旧約聖書の暴力的な表現をめぐって

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

はじめに

旧約聖書は私たちの想像を遥かに超える宝物に満ち溢れた書物です。それを繙く人は素晴らしい貴重品にめぐりあうことになります。

神様とはいったいどのようなお方なのでしょうか。私たちは旧約聖書を読む時に、神様にはさまざまな側面があることに気付かされます。例えば、壮大な創造の御業、反抗を繰り返すイスラエルの民に対する深い忍耐、約束したことを実現する忠実さなどです。また、私たちは神様が旧約聖書の登場人物として選ばれた男たちや女たちに親しみを感じますし、「詩篇」を綴った詩人たちの賛美の歌に唱和したり、預言者ダニエルの揺るがぬ信仰に憧れを抱いたりもします。しかしその一方で、私たちは旧約聖書の暴力的で残酷な出来事の数々にも向き合わざるをえなくなります。聖書の読者なら誰しも旧約聖書の描く残虐な箇所をどのように考えるべきか悩んだことがあるのではないでしょうか。もしかしたら旧約聖書の暴力的な表現をめぐる問題にはそもそも答えが存在しないのかもしれません。それでも、この難問についてルター派の聖書解釈に基づいて何が言えるか、これからしばらく考えてみたいと思います。

1)「旧約聖書での神様は暴力的な存在として描かれている」という解釈

「旧約聖書での神様は暴力的な存在として描かれている」とためらわずに断言する人は今日ではたくさんいると思われます。しかし、なぜそういう結論が出てくるのでしょうか。「神様そのものは不変だが神様に対するイメージは時代とともにたえず変化していくからである」という解釈がその理由として挙げられることがよくあります。「旧約聖書での神様は憐れみを知らない厳格な存在だったが、新約聖書での神様は優しくて善良な天の父親のような存在に変わっている」というのです。

このような解釈は人によってはたやすく容認できるものかもしれませんが、ルター派のキリスト信仰者にとってはとうてい受け入れられません。これからその理由を述べていくことにしましょう。

第一に、私たち人間は聖書の内容が適切かどうかを裁く「裁判官」であってはなりません。私たちにとって聖書は、新約聖書も旧約聖書もまったく同じように、神様の御言葉であり、神様の御心が明確に言語化された啓示なのです。聖書に含まれる様々な文書(モーセ五書、預言者、諸書、福音書、使徒の手紙など)を書き記した人々は、私たちの信じるところによれば、人間個人としての意見をそれらの文書に勝手に書き込んだのではありません。そうではなく、神様御自身が人間に語りかける「恵みの手段」として聖書を彼ら執筆者たちを通して私たちに賜ったのです。旧約聖書がイエス様や使徒たちや初期のキリスト教会にとってまさに「聖書」そのものであったことをここで思い起こしましょう。もしも旧約聖書の語り伝えるメッセージを神様の御言葉とみなさなくなるならば、私たちは見知らぬ道をあてもなくさまようことになってしまいます。聖書を通して神様は御自分について少しずつより多くのことを明瞭な言葉で私たち人間に啓示してくださいました。この啓示の核心には、神様の御子イエス様が人としてこの世にお生まれになり、十字架上で死なれ、三日目に死者の中から復活なさったことがあります。

第二に、「旧約聖書の神様は厳しいが新約聖書の神様は憐れみ深い」という主張ではこの問題を根本的には解決できません。聖書の語る神様のイメージはそれほど単純なものではないからです。神様は最初から終わりまで常に憐れみ深い善いお方です。そのことを旧約聖書はとても多くの箇所で教えています。例えば「詩篇」103篇や「イザヤ書」48章などです。その一方で、神様は極めて峻厳なお方でもあります。そのことを示す新約聖書の箇所もたくさんあります。例えば「マタイによる福音書」25章31〜46節でのように、時にはイエス様は非常に厳しい裁きの言葉を用いておられます。また、使徒パウロはそれまでのイスラエルの民の歴史で起きた数々の悲惨な出来事(例えばバビロン捕囚など)には神様の厳格さが具体的な表出をみています。さらにパウロによれば、神様が時折示される非常な峻厳さには、旧約の時代の人々だけにではなく新約の時代を生きる今の私たちにも、神様を正しく畏れる心をしっかり植え付けるという信仰教育的な側面がありました(「ローマの信徒への手紙」9〜11章)。それにしても、新約聖書の「ヤコブの手紙」を開いてその厳しい教えを真正面から受けとめるだけの勇気をはたして私たちはもっているのでしょうか。

聖書の神様がどのようなお方かをめぐるさまざまなイメージの中から私たち自身にとって好ましくない側面だけを都合よく削ぎ落としていくことはもちろん誰にでも簡単にできることです。そうすることで、もしかしたら部屋の見事な飾りになるような自分好みの「神像」を作り上げることができるのかもしれません。しかし、このように聖書の神様のイメージを勝手に取捨選択してできた神像は結局のところたんなる偶像にすぎません。この偶像が聖書の神様の正しいイメージであると思い込んでしまうと、聖書全体が伝えようとしている神様の真のお姿を捉え損ねることになります。

2)「旧約聖書は数々の出来事を物語として叙述している」という解釈

1)の説明では不十分であることがはっきりした以上、私たちはよりよい答えを探し求めなければなりません。可能性のあるもうひとつの答え方は「旧約聖書は叙述を中心とした物語のスタイルで書かれている」というものです。旧約聖書は多くの出来事について物語る一方で、それらが倫理的にみて正しいことか悪いことかという判断は明示していません。旧約聖書の叙述のスタイルは読者の気分を損ねるほどに明け透けな場合があります。旧約聖書は実にひどい多くの出来事について語っています。例えば、ヤコブは私利私欲のために手練手管を尽くして家族や親戚を騙しました。また、ある異邦の民の族長は自分の息子がヤコブ(すなわちイスラエル)の娘デナを強姦するという事件が起きた後で、彼女を息子の嫁として所望し、さらに自分の民とイスラエルの民が広く婚姻関係を結んで新しいひとつの民になることをヤコブに提案しました。それを聞いて激怒したヤコブの息子たちは彼らに虚偽の和平を持ちかけ、隙を見て部族もろとも騙し討ちにしました(「創世記」34章)。また、ヤコブの12人の息子の一人であるダンの一族はあかの他人(ミカ)の家から大事な神像やその祭司を強奪したり、豊かな土地で安らかに暮らす民族を強襲して滅ぼしたりしています(「士師記」17〜18章)。旧約聖書はこれらの悪辣な行いを容認してはいませんが、どのような判断を下すべきかは読者に委ねています。サウル王から逃れたダビデはならず者たちの首領となって近隣の諸民族への略奪行為を繰り返しましたし、サウル王の死後、民全体から敬愛される王になった後にも次のようなひどい罪を犯しました。彼は戦地を離れて一時的に都に帰還した際に部下の人妻バテシバと姦淫します。彼女の妊娠を知ったダビデは事実を隠蔽するために彼女の夫ウリヤを急遽戦地から呼び戻して妻の元に行かせようとしますがうまくいかなかったため、彼を激戦地に送り返し故意に戦死させます(「サムエル記下」11章)。旧約聖書はこの出来事の終わりに次のような短い判断を付しています。

「ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。」 (「サムエル記下」11章26〜27節、口語訳)

今まで挙げてきた数々の例から旧約聖書の多くの暴力的な箇所には次のような共通する特徴があることがわかります。まず、旧約聖書は凄惨な出来事についてその詳細を包み隠すことなく読者の気分を害するほどの率直さで描写しているという点です。しかしその一方で、旧約聖書はすべての出来事が神様の御心に沿って進行したとも言ってはいないという点です。それでも旧約聖書にはどのように理解するべきか途方に暮れるような、とりわけ激しく暴力的な箇所がなお多数残っています。例えば、ほかでもなく神様御自身による厳命に基づき、約束の地に入ったイスラエルの民がそこにすでに住んでいたカナンの諸民族を女も子どももすべて含めて一人残らず、殺害しなければならなかったのはいったいなぜなのでしょうか。また、人々が辛い思いや暴力や復讐などに苦しめられているときに、神様がそれらを放置し容認なさっているようにさえみえる出来事が何度も繰り返されてきたのはいったいどうしてなのでしょうか。

3)「神様は御自分のなさることを誰かに釈明する必要があるのか」という問題

人が疑問に思うのが当然だと思われるような事例を今までいくつか取り上げてきました。しかし、人がこのような疑問を提示することは、実は私たちが神様を被告人として尋問し、私たちを納得させる返答を神様から要求するようなものです。

私(エルッキ・コスケンニエミ)の聖書の授業の時に、ある年配のキリスト信仰者が次のような体験談をしてくれました。この年上の信仰者はある若い友人としばしば信仰について熱心に話し合う機会があったのですが、結局いつも聖書の暴力的な箇所をめぐる討論になってしまったそうです。聖書で非人道的な暴力を容認しているようにみえる神様の言われることを若者はどうしても聴き入れることができなかったのです。それから何年も経ち、年上のキリスト信仰者はその若者から電話を受けました。自分と神様との関係を真剣に見つめ直した若者は今では己の罪深さを自覚するようになっていました。憐れみ深い神様をありとあらゆるところから探し回り、泣きじゃくり、祈ってきた、とその若者は語りました。「聖書の神様は公正ではない」と非難して以来、心の咎める日々を送ってきた若者はようやく昔の自分の過ちに気づき、それが誤りであったことを素直に認めることができるようになったのです。聖書の神様は義なる神様であり、誰に対しても自らの行いについて申し開きをする必要がまったくないお方であるとわかったのです。この若者の歩んだ道のりは旧約聖書の「ヨブ記」の主人公ヨブの通った道のりと似ていました。想像を絶する非常な苦しみの只中にあってヨブは神様が自分のことを公正に扱ってくれるように強く願います。しかし、最後に彼は神様と具体的に出会い、神様の真の偉大さの一端に触れることになります。誰に対して何時どのような形で神様が憐れみを示してくださるかは、神様御自身がお決めになることです。私たち人間は天地の創造主であり全能なる支配者であるお方の御前にうなだれてひれ伏すことしかできません。旧約聖書が語っているすべての出来事は神様による人間の救いの歴史と矛盾するものではなく、それを構成する一部分なのです。旧約聖書の冒頭でアダムとエバは神様の命じられたことに従わずに罪を犯します。ここから全人類の罪の堕落の歴史は始まりました。人類による罪の悪循環と神様による罪の赦しとの織りなす歴史は新約聖書の末尾の言葉、イエス・キリストの再臨を待望する祈りにいたるまで途切れることなく続いていきます。

「これらのことをあかしするかたが仰せになる、 「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。」
(「ヨハネの黙示録」22章20〜21節、口語訳)

旧約聖書および新約聖書には神様の深い憐れみの御心が余すことなく啓示されています。私たち人間にできることは私たちの思いと考えとを遥かに超えるお方に栄光を帰することだけです。

4)罪のないキリストの受けた苦しみ

苦難をどうして神様が容認なさるのか、また苦難が神様による人間の救いの歴史の重要な一部にさえなっているように見えるのはなぜなのか、私たちが不思議に思うのは自然です。苦難は私たち人間が神様から期待していることとは異なる不快なものだからです。しかし、そもそも苦難にはどのような意味があるのか、人間が神様にわざわざ教えてさしあげる必要はまったくないはずです。ところが、この当たり前のことを私たちはいともたやすく忘れてしまいます。十字架の死に至るイエス・キリストの受難の中に、私たちは苦難と暴力の問題へのひとつの答えを見出します。苦しみを受ける前の晩にゲッセマネの園でキリストは苦しみの盃が取り去られることを祈られました(「マタイによる福音書」26章36〜56節)。しかし、そうはなりませんでした。神様の御子イエス様は翌日には十字架で死ぬほかなかったのです。こうして、救い主イエス様は罪のまったくないお方であるにもかかわらず、本来ならば世界中のすべての人間が自らの罪のゆえに受けるべき神様の怒りの盃を私たちの身代わりとして神様の御手から受け取り、おひとりで一滴残さず飲み干されました。とはいえ、十字架の死に至る道のりにおいて御子がたったひとりで苦しまれたわけではありません。父なる神様は誰が死のうが何とも思わない無感情な偶像ではありません。天の父なる神様は苦しみに喘ぐ御子にずっと付き添われ、十字架にかかったイエス様とともに心で血を流されたのです。私たちは皆、信仰を通してその場に立ち会った証人です。そして、ここに苦難と暴力の問題への神様からの答えがあります。それはまた、聖書に記された救いの歴史のなかで悲惨で暴力的な出来事が数多く起きたのはなぜなのかということへの答えにもなっています。生まれながらに罪深い存在である私たち人間はイエス様の救いの御業を通して深い闇の奥底から引き上げられ、神様の御前に召し出されました。それがどれほどの犠牲を伴う大事業であったのか、様々な罪や欠点を抱えている私たちにはとうてい理解の及ばないことです。それゆえ、聖書の語っている数々の凄惨な事件の現場において暴力の行使が回避できなかったのはどうしてなのか、また、罪のないイエス様が天の父なる神様の御心によって非常な苦しみを受けて十字架で死ぬことになったのはなぜなのか、ということも私たちの理解力を超えています。

5)新しい時代

罪なき救い主の血まみれの死の苦しみは、しかし、私たちの世界をまったく新たな状況へと導き入れることになりました。イエス・キリストの救いの福音は今まで全世界に向けて宣べ伝えられてきました。それにともない、より多くの人々が不信仰な「石の心」を取り除かれて信仰に満ちた「肉の心」をいただけるようになり、自制心のない利己的なかたくなさから解放されていきます(「エゼキエル書」36章26節)。神様は私たち人間を救うために私たちを新しく創造なさりたいのです。この新しい創造の実現のためにキリスト教信仰を伝える働きが世界中で広く行われてきました。具体的には、福音を聴き入れた私たちは洗礼を受けて「イエス様のもの」とされ、キリスト教会の一員になります。そして、洗礼の恵み、御言葉についての説教、およびイエス様のまことの体と血である聖餐という霊的な糧をいただく信仰生活を送り、神様の福音のもたらす祝福にあずかるようになるのです。その一方で、私たちはイエス・キリストへの信仰と神様の御言葉である聖書への素直な信頼とを失わないように細心の注意を払わなければなりません。近年では信仰を失くし聖書を侮る人々が北欧諸国などキリスト教を国教とする国々でも増えてきています。人間はイエス様や聖書への信頼を失うと、信仰から生まれる憐れみや愛の心が急速に冷めていき、聖書の教えに反するような生き方をするようになります。国家としてそうなる場合には国全体で不法がはびこるようになります。それとは対照的に、イエス・キリストの愛の中にとどまるかぎり、私たちはイエス様の贖いの御業によって始められた新時代の幕開けを全世界に広く宣べ伝えていくことになるのです。この世界を真に支えているのが十字架につけられた救い主の血まみれの御手のかかげる王笏にほかならないことを福音は教えてくれます。そして、全人類を含めた被造物世界は、愛に満ちた造り主であり救い主である神様にすべての栄光を帰するのです。

「ああ深いかな、
神の知恵と知識との富は。
そのさばきは窮めがたく、
その道は測りがたい。
「だれが、主の心を知っていたか。
だれが、主の計画にあずかったか。
また、だれが、まず主に与えて、
その報いを受けるであろうか」。
万物は、神からいで、
神によって成り、
神に帰するのである。
栄光がとこしえに神にあるように、
アァメン。」
(「ローマの信徒への手紙」11章33〜36節、口語訳)


日本語版では内容の理解を少しでも容易にするためにフィンランド語版の内容と表現に変更を施し、説明や聖書の箇所などを補足しています。 聖書の引用は口語訳によっています。