私はイエス様を信じることにした。しかしそう決めたのは本当に自分なのだろうか?

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

はじめに

「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。 」
(「マルコによる福音書」1章14〜15節、口語訳)

「異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。」
(「使徒言行録」13章48節、口語訳)

人がイエス・キリストを自分の救い主として信じるようになったとしましょう。その場合、信じる決断をしたのは人間なのでしょうか。それともそれは神様の御業なのでしょうか。さらに言えば、それは完全に人間の行いによるものなのでしょうか。それともそれは完全に神様による御業なのでしょうか。あるいは人間の行いの部分と神様の御業の部分があるのでしょうか。

「ある人たちは永遠の命を受けるようにあらかじめ選ばれており、また別のある人たちは永遠の滅びに落ちるようにあらかじめ決められている」ということなのでしょうか。もしもこのような決定がすでに下されているのだとしたら、そもそも福音を伝える活動をする意味があるのかという問題になるでしょう。しかし、本当にそのようなことが聖書に記されているのでしょうか。永遠の滅びに落ちていく人々がいることについては、いったい誰が責任をとるべきなのでしょうか。本人でしょうか。福音伝道者でしょうか。それともあるいはひょっとして神様御自身なのでしょうか。

1)何はともあれ、まずは大いなる神様の御前にひれ伏しましょう。

  上述の「選び」にかかわる問題をきちんと取り扱うためには、はじめに大いなる神様の御前にひれ伏さなければなりません。人間を創造なさったのは神様です。ですから、被造物である人間に対して神様は何であれ御心にかなうことを自由に行う権能をもっておられます。それに対して、私たち人間には神様を自分たちと対等な相手とみなすことは許されていません。自分たちを公平に扱うように神様に要求を突きつけることはできないのです。神様に対して批判や反抗を繰り広げることも適切な態度とは言えません。この点で私たちの模範になるのは使徒パウロです。たしかに彼は自分もその一員であるイスラエルの民が自らの罪を悔いイエス様を救い主として信じるようになることを強く願っていました。しかしそれでも彼はイスラエルの聖なる神様の御前にひれ伏し、自分が陶器師の手中にある土塊にすぎないことを信仰をもって告白したのです(「ローマの信徒への手紙」9章)。誰が神様から罪の赦しの恵みをいただけるのかという「選び」にかかわる問題を正しく理解するためには、神様に一方的に責任を押し付けたり、神様のなさることを人間の論理の桎梏に縛りつけようとしたり、何が正しく何がまちがいかについて神様に教えようとしたりする傲慢な態度をまず改めなければなりません。パウロと共に大いなる神様の御前にひれ伏そうとしないかぎり、人間は神様から離れたどこか他の場所で何か他の宗教の提唱する「選び」の考え方に呪縛され続けることになるでしょう。 

2)全世界は罪の支配下にあるため、神様を見出すことができません。

「ローマの信徒への手紙」1章が明確に指摘しているように、全世界は聖なる神様に背を向けており、神様を礼拝する代わりに人間の作った偶像に仕えています。それゆえに、神様は人類に対して背を向けられ、全世界を罪の支配下に置かれたのです。その結果として、人間は誰一人として自らの力や能力によっては神様を見出すことができなくなってしまいました。これは、コンタクトレンズを落としてしまった視力の弱い人が失くしたコンタクトレンズをいくら探しても見つけることができない状態に似ています。

信仰の問題に関するかぎり、まだ神様の側に立ってはいないが神様に反対しているわけでもないといった中立の立場は人間にとっては存在しません。究極的にはサタンの支配下にあるかあるいは神様の支配下にあるかのどちらかしかありません。自分自身の力に頼り続けるかぎり、人はサタンの影響下にあります。しかし、人はキリストの恵みに基づいて生きている時には神様の支配下に入っているのです。次のことは決定的に重要なことです。キリストは罪深い全人類のすべての罪の裁きを身代わりに引き受けて十字架の上で死んでくださいました。その死によって全世界のすべての罪を私たちから取り除いてくださったのです。しかも、この救いの御業は誰であれ代価なしにいただけるようにすっかり用意されているのです。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(「ヨハネによる福音書」3章16節、口語訳)

「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)

イエス・キリストは「道」です。それもたんなる道ではなく、天の父なる神様の御許へと通じる唯一の道なのです。たしかに人は皆すでにキリストの尊い犠牲の血を代償として罪や死や悪魔の支配から贖われています。にもかかわらず、それを信じようとしない者はその不信仰のゆえに永遠の滅びに落ちていくことになるのです。

3)神様のみが御霊によって人にキリストへの信仰をくださいます。

人間は心のうちに神様の律法について何らかの感覚的な理解をもっています。しかし、キリストの福音のことはまったくわかりません。人間に福音とは何か教えることができるのはおひとり神様の御霊だけです。これに関しては「コリントの信徒への第一の手紙」1〜2章、とりわけ以下に引用する2章4〜5節が参考になります。

「そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」2章4〜5節、口語訳)

神様の御国の奥義は人間からは隠されています。神様の御霊の力が人の心を開いてくださる時に、ようやくそれは人間に対して明らかにされるのです。「御霊の力」は美しい蝋燭の炎などではなく、福音の説教とサクラメント(すなわち洗礼と聖餐の聖礼典)のことを指しています。

「神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。」
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章4〜5節、口語訳)

4)「神様はいったい誰に恵みをくださるのか」という選びの問題にかかわる聖書の箇所はたしかにあります。そして、それを受け入れられない人がいるのは不思議ではありません。

神様が誰に恵みを賜るかという選びの問題にかかわる聖書の箇所は多くの人にとっては受け入れがたいものでしょう。とはいえ、この問題のもつ意味はあいまいなものではありません。これについては次のような箇所を例示することができるでしょう。

「そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。」
(「ローマの信徒への手紙」8章30節、口語訳)

「わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。(中略)わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。」
(「エフェソの信徒への手紙」1章5、11節、口語訳)

とりわけ重要な箇所は「ローマの信徒への手紙」9〜11章です。パウロは民族的にみればイスラエル人でした。キリストを拒絶したイスラエルの民の立場が神様の御前ではどのようなものになるか、パウロはこれらの章で考察しています。神様があらかじめ「選び」を定めておられることは新約聖書の様々な箇所に明示されている疑いようがない真理です。このことについては例えば次の箇所をみてください。

「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」
(「マタイによる福音書」16章18節、口語訳)

「このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。」
(「ヨハネによる福音書」12章37〜40節、口語訳)

神様の御言葉によってイエス・キリストへの信仰を与えられる人もいますし、不信仰の状態に留まる人もいます。もしも誰かが信じるようになるのなら、それはひとえに神様御自身の働きかけによるものです。それとは対照的に、ある人間が永遠の滅びへの道を突き進んでいく場合には、その責任はその人自身か、あるいは御言葉を聴き手から覆い隠した伝道者にあります。

5)誰であれ人間が永遠の滅びに落ちていくことを神様は決して望まれませんでした。 

聖書によれば、神様の救いの御業は全世界に関わり全人類に及ぶものです。例えば「ローマの信徒への手紙」3章にはそれについての記述があります。また、次のよく知られた聖句もこのことを教えています。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(「ヨハネによる福音書」3章16節、口語訳)

しかし、ここまで来てみるとしだいに人間の論理では理解が難しくなってきます。もしも神様が全能であり全ての人が救われることを望んでおられるのなら、どうして全ての人が救われることにはならないのでしょうか。人間の救いにはその人自身の働きによる部分と神様の働きかけによる部分があるということなのでしょうか。神様が人間に自由意志を賦与なさっているのはたしかです。なぜなら、神様は機械ではなく活動する存在としての人間を愛しておられるからです。人間の論理は神様の御言葉に矛盾するものとして用いられるべきものではありません。むしろそれは神様の奥義の前にひれ伏すべきなのです。神様は善きお方です。また神様は全能でもあられます。そして神様はこの世で起きる悪事を望んではおられません。にもかかわらず、悪い事は世界中で起き続けています。全人類に幸いなる救いを獲得するためにキリストは十字架の上にあげられました。全人類のために成し遂げられたこの贖いの御業のゆえに神様は全ての人を御許に招いてくださるのです。ところが、全ての人が神様の御許に大喜びして向かうわけではありません。いったいこれはどうしてなのでしょうか。残念ながら、この世において私たちはこの難問に十分な答えを得ることができないでしょう。とはいえ、わかっていることもあります。私たちキリスト信仰者は福音を全ての人間一人一人に伝えるために活動するのであり、その際に「ある人々は永遠に滅ぶようにあらかじめ定められている」といった虚言には決して耳を貸すべきではないということです。この世には「選び」にかかわるこのような難しい問題にぶつかって悩みながら様々な考えを巡らせている人たちがいます。実はこのこと自体、神様の御霊が彼らに働きかけて、御言葉によって彼らの考え方を正しい方向に向けて、主なる神様の御許に招いておられる証拠とも言えます。なぜなら、聖霊様の働きかけがなければ、人は誰も自らの罪深い惨めな境遇を嘆くことさえ決してしないものだからです。

6)二つの 働きかけのちがいを互いに区別しましょう。

神様の御霊は人間がイエス様を信じるようにすることができます。ここで思い出して欲しいのですが、あなたがイエス様を信じるようになったときには次のようなことが起きたのではないでしょうか。
1)他の人があなたにイエス様について話した。
2)あなたは思いを巡らし、深く考え、祈った。
3)その時にあなたは泣いたかもしれない。
4)あなたは分かれ道のところに来た。
5)その時にあなたは神様の御許に通じる道を歩み出した。

ところで、このような段階をあなたが踏むようにさせたのはあなた自身の意思や行い、あるいは、あなたに福音を伝えてくれた他の人たちの具体的な伝道活動ではなかったでしょうか。もしそうならば、神様にはどのような役割が残っていることになるのでしょうか。何もありません。にもかかわらず、上述した段階のすべては神様の御業によるものなのです!

宗教改革者マルティン・ルターは二つの働きかけのちがいを互いに区別するように助言しています。これはどういう意味でしょうか。次に述べるたとえを通してそれが少しはっきりするのではないでしょうか。

冬の厳しい時期に私は薄く氷の張った湖の上に出ました。ところが、突然氷が割れて私は冷たい水の中に落ちてしまいました。私は助けを求めて叫びました。幸いなことに隣の家に住んでいる友人が私の叫び声に気がついて、私を水の中から引き揚げてくれました。救い出された私は神様に感謝を捧げました。ところが、助けてくれたその友人は「神様にではなくむしろ自分にこそ感謝するべきだろう」と私に言ってきました。もちろん私はその友人にも感謝しています。しかし、その友人が私を助けてくれるように働きかけてくださったのは神様御自身であり、そこには神様の憐み深い救いがあったことに私は思い至ったのです。

これとまったく同じことは真の幸いをもたらす救いを信じて受け入れることにも当てはまります。電車や車などの交通機関によって説教や礼拝司式の担当者が教会に運ばれてきます。教会の礼拝では人間が話し人間が聴いています。人間は各々自ら様々な思いを巡らし、自分の足で牧師のいる部屋に赴き、自分の口を通して信仰の問題について話し合いたいという願いを牧師に伝えます。その際にあなたは自ら跪き、自ら罪を告白し、自ら神様に感謝を捧げることになるかもしれません。しかし、私たちキリスト信仰者は人間のこのようなすべての活動の背後に神様の御霊による働きかけを見るのです。永遠の命へと定められている人をこのようにして信仰へと導いてくださるのは神様の御霊なる聖霊様だからです。

「異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。」
(「使徒言行録」13章48節、口語訳)

7)私たちの行うべきこと 

神様の御国の福音を伝える活動をしている者たちの行うべきことはいたって単純なものです。それは神様の御言葉を人々の前で混ぜ物なしに提示し、聖書に記されている神様の怒りや人間の罪深さやキリストの贖いの御業や神様の愛についてはっきりと伝えることです。これが「御言葉を蒔く」ということです。私たちはこの活動を神様に心から信頼しつつ全力で行わなければなりません。なぜなら、御言葉を蒔く「畑」は神様の所有なさるものだからです(「コリントの信徒への第一の手紙」3章)。そして、御言葉が蒔かれた畑から得られる収穫は神様からの贈り物であり、それは人間の力とは本質的には関わりなく自ずと増えていきます。

「また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。」
(「マルコによる福音書」4章26〜28節、口語訳)

ルター派の教会の基本信条をまとめた「一致信条書」の中に含まれている「アウグスブルク信仰告白」(1530年、ラテン語版)には次のように書かれています。

「みことばと聖礼典によって、あたかも道具をとおすように聖霊が与えられるからであって、聖霊は、神のみこころにかなう時と所とにおいて、福音を聞く人々のうちに信仰を起こすのである。」
(「ルーテル教会信条集」<一致信条書>、信条集専門委員会訳、聖文舎、1982年発行)