎません。

ですから、あなたは多くの人がするのとは違う態度で臨んでください。聖書を読み、聖書が神様について何を言っているのか、どうか注意深く耳を傾けてください。そして、聖書が言っていることを信じてください。

聖書は神様の御言葉です。それは、神様について信頼できる知識を聖書が私たちに伝えている、という意味だけではありません。聖書はそれよりもさらに不思議な素晴らしさに満ちています。すなわち、神様は聖書という御言葉の中におられる、ということです。あなたが聖書を読んだり聞いたりするときに、また聖書について教えを受けたりするときに、神様はあなたのもとに来てくださるのです。御言葉の中で神様はあなたに語りかけ、あなたが神様を知るようになるように教えてくださいます。どうか神様の御言葉とじっくり付き合ってください。そうすれば、神様を自分のもとにお迎えできます。神様はあなたを教え導いてくださいます。こうしてあなたは、「私は神様を知っている」、と言うことができるようになります。

「神が聖書の中で話しており、聖書は私たちが神を知るようになるように教えている、ということを証明してみせなさい」、と私をはじめ牧師や聖書の教師たちは人から要求されることがあります。さて私たちは何と答えたらよいのでしょうか。私たちはそれを証明することはできません。もちろんその一方では、聖書が神様の御言葉ではないことも証明できるものではありません。反論がすっかり消え失せて皆が聖書を信じるようになるような論拠を、私たちは挙げることができません。にもかかわらず、納得の行く根拠は存在しています。イエス様が本当に神様の御子であるかどうかと疑う者たちに対して、イエス様は次のように言われました。

「神様の御心を行おうと思う者であれば、だれでも、私の語っているこの教えが神様からのものか、それとも私自身から出たものか、わかるでしょう。」
(ヨハネによる福音書 7章17節)

同じことがここでも言えます。もしもあなたが聖書の教えが神様からのものか、あるいはそうではないのか、本当にはっきり知りたいと願いつつ聖書を読み、また聴くならば、聖書を通して神様が本当に語りかけておられることを、聖書自体があなたに納得させます。聖書の御言葉を通して神様御自身が働きかけて、聖書が神様の御言葉であることを私たちに確信させてくださいます。聖書のことを疑っている人には、次のように質問してごらんなさい。「あなたはこの書物を読む勇気がありますか。読んでしまうと、神様はこの書物を通してあなたにも御自分を啓示しておられる、とあなたも確信してしまうかもしれませんよ。」実際にこのようなことがある映画監督に対して起こりました。その人はイエス様についての映画を撮っていました。この仕事に取り掛かったときに、その監督は聖書に対して非常に深い疑いを抱いていました。しかし、映画製作のためにその人は聖書をたくさん読まなければなりませんでした。すると、映画が完成する前に、神様はその人に、聖書というこの書物では神様御自身が語っておられることを信じる信仰を生み出してくださったのです。

「神様は私を愛してくださっているのか」、「神様は私に関心をもっておられるのか」、ということについて知るのは大切なことでしょうか。そう、大切です。実は、神様を知ることよりも大切なことは他には何もないのです。それが一番大切である理由は二つあります。

ひとつめの理由は、人が「神様のかたち」として創造されている、ということです。これは、もともと人は神様との関係が正常な状態で生きていくように創られている、という意味です。もしも人が神様を知らないのなら、その人と神様との関係は正常ではありません。もしも人が本来の生き方に反して生活する場合には、そこからさまざまな悪が生じてきます。おそらく人生がなんとなくむなしく感じられることでしょう。あるいは、心の中に説明しがたい不安がいつまでも残り、外国を旅行したり、前よりも格好よい車を購入したりすることで心のざわめきを鎮めようとする人もいるかもしれません。「人間の心は神様の中に平安を見出すまでは平安がありません」、とかつて教会教父アウグスティヌスは言いました。これは今でも本当にそのとおりです。平安が失われていることが多くの現代人を苦しめています。それは人と神様との関係が正常ではない状態のせいである、と私は確信しています。自分の心に平和をそれがたしかに見つかるところから探し求める人は、残念ながらごくわずかしかいません。この特別な平和は「神様を知る」ことから得られます。

キリスト教信徒でさえも、ともすると神様との関係を軽く見て、神様以外のところからより多くのものを探し求め、それによって自分の人生を満たすようになってしまいがちです。しかし、こうしたことが起きると、その人生の充実した内容が消えうせてしまいます。

さらに大切なもうひとつの理由は、この世での人生の後に永遠の世がはじまる、ということです。そのときに私がどうなるかを決めるのは、私と神様の間の関係が明確で正常なものだろうか、という一点だけです。この関係が正常であるのは、私が神様を知っている場合に限られます。もしもこの関係が正常であるならば、神様は私に天国の扉を開いてくださいます。もしも正常でなければ、最終的に私は神様から際限なく隔てられてしまいます。この世をあった後で永遠の滅びの世界に落ちてしまうことほど、悲惨なことは他にありません。それゆえに、神様を知ること以上に大切なことは何も存在しないのです。

それでは、神様とはどのようなお方なのでしょうか。

私たちは神様についてそのすべてを知ったり理解したりすることはできません。ときには神様が私たちを驚かせるようなやり方で働きかけたり、私たちを傷つけるようなことさえあります。長年聖書を読み聴きしてきた人でさえ考えもしなかったような神様の新たな一面があきらかになることもあります。人は神様についてさまざまな疑問を抱いています。そして、それらへの答えを求めるものの、神様のほうで答えてくださらない場合もあります。このことは、私たち人間が神様についてその全体を把握してはいないことを示唆するものです。しかしその一方で、神様について私たちが知っておくべき必要最小限のことがらに関しては、神様は誰に対しても曖昧な点を残さない明瞭なやり方で聖書を通して語っておられるのです。

神様はどのようなお方なのでしょうか。神様は本当に偉大な存在です。神様は力や知恵や栄光に満ちておられます。神様は全世界(全宇宙)を支配なさっています。神様について旧約聖書の「詩篇」は、夜空の星々よりもはるかに大いなる方である、と語っています。神様はこういう存在でなければなりません。そうでなければ、神様がこれら万物を創造なさることは不可能だったでしょうし、それを維持していくことも無理だったでしょう。その御手の内にすべてを、つまりこの全世界を掌握しておられる神様は、文字通り「大いなる神様」です。
 聖書は神様が大いなるお方であることを語る一方で、このお方が宇宙の中にある小さなひとつの惑星の中の小さな人間ひとりひとりのことを気にかけておられることも教えてくれます。神様にとって、このひとりの人に何が起きるかということは重大な意味をもっています。神様はひとりひとりのことに関心を寄せ、面倒を見てくださっています。本当に神様がこのようなお方であることをイエス様は身をもって示されました。イエス様は「ひとりの人」に心配りをしてくださいました。イエス様は立ち止まって「ひとりの人」に語りかけられました。周囲には何百何千という人がいたにもかかわらず、です。神様はこのように活動なさいました。あなたは大いなる神様にとってかけがえのない存在なのです。神様はあなたのことに深い関心をもっておられます。だからこそ、神様はあなたのもとに来て、あなたの前に立ち止まり、あなたに語りかけ、あなた自身のことやあなたの嘆きを聴き、「あなたと共にいたい」と望まれるのです。

おそらくこのことを信じるのは容易ではないでしょう。この世界には何十億もの人がいるからです。しかし、信じようと信じまいと、これは真実です。大いなる神様にとって、これは可能なことなのです。神様は私のことを心に留めてくださっています。これは非常に素晴らしいことです。私のことを神様は知っておられるのです。一方で、このことは重大な意味を含んでいます。神様は私のことを、私がどこで何をしていようとも見ておられることになるからです。どうやっても神様から逃げることはできません。大きな群衆の中に紛れて隠れることもできません。そこからでも神様は私を見つけ出されるからです。

「イザヤ書」の6章で預言者は自分の経験した大いなる出来事について語っています。イザヤは神様に出会ったのです。神様の御前でイザヤは、彼自身と神様との間にある深刻な矛盾に気が付きました。彼は罪深い存在であり、神様は清く聖なるお方である、ということです。このことに気が付いたイザヤは、「何ということだ。私は滅びてしまう」、と叫び声をあげました。イザヤにとって神様はこれほどまでに聖なる存在だったのです。
 このテーマに関連して、新約聖書にはある女の人が登場します(「ヨハネによる福音書」8章)。彼女は結婚を破る姦淫の罪で捕まり、イエス様の前に引きずり出されました。彼女は自分が今、聖なる神様の御前にいることと、自分の生き方は神様に裁かれて当然であることを知りました。そして地面にくずれ落ちて、神様の裁きが下されるのを待ちました。神様の御子の前でのこの女性の態度はまったく正しいものでした。神様は罪を心から深く憎んでおられます。神様は彼女が行った罪を憎まれました。同じように神様は、たとえばあなたが職場の同僚に何か悪いことを言ったり、隣人に対して冷たかったり、税金の申告を不正直に行ったりすることを憎まれます。神様は罪を決して容認なさいません。たとえそれがどんなに小さな罪であったとしても、です。
 神様は聖なるお方なので、罪に対しては必ず罰を要求なさいます。あなたは(私と同様)罪を犯したのです。ですから本来ならば、あなたは(私と同様)神様の裁きを受けるのが当然の立場にあります。このように、神様は御自分の聖さを決して放棄なさることがありません。

神様については、もうひとつ語るべきことがあります。姦淫の現場を押さえられ、イエス様の御前に引きずり出されたあの女性は、自分が受けるべき処罰を受けたでしょうか。いいえ。イエス様は彼女に対して、当然とるべき態度とはちがう態度で接してくださいました。イエス様は彼女を裁かれなかったのです。そうするのが当然であったにもかかわらず、です。イエス様は彼女に愛を示され、その罪を赦してくださいました。イエス様にはこのようになさる権能があります。なぜなら、イエス様は十字架ですべての人をそのすべての罪がもたらすはずの処罰から解放してくださったからです。この同じ態度で神様はあなたに対しても接してくださいます。裁きを受けるのが当然の身であるあなたを、神様は裁かずに憐れんでくださいます。たった今も、神様はそうなさっています。いつか到来する最後の日に神様は生きている者と死んでいる者とを裁かれます。しかし、今の私たちは「恵みの時」の中に生かされており、神様はすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださるのです。

神様はあなたを、あらゆる罪に対して向けられるその怒りから、御自分の独り子イエス様の死によって解放してくださいました。ひとえにこのイエス様の身代わりの死のゆえに、神様はあなたを愛してくださるのです。たとえあなたがどれほど罪深い者であろうとも、それは変わりません。神様はあなたを豊かに愛して面倒を見てくださり、あなたを御自分の御許である天の御国へ導きたいと望んでおられます。

神様を畏れることとは、いったい何なのでしょうか。それは、神様が大いなるお方であると知ることです。神様はあまりにも偉大なので、人が神様に対して接するときには、自分と同等の立場にある友達に対するのとは異なる態度をとる必要があります。大いなる神様の傍らでは、私はごくちっぽけな存在に過ぎません。私個人の意見などは、神様の御言葉とは比べものにならないほど軽いものです。このことを理解するとき、人は神様を敬う心を抱き、神様が何を言われているか正確に聞き取って神様に従いたい、と望むようになります。

神様を畏れることはまた、私という存在が大いなる神様に完全に依存していることを理解することでもあります。私の全人生は神様が何を私に与えてくださるかに依存しています。たとえば、神様が私に日々のパン(食事)や健康や明日という日を与えてくださるかどうか、ということに。私が救われるかどうかは、神様が私に対して憐れみ深いかどうか、ということに完全に依存しています。こういうわけなので、私は神様を怒らせるような無謀な態度を避けようとします。もしも神様を怒らせるなら、神様は私を突き放されるでしょう。その結果、私にはありとあらゆる悪いことが確実に起こるでしょう。人が神様とその御言葉とを無視する態度を神様は憎んでおられるからです。私には神様とその御心を無視して生きる大胆不敵さはありません。なぜなら、そのような生き方は聖なる神様の怒りを招くからです。このような慎重な態度が「神様を畏れること」と呼ばれるものです。

それでは、神様を愛することとは何なのでしょうか。それは、神様が私に対して信じられないほどよいお方であることを知ることです。神様は今この瞬間も私の世話をしてくださっています。私は本来なら神様から裁きを受けるのが当然なのに、神様は私を裁かれません。私は滅ぶのが当たり前なのに、神様は私に永遠の命を与えてくださいます。このことを理解すると、私のような者に対しても信じがたいほどによいお方である神様への愛が私のうちに生まれます。人はその愛する人に喜ばれるように振舞いたくなり、その人のそばで生きて行きたくなり、その人に仕えたいと願うようになるものです。ですから、人がもしも神様を愛しているのなら、神様に対しても同じような態度をとるはずです。

今までみてきたように、私たち人間には神様に対してふたつの正常な関係があります。ひとつは「神様を畏れること」、すなわち、私たち人間は大いなる神様に完全に依存している存在なので、神様を怒らせる無謀な生き方を避けること。もうひとつは「神様を愛すること」、すなわち、神様がいかにすばらしいお方かを理解すること。これらのうちどちらも忘れてはいけません。さもないと、神様について大切な何かを忘れることになり、神様との関係がおかしくなってしまいます。